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東雲のきみは 3

 目覚めるとサジタはいなかった。部屋の片隅にロープがはられており、見慣れないTシャツやらボクサーブリーフやらが干されている。しっかり絞りきれていないそれらは水滴を床に落としていた。二人で一部屋を借りるのは案外楽なのかもしれないとおもいながら、便箋をテープでつなぎあわせる。「お金をなくしました。一銭も持っていません」そこまで書き、少し考えてから「住所を教えてくださればあとできっとお返しします。いくらかでも貸してください」とつけたした。そうつけたさずにはいられない中途半端な良心とプライドに苦笑した。今日郵便局に行き、小包が届いていなければ、日本企業のビルの前で立つつもりでいた。そして小包は届かなかった。
 街の中心街から小一時間歩くと、近代的なビルが数軒建つ一角がある。そのあたりの路地はバイクも通らず、敷地内には高級車が並んでいる。看板には日本で見慣れたいくつかの社名が並び、どのビルの前にも警備員の個室がある。大きな木の根元を選び、腰を下ろして紙を広げた。ビルからはだれも出てこず、天秤棒をかついだ女がときおり通りかかって、木陰に坐る私をちらりと見て通り過ぎていった。内臓が腐り始めるのではないかと思うほど暑かった。Tシャツが腋の部分から徐々に湿っていく。太陽をぎらぎらと反射させる背の高いビルを見上げ、背後を見渡す。道路を隔てた反対側には店が並び、日本語の看板を提げた店が数軒った。暑さをまぎらわせるために店名を口のなかで読み上げていく。さくらとうきょう、親子丼、冷やしそば、ランチメニュウ、ラーメン、……読める文字を探していただけなのに、私の目は次第に食べ物ばかりを追っていて、気がつくと口の中は唾液で満ちている。

 天秤棒をかついだ女が通り過ぎようとして足を止め、近づいてくる。三十なかばくらいだろうか、藁の帽子を目深にかぶり、白い歯を口元からのぞかせてしきりになにか言いながら籠のなかを見せる。天秤につられた籠の中には、白い卵がぎっしり入っていた。女の歯のようにきれいに並んだ卵の表面は、すべすべと美しく、唾を飲み下す音が自分の耳に届いた。女は私の前にしゃがみこみ、食べろ、買え、としぐさで言う。表情の豊かな女だった。陽に妬けた顔いっぱいに笑顔を見せたり、唇をとがらせてすねた表情をつくって見せたり、瞬時に変わるそれらはしかしあどけなく、まだ若いのかもしれないと思う。お金を持っていないのだと首を振るのにもかまわず、女は籠の中から卵を一つ一つ取り出し、朝方の鳥に似た調子でしゃべりまくる。まるでいやがらせのためにわざとそうしているのではないかと曲解してしまうほど執拗に、女は卵を見せびらかす。全部のポケットを裏返して見せ、面倒くさいので日本語でお金がないと繰り返した。ようやく納得したらしく、彼女は大事そうに卵を籠にしまっていく。立ち去るかと思ったが、彼女は私の隣にゆるゆると腰を下ろし、額の汗を拭い笑いかける。私も愛想笑いを浮かべた。休憩のつもりなのか、女は天秤棒を傍に下ろし、紙袋から笹の葉にくるんだものを取り出して食べはじめる。横目で眺めると女が食べているのは握り飯に似たものだった。ふたたび口の中に唾液がたまり、女に聞こえないようにそれを飲み込んだ。


 女は咀嚼する音を響かせてゆっくりと握り飯を食べ、そうしているあいだに天秤棒の女たちがどこからか四、五人集まってきて、木の根元に円を描いて座り込む。それぞれ騒々しく会話しはじめたところを見ると、どうやらこのあたりは彼女たちのシマで、いつもこうして集まっては昼飯を食べながらだらだらしゃべっていることが想像できた。女たちはつけたしのようにそれぞれ籠の中身を私に見せ、買う気がないとわかるとさっさと切り替えて自分たちの会話に没頭し始める。商品とはいえ、ゆで卵から始まって、うどんやパンやちまきを次々と見せられ、私は恨めしげに彼女たちを眺めた。髪の白い痩せぎすの老いた女もいれば、でっぷり太った中年女も、豊かな黒髪を帽子からはみださせている美しい若い女もいた。一様に日にやけ、下着の透けるほど薄い衣服を着た彼女たちは、自分たちの弁当を取り出し食べはじめる。細いパンに野菜と肉を詰めたもの、笹の葉にくるんだもの、小さなタッパーに詰まった正体不明のもの、いろんな匂いが混じりあって鼻の先をくすぐる。気が遠くなりそうなほど空腹を感じた。じっと見つめていると視線に気づいた幾人かが、にっと頑丈そうな笑みを浮かべる。強烈な陽射しにふさわしい笑い声をあげ、身を乗り出し夢中になってしゃべり、目を閉じてそれを聞いていると難解なリズム音楽を聴いている気分になる。ゆっくりまぶたを持ち上げると頭上では、彼女たちの交わす賑やかな会話を吸い込んで木々がゆっくりと揺れている。
