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驟然

 ドアのレンズには意外な男がうつっていた。父だ。いぶかしみながら私はドアをあける。
 「あ、おお、元気だった、突然ごーめんね」父はかわらず、たよりない、細い声でぼそりとしゃべる。数年前の正月に会ったのが最後だったが、あまりかわっていなかった。そう、まったく変わっていない。
 「どうしたの、突然」
 「いや、あの、ほれ、いずっちゃん、どうしてるかな、と思ってさ。はは」
 父はうかがうように部屋に視線を向け、
 「あ、掃除中? 迷惑だったかな、こんな時間に」申し訳なさそうに頭をかく。
 「汚いけど、どうぞ、あがって」
 内心、迷惑だと思っていた。父がこうして私のアパートに転がり込んでくることはいままで一度もなかったし、二人で顔をつき合わせて酒を酌むなんてこともない。何か話があるわけでもない。玄関先にスリッパをそろえたが、しかし父は部屋に上がろうとせず、もじもじとその場に突っ立っている。
 「あのさ、ごはん、食べた? あはは、食べたよね、じゃあさ、ちょっと、飲まない? いや、パパお腹すいちゃってさ、はは、ここくる途中、何軒か飲み屋さんあるでしょう? けっこういいところ、あってさ、いや無理にとは言わないけれど、はは、やっぱ東京はすごいね、九時だってのに、どこも閉店してないもんね」
 父は昔からこうだ。娘に対しても、母に対しても、びくついて遠慮して、こちらをうかがうように話す。そういうふうにしか、話せない。
 アパートの数軒先にある居酒屋みよしには、寺山と何度もきた。値段が安いわりにつまみがおいしくて、話題がないときには二人そろって、店の奥に設置してあるテレビをぼけっと眺めて酒を飲んだ。寺山とつい三ヶ月ほど前に座った同じ席に、私と父は腰かけて飲んでいる。シュールな夢のようだ。
 「東京に用があったの?」私は訊いた。
 「いや、用なんて、ないんだけどね」父は左隣の客に煙が向かないよう、注意深く煙草を吸いながら小声で話す。
 「あのさ、工場と旅館、勤続三十年とかで、同時期にお休みくれたのね、はは、けどさ、なんにもすることなくてさ、ママたちは東京いっちゃって」
 「宝塚?」
 「はは、まあそうだね、いっしょにいこうかとおもったけど、ママいやがるしさ、はは、ほんっとすることないの、なあんにも。それで、いずっちゃんどうしてるかな、とおもってね」
 「ふうん」気の毒な男だと思った。「はじめてだね、一緒にお酒飲むの」
 「はは、そうだね、忙しかったからな。このもつ煮、いけるね」
 私たちはそれからしばらく無言で酒を飲んだ。早く酔ってしまいたかった。素面のままこの気まずさをやり過ごす自信はとうてい持ち合わせていなかった。父も同じことを思ったらしく、私たちはほとんど料理を口にせず、競うように日本酒を頼む。テレビ番組が砂時計のように流れ、ときをりコマーシャルがけたたましく響き、幾組かの新しい客が入ってきた。店の引き戸が開くたび、夏のなごりのむっとした空気が店のなかに入り込んで冷房にかき消される。
 「あ、あのさ、連れ出しちゃったけど、彼氏は平気? 今いっしょにいるんでしょ?」
 五杯目の丹沢山を注文して父が訊く。私は伯楽星を飲み干し、同じく丹沢山を頼み、横に座る父を見る。父は鼻を中心に顔を赤くして、目を細めて私を見ている。突然、私の何もかもをこの男は理解するかもしれないという、奇妙にゆるぎない期待を私は抱く。
 「おとうさん大学いかせてくれたよね」皿にあふれた酒をコップに移し、背をまるめ私はつぶやく。「大学に外人の友達がいてさ、舐めてんの?って言われたことがあんだよねえ。そうそう、月謝とか入学金がいくらだったのか私はいまだに知らないんだけどさ、きっとものすごく高かったんだよね、私立だもんね。それがさあ、その大学で、私何してた? 男追っかけてただけだよ、本当。文学部、日本文学科ってとこ出てさ、なんか役にたったかってーとナッシング、私今三十二歳ね、本厄中。そんで大学いった意味ナッシング」
