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東雲のきみは 2

 一日一食、ミネラルウォーターの大瓶だけ買っていれば、小包が届くまで過ごせそうだった。幸い日中には食欲がなく、今までうんざりしていた暑さに感謝した。夕方まで部屋にこもり読み飽きたガイドブックをめくっていたが、陽が落ちるとさすがに空腹を感じる。一日使っていいだけの金額をポケットに入れ、部屋を出た。相変わらず廊下には不気味な雰囲気が健在で、大柄な男のうつろな目も必ず私をつかまえた。
 薄闇が包みはじめる路上は、街の住人たちと列をなす観光客と、観光客をあてこんだ土産物屋や物乞いたちであふれ、数え切れないバイクの噴出す排気ガスを吸いながらその合間を縫っているうち、熱気と空腹でめまいがしてきた。額から汗がにじんでくる。それが空腹のためなのか、蒸すような暑さのためなのかわからないままTシャツの裾で拭う。
 通りかかった路地からごま油の香ばしい香りが流れてきて、路地をのぞきこむと銀色の大鍋を置いた屋台が見えた。なだれこむように屋台の椅子に腰掛ける。隣で食事をしている人の手元を見ると彼が食べているのは汁そばだった。愛想良く注文を取りにきた主人に隣を指し、同じものをと頼む。路地はほかのところと同じく、薄汚く、きつい小便の匂いと汚水の匂いがただよっていた。屋台を取り囲むようにして並べられた小さなテーブルはべたべたしていて、麺の入った器は茶渋がこびりついたような色だった。それでもその汁そばはおいしかった。夢中で食べ、差し出された冷たいお茶を一気に飲む。
 後ろから背を叩かれ振り向いた。そのまま箸を握る手を止め、自分の目の前のものを思わず凝視した。そこにいるのが物乞いだとわかるまで数秒かかった。ぼろきれをまとい、ただれたような目を私に向ける中年の物乞いだった。彼には両脚がなく、片腕がなく、こちらに向けた顔一面にはできものがあふれ、キャスターをつけた板切れにうつぶせに乗り、一本の腕を私の足元に伸ばしている。有無を言わせない男の視線に、弾かれたようにポケットを探り一枚の硬貨を手渡した。男は礼を言わず、当然のようにそれを受け取り首から提げた入れものに押し込む。それきり私と目を合わせることなく、サーフボードに乗るように片腕で地面を滑らせ彼は路地から出ていった。わずか数秒のことだった。唖然として彼を見送り、あわてて汁そばに目を落とす。食事中の客たちはさっきと同じようにそばをすすり続け、今物乞いに手を差し出されたことも金を渡したことも、一瞬の空想のように思えた。けれど目の前で湯気をあげる汁そばの表面に、目に焼きついたばかりのできものがふつふつと浮き上がってくるように思え、箸を口に運ぶ動作が重くなる。

 結局汁そばを半分ほど残して席を立ち、背の低い店の主人にいくらかと訊くと、早口で何か言う。多分これで足りるだろうと思うだけの小銭をテーブルに並べた。私の前に立ちそれをじっと見守る主人は、私を上目遣いで見、並べた小銭を指しもごもごと低い声を出す。彼の顔から、さっき見せた愛想のいい笑みは消えている。私はあわてて、ポケットの中の小銭を一枚一枚テーブルに並べていった。いつかそれでいいと男が言うだろうと思っていたが、持っているだけの小銭をすべて並べても、彼は私から視線を戻さない。ポケットに手を突っ込んでももう布地の触れるだけだった。これ以上持っていないと言った。私よりも背の低い男は私の前に立ちはだかり、腕組みをし、ものすごいけんまくで理解できない言葉をまくしたて始める。切れ目なくばらまかれる低い声は、言葉というよりも怒りを表現したうめき声に聞こえる。私を見据える男の目は黄色く濁っていた。そばをすすっていた客たちは手を止め全員こちらを向いている。路地を通り過ぎる人も足を止め、こちらをのぞきこんでいるのが目の端に映る。薄暗い路地で、彼らの私に向けた目がいやにしろく見える。まくしたてられる声の合間を縫って、もうこれ以上もっていないのだと懸命に言い、ポケットにも靴にも何も入っていないことを必死に示した。男は黄色い目で私を眺め回し、唇の両端をかすかに持ち上げて言葉を漏らした。続けて舌打ちをし、病気持ちの猫でも追い払うようなしぐさをする。小走りに路地を出た。箸をもつ手を止め、珍しい見世物をみるように私のうしろ姿を追う客たちの視線が、背中に粘りついていた。