 弁当を食べ終えた彼女たちは、話すことが尽きたのか私に興味を移し、私の着ているものに触れながら言葉を交わし出す。Tシャツの手触りについて何か言い、色あせた絵柄を指して悪意なく笑い、ジーンズのほころびを心配そうに指でさすり、膝に置いた私の手の甲の色を自分と比べ、首にかけた安物のアクセサリーを手にとって意見を交わしている。触れるつもりなくときたまそっと肌に置かれる彼女たちの指の感触と、わけのわからない言葉がつむぎ出す音楽は、ゆっくりと私の手を取り眠りの底にひきずりこんでいくようだった。
 ずいぶん長いあいだそうして話していたが、老いた一人が立ち上がったのを機に彼女たちは次々に立ち上がる。そこに坐ったままの私に人懐こい笑顔で手を振り、一人、一人と去っていく。卵売りの女はひとりぐずぐずしていたが、思い切ったように顔を上げ、卵と小さな紙の包みを私に押し付けて立ち去っていった。
 卵はまだ温かく、包みを開くと塩が入っていた。殻をむくのももどかしいほど腹が減っていたが、時間をかけて殻をむいた。白くつややかなゆで卵は、汚れた両手の中で茶色いシミをいくつもつけた。一口で食べてしまわないよう、小さく噛んでそれを食べた。
 目の前のビルから男が二人でてきた。Yシャツにネクタイをしめた彼等は日本人の顔立ちをしている。私は少しうつむき加減にし、歯の裏についた卵の黄身を舌ですくい取りながら手元の紙をじっと見つめた。私の傍で少しだけ足をゆるめた彼等が、顔を見合わせているのが気配でわかった。
 「いろんなのがいるんだな」
 通り過ぎて一人が言った。
 「学生だろうね」
 「贅沢だな、日本の若いやつは」
 そっと振り向くと彼等は高級日本料理の店に入っていった。光を吸い込む白いシャツは自動ドアの向こうに消えた。
 通りは静かだった。人通りが途絶えると、陽にさらされた道はなおさら白く輝き、日陰は濃さを増す。数メートル先の景色が熱気のせいでかすんで見えた。そこから向こうは消え落ちてしまっているようだった。このあたり一帯の人々は全員姿を消してしまったのではないかと思うほどひとけがなく、生え際の髪が汗で額にはりつくのを感じながら、木によりかかってうとうととまどろんだ。陽はゆっくりと傾き、周囲を橙に染めながらビル郡に埋め込まれていく。さっきまでひとけのなかった道にバイクと車が走り始め、ちらほらと人が行き来し始める。カップルやグループづれが真新しいビルの前で記念写真を撮っている。ビルからきっちりスーツを着こなした人たちがぽつりぽつり吐き出されてくるが、彼等は暮れかけた街に坐る私に気づきもせず、停めてあった車に乗り込んでいく。あたりがとっぷりと暮れてから私はその場を立ち上がった。行き交う人の合間を縫い、ホテルのほうへ向けて歩き始める。ずっと坐っていたせいで頭の中がちかちかした。ぐらりと上体を傾けたらそのまま闇にとけこんでしまいそうなほど心細かった。

 その夜、スニーカーとショートパンツ、腕時計を売って夕飯を食べた。安宿街が立ち並ぶ一角に、バックパッカーを相手に商売をしているなんでも屋があると、ホテルの階段で会ったサジタが教えてくれた。いつもそこにいる大柄な欧米人と並んで坐り、パイプを交互に吸い込みながら、なんでも買ってくれるらしいよ、靴でもベルトでも下着でもね、そういってサジタは大げさに笑い声をあげた。
 「大丈夫、どんなに汚れてたって買ってくれるらしいよ。金なくなっても旅続けたいと思ってたら、どうとでもなるもんなんだよ」
 白い煙を吐きながらサジタはそうつけたした。そのせりふに多少の違和を感じたが、あえて追及はしなかった。おわりにどうとでもなると確かにサジタは言ったはずだが、どうでもいいとも聞こえた気がしたのだ。
 共同のシャワー室に置いてあったサンダルを履いて売りにいったそれらは、卵の乗った炒飯が二日続けて食べられる値段で買い取ってもらえた。がっかりした。素朴な料理でもなく、売れた金額の少なさにでもなく、ホテルのものを勝手に盗んだ罪悪感からでもなく、ほかの何ものかについて。サジタに聞かされた食いつなぐための方法は、私にとってまずい情報だった。