 父に何かを打ち明けることほど恥ずかしいことはなく、しかしそうせずにはいられず、わざとおちゃらけて私は口をつく。そうすればいくらでもしゃべれそうに思えた。
 「あ、おにいさん、今度これください。えっと、大雪の蔵をおねがいします。でね、そーそー、彼氏よ、彼氏と二年か? 二年と半年か。一緒に住んでてさあ、私ね、今あれ、映画雑誌つくってるとこで働いてんだけど、契約だからね、残業ないのね、あー何が言いたいかってえと、ま、七時には家着くわけ、そんで、ビール飲みながらご飯つくんの、で八時前か、遅くても九時に寺山が帰ってきて一緒に食べんのね、ビール飲んで、テレビ観てさ。休みの日には二人で洗濯したり掃除したりで一日終わって、そのくりかえし。主婦。主婦の暮らしよまさに。それがさ、私、それでよかったの、こんなことがしたかったんだって、ずっとこうしたかったんだって思ってんの」
 私の隣でうん、うんと父はうなずく。大雪の蔵が運ばれてきて、父も同じものを頼む。
 「でもさ、寺山、出てっちゃったんだなー、ボランチアすんだって、そんなー、よそのだれか助ける前にここにいる私を助けろよ、とか思ったけどさ、人が何かやりたいつってんの止められないじゃん。とめられないよ、わかるもんそーゆーの」
 「いずっちゃんも一緒にボランティアするというのは、ないの?」
 かなり酔っているようなのに父はやはり遠慮がちに訊く。私は父を正面から見つめた。まるい鼻、小さな目、てっぺんが薄くなりつつある頭髪。
 「それ、それ考えたわ。簡単なことだと思った。でも、私、こわいんだよ。だってわかるんだもん。どこだっけ、インドパキスタン、違うスリランカ、スリランカくんだりまで追いかけてってよ? まあしばらくは安泰だわな、でもねおとうさん」目の前に置かれた透明の液体をすすりあげる。客たちの談笑する声がどこか遠くで聞こえる。
 「私はまたきっとだれか好きになる。スリランカにいたってどこにいたっておんなじだと思う。寺山が煮詰まって海外いくこと選んだように、関係が安定すると私はなんでかぶちこわしたくなる。ばか面下げてまたばかみたいな恋してさ、全部台無しにして、そんで主婦的な生活が好きだ何てよく言えたもんだ、よくそこまで寺山好みの女を演じられたもんだ、なんつって、また違うだれかを演じんの、もうわかってんの、わかってんだったらスリランカなんていき損、追っかけ損でしょ?」
 父はうん、うんとうなずきながらもろきゅうを口に入れ、噛み、砕く。かつて私の大嫌いだった父の噛み音。父と一緒に食卓につくのがいやで、学校に遅刻したこともあった。
 「中身がないのが悪いってわかってるけどー、もう遅すぎる。そういやさ、私こどものころからなかったもん、あれなりたい、これなりたいっての。フラワーショップ、お菓子屋、スッチー、よめさん、考えたけど何かになった自分なんか、そーぞーできなかったもんな、まるきし」
 私の隣の席に新しく入ってきた客が座る。私は横目でちらりとその客を見る。若い男だった。好きなタイプではなかったが、酔った頭で私はその見知らぬ男とつきあうことを想定してみたりする。好きだと言いあったり、泣いたり騒いだりする所を想像し、すぐにばからしくなってやめた。
 「ははは、おれね」コップ酒を両手で包み、それを温めるようにしている父は、私と同じように背をまるめて突然口を開いた。おれ。聞き慣れない一人称に私は小さく笑い、父はかまわず続ける。「自分が大嫌いでさ、朝目覚めて、自分であることにうんざりしてね、ああ、おれ松原だったらよかったのにとか、松原ってのは高校んときの親友だけどね、そんなこと毎日思ってたんだよね」
