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東雲のきみは 1

 日本がただぬるいという自覚が足りなかった。ここはよその国であって、あれは闇為替だった。銀行などより断然いいレートを耳にして、男についていった。屋台で隣り合い、数時間話した男は私に紅茶をおごり、この国の人々や文化を語り、そうしてどこか恥ずかしそうな笑顔で両替の話を持ち出してきたのだった。そこからはマジックだった。男がなぜそんなレートで両替できるのか私に納得させ、私を路地裏につれていき、なんのためらいもなく日本円を出させた。男は束になったこの国の紙幣を私の前で数えてみせ、今ここで確かめろと言う。金を受け取り、数えようとすると一人の子どもがまとわりついてきた。煙草を一本くれ、ガムでもいいとたどたどしい英語を連発しながら私の足に触れ、子どもに注意を払っている隙に男はいなくなった。子どもを追い払ってから束を改めると、表面だけ本物で中身はすべてただの紙切れだった。冗談みたいだった。一人残された路地裏で、紙の束を手に、私は呆然と立っていた。呆然としながら心の隅で、見事だったといやに素直に感心していた。
 きしむベッドから下り、汚れた壁の落書きを爪でこする。こすりながら気付いたが女のへたくそな裸体の絵だった。ぱらぱらとそれの表面ははがれ落ち、女は半分姿を消す。残りの金で、多分あと十日なら暮らしていける。食費を切り詰めればもう少しいられるかもしれない。どのみち、人の良さそうな闇両替に持っていかれなくてもせいぜい有り金がもったのは一ヶ月くらいだろう。一週間も、一ヶ月でもそれほどかわらない。帰ればいいのだ。裸女の落書きを爪でこすってすべて消してしまい、ベッドに並んだ紙幣に一瞥をくれて部屋を歩きまわる。ねっとりと部屋に充満した空気をかきわけている気分になる。交換していないだろうシーツ、古びた机、開け放たれた小さな窓、せまいホテルの一室を確かめるように埃だらけの扇風機は首をまわす。
 空から下を見下ろした。すぐ隣には電気会社の看板をさげる崩れそうなビルがあり、真下の路地には麺類を食べさせる屋台が一軒ある。帰ればいいのだと、心の中でもう一度つぶやいてみる。痩せ細った野良犬が屋台に近づき、日陰を見つけてごろりと横になる。帰ればいいのだ、呟き続けていたその一言はいつのまにか、帰るのか? という疑問系に変わっている。
 ばらまいた紙幣をもう一度数えようと手を伸ばし、思いなおしてそれをしまった。硬貨だけをポケットに入れて部屋を出た。だれに訊いてもこの街で一番安いと言われている、このホテルと言いがたい宿は、古く巨大で、廊下に足を踏み出すたびにぎくりとする。すりガラスをはめこんだ木製のドアがずらりと並ぶ細い廊下は迷路のようにあちこち曲がりくねっていて、窓もなく、人の気配もまるでない。切れかけた蛍光灯が点滅を繰り返しながら照らす廊下の先は、見たこともない場所へ続いているような気がした。床板は踏みしめるたびぎしぎしと音をたて、ところどころはがれていたり湿っていたりする。薄暗い階段を下りていくと、途中に体格のいい欧米人が背を丸めて座り込んでいる。太い指を不器用そうにあやつって、小さなパイプに詰め物をしている。横を通るとき彼は顔を上げ、ぼんやりした声でハローと言い、ただれたような笑顔を見せる。人間の心を覚えた、悪魔の使いか何ものかのようにみえたが、返事をするのに戸惑わなかった。
 薄暗さに慣れた目で表に出ると、かっと照りつける太陽に目がくらむ。ポケットに片手をつっこみ、硬貨をもてあそびながら歩き始めた。夏の昼だ。
 大通りはいつもと変わらず、バイクと自転車、ドアが外れていたり窓がなかったりする自動車、自転車がリヤカーを引く恰好の人力タクシーであふれている。路上には屋台が並び、痩せ細った野良犬が人の合間を縫うようにうろついている。数歩歩いただけで身に着けた衣類はじっとりと湿り肌にはりつく。背を丸め額に汗を浮かべ、屋台で食事をする人々、指先を黒く染めた路上のバイク修理屋、すれ違う人々、浅黒い肌をしたこの国の人たちは、私が通り過ぎると顔をあげじろりと凝視する。今ではいくぶん慣れてしまった無言の視線を身体じゅうに浴びながら、用もないのに鉄道の中央駅を目指して歩いた。
