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桃太郎 結 (四)

 僕たちはポケットに入れておいたストッキングを手早くかぶった。梶取さんが買ってきたストッキングだ。顔の肉が妙な具合に圧迫されて、お互いを見て「変なの」と笑いあった。それから植え込みを軽く飛び越え、アスファルトにできた薄い水の流れを蹴散らして走った。
 車を降りた来栖あけみは、運転手に傘をさしかけられながら、エントランスのガラスドアを押し開けようとしているところだった。来栖あけみと運転手が、接近する水音に気付いて振り向くよりも早く、モモくんの手刀が運転手の延髄に打ち込まれた。
 傘が転がり、黒いスーツを着た運転手は声もなく、水に濡れたタイルにくずおれた。僕は太マジックの尻を、来栖あけみの背に押し付けた。
 「声を出すな。振り向くな。ドアを開けろ」
われながら冷静に聞こえる声だったと思う。ストッキングのせいでしゃべりにくくて、どうしても押し殺したようなボソボソ声になるのだ。
 マジックなんかでごまかせるものかと心配していたけど、来栖あけみは本気で脅え、ひどく震えていた。だが、来栖あけみに恐怖を植えさせたもっとも大きな要因は、モモくんの行動だったと思う。
 モモくんは倒れた運転手の身体を淡々とひっくり返し、今度は腹に肘を食らわせた。すぐに目覚めないようにということだろうけど、それにしてもやりすぎだろうと思った。運転手は気絶したまま、わずかに胃液を吐いた。
 ストッキングをかぶった男が、すぐ横で自分の知り合いに暴行を加えたら、誰だって脅える。来栖あけみは叫ぶこともできず、言われるままにエントランスのガラスドアを開けた。
 僕は、右手に持ったマジックでその背をぐいぐい押し、左手で来栖あけみのハンドバッグをもぎ取った。隙を見て通報でもされたらたまらない。バッグを自分の腕にかけ、あいた左手で来栖あけみの左の上腕部を、逃げられないようにしっかりつかんだ。
 エントランスのドアは二重になっていて、ドアとドアとのあいだのスペースには、銀色のキーパネルがある。来訪者はここで部屋番号を押し、インターホンで来意を告げて、なかからドアを開けてもらわなければならない仕組みだ。
 「早く」
 僕は来栖あけみを促した。意識のない運転手を背負うようにして、モモくんがすぐ後ろでドアが開くのを待っている。
 来栖あけみは、ぶるぶる震える指先で「402」と押し、つづけて四桁の暗証番号を押した。「0211」
 エントランスの内扉が開く。僕たちはマンションのなかに入ることに成功した。
 「なんの数字かな。なにか特別な日付だろうね。記念日ってやつだ」
 モモくんが、状況にそぐわないほがらかさで言った。「あんたの誕生日でも、田口の誕生でもないみたいだ。二人が始めて会った日? それとも、はじめてヤッた日? 田口にこのマンションの部屋を買ってもらった日? もしかしたら、初恋の男の誕生日かな。でも田口には、『二月十一日は母の誕生日なの』なんて言ってたりして」
 モモくんは喋りつづけた。エレベーターに乗って、四階まで行った。エレベーター内では、来栖あけみを壁のほうに向けて立たせた。腕をちょっと引くだけで、来栖あけみは僕の思いのままに、おとなしく体の向きを変えた。来栖あけみはずっと震えていた。「田口」という言葉が出ると、震えはなお酷くなった。組がらみの抗争に巻き込まれたとでも思ったんだろう。
 部屋の鍵を開けるのは、なかなか大変だった。モモくんは両手がふさがっている。女を逃がさないようにしながら、僕が作業するしかない。
 ドア横の壁に来栖あけみを押しつけ、僕はその背中に全体重をかけてのしかかった。壁と僕とに挟まれて、来栖あけみは身動きできない。次に、ハンドバッグをドアの取っ手に引っ掛けた。マジックを左手に持ち替え、来栖あけみの後頭部にごりごりとこすりつける。右手だけで、取っ手にぶらさがったバッグを探り、なかから鍵を見つけ出してようやくドアが開いた。
 


 これはすべて、梶取さんと尾長を相手に何度も何度も練習した手順だ。梶取さんとは体がぴったり密着するから、僕はすごく緊張した。しかも、モモくんがすぐそばで監督しているのだ。
 「腰が引けてる。もっと相手を固定しないと」
 と梶取さんに注意され、モモくんには、
 「まさかおまえ、おったててねえだろうな。あんまりくっつくんじゃねえよ」
 と怒られ、さんざんだった。
 でも梶取さんは「そんなわけないでしょう、よりによって。鈍感なんだから」と、たぶん僕をかばってくれるようなことを言ってくれた。
 モモくんは眉毛を奇妙な形に変えたけれど、結局意味が分からないと言った様子で、「尾長とかわれ」と言って、梶取さんは肩をすかした。
 尾長は面倒臭そうに顔をしかめながら、僕の前に立った。僕がもう一度言われた通りにやってみると、「力弱すぎ」と言って尾長はパッと僕の手から逃れた。
 「やる気あんのか」とモモくんにまた怒られ、梶取さんには笑われた。僕が顔を真っ赤にしていると、尾長が見本を見せてくれたが、見た目と違って意外に力が強く、僕はびっくりした。犬に追いかけられて必死に逃げ惑っていた尾長とは、随分イメージがかけ離れている現実だった。
この力は、現実めいた力だった。そうだ、喧嘩慣れしている力だ。きっと、モモくんや梶取さんと同種の力だった。僕はそのとき、孤独を感じたように思う。
 でもそのおかげで、実践は気楽といえば気楽だった。来栖あけみにいくらのしかかってもモモくんは文句を言わないし、それに来栖あけみは、梶取さんほど魅力的じゃなかったからだ。