 サジタは毎日出かけていた。目覚めると部屋にサジタの姿はなく、水滴を垂らす下着やシャツが彼の抜け殻のようにロープに吊るしてあった。朝は早いらしく、そこまで寝すぎる男ではないらしい。だから私は気兼ねなく着替えたり、下着姿のままうろつくことができた。サジタがいつも窓辺に置いているミネラルウォーターを勝手に口にしても、気づいているのかいないのか彼は何も言わなかった。紙を持ってビルの前に坐りこみ、帰ってくると彼はいつも寝ているか、階段やフロントでほかの旅行者と言葉を交わしていた。どうやら誰とでも知人になってしまう手の早さらしい。ときおり私がベッドに寝転んでいると、ふっと戻ってきて自分もベッドに横たわり、博物館や中華街や、見てきた娯楽映画について淡々と話した。私はだれにも金を貸してもらえないまま、Tシャツを売り、靴下を売り、パーカーを売って食事をした。隣のベッドに寝転んでいてもそこには透明の壁が存在しているような、けっして馴れ合わない彼の態度は気楽でもあったが、なぜだかむしょうに私を腹立たせもした。
 食事を終えて戻り、部屋に見慣れないものを見つけた。竹で編んだ鳥かごがサジタのベッドサイドに置いてある。近寄って中をのぞくと、色鮮やかな鳥が一羽じっとしている。原色の信号三色に塗り分けられた鳥は、一瞬人形に見えたが、手を近づけると勢いよく羽をばたつかせ動物の匂いを撒き散らす。
 「これ、なんなの?」
 濡れた髪をタオルで拭いながら戻ってきたサジタに訊くときに初めて気づいたことだが、割れた腹筋には幾筋かの後遺症がある。質問を変えようかと思い口を開きかけたが、
 「買ったんだ」けろりと答える。「中華街の近くの屋台で売ってたから、買ったんだ」
 「どうしてまた鳥を」
 「鳥を肩だか頭だかに乗せて旅する人間の映画あったじゃない。あれ、旅とかじゃなかったっけ。まあいいや、とにかく肩に乗せて旅行したくなってさ。すぐ慣れて、言葉も話すようになるって店の人言ってたし」
 「また変なのに引っかかって」
 「なついたらさ、あんたにあげるよ。おれなんかよりずっと絵になるとおもうけどな。なあ、小鳥くん」
 サジタはタオルをロープに吊るすと、鳥かごに顔を近づけ、ピーピーと鳴き声を真似し、コンバンワ、バイバイ、と繰り返している。鳥は怖がってばたばたとかごの中を飛び回るが、彼はかまわずコンバンワバイバイ、ピーピーと話しかけ続ける。私は背を向け、ベッドに横たわった。サジタの鳴き真似と、ばたつく羽音は、なかなか私を眠らせなかった。

 食事をするために物を売り続けて三日が過ぎ、その日の夕方になってようやくひとりの男が私の前に立った。
 小包は依然として届いておらず、けれどサジタのように「どうにでもなる」と言い放つことはできそうもなく、きっと小包はだれかに開けられ盗まれたに違いないと思い始めていた。物売りの女たちは毎日私のまわりで昼食と休憩をとり、親しげに手を振ってちりぢりに別れていく。そんなことをされると私も彼女たちのグループの一員のような気になるのだった。空腹は次第に慣れ、腹が減ってたまらないと思うその一瞬が過ぎるのを待てば、暑さも手伝ってどうとでもなるのだが、じっとしていられないような心細さが空腹のかわりに私を襲った。買ってもらえるのならものはまだある、Tシャツだって、ジーンズだって、ブラシだって、下着だってある。けれどそれだっていつか終わる。私はもうどこへも行けず、どこにも戻れず、物売りたちの女たちの一員、けれど売るものは何も持っていない役立たずとしてこれからずっと長い間ここに坐り、落としてもらう金を待って生きていく様を、シャワー室から取ってきたビニールのサンダルを見下ろして考えた。そしてそれよりも、いったい私は何がしたいのか、どうしてここにいるのか、それがわからなくなりかけていることが一番心細く思えた。考え事に夢中になっていて、男が私を見下ろしていたのに気づかなかった。
 「食事でもご一緒しませんか」
 急に日本語が頭上から降ってきて、飛び上がって驚いた。男は穏やかに笑い出し、私の手にした紙を指す。
 「お貸ししますよ」
