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僕たちはポケットに入れておいたストッキングを手早くかぶった。梶取さんが買ってきたストッキングだ。顔の肉が妙な具合に圧迫されて、お互いを見て「変なの」と笑いあった。それから植え込みを軽く飛び越え、アスファルトにできた薄い水の流れを蹴散らして走った。
車を降りた来栖あけみは、運転手に傘をさしかけられながら、エントランスのガラスドアを押し開けようとしているところだった。来栖あけみと運転手が、接近する水音に気付いて振り向くよりも早く、モモくんの手刀が運転手の延髄に打ち込まれた。
傘が転がり、黒いスーツを着た運転手は声もなく、水に濡れたタイルにくずおれた。僕は太マジックの尻を、来栖あけみの背に押し付けた。
「声を出すな。振り向くな。ドアを開けろ」
われながら冷静に聞こえる声だったと思う。ストッキングのせいでしゃべりにくくて、どうしても押し殺したようなボソボソ声になるのだ。
マジックなんかでごまかせるものかと心配していたけど、来栖あけみは本気で脅え、ひどく震えていた。だが、来栖あけみに恐怖を植えさせたもっとも大きな要因は、モモくんの行動だったと思う。
モモくんは倒れた運転手の身体を淡々とひっくり返し、今度は腹に肘を食らわせた。すぐに目覚めないようにということだろうけど、それにしてもやりすぎだろうと思った。運転手は気絶したまま、わずかに胃液を吐いた。
ストッキングをかぶった男が、すぐ横で自分の知り合いに暴行を加えたら、誰だって脅える。来栖あけみは叫ぶこともできず、言われるままにエントランスのガラスドアを開けた。
僕は、右手に持ったマジックでその背をぐいぐい押し、左手で来栖あけみのハンドバッグをもぎ取った。隙を見て通報でもされたらたまらない。バッグを自分の腕にかけ、あいた左手で来栖あけみの左の上腕部を、逃げられないようにしっかりつかんだ。
エントランスのドアは二重になっていて、ドアとドアとのあいだのスペースには、銀色のキーパネルがある。来訪者はここで部屋番号を押し、インターホンで来意を告げて、なかからドアを開けてもらわなければならない仕組みだ。
「早く」
僕は来栖あけみを促した。意識のない運転手を背負うようにして、モモくんがすぐ後ろでドアが開くのを待っている。
来栖あけみは、ぶるぶる震える指先で「402」と押し、つづけて四桁の暗証番号を押した。「0211」
エントランスの内扉が開く。僕たちはマンションのなかに入ることに成功した。
「なんの数字かな。なにか特別な日付だろうね。記念日ってやつだ」
モモくんが、状況にそぐわないほがらかさで言った。「あんたの誕生日でも、田口の誕生でもないみたいだ。二人が始めて会った日? それとも、はじめてヤッた日? 田口にこのマンションの部屋を買ってもらった日? もしかしたら、初恋の男の誕生日かな。でも田口には、『二月十一日は母の誕生日なの』なんて言ってたりして」
モモくんは喋りつづけた。エレベーターに乗って、四階まで行った。エレベーター内では、来栖あけみを壁のほうに向けて立たせた。腕をちょっと引くだけで、来栖あけみは僕の思いのままに、おとなしく体の向きを変えた。来栖あけみはずっと震えていた。「田口」という言葉が出ると、震えはなお酷くなった。組がらみの抗争に巻き込まれたとでも思ったんだろう。
部屋の鍵を開けるのは、なかなか大変だった。モモくんは両手がふさがっている。女を逃がさないようにしながら、僕が作業するしかない。
ドア横の壁に来栖あけみを押しつけ、僕はその背中に全体重をかけてのしかかった。壁と僕とに挟まれて、来栖あけみは身動きできない。次に、ハンドバッグをドアの取っ手に引っ掛けた。マジックを左手に持ち替え、来栖あけみの後頭部にごりごりとこすりつける。右手だけで、取っ手にぶらさがったバッグを探り、なかから鍵を見つけ出してようやくドアが開いた。
八月に入って、暑さもいい加減諦めがつきつつあった。
