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東雲のきみは 4

 私の名前が書かれた小包が届いたのは、二十日ほどたった日のことだった。端がつぶれ、泥がつき、ところどころへこんだ小さな段ボール箱が、ここにたどり着くまでにどうしてそれほど時間がかかったのかはまったくわからなかった。毎日顔を合わせていた郵便局の女は、小包を見つけて思わず声をあげた私を見、安心したように微笑んだ。
 快い重さの小包を手に郵便局を出、宿に帰るまで待ちきれずに石段に腰かけて蓋をあける。ニ、三冊の週刊誌と、厳重に包まれた封筒、瓶詰めの梅干、それと手紙が入っていた。乱暴にそれらの押し込められた小包はまるで待ちに待ったクリスマスプレゼントのようで、いったい何から手に取っていいのか放心してしばらくそれを見つめた。封筒の中に頼んでおいた無記名のトラベラーズチェックが入っていることを確認し、同封されていた手紙を見る。輪ゴムで束ねられた私宛ての手紙はダイレクトメールがほとんであったが、数枚ほどあった。蓋を開けた小包を膝に抱え、留守中我が家のポストでじっと息を潜めていた手紙に目を通していく。
 結婚しました、という写真入りの葉書があり、夏物のバーゲンセールのお知らせがあり、結婚相談所の案内書があり、よく行っていた美容院からカットの時期を教える葉書があり、芝居の案内があった。どれも私から等しく遠く、私のいない見慣れた場所で、結婚式やバーゲンセールや芝居が開催されていると思うと不思議だった。一番最後に兄からの葉書が一枚あった。いつもと同じように、元気でやっているとかなんとか、簡単に書かれている。田んぼで素っ裸の子どもが遊んでいる絵葉書だった。葉書に押されたスタンプは私の行ったことのない土地のものだった。私と同じように今どこかをさまよっている兄の葉書すらも、偽の小道具みたいに感じられた。額からこめかみへ一筋流れた汗を拭い、もう一度最初から手紙を眺めていく。
 ベッドに腰かけて小包を開けたり閉めたりし続け、夕方、一万円のチェックをもって両替に行った。一枚の紙切れは数枚ものしわだらけの紙幣と交換され、その束を手にしたとたん気持ちが華やいだ。思い切り散財したくなった。いつもはその甲高い鳴き声で私を苛立たせるサジタの鳥も、かわいらしくさえ思え、籠に顔をつけて鳴き声を真似てみる。この原色の鳥にサジタはトーくんと名前をつけ、しかし一向に慣れず、言葉をしゃべる兆しも見えないのに毎日話し続け、パンくずをまいてやっている。名前を呼びかけると鳥籠の隅に避難し、パンくずの中にじっとうずくまる。
 夜になって帰ってきたサジタを食事に誘った。奢ると言うと彼は軽い足取りでついてきた。小包が届いた祝いだと言って、蟹だの海老だのの入った鍋を頼み、さんざんビールを飲んだ。サジタはスガノくんの送ってきた週刊誌をめくり、「姑との死線」だの「全裸老人球場で転ぶ」だのといったどうでもいい記事を読み上げ、私を笑わせた。あんまり騒ぎすぎてもうビールは売ってやらないと店を追い出され、べつの屋台に行って飲み続ける。そのころにはもう何を話しているのかもわからず、テーブルのまわりをうろつく犬を撫でては笑い、正体不明の料理を注文しては笑った。十一時をまわると店は閉店の準備をし始め、したたかに酔っ払った私は肩を組み腰をつつき、繁華街の土産物屋を冷やかした。表面を火であぶると金髪女の裸体が浮かび上がるライターや、小さな木彫りの仏像や、安っぽいアクセサリーや、必要もないし欲しくもないものをしつこく値切って買った。食堂や屋台はほとんどが店じまいで、閉めかけていた店からジーマを買い、それをラッパ飲みしながらお互いを支えあうようにしてホテルを目指した。