 僕は間近でみた来栖あけみを、二十代後半だと推測した。きっと田口は僕の親と同じだろうから、その愛人としては充分若いけれど梶取さんのような美しさもしなやかさもなかった。だから僕は、どぎまぎせずに済んだんだ。
 運転手を玄関口に放り出すと、ドアの鍵を閉め、チェーンもかける。それから来栖あけみの腕を強引に引っ張って、リビングに連れ込んだ。僕がダイニングから探してきた椅子に来栖あけみの抵抗を封じて無理やり座らせる。すごくおしゃれな、背もたれのついた金属製の椅子だ。モモくんは勝手に戸棚をあさって荷造り用の紐を取り出し、来栖あけみの手足を手際よく椅子に縛りつけた。ついでに布巾で猿ぐつわも噛ませた。僕を練習台にして磨いた技だ。
 モモくんは次に、運転手を玄関から引きずってきた。来栖あけみの前で、スーツを脱がしていく。僕も、マジックをズボンのウエストに挟んで隠し、手伝った。意識のない体はぐにゃぐにゃして、時間を食った。来栖あけみがガタガタと椅子を揺らしたが、無視する。
 運転手を下着一枚の姿にしたところで、モモくんは少し考えていた。結局、真っ裸にした。無防備に転がっている全裸の男というのは、もしかしたらこの世で一番、間が抜けてる物体かもしれない。
 モモくんは、運転手をエビ反りみたいな体勢にし、折り曲げて束ねた両脚を、背中のほうで紐でぐるぐる巻きにした。かなり苦しい恰好だと思うが、運転手は弱弱しくうめくだけだった。
 「さてと」
 モモくんは身を起こし、ストッキングをかぶったままの顔を、来栖あけみに近づけた。
 「これからこの男は、バスタブに放り込む。言ってる意味、分かるか?」
 なにかを尋ねられても答えようのない来栖あけみに、モモくんは笑いかけたようだった。ストッキングの下に押し込められた皮膚の動きからすると、たぶん笑ったのだろうと思う。だけどその笑顔は、かえって恐怖を煽るだけに終わったみたいだ。来栖あけみは涙と鼻水を垂れ流し、ふうふうと荒い息をついた。
 「最初からバスタブに入れとけば、後始末をするときに都合がいいんだ。血とか汚物とかが飛び散っても、風呂場なら洗い流すのが楽だろう?」
 それじゃあ凶悪殺人犯だ、と僕は思った。モモくんは寒気がくるほど白々しく、言い続けた。
 「そんなに泣くな」
 優しい手つきで、来栖あけみの頬を拭う。「俺たちだってできれば、面倒な清掃作業なんてせずにすませたい。ほら、豚みたいに転がってる、かわいそうな運転手を見ろよ。あいつを縛ったのは、すぐには殺す気がないからだ。全部、あんた次第なんだ。わかった?」
 来栖あけみは必死にうなずく。せきとめられた嗚咽のせいで窒息しちゃうんじゃないか、と僕は不安になった。
 でもモモくんはかまわず、着々と作業を進行させる。「よし、運ぼうか」と僕を促し、僕たちは二人がかりで運転手をバスルームへ運んだ。全裸の運転手を、腹を下に、折り畳まれて結ばれた手足を上にして、空のバスタブのなかに収める。
 運転手はひんやりしたバスタブの感触のせいか、そこでやっと意識を取り戻した。自分の置かれた状況を把握し、かたわらに立つ僕たちの気配に気付いて、不自由な体をよじらせながら罵声を上げる。
 おまえらなにものだ、とか、こんなことしてタダですむと思うなよ、とか、ありふれた威嚇の言葉だった。
 モモくんがシャワーのコックをひねった。バスタブのなかに水が降り注ぎ、どんどんたまっていく。それでもわめきつづけていた運転手が、ふいに黙った。縛られ、手足を丸められてうつぶせになっている運転手は、自分では身を起こすことができないのだ。バスタブは大きく、滑らかに深く弧を描いた深さは、男を脅えさせたようだった。
 運転手は背筋を駆使して首を上げ、苦労して僕たちを振り仰いだ。腕組みしてバスタブを見下ろしていたモモくんが、穏やかな声で告げた。
 「水を飲み干す自信がないなら、静かにしていろ。いいか?」
 運転手は了承の印にうなずいた。うなずくといっても、唯一自由に動かせる首を上下させ、顎をバスタブの底にごんごんと打ちつけることしかできなかったが。
 「あんたがわめきたてたら、すぐにこいつが飛んできて、コックをひねる」
 モモくんの紹介に応え、僕はせいぜい冷酷な人物に見えるよう、人を溺死させるなんてなんてことない、という表情を作ったものの、所詮はストッキングの下でのことだったので、気付いたときには変顔になっていたと思う。
 すっかりおとなしくなった運転手を残し、僕たちはバスルームから出た。
 「栓を引っこ抜けばいいのだけどね」
 と、僕はモモくんに囁いた。
 「冷静になったら気付くだろ」
 モモくんはつまらなそうに言った。
 実際には、運転手が栓を抜くのは難しかったと思う。モモくんがかなりきつく縛り上げたせいだ。芋虫には、足元にあるバスタブの栓を抜くことなどできない。
 僕たちが立ち去ったと思ったのか、バスルームで運転手が、なんとかバスタブから脱出しようと蠢きだしたようだ。肌とバスタブが触れ合う。キューキューという音がする。巨大な虫の泣き声のようだった。
 リビングに戻ると、来栖あけみが椅子ごと床に倒れこんでいた。
 「どいつもこいつも、話も聞かずに暴れやがる」
 モモくんは手荒に来栖あけみを引き起こし、紐がゆるんでいないか確認した。いきなり暴漢に襲撃されて縛られたら、だれだって隙を見て逃げようと試みると思うけど、モモくんにそういう常識は通用しない。
 「少しのあいだぐらい、おとなしくしてろ」
 モモくんは来栖あけみにそう言い聞かせ、キッチンから取ってきたタオルで目隠しをさせた。
 来栖あけみの視界を封じてようやく、僕たちはストッキングをはずすことができた。蒸れた顔には、室内のわずかな空気の流れさえもが心地よかった。