 旅を続けて四ヶ月がたとうとしていた。鉄道やバス、あるいは小型飛行機で移動し、いくつか国境を越え、気に入った場所に滞在して飽きたら移動する。一ヶ月が過ぎるころ、移動し続けることに慣れ、二ヶ月を過ぎると日々は系統だってくる。洗濯は何日おきにすればいいのか、一日いくらくらい使えばいいのか、何もしたくない日はどう過ごせばいいのか。ただそれに反して、自分がその場所にいる意味は次第に薄くなっていく。この先に何か見たいものがあるから移動を続けているのか、それとも帰るきっかけを失ってそこにいるだけなのか。あるいは、先へ先へと進みたいのか、何かを得て帰りたいのか。

 ここに来る前はさほど大きくない島にいた。海以外何もない島だった。けれどそれまで、喧噪とものと色彩であふれた都市にいた私には、その何もなさが新鮮だった。物乞いも大道芸人もおらず、ドラッグもさしたる観光名所もなく、したがって団体旅行者も長期滞在のバックパッカーやヒッピー然もおらず、物価はおどろくほど安かった。都市で一日暮らす金額で、三日は過ごすことができた。移動手段がタクシー以外何もないため、観光エージェントで貸しているバイクを借り、ついでにそこで働く男と友達になりほとんど毎日遊んで暮らした。
 その島へ行くまでの数ヶ月間、たくさんの人たちにきみは友達だと言われた。友達だから町を案内してあげよう、道に迷ったのなら助けてあげよう、そうしてついていくと金額を要求される。バス乗り場がわからなくてうろうろしていると近づいてきた痩せぎすの男がバス停を教えてやるという。どうせ、と思い、いいよ、とつっけんどんに断わってもしつこく付きまとって結局バス停までつれていってくれる。バスが来るまで共に待ち、到着したバスに私を乗せ、運転手に私をどこそこで降ろすよう告げ、金のことなど一言も口にせずに手を振って去っていく。それで警戒を解いて、べつの場所で親切を受け取ってみるとその親切はふたたび有料だったりする。その繰り返しだった。結局、自身の目はなにも鍛えられてはおらず、同じ回数の信頼と裏切りを体験した先に得たものといえば、あまり動揺をしない癖をつける、ということだった。だから、エージェントでのらくら仕事をする男たちと知り合ったときは心底ほっとした。彼らは気分次第で仕事を放り出し、浜辺で本を読む私を島巡りのツアーに連れ出し、自分の友達に会わせ、日本の歌の数曲あるカラオケやクラブにつれていき、ビールをおごり、夜釣りに誘い、何も要求することはない。私はそこで、自分は服を着たキャッシュディスペンサーに見えるのかと疑う心配をせずにすんだ。増え続ける知り合いはバイクで走っている私の名を呼びとめ、旅の途中の何もない島で自分の位置というものができあがっていくのを感じた。
 ビーチ沿いにまっすぐ続く、信号も日陰もない道をバイクにまたがって走っているとときおり、すべてが静止しているように感じられた。一枚の板に似た単調な空、スピードを出しても変わらぬ空との距離、変わらぬ景色、陽の照りつける退屈の街を描いた一枚の絵画に、バイクごとはめこまれてしまったように思えた。

 中央駅前の広場は人で溢れかえっている。抱えきれない荷物を手に駅の構内に入っていく人々、広場の芝生に寝転がっている人々、物売り、物乞い、ハモニカを吹く盲人、うつろな目をしてそれを聴く人々。隅には人力タクシーの男たちが自転車を並べ、後ろの席に座って新聞を広げたり昼寝をしていたりする。芝生を横切り構内に足を踏み入れる。ここにも人は溢れている。到着した電車から降りてきた人々は荷物を手にあたりを見回し、これから出る電車に乗り込む人はあわただしく改札を過ぎる。けれど一番多いのは動き回る彼らのあいだにひっそりとうずくまっている人々だ。床に新聞を敷き、あるいは何も敷かず、座り込んだり寝転がったりしてじっと動かない。彼らは何も持っていない。裾の汚れたズボンや、穴の空いたシャツや、ぼろきれに似た色合いの服を身にまとってそこにいる。通り過ぎる私に気付いた人は視線だけ持ち上げて一瞥をくれる。高い天井に取り付けられたプロペラ型の扇風機は、薄暗い構内の濁った空気をかきまわす。