 ひとりごとをつぶやくようにしゃべる父を見ていると、ついこのあいだまでそこに座っていた寺山の姿と重なる。私は父から視線を外し、冷め切ったもつ煮込みをつつきながら話を促す。もつはいつもより異様に味が薄かったが、味覚が狂うくらい酔っているのかもしれなかった。
 「自分ていうのが柵でさ、おれは何がしたかったかってその柵の向こうにいきたかったんだな、でも自分がやることなんかわかりきってるわけね、結局柵の内側で、大学で食品会社に就職して、言われること大人しくやってね、失敗もないかわり大きな手柄もない。こんなこと、ずっとわかってたよって、毎日また落ち込むんだよね。いろいろ考えたんだ、小型船舶の免許取っちゃうかとかさ、司法試験受ける勉強でもしようかとかさ、わけわかんないだろうけど、とにかく、自分というね、柵の向こうにいけそうなことならなんでもよかったんだけど、まあ、それができないから自分なわけでさ」
 父は口を閉ざして手元の酒をじっとのぞきこむ。それから唐突に、ユウコさん、と母の名をつぶやいた。
 「ユウコさんに会ったのがそんなとき。省略するけどとにかくおれらは恋に落ちたわけ。はは、照れるな。結婚はでもこっぴどく反対されてねえ、ユウコさん水商売やってたしさ、おうちにちょっと問題あってね、今じゃなんでもないことなんだろうけどそういう時代だったしさ。でね、そんときさあ」
 父は言って、くふふふふと笑った。こんな男だったっけと私はこわごわとのぞきこむ。
 「ほんと、そんときだねえ、一瞬我を忘れてさあ。そんなのほんと一瞬、一瞬なんだけどさ、あきるほど見慣れた自分と、ぜんぜん違うことができるって、そう思ったんだよ。どうしても認めてもらえないならこの女と一緒に逃げる、逃げても一緒になる、そうした決意は、つまり今まで目障りだった柵の前に置かれたさ、ちょうどいいジャンプ台だったわけね。夢中だったな、小型船舶だの司法試験だの、まったくかなわないほどのチャンスだった」
 店はだいぶ空きはじめている。アルバイトの男の子は隅でテレビに見入り、店主はカウンターでぼうっと大鍋をかきまわしている。私たちはどちらともなく丹沢山のおかわりを頼み、店内に響くテレビの音声に耳を傾ける。
 「実際、全然違ったなあ」父は言う。もはや私を見ず、自分の掌のコップ酒に話しかけるように。「旅館で住み込みなんて考えられる? 工場で日がな一日プレス機いじってるなんて、それまで想像したこともなかったよ。あの人と一緒になるってことはさ、ほんと、柵の向こうにいくってことだったんだな。ときどき思うんだ、八丁堀にあったあの食品会社でさ、そこそこ出世して、部下連れて酒飲みにいったり、郊外に家買ってローン払ってたり、必死にゴルフ覚えたり、そうしている自分がまだいるんじゃないかって。柵で生きてるおれが通勤電車やタクシーに揺られて想像しているのが、じつはここにいる自分なんじゃないか、なんて」
 そういうあなたが私はとても嫌いだったと心のなかでつぶやく。過ぎてしまえばひとつの経験でしかなかったであろう恋愛のためにそういう暮らしを選び、選んだ暮らしを手放さないようびくびくしながら守っているその姿が滑稽で本当にいやだった。
 「二十歳ちょっと過ぎた、はは、どこにでもある恋心でさ、思わぬところへいっちゃったんだなあ。いずっちゃんじゃないけど、こどものころは飛行機のさ、操縦士になりたかったのにさ。六十んなってもさ、旅館の風呂磨いて、他人のものアイロンかけてさ」
 次第に父の呂律がまわらなくなっている。店のなかがやけに蒸し暑い。引き戸が開けっ放しになっている。見回してみれば私たちのほかに客はいない。もう店じまいなのだ。