 外はすっかり夜が明けていた。いつのまにか、風雨も少し収まっている。リビングのカーテンを開けた。落ち着いて眺めてみると、ソファセットとテレビと観葉植物が置かれた、なかなかインテリアにこだわりのありそうな部屋だ。ダイニングの椅子、バスルームの清潔さ、来栖あけみは「快適な暮らし」を重要視しているようだった。
 リビングには、玄関に通じるのとは別に、もうひとつドアがあった。寝室のドアだろう。僕たちはそちらへは行かず、ソファに座って梶取さんと尾長の到着を待った。
 エアコンを入れると、濡れた体に気付いた。でも熱いシャワーを浴びるわけにもいかない。バスルームは芋虫に占拠されている。興奮と体温が逃げていくのを、じっと感じているしかなかった。震えていたかもしれない。何に震えているのかは、僕は分からなかったけれど、この震えを、なんだか、モモくんに気付かれたくはなかったように思う。

 台風が近づき遠ざかっていったために乱降下する気圧。空調をきかせた見知らぬ部屋のソファセットの中央のスペースに据えられ、僕たちの気配を正面から浴びて、思慮深い仏像みたいにおとなしくうつむいている女。
 僕はモモくんと、すごく狭い場所にいました。ひどく濃密な場所に。表を走る車の音を聞きながら、そんなことを思っていたのを覚えています。

 梶取さんと尾長がやってきたのは、午前八時ごろだった。マンションの下で一緒になったと、モモくんの携帯に連絡があった。モモくんはエントランスの暗証番号を教え、二人に上がってくるよう告げた。
尾長は、始発に乗って渋谷から自宅に一度戻り、風呂に入って着替えて飯を食ってから来栖あけみのマンションに来たらしい。濡れたまま朝を迎えた僕とモモくんに比べ、さわやかで元気そうだった。もちろん尾長は、僕たちの着替えを持ってくるような、気が利く人間ではない。
もしかして梶取さんは、と期待したけど、部屋に入ってきた梶取さんは手ぶらだった。縛られた来栖あけみを見て、梶取さんは満足そうに、声を出さずに笑った。
 モモくんが梶取さんに関して抱いている秘密を思って、僕はどうしてもうつむきがちになってしまった。でもモモくんは、僕に秘密を話したことを、全然気にしていないようだった。禁忌だとか秘密だとかと、認識できない人間なのだ。モモくんはほがらかに、「風呂場も見て来いよ」と言った。
 尾長をバスルームへ案内した。ストッキングで覆面することも忘れなかった。梶取さんはリビングから離れなかった。運転手に素性を見破られるとまずいからだろう。
 「鬱血か」
と、尾長は縛られた運転手の手足を見ていった。
 「ずいぶん暴れてたから」
 と、僕は答えた。
 運転手はのろのろと視線を動かし、バスタブのなかから僕たちを見上げた。尾長がふざけてシャワーのコックをひねっても、疲れたようにバスタブの底でじっとしている。蟻の巣に水を注ぐときと同じくらい、万能感と罪悪感をかきたてる光景だった。
 「よせ」
 と言って、僕はシャワーを止め、尾長を促してバスルームから出た。
 リビングではモモくんが、来栖あけみの猿ぐつわをはずしているところだった。唾液で湿った布を、モモくんは床に捨てた。
 「人が増えたでしょ」
 来栖あけみは目隠しされたまま、リビングに集った僕たちの気配を探った。「あんたたちいったいなんなの?」
 「俺以外は立会人だから、気にすんなよ」
モモくんは化粧が崩れた来栖あけみの頬を、手の甲で撫でた。「あんたは騒がず、質問に答えてくれればいい」
 梶取さんはソファに腰を下ろし、行儀よく膝の上に両手を重ねて、モモくんと来栖あけみのやりとりを黙って眺めていた。僕もその隣に座った。
 モモくんは背後から来栖あけみを抱くように立ち、身をかがめて耳元に囁く。
 「あんたは田口から、いろんなものをもらってるだろう。それをちょっとわけてほしいんだ」
 「お金はないわ。全部遣っちゃってるから」
 「本当かな」
 「嘘なんてつかない。通帳を見せたっていい」
 来栖あけみは悲鳴に近い声で言った。
 「シーッ」
 モモくんは来栖あけみの髪に鼻先をうずめた。「わかってる。あんたは正直に答えてくれてるよ。ほかに田口にもらったものは?」
 「この部屋と、店と……」
 来栖あけみはしゃくりあげた。「わけられるようなものなんてない」
 モモくんがちらっと梶取さんを見た。梶取さんがうなずく。
 モモくんはなだめるように来栖あけみの体を優しくゆさぶり、ついに核心に踏み込んだ。
 「ここまできて、俺も手ぶらで帰りたくない。落ち着いてよく考えてみてくれよ。なんかあるだろ? 服とか靴とか宝石とかさ」
 「そういうものなら、寝室のタンスに」
 「鍵は?」
 「かかってないわ」
 尾長が動いた。寝室でごそごそとタンスをあさる音が続いた。やがて尾長は、ネックレスが入っているらしき、ビロード貼りの細長いケースを三つ持って戻ってきた。
 梶取さんはケースを順に開けた。どのケースにも、ダイヤモンドのネックレスが入っている。梶取さんが選んだのは、中ぐらいの粒のものだった。それが三つの中で一番、透明で、輝きが鋭い。
 梶取さんが指し示したケースを確認し、モモくんは再び来栖あけみに話しかけた。
 「あんたが体で稼いだもんを全部持っていくってのもひどい話だよな」
 僕は来栖あけみの膝の上に、三つのケースを並べた。それから梶取さんと尾長とともに、来栖あけみの目に映らないよう、ソファを立ってモモくんのそばに移動した。
 「だからあんたに選ばせてやる」
 モモくんはそう言って、来栖あけみの目隠しを取った。動かないように、来栖あけみの顔を後ろから両手で挟んで固定する。
 「このなかのどれかひとつで手打ちにしよう。一番高いのをくれ」