 一つ空いている座席をみつけて腰を下ろした。斜め前に座っていた男が幾度も私を振り返る。額の広い、のっぺりした顔立ちの男は目だけをいやに光らせて私を振り返り、目が合うとすぐに前に向き直る。隣に座っている中年の女性は私にいっさいの注意を払わず、中華饅頭に似たものを一心に頬張っている。
 荷物を持たずうずくまっている人々がなぜここに集まっているのかはわからない。うとうとと眠り、目が覚めれば電車から降りてきた人々を眺め、気が向けば表に出て芝生に寝そべり陽を浴びる。いつだったか、夜、駅の前を通りかかったら相変わらず人が群れていた。夜間はみな駅構内から締め出されるらしく、数え切れないほどの人々が芝生に横たわり眠っていた。屋根も壁も定位置もないことが、彼らの共同住宅らしかった。
 靴を磨かせてください、座席の合間を縫って一人の少年が私に近づき、なめらかな英語でそう語りかける。彼のかさついた手は小さな木箱を握りしめている。私は片手を振り、ジーンズをまくりあげスニーカーを示してノーとつぶやいた。彼はそこに立ったままあたりをぐるり見まわし、隅に腰かけた欧米人旅行者を見つけて近寄っていく。固い背もたれに寄りかかり天井を見上げる。横に並んだ三基のプロペラが、まったく同じ速度でまわっていた。まだ帰りたくないのだと、ホテルの一室で自分に向けた問の答えがふっと浮かぶ。ホテルに泊まる金がなくなったらここで眠ればいいという気にすらなる。

 仲良くなった人々と別れて島を出るのは億劫だったが、実際別れを告げにいくと彼らはじつにあっさりと、そうか、と言っただけだった。そうか、またおいで。彼らに手を振り、島を出ていくフェリーに乗ってしまうと、そこで過ごした日々は嘘みたいに意識の奥に沈みこみ、これから向かう未知の場所が恋しくさえ思えた。フェリーから列車に乗り換え、国境のある町に着いたのは翌日の明け方だった。土の白い、乾いた感じのする小さな町だった。荷物を背負った乗客たちとともに列車を下り、国境を目指して歩いた。太陽は町にそうように低い位置で輝き、明け方の空気はまだひんやりと湿気を帯びている。イミグレーションで陽気な係員にスタンプを押してもらい目の前にまっすぐ続く橋を渡った。私のほかに橋を歩いている人はひとりもいなかった。歩いて国境を渡るのは初めての経験だった。小さな川にかかるなんの変哲もない橋だったが、今自分のいる場所はどちらの国にも属していない無国籍地帯であり、数歩歩けば言葉も時間も通貨も違う場所へ入ることがもの珍しく、何度も立ち止まって振り返ったり濁った川を見下ろしたりした。
 こちら側のイミグレーションに行くと陰湿な感じがした。それはにこりともせずパスポートとビザと私を眺め回す係員のせいばかりでなく、ゲートを越えたこちら側を取巻く雰囲気のためだった。ゲートから向こうを振り返る。五分足らずの道を歩いただけで気温も天候も変わるはずがないのに、急に重苦しい熱気を感じた。まるで国境に沿って見えない壁が存在しているようだった。この世と、あの世を行き交っている、そんな感じだった。
 じっとりと厚い空気は壁にあたり、旋回を繰り返しながら温度を上昇させ続けていく。地図で銀行を捜し、あちこち迷いながらたどり着くころには、なまぬるい風の拭ってくれない汗で身体中がぬらぬらしていた。
 長距離バスのターミナル付近には数軒の食堂が軒を並べていた。コンクリートにブルーのペンキを塗りたくった、窓もドアもない食堂の造りや、行き交う人々の浅黒い肌、のっぺりした顔だち体つきは、今までいたところとよく似ていたが、橋を越えて確実に何かが変わったことを実感した。一時間早くなっている時計の針でもなく、ポケットにつっこんだ見慣れない紙幣のためでもないことはわかった。