 無期限、無利息で、と付け足した男はストライプのシャツにネクタイをしめた三十代後半か、あるいは四〇に届いているかくらいに見えた。さすがに見慣れた旅行者とは違い、肌はさらりと乾燥していて無精ひげも生えていなかった。渡された名刺を人差し指で撫でる。男についていくと彼は一台の車の前でとまり、肌の浅黒い運転手が無表情にドアを開ける。隣に坐る男の顔を盗み見た。渡された名刺みたいにこぎれいな男の横顔からは、彼がどんなつもりでいるのか判断できない。私が男を見ているのではなく、窓の外、ビルの前で記念写真を撮る家族づれを見ているのだと思ったらしい男は、
 「一昔前の日本の姿ですよ」
 と静かに言った。切れる男だ、そう思い警戒を強めた。車はゆっくりと走り出す。車内には小さく、聞き慣れない言葉で歌われる演歌に似た曲が流れていた。
 「ぼくが幼いころは新しくできたデパートにつれていってもらうのが唯一の楽しみでね、日曜なんかはよく家族で出かけたな。ああして、デパートや新しい建物の前でみんなで並んで写真を撮った」
 流れていく道のりは昨日歩いたところだったが、車の窓から見るとずいぶん違って見えた。闇に浮かぶ屋台の裸電球は等距離の街灯みたいにうつくしく、両側に植えられた緑は屋台の明かりに照らされ青々としていた。遠く、中心街の方向には、さまざまな看板のネオンが輝いていた。スムーズに流れていた道路は次第にバイクと自転車、自転車の引くタクシーで溢れ始める。運転手は気が狂ったみたいにクラクションを鳴らし続けるが、それでもすぐ前を走るバイクも自転車も譲らない。隣の男も動じない。

 渋滞に巻き込まれのろのろと車が進むあいだ、私たちは改めて名乗りあった。男は洋菓子メーカーで働き、二年ほど前にここに赴任してきたらしかった。彼の妻は日本で小学生の娘と暮らしていると男は言った。ここに赴任してきた日本人にはほぼ例外なくプールとメイドつきの大型アパートメント、それに運転手つきの車が与えられ、物価も安いしこれといった遊び場もないから彼らはわりあい金を持て余しているということ、だからあの場所を選んだ私の選択はそんなに間違っていなかったことを彼に教わった。
 車は中心街を抜け、食料を買う客でごった返した市場を抜け、一流ホテル外をゆるゆると進んだ。ホテル外の少し先に歓楽街がある。この国の文字はほとんど見られなくなり、日本語、英語、フランス語の看板が目立ち始め、どの店もけばけばしい色のネオンを提げている。店先には派手な化粧顔の女たちが並び、タバコを吸ったりただ空を見つめていたりする。足を踏み入れたことのなかったその一角をもの珍しげに眺めていると、
 「ここに赴任してきてる各国の連中が、金を使うところといったらこのあたりくらいしかないんだ。ここに来たばかりの若いやつらはこのあたりに遊びに来て、おれはもてるんだって必ず自慢するんだよ。そう、日本人は一番人気だ。彼らにとって日本はまだ黄金の国だから。うちの若いやつも、いい気になって入り浸っていたらひとりの女の子に気に入られちゃってね、結婚をせまられて大変だった。だからというわけでもないけど、ぼくはどうしてもこういったところがだめでね。今さらもてたい歳でもないし、どうも信用できないんだな。病気の巣窟みたいに思えちゃって」
 そう言って男は小さく笑う。車は歓楽街を少し奥に入り、一軒の店の前で停まった。看板には英語、日本語、中国語が書かれていた。車を下り、男のあとに従う。私たちを下ろした車は駐車場へ向かう。
 「いいんですか?」男の背中に訊いた。「冗談じゃなく私は今一銭も持っていないし、返すとしてもすぐってわけにはいかないと思います。それに、お礼も何もできませんけど」
 男は振り返り、吹きだすようにして笑った。兄の笑い方とは対称的だ。
 「何も要求しやしないよ。正直言って、退屈してるんだ。毎日顔を合わすのは同じ人間ばかりで、話すことといえば必ず仕事が関与してくる。そうだな、あなたの旅行話をお礼としていただくよ」
 四方を大きなガラスで囲まれた巨大なレストランは鉄板焼きの店らしかった。高級ホテルのシーツみたいに白く潔癖な制服を着て、ウェイトレスたちはテーブルの合間をすり抜ける。シミのない赤いじゅうたんに、黒ずみすりきれたビニールのサンダルはどう見ても不釣合いだった。低く高く飾り付けられた照明は埃っぽいTシャツをも浮かび上がらせる。店内はさほど混んではいなかったが、テーブルについた客たちはだれもがきちんとした身なりの外国人だった。フロア一帯が、上品な手触りの布地で覆われているように感じた。今まで歩いていたあの街の、どこをどう曲がったらこんな場所へ来ることができるのかと、そっとあたりを見回した。この場所にふさわしくないので出て行ってほしいと、今にも言われるんじゃないかとびくびくしながら男のあとについてフロアに足を踏み入れた。窓際の席に男と向き合って坐るときには、まるで初めてフランス料理を食べさせられるときみたいに緊張していた。