 来栖あけみは、膝に載せられたダイヤのネックレスを見比べているようだった。
 「わからない、もらったものだから値段なんてわからないわ」
 「あんたは、どれが一番価値があると思う」
 来栖あけみはややためらったのち、大粒のものを指した。モモくんは来栖あけみの耳たぶに唇をつけて、低く笑った。
 「俺を馬鹿にすんなよ。でかけりゃいいってもんじゃないことぐらい、ちゃんと知ってる」
 来栖あけみの喉から、尾を引くようなかすれた叫びが上がった。恐怖があふれるときの音だ。そろそろ限界かなと思い、僕は言った。
 「こういうとき大きいのを選ぶとね、たいてい損をするって昔から決まってるよ。全部貰ってったら」
 「そこまでセンスは悪くねえよ俺は。じゃあ、小さいのにするか?」
 来栖あけみの口を掌でふさぎながら、モモくんはわざとらしく僕たちに意見を求めた。
 「成果が小さいダイヤひとつじゃ、納得できないね」
 尾長がすかさず異を唱える。
 「よし、中ぐらいのダイヤにしよう」
 目的がどこにあるかをごまかすために、迂回に迂回を重ねてようやく、宝の山にたどりついた瞬間だった。その瞬間、梶取さんは瞳を閉じて、唇を横に長く閉じたんだ。
 梶取さんは銀の鎖を指でたどり、ダイヤモンドにそっと触れた。梶取さんの母親の体内から取り出された宝石に。
 僕は尾長とストッキングをかぶり、一緒にバスルームに行った。尾長は持ってきたハンカチをビニール袋に入れ、なにやらあやしげな液体をふりかけた。
 「それは」
 「クロロホルム」
 「どこで」
 「インターネット」
 尾長はバスタブに近づいて、運転手の髪をつかんで顔を持ち上げると、薬液を染み込ませたハンカチを押し当てた。
 「息を止めても、無駄だ」
 甘ったるいにおいが、一瞬鼻先をかすめたような気がした。尾長は辛抱強く待った。そんなに口と鼻を押さえていたら、薬のせいじゃなく、窒息で気絶しちゃうんじゃないかと思うほど、長いあいだ。
 気の毒なことに、運転手の意識は抵抗むなしく、その日二日目のブラックアウトを迎えた。
 僕たちは、濡れた体にてこずらされながら、運転手を寝室まで運んだ。遮光カーテンを引いたままの部屋には、作りつけのタンス以外に、ダブルベッドと木製の棚があるだけだった。棚にぬいぐるみがいくつか載っているのが、なんだかそぐわない感じだ。
 リビングを横切るとき、モモくんが梶取さんとキスしていた。モモくんは相変わらず来栖あけみの口を手でふさぎ、その背後で梶取さんといかがわしい音を立てて粘膜を舐めあっているのだ。
 「やってらんないな」
 尾長が乱暴に、縛ったままの運転手をベッドに放り投げた。はじめて尾長と意見が合った。
 モモくんは来栖あけみに言い聞かせた。
 「これから、あんたと運転手の恥ずかしい写真を撮る。強盗に無理やりやらされたんだと言っても、たぶん田口には通じない。あんた知ってる? 田口に恥をかかせた愛人が、どうなったかを」
 誰の話をしているのだろう。モモくんは鼻水と唾液で濡れた手を離し、来栖あけみの服でぬぐった。「女は樹海に連れてかれて、木に吊るされた。その前にいろいろひどいことをされたんだけど、まあ、あんたをあんまり脅えさせるのもかわいそうだから、やめておこう。浮気相手の男は必死に逃げたけれど、結局つかまった。手足の指を一本ずつ、時間をかけて全部折られて、最後には重石をつけて海に沈められた」
 淡々と、見てきたように言う。もしかしてそれは、モモくんが何度も何度も頭の中で想像した、自分の両親に関する物語だったのかもしれない。想像なのだろうか。モモくんの頭で常に鳴っているというクラシックと似たようなものなのだろうか。
 「あんたはそんな目にあいたくないだろう? だったら黙ってな。田口にも、警察にも、今日のことは黙ってるんだ。そうすれば、首飾りが一個なくなったことなんて、誰も気付かない。俺もあんたも、これからも幸せな毎日を送ることができる。わかった?」
 モモくんは優しく語りかけると、最後に来栖あけみの頬に音を立ててキスをした。
 来栖あけみにも尾長はハンカチを当て、服を梶取さんが脱がせた。運転手を縛っていた紐は、僕がはさみで切った。
 意識のない二人の体をベッドの上で転がし、重なり合うように横たわらせる。梶取さんはデジタルカメラで写真を撮った。
 僕たちは部屋を元通りに整え、住人のような顔をして、エレベーターに乗ってマンションを出た。
外はすっかり晴れていて、戦利品のダイヤモンドが、梶取さんの首元で光を弾いた。
 僕たちはモモくんの部屋に戻り、倒れ伏すようにしてリビングで夕方まで眠った。
 その日の昼に、あらゆるメディアを通して重大な発表があったことなんて、ちっとも知らずに。

 無駄なことをしたものだと思う人もいるかもしれません。ノストラダムスの予言よろしく、半年後には隕石が地球にぶつかる運命だったのに、わざわざ宝石一個ごときを盗みに入るなんて、と。
 でも僕はそう思わない。
 八月の残り半分を、僕たちはモモくんの部屋で、それまでと変わらず過ごしました。隕石についての話題は、ほとんど出なかった。
 尾長の日焼けした皮膚を、みんなでそろそろと剥いて楽しみました。梶取さんの鎖骨にいつも大切そうに提げられたダイヤが光っていました。モモくんは相変わらず我慢できなくなると自分でフルーツサンドを作って食べました。そして僕は、それらの光景をかけがえのないものと感じ、夏が永遠に終わらなければいいのにと思っていました。この夏が最後であるはずがないと、信じることに必死だったかもしれません。いや、考えるのをやめようとすることに必死でした。