 女の人は老若おなじ恰好をしている。薄い生地で作られた裾の長いネグリジェのようなものを着て、藁で編んだ帽子を目深にかぶっている。男は色馳せたシャツかランニングを着、ズボンの裾を一様にまくりあげサンダル履きの足をみせている。私の前を通り過ぎる彼らは無遠慮な視線を私に投げかけ、目が合うと、何か見てはいけないものでも見たかのようにあわてて目をそらした。木陰に腰かけバスを待つ私のところに、ポストカードや新聞を持った裸足の子どもたちが寄ってきて、けだるい様子で自分の売り物を差し出す。いらないと断わっても彼らはそこを動かず、じっと無表情な目を差し出した売り物に落としている。穴だらけのTシャツを着た、小さな子どもの背中にくくりつけられた赤ん坊だけが、私と視線を合わせている。歳はいくつなの? その中の一人に話しかける。彼はまぶしそうに細めた目で私を見上げ、ワンダラーとかすれた声でつぶやく。違う違う、歳を訊いたんだ。笑いかけても彼は笑わない。陽にさらされ色馳せたポストカードをぐいとこちらに押しつけ、黒ずんだ足元に視線を落としワンダラーと繰り返す。まるで悪魔にものを請うように。頭から流れ落ちる汗がゆっくりと頬をつたい顎からしたたり落ちる。私は思い出したように汗を拭い、この数ヶ月の旅のあいだに迫られて身につけたある種の媚びがまったく通用しないことをぼんやりと悟る。赤ん坊がふいに泣き出すが、私を取り囲んだ子どもたちは身じろぎもしない。今まで、目が合えば笑いかけられ、立ち止まって地図を広げれば心配そうな表情の人々が寄ってきて話しかけてくれる場所にいた私には、この国で過ごすことがひどく困難なことのように思えてくる。まわりの温度をじりじりと上げていくように赤ん坊は声をはりあげて泣く。右手をうちわ代わりにして顔をあおぐが、動かす手の甲にも汗がはりついていた。
 音量だけが馬鹿に大きいくぐもった声のアナウンスが駅の構内に響き渡り、ずらりと並んだ椅子から数人の人が立ち上がって身支度を整える。みな抱えきれないほどの荷物をひきずって、あわただしく改札へ向かう。けれど構内にいるほとんどの人はひっそりとうずくまり、プロペラが掻き回すねっとりとした空気の中に視線を漂わせている。私も同じように、自分の掌をみつめて、改札の向こうに列車が入り込んでくる轟音を聞いた。
 ホテルに戻る前に郵便局に寄った。大聖堂を思わせる建物の中には、よれたTシャツ姿の若い旅行者たちが、エアメイルや国際電話の窓口に列を作っている。スガノくんにコレクトコールをかけるためその列に加わった。
 「何してんのあんた」
 受話器の向こうで、ざらざらした雑音とともにスガノくんの声が聞こえてきた。久しぶりに聞いた彼の声は雑音のせいで歪んで聞こえた。とりあえずコレクトコールをしたわびを言い、お金がなくなったから口座の金を送って欲しいと伝えた。彼には旅行に出る前、すべてのバンクカードと通帳、はんこを預けてあった。
 「送るって、どうやって送るんだ。そっちの銀行に振り込むってこと?」
 言葉に詰まった。私は何も知らない。私の今いるところは、スガノくんのアパートから電車でニつ駅を通り過ぎてもたどりつけない場所であるというのに、送って欲しいと伝えれば明日にでも手元に金が届くつもりでいた。
 「よくわからないけど、全部無記入のチェックにして、封筒じゃやばいから小包にでも入れて、超特急で送ってくれるかな」
 「送るってどこ宛てよ?」
 ホテルの名を言おうとし、考え直して郵便局だと言った。
 「郵便局留めで送るってことか」
 「そのほうが安全だって、前に会った日本人旅行者に聞いたことがあるんだ。その人も、郵便局宛てに荷物送ってもらってた」
 「帰ってくればいいじゃない」私の話をさえぎってスガノくんは言った。「金が尽きたら帰ってくりゃいいんだよ。おまえどこで何やってんの?」
 「さっきの話、べつの国だったけど、一週間とちょっとで着くってたしかその人言ってたのね、二週間くらいだったら有り金でなんとかなるから、心配しなくて平気だから。スガノくんは元気だったの?」
 「ああ元気だよ。羨ましいよ、こっちは一週間休み取るのだって大変だっていうのに。じゃあとりあえず、言われた通りにして送るけど、何かあったらすぐ電話しろよ。コレクトでいい」
 スガノくんは急に早口でそう言い、以前と変わらぬトーンで、またな、と言って電話を切った。耳に届く普通音に、夢中になって遊んでいたおもちゃをふいに取り上げられたような味気なさを感じた。