 冷えたビールに口をつけると少し緊張が解けた。必要以上の緊張は、自動ドアや冷房やテーブルクロスや、上まできちんとボタンをはめた人たちをしばらくぶりに見たせいかもしれなかった。運ばれてきた魚介類や肉を焼きながら、男は私にいろいろと質問をした。どうして一人で旅行をしているのか、その目的はなんなのか、危険な目には遭わなかったのか、これまでまわってきたルートとこれからまわる場所はどこか、そこにどんな感想を持ったか、いつ帰るのか、面接を受けている気分にさせる口調で次々と訊いた。私にとってきちんと答えるのが面倒な質問ばかりだった。私は勝手に、男の質問の中から一番話しやすそうなトピックを選び、義務的な誠実さでそれに答えた。来てすぐまわった観光名所、会った旅行者たち、いつも食事をしている場所とその値段、いつだったか泊まったホテルで交尾しているごきぶりを見たこと、人々の親切、ボラれ話、少々肉付けしたり脚色して話し続けた。そうして話していると塊だった日々はほぐれ始め、煙を上げるテーブルに並べられていく。しかしそれらに秩序はなく、ばらまかれたポストカードを一枚ずつ指して勝手にストーリーを作っているみたいだった。男はほとんど料理には手をつけず、笑ったり耳を澄ませたり聞いていた。私は話に夢中になっているふりをし続け、男の態度を観察する。
 一通り話し終えてから、ころあいよく焼けた海老やいかを食べた。飲み込まれたものは食堂から胃へ、まっすぐ道筋を教えるように流れ落ちていく。
 「それにしてもずいぶん長いよね。今はそういう時代なのかな。あなた、日本に帰れないよんどころない事情なんか持っていなさそうだし、ただこう、気分でぱっと出てきて、そのまま帰らない、それで何も不安を感じない。しかもあなたお金を持ってないんでしょう、ちょっとぼくには信じられないな」
 私が夢中で食べているあいだずっとビールを飲み続けていた男は、さっきより砕けた口調で言った。私は手を止め、たれのしたたる箸の先を見つめた。この数ヶ月のあいだ、見知らぬ場所で繰り返されてきた朝と夜、まだ帰らないとつぶやきながらスニーカーで縫いつないできた日々が、意味もない、ただ景色を映したポストカードなのではないかといわれているような気がし、顔を上げて男の目を見るのですら億劫になった。
 「不安より、魅力のほうが上まるから」
 男が何も言わないので、私は俗の極みのようなことを言い訳めいた口調でつぶやいた。
 「魅力ねえ」
 海老の殻をむいていた男は手を休めず、口の端を持ち上げてかすかに笑った。男は海老にしゃぶりつき、油でてかった唇をゆっくりとなめる。しばらくの沈黙のあと、男が言った。
 「たぶんあなたのほうがこの街については詳しいな。ぼくたちはね、あんまりあちこち出歩かないように言われてるんだ。何かあっちゃまずいってわけで。だから運転手はついてくるし。まあ、言われなくても好奇心であちこち出歩いてみるほど若くもないしね。あの殺人的に混んだバスにも、自転車の引くタクシーにも乗ったことがないな」
 言い方を変えるのがうまい男だ。乗ったことがないのではなく、乗りたくもないとそこは言うべきではないのか。男はなめらかな手つきで開いた貝にレモンを垂らし、指先からしたたる透明の液体を眺めている。それから彼は、自分の仕事について話し始めた。日本にいたときは宣伝部にいたこと。ここに下見に来た三年前はすさまじかったこと。一メートル歩くあいだにはだしの子どもが二十人は手を差し伸べてきたこと。みんな濡れた傘のように痩せていたこと。路上には屋台より老いた物乞いのほうが多かったこと。この国にお菓子ってものが売られていないのにきづいていたかい? 手作りの饅頭みたいなものは市場にはあるけど、スナックだのチョコレートだの、そういうものがまったくない。あたりまえだよ、普通に考えればね。それでもたぶん数年先、いやひょっとしたらもっと早くに、ここの人たちもお菓子を食べる生活になるだろうと見当をつけた。それがあたったから、ぼくたちはここにいるってわけ。