 いずれ死ぬからといって、生きるのをあっさりとやめることはできない。
 正直に言って、地球が滅亡すると発表されても、実感などできませんでした。ダイヤモンドを盗むと言われたときよりも、よっぽど自分から遠くどうでもいい出来事のように思えた。
 ロケットに乗って生き延びた人には、共通して覚えのある感覚だと思うけれど、半年というのは、覚悟を決めるにも、運命を回避するための行動を起こすにも、短すぎる時間だったんじゃないでしょうか。

 「鬼塚桃次を知ってるか?」
 校門をくぐろうとしたところで、僕がそう訊かれたのは、九月の新学期がはじまってすぐのことだった。
話しかけてきたのは四十代前半ぐらいの男で、近所を散歩するときのような、だぼだぼした黒のスウェット姿だった。だけど一目見ただけで、だれにだって男の職業は推測がついただろう。スウェットの首元からは、太い金のネックレスがのぞいていたし、狭い道路を挟んで校門の向かいには、そのへんの商店街じゃあ、だれも乗っていないような白いベンツが停められていたからだ。
 生徒の姿はまばらだった。男が僕に向かって質問しているのは明白だ。聞かなかったふりもできず、立ち止まって答えた。
 「さあ、知りません」
 「ようやく当たりだ。あいつは友だちが少ないな」
 知らないと言ったことに、僕は後悔した。男は強引に僕をベンツのほうに引っ張る。そのまま誘拐されてしまうのかと思って、僕は精一杯踏ん張り、助けを求めて声を上げようとした。モモくんの名を口にしようとしたとき、はたと思いとどまる。
 「話を聞いてから騒げや。チケットが欲しくないか」
 ダフ屋なのかと思い、「なんのですか?」と訊いた。
 「あほ、脱出のに決まってる。……いや、まだそれについては発表されてないんだったな」
 男は僕をベンツの助手席に押しこめ、「ちょっと一周しようか」と言った。シートが革張りになっている車というのに、僕ははじめて乗った。
 男は穏やかな表情で、いつでも飛び降りられるぐらいの速度で車を運転したので、僕は少し安心することができた。
 「僕、ほんとうにその人のことをよく知らないんです」
 「あそこで『鬼塚桃次を知ってるか』と訊いたら、おまえ以外の全員が『知ってる。有名だから』と答えた。見るからにヤー公な俺が探してるってのに、かばいだてしようともせずにな」
 男は、金無垢のシガレットケースから煙草を取り出し、これまた金無垢のライターで自分で火をつけた。そういうものを映画でしか見たことがなかったから、最初、シガレットケースは名刺入れに、ライターは調合金のおもちゃに見えた。
 「俺が思うに、今朝あの校門を通りがかったガキどものなかで、おまえが一番、あいつと親しい。違うか?」
 答えようがないので黙っていた。
 「俺は、娘の動向にはいつも気を配っていてね」
 男は穏やかな口調のまま、突然話題を飛躍させた。話題を飛躍させ、心の準備をしていない者に話の核心を触れさせるのは、相手を動揺させるのに非常に有効な手段だった。僕は、その時確かに、背に戦慄が走ったのを感じたんだ。
 「悪い虫でもついちゃあ困るから、娘の部屋は定期的に調べる。プロにやらせるから、本人はなんにも気付きやしない」
 話の途中から、もしかして、と感づいた。上等なシートなのに、急にすわり心地が悪くなったようで、もぞもぞと尻を動かした。
 来るぞ、来るぞと覚悟を決める。
 「このあいだ、娘の持ち物のなかに妙なものを見つけた。見覚えのあるネックレスだ」
 「ネックレスですか」僕は、平静を装った。
 車は商店街を抜け、学校の裏手にある住宅地に入った。男は慎重に僕の反応をうかがっているようだったが、やがて備え付けの灰皿を引き出して煙草を消し、懐に手をやった。人気のない住宅街に響き渡る銃声。血まみれで車から転がりでる僕。という想像が一瞬のうちに脳内をよぎったのだが、男が僕に差し出したのは一枚の紙切れだった。
 「これをあんたに預ける。三日経ったら、桃次に渡せ。ただし、三日のあいだに、あんたがこれをあいつには渡したくないと思うことがあったら、自分のものにしてかまわない」
 僕は受け取った紙切れを眺めた。『平成八号搭乗券」と書かれた紙面に、偽造防止のありとあらゆる技術が投入されているのがわかった。
 「あなたは田口さんですよね。これをタダで人にやるなんて考えられない。何か条件でも? 僕自身ですか? そもそも、どうして、ご自分で彼に渡さないのですか?」
 言っていて、おかしなことを言っていると、自分でも思ったんだ。
 車は再び、校門の前まで戻ってきた。男はシートに深く背をもたせかけた。
 「ふ抜けた顔をして、なかなか据わってるじゃないか。客に売れる身体があれば、この世界は男だろうが女だろうが商売を考えるし、抱きもする。この業界のことをよく知ってるな。まあ、あいつの連れだと思えば不思議じゃないが。だがあいにく、俺はガキに興味はないんでね。そういう話をするつもりはない」
 僕は、ほっとすることもなく、絶望を覚えることもなく、田口の話を聞いていた。
 「あんたはなにか勘違いしているな。もう一度言うが、預けられたあんたには、二つ選択肢がある。一、渡す。二、自分のものにする」
 「僕のものにしてしまってもいいんですか?」
 「したければどうぞ」
 「彼はあなたの息子でしょう」
 「それを決めるのは俺じゃない。ロケットに乗って、三十過ぎまで生き延びられたら、あいつは俺の息子。だが、あんたがチケットを自分で使っちまったら、あいつは若くして死んだとなるわけだ。すなわち、俺の息子ではなく、あの呪われた早死に家系の、くそったれ野郎の種だったってことだ」
どういう理屈なのか、僕にはまったくわからなかった。