 なんだ、金がないのか。最後に男がつぶやいた一言はきちんと理解できる言葉となって胸の中に落ちた。ホテルまでの道を急ぎながら、妙な具合にどきどきしていた。百円にも満たない金を私は払えなかったのだ。そして、薄汚い野良猫みたいに追い払われたのだ。かすかに笑みを浮かべた男の顔と、当然のようにこちらに手を差し出してきたできものだらけの男の顔と、金が払えない日本人を食い入るように見つめる客たちの顔が頭の中でぐるぐるとまわる。幾度か人にぶつかり、彼らが私を振り返っていることに気付く。あわてて肘で頬をこする。あの男に追い払われたことがそんなに悔しかったのか、ここで泣いてはいけない、何ごとかと人に見られるだけだとあわただしく考えたが、そう思えば思うほど、からかうように涙が出てくる。おまけに鼻水までたれてきて、笑い声とも嗚咽ともつかないため息が口から漏れる。
 観光名所からショッピングセンター、レストランからホテルへと、数多の観光客たちが縫い繋ぐ透明の道を抜け出し、旅になれることでその場に同化しようとしていた自分がいた。異国の地にけっして同化しきれないことはわかっていたが、たとえば蠅のたかった食事、脇に置いたバケツの濁った水で食器をあらっている屋台の食事、どうしても食べられなかったそれらがある日ふいに食べられる、紙のないトイレに慣れる、トイレにある水の使い道を覚える、しっとりと湿った汚いベッドで眠る、水シャワーにもやもりの鳴き声にも慣れる、一度やってしまえば次からなんともなくこなせるようになり、それらを一つ一つクリアしていくとまるで今まで自分を覆っていた重たい布地がゆっくりはがされていくようであり、自分が何ものでもなくなっていくような快感を覚えた。私は本当に、荷物を一つも持たない人々が横たわる駅前の芝生でも眠れると信じていたのだ。けれど果たして、私は本当にそうなりたかったのかとふと思う。

 そのままホテルに帰る気がせず、あてもなく街を歩いた。夜が更けるにつれ、街にあふれる顔ぶれは外国人ばかりになる。アイスキャンデーをなめながら腕を組んで歩く中年の欧米人カップル、おそろいのTシャツを着た家族づれ、路上に輪を描いてにぎやかに言葉を交わす日本人のグループ、座り込みTシャツを物色する若い男、この国の人々でない旅行者の数が増えれば増えるだけ、この街はみすぼらしく見える。
 国境を越えたときから感じ続けた違いが何であったのか今なら理解できるような気がする。宗教、言葉、生活様式、あたりまえの国の違いというよりそれは、貧しさのように思えた。今まで通ってきた国にも貧しさはあった。けれどそれは熱気にまぎれた一つの要素でしかなかった。この街には貧しさが蔓延し薄曇りの空みたいに灰色のベールを町全体にかぶせている。路上と歩道のあいだにはいやな匂いを放つ青緑色の液体が流れ、下着をつけていない子どもが尻を出し路上で大便をし、体毛の抜け落ちた犬が寄っていきその匂いを嗅いでいる。数メートル歩くうちに、皮膚病の子どもを抱いた母親が、顔の半分ただれた女が、幼い子どもに手を引かれた盲人が私に向かって手を差し出してくる。こぎれいな大型ホテルの前を通りすぎても、路地にしみついた小便のきつい匂いが鼻をついた。破れたシミだらけだったりする衣服をきた人々はありとあらゆる場所で、スペースの開いた中央分離帯でも、排気ガスがたちこめる路上の隅でも、店と店のあいだの狭い場所でも、後ろ足で皮膚をかきむしる犬や転がった大便や流れる汚水を気にもかけず、しゃがみこんで食事をし、むしろを敷いて眠りこけていた。うっすらと街を覆う異臭は、この粘つくような暑さの中、ものというものがすべて腐っていく匂いにも思えた。にぎやかに、ときには華やかささえ振り撒きながら街を行き交う旅行者たちの合間に、私は貧しさを見て足を前に進めた。いつの間にか涙は乾いていた。