 男は話し、食べ物を口に運び、ビールを追加してはまた話し始める。男の話しは興味深かったが、いつの間にか彼の声は遠くなり、背後から、前方から、聞きなれた言葉や聞き取れる言葉があふれるように耳に入ってきて、ふと周囲が現実味を失う。大きな窓ガラスの外にはライトアップされた木々が並び、コンクリートが静かに横たわっている。その光景は行ったことのある都内のホテルのレストランに酷似していて、どこにいるのか一瞬わからなくなる。満たされた胃を抱えて自動ドアをくぐれば空車ランプのタクシーが並び、少し歩けば地下鉄の入り口があり、疲れた顔の人々で混雑した電車が滑り込んできて扉を開く。肌寒い夜のしっとりした空気も、地下鉄のむせ返るような息苦しさも、すぐ触れられるところにあるようだった。知りもしない男に金を借りるためにここにいるという状況があまりにも現実離れしたものに思え、本当に面接を受けていると思いこんだほうがこの場にふさわしいように思えた。
 「場所を変えて飲みなおしましょうか」
 男の声に我に返った。いつの間にか彼は会計を済ませ、男は立ち上がった。
 「ごちそうさまでした」男の後姿に言う。「正直言って、あそこに坐っていても、手を貸してくれる方はいないと思ってました。何日か前、あのあたりの人にぜいたくなことをしてるって言われたくらいですから」
 あわてて言ったのは今の状況を自分に言い聞かせるためだった。男はねっとりした空気の中に、ははは、と息を吐いて笑った。

 車が停まったのはずいぶん静かな通りだった。あたりは整然とし、等間隔の街灯があいかわらず周囲の木々を浮き上がらせていた。車は一階のだだっ広い駐車場に滑りこみ、男は階段を上がっていく。
 「変わった飲み屋ですね」
 皮肉が思わず浮かび、口にすると男は何をどうとったのか振り向いて笑った。
 「飲み屋じゃないよ、ここがうち」
 扉を開くとメイドが出迎え、男はちょっと失礼、と言って奥に消えた。唇の大きなメイドは陽気な笑顔で私をリビングに迎え入れた。日本語があつかえるようで、彼女の笑顔はとても気持ちのいいものだった。リビングはエアロビクス教室でもできそうなほど広い部屋だった。あまり家具類はなく、がらんとしたその空間は見慣れた場所のように思えた。男がふたたび現れるまでのあいだ、無遠慮にあたりを見まわした。ソファの前にはTVとステレオセットが置かれ、サイドボードには四、五本のアルコール以外何も入っていない。部屋の隅にゴルフクラブとビデオテープが散乱していた。立ち上がり、ベージュのカーテンを引くとライトに照らされ青白く光るプールが見えた。
 「どうもうちで飲むほうが好きでね。くつろげるし、何より落ち着くんだ。突然つれてきて申し訳なかったね。帰りはちゃんとお送りします」
 自宅で飲むほうが好きだという人間を誰が信じるだろう。目的先を言わずに車を走らせておいて歯の浮いた言葉を連ねるこの男は、ある意味、金を他人からせびようとしている私と同等程度に思え、安心した。
 リビングに現れた彼はポロシャツとジーンズを身に着けていた。そのラフな恰好はなぜか、彼を余計ふけさせて見せた。男はメイドに何か言い、彼女は身支度をして帰っていく。玄関の扉の閉まる音が聞こえると、男は封筒を差し出した。
 「最初に言ったとおりです。もし返す気があるのであれば名刺の住所に送ってください。もちろん、十年も先とかだったら帰国してるかもしれないが」
 「助かります。なるべく早く、お返しします」
 そういって封筒を受け取った。
 男は家族が送ってくれたというビデオテープを見せてくれた。おかっぱ頭の女性と、三つ編を結った女の子が画面から男に話しかけるのを、ビールを飲みながら観た。観終わったビデオを巻き戻している最中、男が訊いた。
 「あなたの家族も日本にいるんでしょう。心配してるんじゃない」
 「日本には誰もいません。家族はうち兄だけなんですけど、このあたりに行ったまましばらく戻ってこないんです」
 男はちらりと私を見たが、巻き戻したテープを黙ってビデオケースにおさめ、画面をTVに切り替える。画面の中では、派手な化粧の女が歌を歌っていた。私たちは画面の女を黙って眺めていた。画面が番組とコマーシャルの間に暗転する一瞬のあいだに、男の表情がテレビに反射してみえたが判然としない。しばらくして男はふらりと立ち上がり、洋酒とグラスを手に戻ってきた。
 「お兄さんはどうして戻ってこない?」
 私は答えずに男がグラスに酒を注ぐのを横目で見つめていた。男は質問を重ねる。