 「だけどねいずっちゃん。ときおりさ。ズボンの裾まくって風呂ぴかぴかに磨きながら腰伸ばして開け放たれた窓の外とか見るとさ、青い空がばあって広がってて、なんつうか、外国にきちゃったみたいな気がしたんだなあ。すげえなおい、って思うんだ。おい、こんなとこまで、おれたったひとりできちゃったよ、ここ、いったいどこだよって」父は笑う。私を見る。「おれさ、おれのものじゃない一生を生きたって。柵の向こうで生きたって」
 蒸し暑すぎる。引き戸を開け放しにしておくのは私たちに早く帰れと無言で要求しているのだろうか。店員を捜すがアルバイトの男の子も女主人も見当たらず、見上げるとテレビは灰色の光を放っている。お父さん、今何時? 訊こうとして隣を見ると誰もいない。あわてて立ち上がり、――
 目が覚めた。飲み屋の喧噪、父の話し声、それらはまだ耳に残っているのに、蛍光灯がつけ放しの部屋は異様な静けさだった。冷房はタイマーが切れ、MDも再生をやめ、昼間に寝転がった私は全身汗ばんでいる。よだれを拭い立ち上がると、床の上に寝たせいで体中が鈍く痛んだ。部屋じゅうに転がっているゴミ袋をよけながら台所へいき、水を飲む。
 どうりでおかしいはずだった。もつ煮込みはあそこでは冬場限定のメニューだし、どの酒もみんな同じ味がした。それに父、父はあんなにしゃべる人じゃない。酔ったら寝てしまうし、ワンセンテンス以上話すのを聞いたことがない。それに、そうだ、今頃気付いて私は笑う。そうだった、父は去年死んだのだ。
 参列客のほとんどいない、地味な葬式だった。喪主は母だったが、泣いてばかりで何もしやしないので、事務的なことは私と姉がすべてやった。かなしいとか、もっと生きてほしかったとか、弔辞を聞いているうちに何一つ思わなくなった。私は淡々と、近所の暇な婆あたちが、涙も見せないとひそひそ話をするほど事務的に葬式をすませ、後悔も惜別もなかったが、ただ、唯一、私は知りたいと思っていた。父が自分自身を、彼が作り上げた暮らしを、いったいどう思っていたのかを知りたかった。生きていたって訊けなかっただろうが、そこにいないのならその機会すらないのだと、それだけを強く思っていた。
 そしてあの夢を見た。そう答えてほしいと私が願う言葉を父にしゃべらせるために。父はあんなに口がまわらない。だのに、あんなのにも父の声色は鮮明だった。
 午前三時をまわったところだった。燃えないほうのゴミ袋をゴミ捨て場まで運び、顔を洗って歯を磨き、歯ブラシを口に突っ込んだままボンジョヴィをかけ、洗面所にいこうとして、しかし私はそのまま台所でコンピューターの電源を入れた。
 何か考えようとしたが無理だった。頭のなかは真っ白で、眠気だけが綿みたいにつまり、手だけが勝手に動いた。履歴からさっきまで見ていた旅行代理店を呼び出し、マレーシア航空コロンボいき片道切符の予約手続きをとっていた。乗り継ぎのためにマレーシアで一泊しなければならず、自分でも驚くほどの素早さでクアラルンプールの中級ホテルを検索し、数秒のうちに検討し、やはりここでも予約を済ませ、Tシャツに歯磨き粉がしたたり落ちてようやく、歯を磨いている最中だったことを思い出した。ボンジョヴィが終わり、マライアがバタフライを歌っている。

 幾度も思ったことだが、がらんとした部屋を借りて、あれこれと荷物を運び込み、足りないものを買い揃え、部屋が自分のものらしく整うのはひどく時間がかかるのに、捨ててしまうのは一瞬といっていいほど素早く終わる。まだ新しい家具や電化製品は業者に引き取ってもらい、残りは粗大ゴミに出した。CDと本はすべて中古やに二束三文で売り払い、ほとんどの服は捨てて、真新しいものは友人に譲り、そうしてしまうと、あっけないくらい何もなくなった。部屋にものがなくなってしまうと、自分が何ものでもないような解放感を覚える。何ものでもない、つまり何にでもなれる気分は、これまで幾度か味わってきて、それが錯覚だと知っているにしても、ダイエットに成功したような身軽さを感じずにはいられない。