 兄が家を出たのは彼が二十四のときだった。勤めていたコンピュータ会社を辞め、どこへ行くのかもきちんと告げずに出ていった。外国とは、理不尽な犯罪と危険に満ちている場所だとかたくなに信じていた母はおろおろしていた。二ヶ月か三ヶ月かに一度、自分は無事でいるという意味の言葉が簡単に書かれた葉書が届き、スタンプの地名は同じだったり変わったりしていたが、大きく動くことはなかった。一年が過ぎると、兄がいないことが私と母の日常になった。母とはときおり兄の話をし、彼の身を案じたが、それまでずっと彼の役割だった力仕事、壊れた柵の修理や家具の配置換えを、大騒ぎしながらもこなせるようになっていた。
 出て行ってから兄が初めて電話をよこしたのは、私が二十四になろうとしていたころだった。そして母が倒れた夜だった。救急車が来るまでの数分のあいだに兄は電話をかけてきた。耳の奥で仏壇の鉦の音が鳴り止まないのだけど、何かあったのか、と、くぐもった兄の声が受話器を通ってきた。おかあさん、死ぬわ。死ぬかも。私は動転したままの声で告げた。夕方頭が痛いって言って眠ってから、夜になってもベッドから転げ落ちていびきかいてて、呼んでも起きないの、救急車が来るんだけど、助かるだろうかと、私は必死にそれらを繰り返した。そうか。兄はつぶやいた。それきり黙り、私も黙った。何千キロも離れた場所で彼が何を考えているのか、沈黙を吸い取るように受話器を耳に押し付けたが、私たちのあいだには受話器と受話器でつながるざらざらした沈黙があるだけだった。悪いけど帰らないと言って兄は電話を切った。結局母は運ばれた病院で死んだ。その夜私は電話をじっと見つめ、鳴り出すのを待っていた。けれど動かないそれはチンとも鳴らなかった。
 兄を真似てどこかに行ってしまおうと考えたのは、出ていった兄と同じ二十五になったときだった。そのとき私は新しく働き始めた会社を辞めたばかりで、兄から簡単な葉書が送られてはくるが彼が帰ってくる気配はなく、自分が家にいることの必要性がまったくないことに気付いた。この家がもはやすでに廃墟であり、兄を迎え入れるための構えを私がする必要性がなんら嗅ぎ取れなくなっていた。
 大学を出てから私は就職をせず、転々とアルバイトをしていたが、そのどこにも慣れることができなかった。ある小さな会社では午前中かならず上司が一曲ギターを演奏し、ある会社では出口付近に座った中年男がそこを通るたびに誰かの尻を触り、ある会社は厚化粧の女がときおりヒステリーを起こしコピーの束で私の頭を叩いた。どこかしら変わっていて、私はいつ辞めてもかまわないアルバイトとして足を踏み入れるわけだが、そこには当分辞めない社員たちがいる。机に向かいもくもくと、あるいはおしゃべりをしながら仕事をこなす彼らにとって、ギター上司も破廉恥もヒスも日常なのだった。そうしてそこに通い数ヶ月が過ぎると、見慣れなかった光景は私にとっても見慣れたものとなる。たまたまギター弾きを弾かなかったり、痴漢男が尻を触らなかったりすると、普通であるそのことのほうが不思議に思えるのだ。
 電話の位置、書類の数、文房具の保管場所とともに、ギター弾きのレパートリーを、痴漢男の指を、コピーの束の痛さを覚え、ある日なんとも思わなくなり、それらが日常になっていくと同時に、日々包帯を巻かれていく感覚を覚える。一つ覚え、一つ見慣れると、透明の包帯が身体の一部分を覆う。包帯が全身を覆いつくし、あるときそれを解いてみたら現れるのは私ではなく、知らぬ間にすりかえられた別のだれかなのではないか。それを私は恐れた。その恐怖には慣れることができなかった。
 仕事を終えてまっすぐ家に帰るのがいやで、すこし遠回りをして近所の犬を眺めて帰った。公園の近く、赤い車の陰に犬はつながれている。大人しい犬で、見下ろすと犬は顔を傾け丸い目を私に向ける。いっさい吠えず、撫で回してもまったく動じず、尻尾だけをゆるやかに揺らす。そこにしゃがみこみ犬を撫でる私を、通り過ぎる人が振り返っていくのがわかった。これではまるで0点をとった子どものようだと思うが、こうしてただ犬を撫でていると皮膚を覆う透明の包帯が解かれていく気がした。
 立ち上がり、振り返り振り返りして行くと犬はじっとこちらを見ている。けれどいつも同じ箇所に差し掛かると、―公園を過ぎ電気屋の看板のかかった電信柱のところまでくると、もう何事もなかったかのように私から目をそらし自分の家のドアを見上げている。