 見慣れた部屋の中で、窓が白く光り出しバイクの騒音が入り込んでくるまで、私たちは何回もセックスをした。すっかり酔いは醒めてしまい、けれど無言のままどこか必死に抱き合い、まるで格闘技でもしているみたいだった。しかし腕っぷしはサジタのほうが強いわけだから公平な試合などではなかったし、のみ込まれるようにして下から天井を見上げていた。身体中からアルコール臭を含んだ汗がしたたり落ち、シーツはすぐに湿り気を帯びた。窓も開けず、扇風機もまわさず、部屋に満ちるよどんだ空気は重みを増して身体中にまとわりついた。サジタの目は鋭かったが、はじめからどこか諦念を抱いている老いた野犬を思わせた。
 午前中の活気に満ちた喧噪が窓から入り込んでくるころ、私たちはようやく身体を離しまくらの上に頭を下ろした。
 「うへえ」
 サジタがそうつぶやき、それはなんだか格闘技を練習してみたけれど結局うまくいかなかった、そんな少年のようなつぶやきだったので私は笑った。あーあ、私もそう呟いた。サジタは汗だくの身体を起こし、鳥籠をのぞきこむ。あ、サジタのあげた小さな叫び声にそちらを見ると、パンくずの中で鳥は死んでいた。サジタは鳥の死骸を取り出し、あーあ、と私の真似をする。鳥の死骸にそっと触れると、物置のように固かった。
 「ストレスかな。悪いことをした」
 感情のこもらない声でサジタは言い、私はどこかそれを心の中で否定した。自分で死んだんだと。
 昼過ぎに目覚め、なまぬるいミネラルウォーターを飲んだ。サジタはベッドにいなかった。飲みすぎたせいで頭がぼんやりとし、扇風機に顔を近づけて生温かい風を浴びる。鳥籠を見ると中に死骸はなく、墓でも掘りにいったのかと思った。それから十分もしないうちにサジタはライチを山ほど抱えて帰ってきた。
 「鳥はどこに」
 「ティッシュにくるんでロビーのごみ箱に捨ててきた」吸い殻を捨ててきたというような口ぶりで言う。「だまされたなあ。死んじゃうんだもんなあ」
 吹きだすようにして笑い、サジタはライチが二つついた枝を私に投げてよこした。
 「捨てた?」
 「だってここに捨てたら臭くなるからさ」
 ベッドの下に置いてある鳥籠に目もくれずサジタは言う。しばらく無言のまま私たちはライチを食べ続けた。鳥籠に向かって話かけたサジタの目と、自分を抱いたサジタの目。
 「今日はどこか行かないの」
 サジタに訊く。サジタは爽やかに笑って答えた。
 「もう、行き尽くしちゃったんだよなあ」
 ここにいて見るものが何もないとするならどこかへ行くつもりなのか、訊きたかったが訊かなかった。私はただライチの皮をむき続け、果肉を自分の口に放りこんだり、サジタの口に投げたりした。部屋に充満していた精液の匂いは、濃いライチの匂いにすっぽりとくるまれた。
 自分のベッドに横たわり、MP3プレイヤーでテープを聴いていたサジタはいつの間にか眠っていた。私は小包の中から梅干を取り出し、一粒取り出してていねいに舐めた。ライチと混ざり合った異様な味が口のなかに広がる。兄の絵葉書の、見慣れた文字を何度も、意味がすりへるまで読み続ける。じゃあ行ってくると、真新しいデイパックを背負い会社に行くように玄関を出ていった顔が思い浮かぶ。並んで見送る私と母の顔を見ず、玄関マットのあたりに視線を漂わせていた、どこか頼りなげな、しかし決意の固い顔だった。
 「あちい」
 隣のベッドでサジタがうめき声を上げ、ゆっくりと上半身を持ち上げる。彼は寝起きのとろりとした目を私に向け、
 「今、蜃気楼の見える砂漠で倒れる夢見た」
 と真顔で言った。
 サジタはシャワーを浴びにいき、ついでに洗濯も済ませ、水滴のしたたる下着やシャツをロープに吊るしていく。日に焼けた彼の腕をベッドの上から眺め、私は彼の名を呼んだ。眉を上げ振り向いたサジタに言う。
