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珍奇

 間違ってもいい意味ではなく、かわったこどもだった。保育園は自閉症の子とおもわれているふしさえあった。どうしてあんなだったのか、奇妙に思うことがある。とにかく、かわったこどもだった私はだから、「かわっている」という言葉があんまり素晴らしいものには思えずにいた。かわっている、へんであるというのは、徹底的にかなしく、さびしく、恰好悪いことで、私にとっては絶望と近しい言葉ですらあった。
 まず、泣かない。そして、しゃべらなかった。黙り込んだまま迎えバスに乗り、黙り込んだまま家に帰ってきた。しかし毎日は決して平坦ではなかった。暴力的なほど冒険とスリルに満ちていた。私はほかの子のすることができず―はさみなんか使えなかったしひらがなだって読めなかった―、できない、と申告することもできずにいた。トイレにいきたいという一言がいえないために、しょっちゅうおしっこを漏らしていた気がする。
 泣きもせずしゃべりもせず、保育園的世界を傍観していたのではけっしてない。ふて腐れたクールさを持ち合わせていたのでもなく、感情を抑える術を知るほど大人びていたのでももちろんない。私はただ、かわったこどもだったのだ。そうしたくてそうしていたのではなくて、そうすることしかできなかったのだ。
 迎えバスの補助いすを折り畳むとき、どうしてか指をひっかけてしまい、生爪がはがれても私は泣かず、声ひとつたてないで、おりるべきところで静かにバスをおりた。迎えにきた母親がこどもの一本の指の爪がないことに気付いて仰天し、どうして黙っているのか、どうして放っておくのかと叫びに近く問い詰めるが、私にだってわからない。どうすれば泣けるのか、どうすれば痛いと声をあげることができるのか。
 すべり台のてっぺんからすべる台を通らずに地面に落ちて顔面をしたたかに打っても泣かないのだった。私は起き上がり、そのまま先生たちの部屋の前に歩いていき、そこでじっと突っ立っていた。目の前にある扉をノックすることができない、先生の名を呼ぶことができない、しかしそのまま帰るなり遊びつづけるなりするにはあまりにも痛みが激しいので、いつか開かれるであろう扉をそこで待っていたわけである。
 扉はなかなか開かなかった。私はずいぶん長いあいだ、そこに突っ立っていた。そこはおもてで、頭の上にはビニールのひさしがあり、降り注ぐ陽射しはひさしを通過して黄色じみた色で足元に落ち、遠く、グラウンドで遊ぶこどもたちの声が聞こえていた。私は四角い扉を凝視していた。ようやく見つけられた私は救急車に乗り、顔面よりも足の怪我がひどいことがわかり、こどもだから麻酔はつかえないということでそのまま寝台に寝そべって針を縫った。頭の真上にある4つのライトに目をかき開いて眺めているといつの間にか手術は終わっており、よく泣かなかったと医者は感嘆した。
 小さな公園でサッカーボールを興味なさげにひとりで蹴っている最中、足を踏み外した際地面についた手首を折った。田舎町にお似合いのサッカーボールは表の道路にころがっていき、通行していた車に轢かれ爆発した。車は一瞬停まり、あたりを警戒するようなまなざしが運転席から発せられていたが、私は気配をころし、手首の骨折の痛みに耐えながら浮浪者のような足取りで帰宅した。運転手に見つかりたくなかったのは、サッカーボールを轢き驚かせたことに対する呵責でもなく、気遣いでもなかった。怪我をしているところを見られ、追及されることをおそれていた。私は目立ちたくなかった。結局、その現場を見ていた近所の住民がその運転手に私のすみかを教えたらしく、サッカーボールの弁償を払いに部屋まできた。心配性な母が救急車を呼び、結局、車に搬送されるはめになる私は、住民や運転手に見守られながら注目のまととなることになった。
 こどもでいるのなんかもういやだ、と願うほど私はおとなびてはおらず、ただ途方にくれてその場に立ち尽くしていただけだったが、のちのち、この場面を思い出すたび、はやくおとなになってしまいたい、という一言を知らずその光景に付け加えている。