 特別使う用もなく、振り込まれ増え続けるだけだった通帳の数字を前に、私もどこかへ行ってしまおうかと考えた。兄から送られてきた枚数の葉書を座敷に並べ、地図帳でスタンプの国の場所を確かめた。ゆっくりゆっくり兄が移動しているらしい場所を追っていくと、地図帳に描かれた小さな面積の中で兄に会うことは容易いように思えた。
 これから下り立つ未知の場所には、何か特別な幸運が待ち受けているような気がして、機内で無闇に興奮していたのを昨日のことのように覚えている。空港に下り立つと粘り気のある空気がまとわりつき、それは嗅いだことのない異臭をかすかに含んでいた。入国審査員のぶしつけな態度にうんざりしながら、人でごった返したフロアでガイドブックを広げた。熱気と、異臭と、浅黒い肌をした人々の交わす奇妙な語感の言葉は、私を取巻いているものががらりと変わったことを伝えていたが、むしろ簡単に着いてしまったことのそのあっけなさに驚いた。
 着いて数日は、何を買っても安く思え、大金持ちになった気分で所持金を使いまくった。ホテルから観光名所まで、そこからレストランやショッピングセンターまで、数多の観光客が作る目に見えない道を、汗を拭いながら彼らと共に歩いた。その安全な道はすぐに退屈なものとなり、兄と会うことの現実性は次第に薄れ、一週間ほどで帰ろうかと思っていた。
 飛行機の狭い座席で感じていた興奮をふたたび感じたのは、偶然見知らぬ路地に迷い込んだときだった。待っていたバスがなかなか来ず、強く日の差す道を歩きだした路上には冷たい飲み物や駄菓子を売る屋台がぽつぽつと並び、屋台の作る小さな日陰に赤ん坊を抱いた物乞いがうずくまり首をうなだれていた。一瞬鮮やかな色彩が目の端をとらえて立ち止まった。数歩戻り、路地をのぞきこんで息を飲んだ。なんの変哲もない小さな路地なのに、そこには所狭しと店が並び人があふれている。手を引かれるようにして路地に足を踏み入れた。カセットテープ屋、生地屋、靴屋、八百屋、脈絡なく両側に並んだ店は、天井から足元まで、小さな面積を隙間なく品物で埋め尽くしている。路地の中央にはパラソルを広げた屋台が並んで、ただでさえ狭い路地をいっそう狭くしている。パラソルの下の台座には色とりどりのTシャツが山積みにされ、ぴかぴか光る時計がずらり並べられ、吊り下げられた原色のポスターの中からキリストや観音やシヴァが私に向かって微笑みかけ、どこを見ていいのか、あふれかえる色彩に目を奪われ歩いていくと、いきなり台座に転がされた巨大な肴に出くわす。鮫に似た魚は白い腹をこちらに向け、濁った丸い目を宙に泳がせている。振り向くと皮をはがれ生々しい色をした豚の頭が恨めしそうな視線をこちらに向けている。食堂から立ち上るスパイスと、魚と肉の生臭さ、見たことのない野菜の新鮮な香りが交じり合って路地に充満し、自分が気に入った匂いの元にたどり着こうとしている蠅になった気分になる。カセットテープ屋は大音量で覚えやすいメロディの曲を流し、ものを売る人々はそれに負けじと大声をはりあげて呼び込みをしている。私のまわりで渦まく何一つ意味のわからない言葉は、熱気を表すBGMになって耳に届く。肩がぶつかって人々は気にもとめず目当てのものを物色している。踏みつけるコンクリートには魚の血と、腐った生ごみに似た悪臭を放つ黄色い液体がよどみ、鶏肉や骨や切り落とされた魚の頭が落ちている。その雑多で不潔な光景は、懐かしさと興奮と、愛しさと焦燥とを私に抱かせ、夢中で人々の合間をすり抜けながら、大声で叫ぶか泣くか喚くかしたい衝動にかられていた。
 路地は果てしなく続き、自分がどこにいるのかわからないまま歩き続けた。元来た道に戻れなくても、このまま全くしらない場所に行ってしまっても、何も怖くないと思った。私の腕を強く握り、ぐいぐいとひっぱる兄の手を思い描いた。鈍い足の痛みを頭の隅で感じながら、私はまだ帰らないと、幾度も心の中でつぶやいていた。
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