 手鏡を片手に、真剣な表情で髪に油を塗りたくっていたフロントの若い男は、私の姿を認めると無愛想に鍵をよこす。歩き回ったせいで足がだるく、手すりにもたれかかるようにしてほの暗い階段を上がった。途中、抱えた膝に頭を埋めるようにして座っていた欧米人が、足音に顔を上げ、うつろな目でグッナイとつぶやき、思い出したようにパイプに火をつける。名を訊こうととしたが、やめた。
 ベッドに横たわり天井を見上げた。どうやって書いたのか、天井にも落書きがある。ただの日付や名前や猥雑な言葉が、ペンキのはげたコンクリートに書かれている。おそらく兄もこの宿に泊まったに違いないと考えてみた。どこかの部屋に鍵をかけ、迷路状の廊下を幾度も曲がって表に出、青緑の汚水をよけて歩き、路上に転がった蠅まみれの大便に顔をしかめ、物乞いたちに首を振り、そして小便くさい路地を歩いて、場所だけでなく時間も異なるところへ来てしまったような感覚を味わっただろう。その理由をたどってみただろう。

 幼いころ父が死んでから、私たちはよく引っ越しをした。引越しの理由はよくわからなかったが、荷物をまとめたり新しい部屋に足を踏み入れたりするときの、非日常的なあの感じは好きだった。幾度学校を変わっても兄にはすぐ友達ができ、私にはできなかった。いつもべったりくっついているような兄弟ではなかったが、友達ができないそのために、私はしょっちゅう兄のあとを追っていた。学校の下駄箱で、原っぱの隅で、最寄の駅で、友達とふざけあいながら現れる兄を待っていた。兄はそこにじっと立っている私を邪魔にするでもなく、かといって仲間に入れてくれるわけでもなく、ひととおり遊び終わると私の元に来て手を引き、家に帰った。
 そのころ私たちが引っ越していたのはいつも同じ、商店街を抜けてアンモニア臭の漂う狭い路地を入ったところにあるアパートだった。母親はよく、銭湯に行く道すがらや私たちが寝入るまでのあいだ、作り話を聞かせてくれた。私たちがいたずらをしないようにか、それともそういう趣味だったのか、妖怪だのお化けだのが出てくる話ばかりだった。路地は暗く、道の途中にふと広がる空き地はぱっくりと口を開いたようにどす黒く、私と兄は、そういう暗がりにひそむのっぺらぼうや足の五本ある坊主、浴衣の女の幽霊がいると固く信じていた。あまりにも恐怖を覚えたために二人で話し合ったことはなかったが、お互いがそれらの存在を信じている、あるいはその秘密を共有しているということは知っていた。片隅でじっと待つ私の手を兄がさりげなく引くとき、私はそのことを言葉ではなくほかのところで確信していた。
 母はまた、終戦直後の話をよくしていた。ときおり来る祖母がしてくれる戦争の話は、ご飯を残しちゃいけないとか先祖を大事にしなくてはいけないとか、必ずなんらかの教訓に結びつくので好きではなかったが、母のする話は面白かった。しらみが蔓延し、学校に保健所の人が来て子どもだった自分たちを廊下に並べ、頭からDDTをかけた話、人々が路上にトタン板を置きいろんな品物を並べていた話、小さな子ども達が取巻いていた話、見たこともないその混沌としたにぎやかな世界は、私と兄を魅了した。爆撃で家をなくした母の家族は、壊れて放置されたバスに住んでいたと言った。トタン板で囲っただけの、天井のない銭湯があったと言った。駅の地下には、数え切れない浮浪児たちがグループを作って暮らしていたと言った。街では負傷した軍人が白い着物をはためかせ、ハモニカを吹いたり軍歌を歌って物乞いをしていたと言った。自由市場ではありとあらゆるものが売られ、正体不明のものを食べ物として出す店もあったと言った。何を食べているのかわからないけれど、始終空腹を抱えていたから何を食べてもおいしかったのだと。