 「暇っすか」
 「暇だよ」
 そう答えてサジタはくっくっと声を抑えて笑う。洗濯物を干し終えると彼は床にあぐらを組み、足の爪を切り始める。私はライチの皮の上に飛び散る半透明の爪を目で追っていたが、ふと思いついて口にした。
 「たから捜し、しない?」
 「なんだい、それは」
 「これからそれぞれ出かけて、今日見つけたいいものを競うの。なんだっていい、色のきれいな花瓶でもいいし、かっこいい煙草の包装紙でもいい、空き缶でも、人形でも。これいいなって思うもの見つけて、夜食事するとき発表しあって、いいと思った理由も含めてどっちがいいものを見つけてきたか競うの」
 くだらないと一笑に付されると思ったが、
 「おう、いいよ。それやろうよ」
 と、彼は案外乗り気な返事をよこし、負けたほうは勝ったほうにビールを一本奢るという取り決めまでした。そう決めてしまうと私たちはあわただしく起き出し、汗まみれの身体にTシャツをはおり、いそいそと出かける支度をした。ホテルの前で手を振り合い、炎天下の中、それぞれべつの方向へ足を踏み出した。

 退屈紛れに思いついたゲームに私は意外なほど熱中していた。額に吹き出る汗を掌で拭い、開かれる視界いっぱいに真剣な視線を這わせ、夢中で歩いた。市場を端から端まで歩き、積み重ねられたアルマイトの食器類や、ぺらぺらのわらばん紙に印刷された漫画、骨董品屋の小さな仏像を丹念に眺めた。一つの商品に見入ると奥の暗闇から店の主人が現れて、片言の英語か、あるいはとつとつとしたリズムの言葉で熱心に話しかけてくる。その声も聞こえないほど熱心に品物を眺めまわした。あまりの暑さにともすると頭は綿を押し込められたようになり、何を見ても何も感じなくなる。気がつくと湯飲み茶碗に施された微細な模様や、仏像の頭を意味もなく眺めている。ふと我にかえって立ち上がり、次の店へと足を運ぶ。顔中を汗でてからせた買い物客たちは、品物を手に立ち止まりじっくりそれを観察している異国の人間にぶつかり、迷惑そうな視線を向ける。
 何も見つけられずに市場を出るときには足は棒のようになっていて、目的もなく探しものをすることがいかに難しいかを思い知った。自分で言い出しておきながら、いったい何がいいものであるのかまったくわからないのだ。けれど手ぶらで帰るわけにもいかず、また適当なものを持ち帰ってビールを奢るはめになるのもしゃくにさわり、私は夢遊病者のようにふらふらと日の照りつける中に足を踏み出し、何か私の目をひくものを捜しにいく。木陰の屋台で冷たい果汁ジュースを飲み、足元に落ちていたものや石ころまで食い入るように眺め、腰を上げて方向もわからずただ歩き続ける。
 その夜食堂で私が差し出したものは変色した一枚のポストカードで、サジタは真っ白い石ころだった。ポストカードはその日出会った物売りの少年にもらったものだった。歩いているうちいつの間にか私は古い寺に行き着いて、どうやらそこは観光名所らしく数人の欧米人とそれを取巻く物売りの子どもたちがいた。寺の入り口で中の様子をうかがっていると、子どもたちは私を囲んで流暢な英語をあやつり、手にした売り物を指し示す。両手のマックロに汚れた子どもたちが売るものは、扇子だったりポストカードだったり、ミニチュアの仏像だったりした。彼らと言葉を交わす気力もないほど疲れていた私は、小さな手に差し出された品物を無言で見下ろした。買う気がないとわかると子どもたちはほかの外国人を見つけて鳥の群れみたいに走り去る。けれどたった一人、目玉の大きな少年が私の傍らに残り、照れくさそうな笑顔を向けて寺の中を案内してやると言う。言われるまま彼のあとに従った。薄緑のTシャツに紺のズボン、すり切れたサンダルを履いた少年は得意げな顔で振り向いては寺のことを説明し、私が笑顔でうなずくとまた歩き出す。私のどこが彼の気に入ったのか、ひと通り案内し終えると彼は自分の売り物の中からポストカードを一枚くれた。日に焼けて売り物にならないからと、言い訳するような口調で言い、ちらりと私の足元を見た。彼の視線の先には、スニーカーを買いそびれている私の、薄汚いサンダル履きの足があった。ぼくたちはともだちだと、最後に言った。