 「ひょっとしてあなたはおにいさんに会うために日本を出てきた?」
 「会いたいとか、会わなきゃいけないとか、そんなんじゃないです」
 「どこで何をしているのかな」
 「何をやってるかは知りません。ただ、移動しながら暮らしてるんだと思います。ただ、普通に」
 「それは、さっきあなたが言ったように、魅力うんぬんってこと?」
 「いたくなければ帰ってくるはずだから」
 「あなたも居ついちゃうんじゃない、おにいさんみたいに」
 そう言う男の声は笑っていたが、顔は笑っていなかった。男は緩慢な動作でグラスを口にあて、喉仏を一回動かしてから言った。
 「たしかにね、居ついてる人が多いってのはよく耳にするね。ぼくはあのバックパッカーが群れている安宿街に行く用もないし、もちろんあなたのお兄さんも知らないんだけどね、そういう話はよく聞きますよ。ときどき車から見かけることもあるな、居ついちゃってるんだろうなあって感じの、無精ひげはやした若い人をね」
 「じゃあ一年後、ぼさぼさ頭の私を車から見かけるかもしれませんね」
 調子を合わせていったつもりだが、男の顔をのぞきこむと彼はじっと空を見つめて何か考えていた。
 「でもどうなのかなあ。居ついてそれで、何か得られる?」
 何を言いたいのかわかりかね、私は黙ってグラスの縁をなめる。男は表情のない目をTVに向けて急に語気荒く話し出した。
 「あなたはさっき、お兄さんはそこにいたくなければ帰るって言ったよね、つまり何かしら魅力があるからお兄さんは戻ってこないと。まあ、あなたのお兄さんが実際、どういう理由で帰ってこないのか知る由もないけれどもね、ぼくはどうもぴんとこないんだな。だってそうでしょう、何か見た、何か得た、だから帰らないというよりも、モラトリアムを伸ばしすぎて現実へ帰れないだけなんじゃないかな」
 部屋の隅に置かれた間接照明の数あるライトの一つが消えている。これだけの照明があるのだから、目立たないから男は気づかなかったのだろう。
 「魅力的というのはつまりそういうことでしょう。どんなに長くいたって旅は旅だ、生活じゃない。生活じゃない部分で生活の真似事ができるから魅力的なわけでしょう。それは若いからだっていうことになるのかもしれないけど、ぼくは若いからこそ現実で勝負しなくちゃいけないと思うんだな。人が本当に何かを得たり、見たり、あるいはわかったりするのは、生活に密着した場所でしょう」
 彼は私を非難したいのか、議論したいのか、日ごろ思っていたことをしゃべりたかったのか、彼の無表情からは確信をもつことはできなかった。言葉を適当に捜していると先に男がまた口を開いた。
 「トイレにね、紙が置いてある国と水が置いてある国ではずいぶん変わるんだ。水が置いてあればそれは珍しいわけだよね、不便だったり慣れなかったりするのが面白いわけでしょう。贅沢って言われたって言ってたけど、それもわかるな、全部揃っているのに飽きてわざわざ不便なところへ来るんだもの。でもね、現実に下りてこなきゃだめだよ。ここの人たちが貧しいから自分もその中に溶けこもうとしても、何もわからないんだよ。楽して何かわかったり見たりした気になっちゃだめだよ」
 顔と目を赤くした男は話し続ける。一人で旅を続けて、日本語をずいぶん話していない旅行者みたいな話し方だった。今まで会ってきた数人の姿を思い出す。たった一人で言葉の通じない国をうろつき、数ヶ月過ぎたところでふいに自分を見失い、費やす言葉で自分を取り戻そうとする彼らに、男の話し方はどこか似ていた。彼は長期旅行者を非難したいわけではなく、私とそのことについて議論したいわけでもなく、自分を語りたいのだということに気づいた。男の言うことには正しいと思うところも、そうではないと思うところもあったが、その正しさも誤解も、私を苛立たせた。男がなおもしゃべろうと口を開きかけたとき、私は苛立ちを含んだ声を出していた。
 「楽して何かわかった人に会いました? 無精ひげはやした人がここの暮らしに同化したいからそうしてるって言いました? あなた車の窓開けて、それを聞いた?」
 言ってから、後悔した。何も口にするべきではなかったととっさに思った。男が何か言ってくるだろうと身構えたが、彼はあっさりと、
 「まあいいやそんなことは」