 度重なる引っ越しやアパートや銭湯通いや、参観日の母の欠席や父のいないこと、貧しさと、それにともなう不便さを母はのちのちよく口にしていたから、そのころ終戦直後の話を聞かせたのは、もっと不便な時代もあったのだ、もっと貧しい境遇を自分は生きてきたのだと言いたかったからなのかもしれなかった。けれど私たちにとってそんなことはどうでもよかった。想像の中、どこまでも続く露店の行列は、見たことがないために逆に何か近未来的な構図となって思い描かれ、完璧な空腹を知らないために母の食べた正体不明のものは再現不能な逸品だったのだと勝手に思い、街にはためく白い着物は闇に住む魔物のように感じられた。母の話から幼い私と兄は理解可能な部分だけを引き出し、つなぎあわせ、つけたし、作り変え、未知の世界を思い描いた。未来と過去と、善悪、現実と幻想、清いものと汚れたもの、その狭間にあるすべてのものが秩序なくちりばめられた未知の世界。痴漢や変質者が出るという噂の暗いトンネルの向こう、草のぼうぼう生えた原っぱの有刺鉄線の向こう、魔物のひしめく暗闇の彼方に続く世界。
 多分数年前この街に滞在し、このホテルのどこかに部屋をとったかもしれない兄も、シミの浮き出た天井を眺め、あのころ住んでいたアパートやアパートを取巻く魔物の住む闇、途方に続く未知の世界を、またそれを確固として信じていた幼い自分をあざやかに思い出しただろう。
 窓から差し込むネオンの色をまぶたの裏に感じながら、私はうとうととまどろんだ。蒸し暑い部屋での眠りは、自分が腐りつつある果物であるような気にさせる。廊下から聞こえてくる、片手で鍵をもてあそぶようなかすかな金属音が、深い眠りに導くように遠ざかっていた。

 電話をかけてから十日たっても小包は届かなかった。そのことにさほど不安を感じず、きっと二週間はかかるのだろうと郵便局を出た。けれどその二週間が過ぎても、引き取り手を待つ、数え切れない名前の書かれた手紙や小包の中に自分の名前を見つけることはできなかった。私はにわかに不安を抱き始め、朝起きてすぐ郵便局に行き、昼過ぎにまた行って、夕方も郵便局目指して足を速めた。窓口に座っている目の大きな女はどうやら私の顔を覚えたらしく、必死で自分の名の書かれた荷物を捜す私に、ちらちらと心配そうな視線を向けた。
 屋台での食事も高級なものに思え始め、道端で売っているコッペパンに似たパンを一日に一つ、水で流し込むようにして食べた。どうしてもっと確実で迅速な方法をきちんと調べなかったのか、ここは日本ではないということがまだわかっていなかったのか、郵便局に足を運ぶたびにぐるぐる考えていたが、次第にそんなことも考えなくなり、ただ、どうして自分は今ここにいるのか、ここでいったい何をしているのかと漠然と思い始めた。
 その日も小包は届いていなかった。郵便局を出たところの石段に腰掛け、崩れたれんがを手でさすりながら、ひょっとしてスガノくんに電話をかけたのは夢の中の出来事ではなかったかと思い返した。一段下で、金髪の小柄な女の子が熱心に手紙を書いている。一枚の便箋を中央からずらし、びっしりと英語のハンドラィティングで斜めに書き連ねていく手つきは、熟練のレース編み職人のようだった。石段から見える街は強すぎる陽の下で色彩を失い、青緑の汚水も残飯もその中に隠れ、木々の緑が目にしみるほど鮮やかに光っていた。彼女はふと手を止め、傍らに置いた缶ジュースに口をつける。缶にはりついた水滴が彼女の白い指を濡らす。缶にびっしりついた水滴を舌で舐め取りたいほど喉が渇いていた。一口分けて、その一言を英語に変えて口の中で練習してみたが、また文字を書き連ね始めた彼女に言い出せそうもなく、ばからしくなって石段を上がった。
 スガノくんの会社にコレクトコールをかけた。電話に出た彼はいかにも迷惑そうな声で、
 「なんだなんだ、会社にまでかけてきて」
 と言った。申し訳ないと思うよりまず、ゆうべ一緒に食事をしていたようなその口調にほっとしている自分がいた。
 「本当に悪いと思うんだけどさ、あのね、お金送ってくれたよねえ?」
 「送ったよ、すぐ。言われたとおりにして」
 「だよねえ」
 「届いてないの?」
 「うん、きっともうすぐ着くと思うんだけどさ。不安になったから電話しちまいました」