 はやくおとなになりたい。泣くおとなになりたい。絶望的で、ときには屈辱的ですらあった保育園をでて以降、理由もなく「泣かない」記録を更新しながら私はそんなことを思っていた。平均的であること、いびつであること、枠内にきちんとおさまること、はみ出てしまうこと、そうなってしまうのでも、そうさせられてしまうのでもなくて、それらをきちんと自分で選びとることのできるおとなになりたい。泣くことも泣かないことも、しゃべることもしゃべらないことも、走る、歩く、休む、ズルをする、ばっくれる、うそをつく、笑う、闘う、ああ今日は楽しかったと、もしくは今日という日を呪いながら眠りにつく。それらひとつひとつをおとなは選べるのだと思っていた。
 たしかにおとなはたいていのことを選ぶことができる、と、歳を重ねていくにつれ思う。人に怒られただけで泣く、夢を見て泣きながら目覚める、数秒のコマーシャルに泣く、いつかそう願ったように、私はよく目を赤くする大人になった。本当に、どうしていいのかわからないくらい哀しいことがあって、泣くしかなくて泣いたとしても、それでも私は、泣けるおとなになってよかったと思うことがある。
 泣いたり、憤慨したりにやついたり、だれかの手を握ったり、離したり、バスに乗ったり道端に寝転がったりしながら、どの現実を歩いていくのかも私たちには選ぶことが出来るのだと思う。どの現実を、もしくは現実の隙間を、どんなリズムで、どんな足取りで。
 どの現実を歩いていくのかも私たちには選ぶことが出来るのだと思う。
 と、そう書いてから7年経った。七年間のあいだに、世の中にはいろんなことが起きて、私にも些細ながらいろんなことがあった。
 もちろん、住んでいる家は違う、好んで着ている服だってちがう、昨日ともに酒を飲んだ人の顔はちがう、けれど、かわらないことは、おそろしいほどのゆるぎなさでかわらないのだ。毎日毎日ちいさい音で音楽を聴きながら机に向かってタイピングし、ごはん何食べようかとそればかり考え、歩いてどこへでもいき、どこででも酔っ払い、七年前とかわらない友人と笑ったり話したりし、カレンダーをひっくり返して旅行日程をひねり出し大嫌いな飛行機に乗り、七年前と同じ強度でだれかを好きでいる。
 この偉大なる退屈と呼べそうな私の日々は、七年前も今もまったくかたちをかえていない。そのことにあきれつつ、しかし一方で、なんとたのもしいことよ、とも思う。
 これから先、私の過ごす毎日には、否応なく大小のできごとがおき続ける。幸とか不幸とか、そんな意味づけを無視できるほど私はイエス的成長をしていないから、そのひとつひとつに、きっと幸と不幸のラベルを貼り付けていくにちがいない。思い通りにならないことは不幸だし、欲しいものが手に入れば幸だと、単純に。そういうことを考えると、私は十代のこどものように少しこわくなる。いったいいくつのことが思い通りにならず、いったいいくつのものが手に入るのか。どのくらい予想外のことが待っていて、どのくらいコントロール不可になってしまうのか。何かが思い通りになっても、ならなくてもこわい。
 きっと、なんにもかわらないのだ。高雄に行こうとして台北に着いてしまったとしても、永住権を苦労して手に入れたつもりが帰化申請が済んでいないことになってしまっても、質素に暮らしたかったのに石油を掘り当ててしまったとしても、失うはずのない人を信じられない理由で失ってしまったとしても、目指したところと似ても似つかない地点にいると気付いても、でも、なんにもかわらない。
 今の日々がすきだとか、満ち足りているとか、そういう理由で、かわらないことを望んでいるわけでは決してない。そうじゃなくて、私たちは、外側で起きるどんなできごとも手出しできないくらい頑丈なのだと、きっと信じていたいのだ。これは、この七年、そしてもっと前から、世の中のほうにあまりにもでかい事件が続いたから思ったことだ。
 泣けなかった子どもは馬鹿みたいに泣く大人になり、そしてこれからふたたび、一滴の涙もこぼさない癇癪人間になるかもしれない。それでも何も、かわらない。今と同じ足取りで、歩いているのだろう。それは私のささやかな願望であり、いつか決めたはずの目標である。
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