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ホテルに帰る前に、郵便局に行ってスガノくんに電話をかけた。小包の届いた報告をしようという口実を作ったが、本当はそんなことはどうでもよかった。昨日会っていたような気安さで、おやすみ、だとかまたな、だとか言って欲しかった。母のように、兄のように、あの人のように。
「ああ、届いたんだ、よかったな」
受話器の向こうで聞きなれた声は言う。ありがとう、私は言う。
「ずいぶんかかったみたいだけど、平気だったんかよ」
「うん、なんとかね。ほかの旅行者に頼ったり」
とっさに嘘をついた。私の言葉をさえぎって、スガノくんは思い出したように言う。
「そうだ、おにいさん、帰ってたよ」
「え?」
ずらり一列に並んだ電話では各国の旅行者たちが受話器を握っており、飛び交うフランス語や英語から彼の言葉を抜き取るために、受話器に耳を痛いくらい押し付ける。
「何て?」
「友達に電話かけようとして、間違ってあんたんちかけちゃったんだよ、指が勝手にさ。そしたらおにいさんが出た」
「それ、いつごろ」
「一週間くらい前かな。あれ、帰ってるんですかって思わず言っちゃって」
「それで」
後ろの窓口で局員が数える紙幣の音も、天井にはりついたプロペラの音も耳障りに思えた。この電話だけ残してすべての回線がショートしてしまえばいいと願いながら受話器の声を待つ。
「ああ、帰ってきてみたって言ってた。今度は下がいないよって、笑ってた。あの感じで。それだけ」
あの感じとスガノくんが言うのは、ため息を漏らすような兄の笑い方のことだ。すぐ目の前で、かすかな息を漏らして兄が笑っているように思えた。
「帰ってきてみたってことは、またすぐどこかに行っちゃうってこと?」
「さあ、そこまではちょっと」
スガノくんにしつこいくらい礼を言ってから、もう一度国際電話申し込みの列に並びなおし、自宅に電話をかけた。だれも出ず、呼び出し音が執拗に繰り返される。暗い廊下の突き当たり、古びた木製の上で鳴り続ける電話機が鮮やかに思い浮かんだ。それをじっと聞いている、食堂のテーブルやキッチンの調理器具たち。二十回コールを鳴らして諦め、私は郵便局をあとにした。
目覚めるとサジタはいなかった。部屋の片隅にロープがはられており、見慣れないTシャツやらボクサーブリーフやらが干されている。しっかり絞りきれていないそれらは水滴を床に落としていた。二人で一部屋を借りるのは案外楽なのかもしれないとおもいながら、便箋をテープでつなぎあわせる。「お金をなくしました。一銭も持っていません」そこまで書き、少し考えてから「住所を教えてくださればあとできっとお返しします。いくらかでも貸してください」とつけたした。そうつけたさずにはいられない中途半端な良心とプライドに苦笑した。今日郵便局に行き、小包が届いていなければ、日本企業のビルの前で立つつもりでいた。そして小包は届かなかった。
街の中心街から小一時間歩くと、近代的なビルが数軒建つ一角がある。そのあたりの路地はバイクも通らず、敷地内には高級車が並んでいる。看板には日本で見慣れたいくつかの社名が並び、どのビルの前にも警備員の個室がある。大きな木の根元を選び、腰を下ろして紙を広げた。ビルからはだれも出てこず、天秤棒をかついだ女がときおり通りかかって、木陰に坐る私をちらりと見て通り過ぎていった。内臓が腐り始めるのではないかと思うほど暑かった。Tシャツが腋の部分から徐々に湿っていく。太陽をぎらぎらと反射させる背の高いビルを見上げ、背後を見渡す。道路を隔てた反対側には店が並び、日本語の看板を提げた店が数軒った。暑さをまぎらわせるために店名を口のなかで読み上げていく。さくらとうきょう、親子丼、冷やしそば、ランチメニュウ、ラーメン、……読める文字を探していただけなのに、私の目は次第に食べ物ばかりを追っていて、気がつくと口の中は唾液で満ちている。
天秤棒をかついだ女が通り過ぎようとして足を止め、近づいてくる。三十なかばくらいだろうか、藁の帽子を目深にかぶり、白い歯を口元からのぞかせてしきりになにか言いながら籠のなかを見せる。天秤につられた籠の中には、白い卵がぎっしり入っていた。女の歯のようにきれいに並んだ卵の表面は、すべすべと美しく、唾を飲み下す音が自分の耳に届いた。女は私の前にしゃがみこみ、食べろ、買え、としぐさで言う。表情の豊かな女だった。陽に妬けた顔いっぱいに笑顔を見せたり、唇をとがらせてすねた表情をつくって見せたり、瞬時に変わるそれらはしかしあどけなく、まだ若いのかもしれないと思う。お金を持っていないのだと首を振るのにもかまわず、女は籠の中から卵を一つ一つ取り出し、朝方の鳥に似た調子でしゃべりまくる。まるでいやがらせのためにわざとそうしているのではないかと曲解してしまうほど執拗に、女は卵を見せびらかす。全部のポケットを裏返して見せ、面倒くさいので日本語でお金がないと繰り返した。ようやく納得したらしく、彼女は大事そうに卵を籠にしまっていく。立ち去るかと思ったが、彼女は私の隣にゆるゆると腰を下ろし、額の汗を拭い笑いかける。私も愛想笑いを浮かべた。休憩のつもりなのか、女は天秤棒を傍に下ろし、紙袋から笹の葉にくるんだものを取り出して食べはじめる。横目で眺めると女が食べているのは握り飯に似たものだった。ふたたび口の中に唾液がたまり、女に聞こえないようにそれを飲み込んだ。