 「異国で一文無しってわけ?」
 呆れた笑い声を予想していたが、そう言ったあとでスガノくんは長いため息をついた。
 「まあ、一文無しに限りなく近い状態っす。あのさ、お金下ろし忘れたままゴールデンウィークになっちゃったことあったじゃない。去年だったか。あのときみたいよ、本当。あのときさ、最後のほう食べるものなくなっちゃって、二人で、一時間くらい歩いてコンドウさんちにお金借りにいったよね、マックの裏手とかのぞきながらさあ。ここにはマックがないんだよね、困ったことに」
 「何やってんの? おまえ」
 スガノくんは笑わなかった。少しのあいだ、沈黙が流れた。以前聞いたのと同じその言葉には、この前聞き取れなかった苛立ちが含まれている。私は受話器に耳を押し付けて、沈黙の中にはみだしてくる物音を聞いた。遠く電話の鳴る音、だれかの名前を呼ぶ女の人の声。見たこともないスガノくんの仕事場が頭の中に現れる。整然と並んだ机と、適切な温度に調節する大きなエアコンと、常時飲めるように設置してあるコーヒーメーカーや休憩所、清潔な床。机に広げた書類に目を落とすスガノくんをその中にあてはめてみたところで、彼が言った。
 「身体、大丈夫なのか?」
 「うん」
 「カードとか、持ってなかったっけ?」
 「持ってない」
 「作っていかなかった?」
 「うん」
 スガノくんはもう一度、せりふを読み上げるようなため息をついた。どのくらいの期間か、またそのために必要なものは何か、きちんと考えずに家を出てきたのだと説明しようとして言葉を選んでいるとスガノくんが続けた。
 「なんか方法調べておれの金送ってみようか? もっと確実な方法があるだろ、銀行に振り込むとかさあ、そういうさあ、ちゃんとしたやりかた調べてから連絡してこいよ。どうせ、あ、金がないってすぐ電話してきたんだろ、よく考えもせずに。あんたはいつもそうだもんなあ、急がば回れなんだよ。そういうやつがよく一人でやってるよ」
 「おっしゃるとおりです」
 「なあ。おまえさ、やっぱりそれ目的があってやってんだろ? わかるよ付き合い長いんだから。でもそろそろ戻ってこいよ」思いのほか、スガノくんの柔らかい同情めいた声が届く。「わからないでもないけどさ。おばちゃんのこと、急だったし。あいつのこともさ」
 「もう少し待ってみるね」スガノくんの誤解が深まらないうちに、私は言って電話を切った。切り際、ごめんねと謝ったが、その一言がスガノくんの耳に届いたかどうかは確かめようがない。
 郵便局を出ると、金髪の女の子はまだ背を丸めて手紙を書いていた。頭を直撃してくるような強い日差しを受けながら歩き始めた。痛いほど暑かった。
 部屋中の落書きという落書きは見てしまったし、ガイドブックも読み飽きたし、ホテルの部屋に戻ってもすることがなく、そのまま中央駅を目指して歩いた。駅の周辺は二週間前とまるで変わっていない。相変わらずたくさんの人々が芝生に寝転がり、うずくまり、木陰に円を作って何ごとか話し合い、盲目の男が吹くハモニカを聞くともなく聞いている。傍を通り過ぎる私に気づくとぼんやり目線を上げ、さほど期待もしていない顔つきで手を差し出す物乞いもいる。なんのためらいもなく私に向かって開かれた、汚れた掌から顔をそむけ、急ぎ足で駅の構内に入った。
 開いている席を見つけて坐り、行き交う人々を眺めた。斜め後ろからふいに日本語が聞こえてきて、そっと振り返り声の主を盗み見た。私と同い年くらいの男が二人、埃まみれのナップザックを足元に置き言葉を交わしていた。背中で彼らの会話を聞いた。ついさっきここで出会ったらしい彼らは、夕方出る汽車に乗って北へ向かうようなことを話している。二人はこの街の食べ物を褒め、物価の安さをありがたがり、自転車タクシーのボッタクリ商売に文句を言い、売春宿の客引きの多さを嘆き、物売りの子どもたちの表情を憂い、そして郵便局のルーズさを責めた。無性に会話に加わりたくて、さっきから唇をもぞもぞ動かしていた私は、彼らの話が郵便局に及んだ所で思わず振り返っていた。