 サジタの白い石ころは迷いこんだ路地にあったもので、どっちへ行けばいいのか途方に暮れてしゃがみこんだとき「目が合った」ものだと説明する。ほら、これ顔に見えるだろ。そういってサジタは石をかざす。目がぎょろぎょろしてて、鼻が低くて、額が平らで、この国の人の顔みたいだろ。このぎょろっとした目が、道端からじっとおれを見上げてんだよ。サジタは両手を振り回しながら私に熱弁する。
 柔らかく煮込んだ豚肉の乗ったご飯や、油のてらてら光る炒め物を次々に食べながら、ああでもないこうでもないと話し合い、その勝負は私が勝った。サジタの奢ってくれたビールを結局、二人で飲みあった。ふくれた胃をさすりつつ食堂を出て、することもなくホテルへの道をぶらついた。途中、ずいぶんにぎわっているレストランがあり、ちらりとのぞくと奥のTVで映画を流している。どちらともなく私たちは足を止め、14インチの中のビデオ映画を眺めた。かつて恋人だった男と見に行ったアクション映画だった。
 窓と壁のない半野外のレストランで、席を埋め尽くしているのはほどんどが欧米人だった。店内は煙草の煙で白く濁っている。どのテーブルにもビールの空き缶が並び、床はピーナツの殻で覆いつくされている。わきあがる喧噪は映画の音声を消し、私たちは立ち止まったまま小さく映像だけを眺めていた。建物が爆破され、画面の中に炎が広がると、奥の一団が大きく叫び、立ち上がったり手をたたいたりする。一人すみの席で手紙を書いていた男や、額を寄せ合って真剣に話し合っていたグループは顔を上げて画面に食い入っている。小さな白い犬が床に鼻をこすりつけて歩き、ピーナツの殻の合間に何か好物を見つけて口に含む。黒い髪を後ろで結った店のスタッフは壁に寄りかかり、大袈裟な身振りで騒ぐ一団につまらなそうな視線を向けている。結局私たちはそこに足を止めて最後まで見てしまい、テロップが流れ始めてから無言のままたらたらした足取りで歩き始めた。そこでサジタは、
 「あんた、よく回りが見えてるよな」映画の感想でも述べるように言った。「石ころで勝てるわきゃねえよなあ」
 よく階段に腰かけ、パイプに詰め物をしていた欧米人はいつの間にかいなくなっていた。ときおり廊下ですれ違っていたいくつかの顔も、すっかり見られなくなっている。私たちだけが住人のようにこのホテルから動かずにいた。いつかあの男に語っていたように、この場所が自分にとってそれほど魅力的だとは思えなかったし、またここに居続けるために送金してもらったわけではなかった。けれど、私はこの先どこへ向かったらいいのかわからなくなっていた。ガイドブックをめくることも、地図を広げることも、移動のためにチケットを予約することも、何一つする気がしなかった。そんなすべてを考えなくてすむように、その日一番いいと思った何かを捜して見せ合うという、何気なくはじめたゲームに熱中して日を送った。その行為に飽きもせず、意味を求めたりせず、ただ繰り返した。同じように毎夜食事を共にするのがサジタの日課になっていたが、煮魚や、牛すじのスープや、蟹の丸揚げや、汁そばをむさぼるように食べる彼もまた、ここにいる理由やこれからの予定について何も語らなかった。きっとこの場所の、あるいはそのゲームの、何かが彼を面白がらせているのだろうと思った。そしてその瞼に残る切り傷や、鋭くもやわらかい視線、牙を失った群れから漏れた肉食獣のような雰囲気も、過去と未来をつなぐ現在という点についてさえ、何一つ口にしないのだろう。