 何もなくなった部屋を隅々まで雑巾がけし、たえまなくしたたり落ちる汗を拭って部屋の真ん中に立つ。和室の畳はところどころ陽にやけて、台所の壁はうっすらと黄ばみ、食器棚や冷蔵庫のあった部分だけやけに白い。リノリウムに残った焼け焦げはふざけて寺山が落としたたばこのあとで、ふすまに残った赤いシミは友達がこぼした赤ワインだ。そんな具合に、生活の痕跡はあるが部屋のなかは下見に来たときと同じく何もない。まるで私みたいだと思う。新しく詰め込んで、うっすらと記憶を残しながらまたがらんどうに戻り、ふたたび新たなもので埋め尽くされるのをただ、待っている。けれど、こうして何もなければ隙間なんて言葉すらも思いつかないのだと、そんなことに改めて気付き、ずいぶん大きな発見をした気分になる。
 窓の外には彼方まで連なる屋根と、ところどころに突き出た広告看板、幾筋もの電線、それらを覆うようにペンキじみた青空がある。幾度も幾度も見慣れてきたその光景に蓋をするよう窓を閉じ、私は部屋を出る。

 早朝の電車は出勤する人々で混んでいる。つい数日前まで私もこのなかの一員で、自分の場所を確保するため必死で人を押し遣っていたのに、その混雑とささやかな戦闘にいらいらしている。イヤホンを耳に入れることもできないほどの混みようで、気分を紛らわすため、わざと心のなかで毒づいてみる。私はこれからこんな混雑と関係のないところにいくんだ。朝起きて仕事にいくあんたがたとは、まったく違うことをするんだうらやましいだろう。目の前にアンチエイジングに失敗したようなどうしようもないメイクをしたOL風の女が寄りかかるように現れた。目元がくすんでシミが隠しきれていない。夕べ仕事で失敗でもして、もしくは人間関係がもつれ、部屋に帰れば夜食もおざなりに疲れて寝てしまい、朝寝坊もして、しっかり時間が取れなかったのだろう。わかるよ、あんたのこと、と次には同情している自分がいる。
 新宿で電車をおり、空港いきのホームに向かうため彼らの群れから離れると急激に、どうしようもない心細さと、さみしさと、不安が私を食いかかってくる。家財道具を処分したときや、何もなくなった部屋から窓の外を眺めたときに感じた解放感はことごとく薄れ、次から次へと後悔にも似た感情があふれ出てくる。
 予約した電車が到着するまで三十分近くもあった。駅構内のファーストフード店に入り、立ったままコーヒーを飲む。アイルランドへ向かうときも、目的もなくスペインに向かうときとも違う、高揚感もなく期待感もない。返ってくる自分が思い描けていない。すべて自分で決めて行動しているくせに、私はどこかそんな自分にあきれている。
 ひたすら下降していく気分をまぎらわすため、私はあわててナップザックからMP3プレイヤーを取り出し、イヤホンを耳にねじ込む。店内に騒々しく流れていた、陽気な若い女たちの歌声が遠のき、サラブライトマンが静かに始まる。
 MP3は昨日、あげた服のかわりにと泊めてくれた友人マチコのアパートで編集録音した。洋服も洗面用具も必要最小限よりさらに少なかったが、MP3だけは持っていくつもりだった。自分がどこにいるかわからなくなっても、その場にいる意味がわからなくなっても、自分で選んだ音楽を聴けばとりあえず持ちこたえられるような気がした。
 「あんた前もこうして作ってたよね」編集作業を見守りながらマチコは言った。「あのサル顔の男に。モーニングブス猿ファンのちび男にさ。どうしてるかなあ、あの犬ども」
 「もういい加減忘れてよ、若き日の恋はさあ」