構内に反響するアナウンスと人々の話し声から、懸命に彼らの会話を抜き出す。こんなに郵便事情の悪いところは初めてだ、と、髪をうしろで一つに縛った男が懸命に語っている。旅先で会って親しくなった友達が一足先に日本に帰り、ここの中央郵便局宛てに手紙を送ってくれた。手紙はすぐ届いたが、カンパとして一万同封すると手紙には書いてあるのに、一万は入っていない。手紙には入念に封された跡があり、どう見てもどこかで一万くすねられたに違いないと、私の視線に気づかず、男は憤慨した口調で話している。この辺りはどこだって同じでしょうと、隣り合った髭の男がのんきな口調で答えている。ぼくも以前、カセットを何十本も買って日本に送ったことがあるけれど、三分の一は消えてたな。彼らの話題はそこからカセットテープに移っていった。私は彼らの足元に視線を泳がせたまま、会話に加わるべく用意していた言葉が頭の中で散乱していくのを感じていた。

 どのくらいそこでそうしていたのか、ふと気づくと、私の視線の先には、今までそこにあった汚れたスニーカーではなく、サンダル履きの足があった。視線を持ち上げると、煙草をくわえた小柄な男がそこに腰掛け、目を合わせた私を無遠慮に眺め回した。くぐもっているくせにがなりたてるようなアナウンスが構内中に流れ始める。
 たった今着いたばかりの列車から大勢の人々が下りてくると、物乞いや物売りたちが押しかけ、駅の構内はほんの少しだけ活気づく。私は立ち上がって、遠巻きにそのにぎわいを眺めた。その中に、一組の欧米人夫婦が物乞いにコインを渡しているのが見えた。でっぷりと太った年配の夫婦で、手を差し出されればなんの躊躇もなくポケットに手を突っ込んでコインを渡している。それに気づいたほかの物乞いたちは我先にと夫婦の元にやってきて手を伸ばす。男のズボンの両ポケットから、女の上着のポケットから、コインは手品のように出てくる。輪の片隅で二人の子どもが一枚のコインを取り合い、銀色のコインは子どもたちの小さな手から滑り落ちた。まるで意思を持っているかのようになめらかにコインは床をすべり、私の目の前でくるくると数回円を描いて倒れた。何か考えるより先に私はコインを拾い上げてみた。二人の子どもは床にはいつくばって落としたコインを捜している。私は視線を上げ、夫婦を見た。ポケットの小銭がなくなったのか、彼らはいくらか大げさなアクションでもうおしまいだと告げながら、物乞いたちの輪をくぐりぬけている。
 「ねえ」
 ふいに背後から声をかけられ、必要以上に驚いて振り向いた。そこに立っていたのは背の高い、左目に刀の傷跡を残した日本人だった。
 「日本の人でしょう? おれ、今着いたばかりなんだけど、ここから中心街まで歩いてどのくらいかな? あと安い宿を知ってたりします?」
 「自分がこれから帰る宿が一番安いです」
 そう答えながら、掌の冷たい硬貨を、ポケットに滑り込ませた。そのまま片手をポケットに入れ、一食分にもならない硬貨を握りしめて彼と駅の構内を出た。
 太陽はすっかり街に沈み、芝生に寝転がる数え切れない人々のシルエットが薄闇に浮かび上がっている。私と歩みを合わせる彼はそれを見て一言、
 「風流っす」
 とつぶやいた。
 バイクと自転車は道路をびっしり埋め尽くしている。ゆるゆると流れる川にも似た道路に沿って歩き、私たちは簡単な自己紹介をした。
 「人のこと言えないけど」サジタと名乗った、私より二つ年下の男は抑えるような声で笑う。「あんたも相当みすぼらしいんで、きっとこの街で一番安い宿とか、この街で一番安い定食屋とか、絶対知ってると思って」
 「一番安いのは屋台で売ってるパンだね。十円しない」
 そういうとサジタは声をあげて笑った。
 「まさか毎日それ食ってるの? ひょっとして、一日いかに安く過ごすかに命かけてるような、そういうアレ?」
 「そうじゃなくて。しょうがないの。有り金がなくなっちゃったんだから」
 「ていうかなんか変だな。あんた、今はそんなだけど育ちも悪くなさそうなのにさ。とりあえず、絶対年下だと思ってた」