 ホテルの一室には石ころだの変色した葉っぱだの、ビニールに詰めたどこかの土だのこの国のエロ雑誌だの、なんの役にも立たない数々の戦利品がところかまわず飾られた。ホテルの部屋はまずます私たちの暮らす部屋らしくなった。写真立てやちまちました小物を飾るように葉っぱや石ころをディスプレイし、道でもらったパンフレットを壁に貼り、あんまり暇なときはそれらを眺め笑い、サジタは思い出したように私を壁に追いやった。そしてサジタは余裕の笑みを含ませて「あんた、おれのこと怖くないの」と言い、私は「その目の傷がなんだかかわいく見えてきちゃってさ」と答える。サジタは舌打ちとともに凄んでみせ、私が身体に緊張を走らせるふりをしてみせると満足したように笑った。昔の男とサジタを投影してみようとおもったが、やはりサジタはサジタであり、友達でも恋人でもなく、家族でも他人でもなく、行きつく先を犬掻きで目指している運命共同体のようなものだった。

 何か面白いものはないかと入り込んだ路地を進むうち、まったく見知らぬ場所を歩いていることに気づいたが、かまわず歩き続けた。路地は次第に狭くなり、両側には石造りの家がぎっしりと軒を並べている。どの家も戸を開け放ち、薄暗い室内をのぞかせている。下着姿に近い男や女がけだるく坐ってこちらを見、鶏がけたたましい声をあげて行き交っている。細い赤土の道は右に折れ左に折れ、同じ場所をぐるぐるまわっている感覚を抱く。
 路地は突然とぎれ開けた場所に出た。小さくみすぼらしく、それでも整然と並んでいた家は消え、赤土が広がり、そこここにうずたかくごみが積まれている。目印のように巨大な廃墟がそびえ、骨組みだけ残されたその灰色の塔が建築中なのか取り壊し中なのかわからなかったが、あたりはしみだらけの壁に囲まれ、バラックが肩を寄せ合うように密集している。毛の一本もない犬が何かの塊を引きちぎっている。犬の鼻先は真っ赤に染まっていた。太陽は相変わらず頭上で照っているが、ここだけにその光は届かず、一帯は灰色に塗りこめられたようだった。排泄物や残飯が、髪の毛の一本もないセルロイド人形や空き瓶といっしょになって転がっている。よどんだ色彩がぐるぐると渦まくような匂いがたちこめていた。
 ふいに大声がし、飛び上がってあたりを眺めた。ごみの山に半裸の老人が立ち、ピストルを私に向け何か叫んでいる。すっと血の気が引いたが、ピストルはどうやらおもちゃだった。パン! パン! そう叫びながら彼は何度か私に向けて引き金を引き、次に自分の頭に向けてにっと笑う。歯がなく、目の焦点も合っていなかった。うっすらと恐怖を感じながらも、まだ先に進めばサジタが声をあげて驚くようないいものがあるような気がして、私は足を速めた。
 灰色の建物の前には明るい色彩が並んでいて思わず目を見張った。地べたに敷いた新聞紙の上に品物が並べられている。さまざまなものがあった。缶詰、カメラ、ボールペン、黄ばんだノート、洗剤、古びた靴、使い古した下着まであった。
 建物にそっと足を踏み入れる。一階では子ども達が円を作ってなにごとか話し合っていたり、駆け回って遊んでいた。肌の色も髪の色も、着ているものの色み見分けがつかないほど彼らは土埃にまみれていて、一瞬子犬がじゃれあっているのかと思った。建物の内部は秘密めいた場所を思わせ、ちょっと見てみるだけだと自分に言い聞かせて階段を上がっていった。むき出しのコンクリートはそこかしこにひびが入っていて、今にも崩れ落ちそうだった。二階に上がり様子をうかがいながら進むと、内部は太い鉄骨が飛び出していたり、錆びたドラム缶が転がっていたり、破れ目から中身をこぼしたままのセメント袋が放置されていたりした。どうやら建築途中のまま放置されているらしく、内部はほとんど仕上がっているようで、建物自体の外壁だけが内部の骨組みを残して崩れ落ちてしまった、そんな感じがした。転がった角材をまたぎ鉄屑をよけ、足音をたてないようにがらんとしたコンクリートの中を歩いた。