昼のワイドショーを眺めていた梶取さんが、「ここに行きたい」とテレビ画面を指差した。新人らしきキャスターがたどたどしく読み上げるのは、子供の拳ぐらいはありそうなダイヤモンドが、銀座の宝石店で客寄せのために公開されている、という話題だった。
映し出された店の外観は、ドアはガラス張りの両開きで、壁と柱がなんだか嘘っぽいほどに白い。近所の女の子が昔持っていた人形の家に似ているな、と僕は思った。
梶取さんはダイヤに興味がありそうな感じにも見えないのに、急にどうしたんだろう。ダイヤなんて、「へえ、おっきいねえ」とテレビで見れば充分で、暑いなかをわざわざ出かけていくほどのものとも思えなかった。
尾長もそう思ったのか、「行けば」といつもの調子でそっけなく言った。だけどモモくんが、
「いいよ、行こうか」
と、静かに笑ったのだ。モモくんがまれに浮かべる微笑は、理不尽な暴力と同じくらい、人間を従わせることができた。それで僕たちは、電車を乗り継いでその宝石店へ行くことになった。
夏の午後の銀座には、サラリーマンやら買い物客やら団体旅行のおばちゃんやら、ありとあらゆる目的で人が集まっていた。巨大な建物郡の屋上からは、内部の冷やしたあとの澱のような熱気がゆるやかに降ってくる。車道からは、排気ガスが陽炎になって押し寄せる。どこにも逃げ場のない、熱の包囲網だ。だけど歩道を行く人々は楽しそうに、自分の目的地の方向へ流れていく波にうまく乗っていた。
僕たちは大通りを、一丁目のほうへ歩いた。やがて、テレビで見たままの宝石店が現れる。陽射しのなかで見るその建物は、ますますプラスチックじみた健全さを露呈し、怪獣が通り過ぎて銀座が火の海になっても、これだけはススひとつつかず白いままだろうなと思わせるものがあった。
テレビで紹介されていたにもかかわらず、店に入っていく客は見たところ一人もいなかった。その理由は、モモくんを先頭に両開きのガラスドアをくぐってすぐ、判明した。
高校生でも買えるような銀製品なんかは扱わない、ものすごい高級店だったのだ。
入るとロビーが吹き抜けになっており、ホテルのフロントみたいな受付があった。なんで宝石店に受付が必要なのか、僕には全然わからなかった。受付にいた黒いスーツ姿の老人も、なんで普段着の高校生が四人も、突然店を訪れたのか理解に苦しんだだろう。
「いらっしゃいませ」
と、その老人は慇懃にお辞儀した。「執事がいる」と僕はつぶやき、尾長は「ばかみたいだ」と芝居じみたふるまいと内装を小さくせせら笑った。
「本日はなにをお求めですか?」
老人はモモくんと梶取さんに向かって尋ねた。主導権を握っているのが誰なのか、正確に見極めたらしい。
「見にきただけなの。だめ?」
と、梶取さんが訊いた。老人は「いいえ」と、受付の黒い大きなデスクを指した。
「では、代表の方だけでけっこうですから、お名前と御連絡先をご記入ください」
まったくもってホテルだ。モモくんが気負ったふうでもなく進み出て、老人から金色の万年筆を受け取った。
「素子、なにが見たいんだ」
と、モモくんは汚い字で住所を書きなぐりながら言った。用紙には「本日お求めになりたい品」という欄があり、指輪とかピアスとかブレスレットとかにチェックをつけなければならないようだった。
「ネックレス」
と梶取さんは答えた。
鬼ヶ島での討伐を終えた桃太郎一行は、その手の荒さ深く傷つき、帰路へと向かう活力は微塵も残っていなかった。
雉はその美しい羽をもぎ取られ、猿はその勇ましい尾を千切られ、犬はその饒な舌を焼かれた。桃太郎は祖父母の復讐を遂げたものの、このたびの犠牲となるは、釜飯を共にした戦友であった。雉は桃太郎に接吻し、水を分け与えた後に息絶え、猿は己が能の出し得る全ての知恵を搾り出し、この世を惜しみながら眠りについた。
唯一、犬には息があった。
犬は、鬼ヶ島で手に入れた息吹を返す万能薬を咥え、桃太郎に与えるか、己で飲み干すか逡巡した。悩みあぐね、犬は桃太郎と共に歩き、暗転する景色の中、己の忠誠心と主の夢を思う。
桃太郎は言った。「はやくそれを飲み、健やかになることだ」
犬は咆え、薬を飲み、桃太郎は叢の上で死んだ。
生命から程遠く、天も地もないこの世の中で、犬は主人と同志を思い出し、懺悔する。