 「くそったれ野郎なのは、あなたじゃないんですか」僕は思わず口を突いてた。
 田口は一瞬、凄んだ目をちらつかせ、僕は身じろぎをしたけれど、そのまま前を向いた。
 「だれが結果を確かめるんです。田口さんも、このロケットに乗るんですか」
 「確かめる必要なんかない。あいつが知ってればいいのさ。自分がだれの息子かってことをな」
 男がうるさそうに手を振ったので、僕は車から降りた。僕は驚きながら、車の後姿を見送った。『確かめる必要なんかない』と、田口が言ったのだ。
 走り去るベンツを見送り、渡されたチケットを財布のなかにしまった。もう遅刻決定だったから、ゆっくりと道を渡る。校門のところに、尾長が塀に背をあずけ立っていた。
 「いまのだれ?」
 と訊かれたので、
 「モモくんの父親候補」
 と答えた。尾長は「ふうん」と、財布の入った僕のポケットのあたりを見た。
 「なんの用だったんだ?」
 「さあ、知らない」
 「食われたのか」
 「知らない」

 あの日、尾長がもう少し早く登校していれば、田口は僕ではなく尾長に声をかけたはずです。
 チケットを預けられたのが尾長だったら。
 もう何度、僕はそう思ったでしょうか。尾長だったら、チケットをモモくんに渡しただろうか。それともやはり、自分で使ったんだろうか。
 はっきりしているのは、尾長がチケットを手にしていたら、僕はここにはいなかったということ。そして、こんな苦さを味わうこともなかったということです。
 田口の意図がどこにあったのかは、三日のうちにだいたいわかってきました。田口はモモくんに復讐するために来たのです。
 梶取さんの部屋で来栖あけみのダイヤモンドを見つけた田口は、すぐに犯行グループ、つまり僕たちのことを調べ上げたのでしょう。
 娘とその仲間が、愛人宅に侵入した。仲間のうちの一人は自分の息子かもしれず、しかも娘と付き合っている。何重にも面目をつぶされた田口は、「落とし前をつけろ」と言ってきたのです。
 モモくんが死のうと生きようとどちらでもいい。田口は遠まわしに、そう言った。死ぬならば、それまでの短いあいだを梶取さんと勝手に過ごせばいい。生きるなら、それは梶取さんを捨てることだ。どっちでも好きなほうを選べ、と。
 田口がいやらしいのは、モモくんに直接の選択権を与えず、ダイヤ強奪仲間である僕に選ばせようとしたところです。
 僕はもちろん、三番目の可能性に気付いていました。
 僕がモモくんにチケットを渡す。でもモモくんは、あのチケットを自分では使わず、だれかにあげるかもしれない。
 だけど僕は、結局、最後までモモくんにチケットの存在を打ち明けられなかった。
 生きたかった。自分が生き延びたかった。
 僕は卑しかった。
 いまこうして、脱出機に乗るまでのいきさつを懺悔のように話すことで、少しでも心の負担を軽くしたいと思っている僕は、変わらずに卑怯なままです。

 最初のうちは、家も学校も、夏休み前と何も変わらなかった。
 でもそれは、ものすごいおんぼろ屋敷で、床板ひとつ軋ませてはいけないと言われて、みんなで慎重に足元を確かめている、そんな感じだったんだ。小さな家鳴りがあったとたん、みんなはパニックになって走り出し、おんぼろ屋敷は原型をとどめないほど粉々にする。
 平静を保てていたのは、脱出機の存在が発表されるまでのことだった。
 ロケットについての最初の発表は、校門前で待ち構えていたヤクザから、僕がチケットを貰った翌々日にあった。男が僕に言った三日とは、ロケットの存在が公になるまでの期限だったのだ。
 ロケットには一千五百万人しか乗れないこと。搭乗者は厳正な抽選で決まること。
 新たな情報が掲示されるたびに、人々は、狂奔したり疑心を抱いたり絶望したりした。
 父親は会社に行かなくなり、弟は家に帰ってこなくなった。母親は実家に戻ってしまった。言い訳がましい置手紙は、要約するとこういうことだった。「どうせ死ぬなら、こんなに狭苦しい家じゃなく、自然がいっぱいある故郷の、生まれ育った家のほうがいい」。居間のテーブルの上にそれを発見したとき、僕は声を出して笑った。
 あんなに「お父さんが働いてるおかげで」と言っていたくせに、その父が建てた家を、母親は本当は「狭苦しい」と思ってたんだ。やっぱりな、と僕は納得した。どうりで母親の説教には、いつも真実味が感じられなかったわけだ。どんなに罵られても、乾いた感想しか抱けなかった。湿った反感や抗いを抱けなかった。
 気を落とすなよ、と僕は父親に言ってやりたかった。隕石が地球にぶつかったら、もうこの家のローンを払わなくてもよくなるんだから、って。だけど、昼間からビールを飲んでテレビの「搭乗者当選番号発表」をずっと見続けている父親にそんなことを言ったら、本気で殺されかねない。
 どうせ死ぬなら、何をしてもかまわないだろ、とばかりに、集団で暴行やら殺人やら好き放題にふるまう人間たちが、あちこちで同時多発的に発生していた。どうも僕の父親も、ちょっとつついたら、やすやすとそちら側に転がり落ちてしまいそうな危うさがあった。
 僕は迷っていた。財布から何度もチケットを出しては、それが本物なのか、本物だとしたら僕はどうするべきなのか、迷い続けた。いっそ、偽物だったらいいとまで思った。
 チケットを家族に譲ろうとは、これっぽっちも思わなかった。迷いはひたすら、男がいったとおりの選択肢だった。
 噂では、搭乗員の抽選は、決して厳正なものではないということだった。過酷な状況下でも即戦力になるような、特別な技術や知識のある人間。それから、子供を生める若い女性。抽選というフィルターの先には、ちゃんとした理由というものがあった。