 とその一言でかたづけ、退屈そうにチャンネルをまわし、自分と私のグラスに酒を満たす。もう帰るというタイミングを計っていると男は自然な動作で私の隣に坐りなおし、肩に手をまわした。アルコールと整髪料の匂いが鼻をつく。肩に触れる掌は生温かかった。そのなれなれしさと、生温かさと、男の匂いに、不思議と嫌悪感はなかった。男の腕が腕を這い腿をなで上げ、湿った唇が首筋に押し付け当てられるのを感じながら、私は今酔っているのだ、返さなくてもいい金を借りるのだと、心の中であわただしく言い訳を捜しているのだった。

 男はそのまま私をソファに倒し、Tシャツを捲し上げた。男は買ったばかりの玩具をいじる子どもみたいな真剣さで私を扱った。家具と生活感のない部屋が、ふと見慣れた場所に変わる。母親と兄のいなくなった、不在の占領するあの家が私の目の前に広がる。そうだった。私が音をたてない限り、永遠に静まりかえっているあの家に帰りたくなかったとき、さんざん騒いで飲んだあと、恋人ではない人間と私はよく寝た。酔っているのだからという言い訳さえ用意してしまえばそれはじつに簡単なことだった。その言い訳が自分に通用しなければ、私は相手に何か求めるふりまでして見せた。不在を埋めるもの、いなくなった人たちのかわりをつとめるものを、よく知らない相手に求めるふりをすることで自分自身の同情を請うのだった。私は相手に何も求めていない、求めずに寝ているのだと認めたくなかった。抱き合った相手が仕事場の電話や文房具やコピー用紙や、リアリティを感じないまま見慣れているものと同じであることを認めたくなかった。認めたくないと思い続け、何人もの人間の横で朝を迎え、私と同じ感性をもつ男とも出会った。言い訳をもとめなくてもいい、自分を正当化する必要もないと、恥ずかしげもなくおおっぴろげに笑う人間にいちいち訊いてみたいことはたくさんあった。しかしその答えらしきものを掴みたいと思いはじめた頃の私の前で、男はある日成田から飛んだまま帰ってこなかった。彼は二度と帰ってこなかった。その翌年に兄もどこかへ消え、その後に母が死んだ。
 郵便局留めで小包を送ってもらう、不確かで日数のかかる方法をどうして自分が選んだのか、とっさに私は理解する。ほかの確実な方法を調べるのが面倒だったのではない、私は、本当に、困ってみたかっただけなのだ。金がないという状況の中に自分を置いてみたかったのだ。それでも帰らないのだと、私自身に強く言わせたかったのだ。彼らのような強さを持って、矜持を持って生きたかった。
 反射的に差し出した小銭を当然のごとく受け取った物乞いの視線が頭をよぎる。駅構内の床をなめるように頭をこすりつけ、落としたコインを捜していた子どもの姿がよぎる。殻をむいた卵につく茶色いシミ、男の口にした正しさと誤解、歓楽街の娼婦は病気の巣窟だが、日本からやってきた若く貧しい旅行者は男女関係なく病気とは無関係だと信じている単純さ、スニーカーや時計のほかに自分がまだ物を持っていること、けれど何を売っても何も失ってはいないと言い張れるだろう自分、すべてに嫌悪感を覚えた。
 リビングのドアの向こう、玄関へと続くぽっかりとした暗闇に目を凝らす。ことが終わり玄関を開けるとき、そこに広がるのはいったいどんな景色なのか。さっき扉を開けて出ていった陽気な笑顔の女を吸い込んだ景色とは、違う景色が広がっているような気がする。見慣れた道路、三色の信号、排泄物も残飯も落ちていない静かな灰色の道路、地下鉄の入り口、車の並ぶ駐車場。私は足を広げるふりをして、サイドテーブルを力の限り蹴飛ばす。木製のそれはあっけなく倒れ、のっていた空き缶やグラスや洋酒の瓶が大袈裟すぎる音をたてて床に落ちる。男は動きを止め、ゆるゆると床に視線を落とす。立ち上がり、封筒を引っつかみ、玄関まで走った。ジーンズのジッパーを上げながら階段を駆け下り、男が追ってくるのではないかと振り返ったが、ドアはひっそりと閉まっている。遠く明かりが見える方向に向けて、とぼとぼと歩いた。今何時ごろなのか、霧のたちこめる通りに人の姿はまるでなかった。ひとけのなさや、黒く口を開けた廃墟のなか、見慣れない異国の深夜に私はまるで恐怖を覚えなかった。あの先の角を曲がれば、昔よく通っていた駄菓子屋があるような、またそこには自分の家の門が見える気すらした。私はただひたすら足を前に送る。霧の中、爆音を響かせ一台のバイクが私の傍をすり抜けあっという間に消えた。

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