 「こっちは君が絶対自分のことを年下だと思ってると思ってた」
 黙っていると強面の左目の傷跡も、私が返事をし、それに笑うとすでに引退した元軍人のような柔らかさと、しかし微かにどこかしら秘めた強さを見せる男だった。
 ことの顛末を話し出すと、とめどなくしゃべり続ける自分の口を閉じることができなかった。彼が聞いているかいないかをたしかめもせず、私はひとりでしゃべり、一人で茶化して笑った。そうしていると気がまぎれ、この先の不安もひとごとに思えた。調子に乗ってしゃべりすぎ、つい、明日駅に坐って小金を持ってる観光客相手に物乞いをするつもりだと、冗談のつもりで言っていた。言ってから、そういう手もあったのだと驚いた。
 「強盗にお金を盗られたとか、落としちゃったとか、あとで返すからいくらかでも貸してくれとかなんとか、英語と日本語で紙に書いて、改札に坐ってたら、お金のあまってる人が少しは恵んでくれるんじゃないかな」
 できるだけひとごとに感じられるように、私は早口で続けた。彼はじっと黙って歩いている。何かまずいことを言ったのかと、そっと彼を盗み見た。
 「駅はあんまりよくないと思う」しばらくして彼は言った。「列車を使うってことは、旅費の節約してる人が多いはずさ。おれだってそうだしね。おれとかあんたみたいなのに頼んだってそれは無理だよ。どうせやるなら、一流ホテルの前とか、日本企業のビルが立ち並んでるとことか、そういうところじゃないかな」
 あんまりさらりと言うので、その彼の提案は余計ひとごとのように聞こえた。まるで何かのあらすじを二人で考えているみたいだった。
 「そう、いいね」
 私は言った。
 「いいと思うよ。大使館行ってなんだかんだ言われて帰されちゃうより、全然いいと思う。だってまだ帰りたくないんだろ?」
 私と彼はそのままなんとなく口を閉ざし、暗闇に足を進めた。遠くに街の明かりが見えた。バイクの波は相変わらず、無数のヘッドライトを宙に漂わせている。
 文字の消えかけたホテルの看板が見え、あれがこの街で一番安いところだと言うと、
 「なあ、部屋をシェアしない?」
 思い出したように彼が言った。
 「あ、変な下心、ないっすから。もしいやだったら断わってくれてかまわないけど、あんたも金ないんでしょ? おれも宿代安くなると助かるの。まだ帰るわけにはいかないから」
 彼はこざっぱりした表情で私を見下ろしている。私が黙ったままでいると、
 「あれ? 違ったかな。なんかこっち側の人かと思ったんだけど。おれは両方いけんだけどね」
 「こっちとかあっちとか、君が言うと胡散臭く聞こえる」
 「うはは、参ったな。でも本当だよ、おれは嘘はつかない」
 その表情に奇妙な印象を受けた。どこまでが本気なのかわからないという印象より、彼がさっき名乗ったとき、半年前から旅を続けていると言っていたことについてだ。バックパッカーがたむろする場所で知り合った幾人かが持っている独特の雰囲気、疲れ、移動し続けるために生じる飢えに似た何か、倦怠と焦燥、それらの交じり合った独特の匂いを彼は発散させていない。これは何かあると思いながら、多分彼の提案にそれ以上の意味はないのだろうと理解し、
 「わかった」
 私はうなずいてホテルの古びたドアを開けた。廊下にいる欧米人のうつろな挨拶にサジタは愛想よく手をあげる。自分の後ろをついてくるサジタの姿を肩越しに盗み見たが、相変わらずあの独特の何からしきものをかもし出していなかった。私はこのとき、サジタに対してある種の同族嫌悪、もしくは憐憫めいたものを抱いていたかもしれなかった。サジタが同じようなものを私から嗅ぎ取っていたのだとしたら、その上でのあの笑顔なのだとしたら、それは面白くない話だった。考えすぎだろう、思いなおし、自室のドアを開けると、
 「お邪魔しまーす」
 陽気な声のそれは、屈託のない犬のような声は、湿った部屋に吸収された。
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