 どちらにもあてはまらない僕は、深い海のそこから日の光をすかし見るようにぼんやりと、ベッドに寝転んでかざしたチケットを眺めた。
 正規のルートでは、僕は決してロケットに乗ることはできないのだ。
 妙な行きがかりから手にしてしまったチケットが重くて、近づきつつある隕石のせいで地球の重力が狂ったのかと本気で思った。
 隕石のことなど、発表してくれないほうが親切だった。「選ばれた人間」だけがこっそりとロケットに乗って宇宙へ逃げ、何も知らずに取り残されたものは、ある日ドカンと一瞬で地球ごと弾け飛ぶ。そのほうがよかった。
 「隕石衝突の真実を、エキスパートが詳細に解剖!」というような企画が、一時期テレビや雑誌をにぎわせた。やがて雑誌は店頭から消え、テレビは瑣末なデザインで括られた当選番号発表だけを放映するようになった。
 そういう状況のなかで、なおも学校に来ようという人間は、教師も含めて日に日に減った。
 モモくんは相変わらず、律儀に登校していた。僕にはそれが少し意外だった。隕石や、運命の理不尽さに対して怒りを抱き、道で行きあった見も知らぬ人に、真っ先にナイフを翳すような外見に見えるのに。
 僕が、マトリョーシカをさらに風呂敷でぐるぐる巻きに包んだぐらいの間接話法でそう言ったら、モモくんは珍しく言葉の裏を読んで、ちゃんと的に当たる答えを返した。
 「暴れてるやつらが言いたいのは、「どうせ死ぬなら、なにしてもかまわねえ」ってことだよな。でも、隕石がぶつかるってわかってから、わざわざそんなことを言い出すのはおかしいだろ」
 モモくんは、心底不思議そうに言った。まるで、いたずら好きの子供が、どんな細工をこれからしようかと思いあぐねている顔とそっくりだった。「死ぬことは、生まれたときから、決まってたじゃないか。いまさらだよな」
 クラスの大半が欠席で、わずかに出勤している教師も授業なんて放棄していたから、教室は魚のいない水族館みたいにひんやりと、静寂だけを反響させた。
 僕はチケットのこと、チケットを持ってきた男のことをモモくんに切り出せないまま、それでもいろいろな話をした。夏休み前までは、教室で石のように無言を通していたモモくんも、僕が話しかけるとしゃべってくれるようになった。そうでもしないとあまりにも静か過ぎて、一日中、頭のなかの音楽につきあわなきゃならず、つらいんだそうだ。僕が話しかけると、若干嬉しそうに眉を上げるその姿を見ると、僕は幸せな気分になった。
 「延次は家族旅行だ。一週間もすれば帰る」
 とモモくんは言った。
 「なんか想像できない。尾長が家族で旅行なんて。旅先でもゲームしてるのかな」
 「あそこは家族仲がいいから。記念に、旅をすることにしたんだろ」
 冗談かと思ったけど、モモくんは真顔だった。「記念」というのは変だろう。「最後の思い出作り」と言うのがふさわしい。でも、尾長がいつもの無愛想な顔で、家族と旅行かなんかでご飯を食べているさまを想像すると、「記念」でもまあいいかとも思えた。
 「梶取さんはどうしてるの?」
 「素子は、ばあちゃんの家に行ってる。でも、夜はいつも俺んところに来る」
 「何か言ってる?」
 「なにかって?」
 「隕石とか、ロケットとか」
 「べつになにも、だな」
 梶取さんは、自分の父親が全てを知っていることを知らないんだろう。そして、モモくんも。僕はそう判断した。チケットのことを、ますます言いにくくなった。知っていて欲しかったのかもしれない。僕のこの弱い心を、後ろから押してくれる強い力を。あたたかい力を。僕は、こんなにも弱い。
 言わなければ、チケットはすんなりと僕のものになるのだ。
 コンクリートの照り返しのなかに、夏の名残がわずかに感じられる屋上で、僕はある日、「どうして学校に来るの」とモモくんに訊いてみた。
 モモくんの答えは、「ほかにすることもねえから」だった。
 これ以上、僕の心を的確に表現する言葉はなかった。たしかに、するべきこともできることもなにもない。
 期限の三日はとっくに過ぎて、僕はそのころはもう、チケットのことを忘れようとしていた。きっと偽物だ。あのヤクザは、愛人がこけにされたことの仕返しに、モモくんとその仲間のあいだにちょっとした波紋を起こしたかっただけだ。
 地球が終わるまで、ふだんどおりの生活を繰り返すしかない。家族もクラスの友人も先生も、皆早くその事実に気付けばいい。いつもの暮らしに戻って、最後の瞬間までせいぜい「家族ごっこ」や「学校ごっこ」を楽しめばいい。
 でも、僕がいくらそう願っても、どこかへ姿を消してしまった人たちは、決して戻ってきてくれない。「隕石」という、とてつもない恐怖の象徴が、僕の暮らしていた世界の根底にあるなにかを、徹底的に損なってしまったからだ。末期がんで苛まれている人たちは、今、二つの絶望を目の前にして何を考えるのだろう。ほとんど全ての人間が一様に、彼らと同じ立場に立たされたのだ。
 迫り来る隕石の存在を知らずにいれば、それはあっさりと根こそぎ奪うだけのものだったはずだ。奪われたことにも気付けないほど突然に。
 そう考えると、地球を滅亡させるのは隕石そのものではなく、隕石を恐怖する人間の想像力だ。現に、地球は終わっていないというのに、日常はあちこちで壊れ始めてしまっている。
 するべきこともできることも思い浮かべられなかったので、僕はせめて、「したいこと」について考えてみることにした。それでも、あと三ヶ月もしないうちに死ぬのだと思うと、なかなか「したいこと」もない。すべてが無意味に感じられてしまう。そうするとまだ、「もし本当に本物だったら」と、思考はチケットに戻ってしまう。
 僕はそれを振り払うために、モモくんに訊いた。