 「そういやあんた前もさあ、わけわかんない理由で海外逃亡してたよね、キャンプ用品一緒に買ったじゃん。どうしてるかなあサトル。あとチエコとかいう女。チエコってインディーズで二枚くらいCDとか出してたよね、すぐ名前聞かなくなったけど」
 「ぎゃあ、もういって。それにしてもマチコよく知ってるじゃん。私よかずっと詳しいんじゃない?」
 「まあそりゃ、あんたから男を奪った女だしさ、気にはするわな、って、いつから私こんな情念系なんだろ?」
 「マチコはもともと情念系だよ、同じ男と十年以上くっついてたんだから」
 「まあね。だからきっとあんたがあほ面下げて帰国するころ、私はこのしぶとい情念でニューワンをゲットして、巣作りに励んでると思うよ」
 「うっふふ」
 ピンク、シカゴ、セリーヌ、バックストリートボーイズ、カーペンターズ、インシンク、ホイットニー、クリスティーナアギレラ、アイヴィー、スポーツギター、ジャック、プッシュキングス……気に入りの曲を全部詰め込んで、二百曲を詰め込んだのは午前一時近く、あわてて私とマチコは枕を並べ部屋の明かりを落とした。なかなか眠りは訪れなかった。
 「でもね、あの犬どものためにテープ作ってたあんたが、自分のためにMP3作ってさ、ちっとは進歩してるってことなんか」暗闇のなかでマチコはそんなことをつぶやいた。
 「あはは、気をつかってんのマチコ」
 「いや、そう思っただけだ。もう寝よ、明日はやいでしょう」
 それからしばらく私たちは黙った。目を閉じても眠れず、暗闇にぼんやり浮かび上がる、マチコの部屋の見慣れた天井を眺めていた。
 「椎名林檎は入れなくていいの?」マチコは寝言のように言い、
 「それはあんたの趣味でしょ」私は思わず笑い出した。
 「どうして泊まりにきたの、いつもとおなじなの?」
 「そうだよ。荷物こんだけなんだから、全部置いてきてるよ」
 コーヒーを飲み干し、電車の発車時間が間近になっていることに気付き、急いで私は店を出る。背中のナップザックは軽くて、三十二になった自分が背負っているものはこれほどちっぽけだと告げられているような気がした。
 電車が走り出し、座席について、地下を抜けてビルの林立する景色を見送ると、耳にねじこんだイヤホンから大音量でバイクライドの曲が流れ出す。「here comes the summer」という曲で、夏は終わろうとしているけれど、この電車がふたたび夏に向けてまっすぐ走っている気がしてくる。そうだ、これからいく場所はうんと暑いところなのだ、私はその暑さの種類を知らないし、そこで寺山がどんなふうに笑ったり落ち込んだりしているのかも知らない。寺山の顔を思い浮かべようとしてみるが、もはや彼の顔は薄ぼんやりとした輪郭だけしか浮かばず、彼に会いにいくという実感が持てない。ただ私は、どこか遠くにある自分自身の中身をこれから取り戻しにいくような気がしている。不安や失望や心細さや疑問や、そんなものの合間をすり抜けて、電車はフルスピードで私を、どこか想像すら及ばない場所へとさらっていく。
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無題

この父親はなんかよくわかる。
途上国は家族一団になって誰かの人生のために生きてるよね。長男は次男に譲る、両親は子どもを守る、みたいにさ。
先進国、アメリカやヨーロッパはたとえば子どもが成人すれば一介の守らなければならない対象から外れて、両親は新しい人生を歩んでる。
でもなんでかな、日本は一生誰かのために人生を注いでる。
それがいいことなのかわるいことなのか、誰が決めるのかっていうこと、いずっちゃんのパパが言ってるね。わたしの父もそうだったな。

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