 「いま、なにかしたいことない?」
 モモくんは屋上のフェンス越しに町を眺めながら、フルーツサンドを食べていた。購買部もいつのまにか閉まったままになっちゃったから、モモくんはフルーツサンドを自分で作ってきていたんだ。
 「んー?」
 モモくんはパンをくわえたまま振り向いた。「茶が飲みたい」
買っておいた紙パックのお茶を、モモくんに投げ渡した。この人といると、地球が危機的状況にあることをどうも忘れてしまうと思った。
 「そういうんじゃなくてさ。夢っていうの? もっと長期的視野に、『したいこと』」
 「長生きしたい」
 とモモくんは言った。
 自分の指先から、滝が流れるかのごとく血の気が失せるのがわかった。試されていると思った。
 僕は心を試されている。天体の運行も、人の生き死にも思いのままに操って、なおも黒々と回転する非情ななにものかに。
 モモくんは、数ヶ月もしないうちにほぼ確実に死ぬであろうことなど、意にも介さぬ風に続けた。
 「いやになるぐらい長く生きる。素子も、素子と別れたとして、そのあとにつきあうことになるだろう奴たちとも、みーんな年取って死んじゃってもまだ、俺は生きてるんだ」
 モモくんの長生き願望を聞くのは、それがはじめてではなかった。でも僕はそのときはじめて、「どうして」と訊いた。どうしてそんなに長生きしたいの、と。その声はきっと、ひどく震えていただろう。いや、震えていたんだ。
 「だれかを好きだった記憶もなくなるぐらい生きて、俺が死んでも気付くやつが一人もいないほどになったら、そのときやっと、俺は本当に自由になれるんじゃないかと思うんだ」
 モモくんは、なにから自由になりたかったんだろう。暗い場所にいる二人の男が、自分こそがおまえの父親だよと手招きする、そんな状況からだろうか。答えの返らない問いと発しながら、何度も何度も心のなかの深い森に踏み入って母親を探す、そのむなしさからだろうか。
 「僕は……最後はだれかと一緒にいたい。二人きりになるんだ。この世に二人だけ。隕石が衝突すると、僕とそのひとの体は蒸発していっしょくたに宇宙へ飛び散る」
 「だれとだよ」
 モモくんは「しょうがないやつだなあ」と言いたげな声色だった。だけど、顔は笑ってはいなかった。その顔に僕は、ハッとしたのだ。この人にも、恐怖を感じることがあるのだと気付いたのだ。その恐怖から逃れるには、さっきモモくんが言ったように、「長生き」する必要があったのだ。
 「抽選には応募した?」
 「まさか」
 「長生き、したいと言ってたのに」
 モモくんはフェンスから離れ、僕の前にしゃがんだ。「当たるわけねえもん。乗るやつなんて、もう全部決まってるんじゃねえの。政治家とか金持ちとかさ」
 「もしも、もしもね。チケットが一枚手に入ったとするよ。モモくんは、それをどうする? 長生きするためには、やっぱりロケットに乗らなきゃいけないよ」
 モモくんはちょっと首をかしげて、僕の顔を眺めた。変なことを訊くんだな、と言いたげに、薄く笑いながら。
 「おまえにやるよ」
 とモモくんは言った。「欲しいんなら、おまえにやる」
 モモくんは全て知っている。
 僕は目を閉じ、長く長く息を吐いた。
 尾長も、梶取さんも、知っているのだろう。
 モモくんはどんな気持ちで、その何日かの僕の言動を見ていたんだろう。人間に生じるほとんどのすべての感情が、僕の中で嵐のように吹きすさび、二度と涙を流さず思考せず愛さない獣に僕はなりたかった。
 僕に向かって発せられたモモくんの最後の言葉は、しかし思いがけず優しく響いた。モモくんのなかに絶えず流れる音楽とは、こういう旋律だろうかと思うほどに。
 「お互いの夢を交換すんのもいいだろ。夕貴は一人で長生きする。俺は素子と延次と一緒に地球に残る」
 聞き慣れない名前が、モモくんの口から初めて出た。
 瞼の裏の暗い世界に、熱が入り込んだ。後頭部には、モモくんの掌の体温があり、額には、モモくんの胸の体温があった。
 再び僕が目を開けたとき、もうモモくんの姿は屋上になかった。

 彼らのことをどれだけ語っても、いまさらなにかを取り戻すことはできない。これは僕の一方的な記憶にすぎず、すべてはもう昔の話になってしまったこと。
 だけど僕は、言われるままに僕の声を金色の円盤に定着させることにした。ディスクはつるりとしたシルバーメタリックのカプセルに入れられ、宇宙空間を漂う。
 僕の、最初で最後の夏を封じこめて。
 ここには、季節なんてない。じっとりとまとわりつくような夏の湿り気も、毛穴という毛穴がちぢこまるような冬の風もない。
 僕は想像する。
 いつか、どこかの惑星にカプセルが流れ着いたとする。そこには、もしかしたら極彩色の羽根を持つ鳥がいて、輝くディスクを珍しい宝物のように思い、巣に運び込むかもしれない。
 僕は想像する。
 もしかしたらディスクを再生する能力をもった生命体がいて、流れる僕の声を音楽のように聴くかもしれない。
 僕は想像する。
 回転するディスクからあふれる平板な音階に、飽きることなく耳を傾ける、モモくんとよく似た人の姿を。目を閉じて、うつむきかげんのまま、じっとみじろぎもしないその凛々しい横顔を。
 聞こえる?聞いてほしい。
 全てが終わったあとにも、この声が語り続けるみんなとの夏のことを。


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無題

やべえ、泣ける

お見事

怖かったのは、「残してしまうこと」と私は見解した。どんだけかっこいいの

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