 コンクリートの壁でいくつも部屋が仕切られていて、はちの巣を思わせた。ところどころ部屋の入り口にぺらぺらのビニールシートや張り合わせた雑誌の切り抜きが簾のように垂れ下がっている。かと思うと何も貼ってなく、がらんとした状態のままで、向こう側に表の景色を見せている部屋もある。たぶん紙やビニールの扉があるところは人が住んでいるのだろうと理解した。三階まで上がったとき、傍の部屋からいきなり女が出てきた。私は驚いて彼女を正視したが、彼女のほうでもまじまじと私を見た。女は細く、ぎょろりとした目の片方は私を見ているが片方は天井を向いている。女は突然口を開き、母親がヒステリックに子どもを叱るような口調でわめきたてる。彼女の前では動くこともできず、自分が今ここにいる、旅行者の姿がまったく見られない特殊な場所に無防備に突っ立っている、そのことのおそろしさを初めて感じた。私はただ、動き続ける彼女の薄い唇を見ていた。彼女は私の腕をつかみ、ひきずるようにして階段を上がっていく。叫ぼうと思っても声が出ず、身を固くして彼女のつかんだ手首の痛さを感じ、私はここで殺されるのかもしれないといやに冷静に思っていた。
 女は私の手を引いたまま四階につれていき、一つの部屋の前まできてようやく手を離す。その部屋の扉は、見覚えのある、数年前爆発的に人気のあったアイドルのピンナップだった。女はさっきと同じ口調で奥に向かって何か叫び、私の顔も見ずにまた階段を下りていく。下りながらまだ何かを悲鳴に似た声で叫んでいる。扉に向直るとピンナップをめくって現れたのはがっしりした男だった。思わず身構えた私を上目遣いにちらりと見、
 「あんただれ?」
 確かに日本語を発音した。
 「日本の、人か」
 そう訊く私の声はかすれていた。そうだけど、男はいぶかしみながらつぶやく。男の顔立ちは一瞬この国の人のように思えたが、そういわれれば日本人にも見えた。さっきの女は私を日本人だと理解して案内してくれたのかと感謝するよりもまず安心し、目の前に現れた見知らぬ男の両腕を思わずつかんでいた。
 「迷って、全然知らないところ歩いてて、ここなんだろうって入ったらさっきの人につかまって、ここは何なの?」
 男は両腕を私に握られたままかすかに顔を歪ませて笑い、
 「落ち着きな」
 と言った。
 彼から離した私の両手はじっとりと汗ばんでいて、いきなり腕をつかんだばつの悪さをごまかすために、ああ驚いたと呟いた。
 「こっちも驚いたよ」
 男はそう言って鼻で笑う。そのまま私は男と向かい合い、所在なげに立っていた。しばらくして男は、
 「旅行者? お茶でも飲んでく?」
 自分の足元を見下ろしてつぶやいた。
 「いいんですか」
 「べつに。こんなところでよければ」
 そう言って彼は扉をめくった。中に入って唖然とした。散らかった部屋はいくらでも見たことがある。足の踏み場もないほどの部屋でも、そこからその人の暮らしがうっすらと浮かんでくるかぎり、その乱れ方はどこか納得できる。散らかしてあるものが雑誌だったりコーヒーカップだったり食べ残しだったり、生活内のものであれば納得ができる。彼の部屋はたしかに散らかっていた。しかしそこには、食器も筆記用具もなく、ただ鉄屑があるだけだった。
 正確には、古いマットレスを敷いた簡易ベッドが一つあり、その足元には数冊の雑誌が積まれていて、枕元には洗面器と洗面用具、ランプとミネラルウォーターの小瓶がきちんと並べられている。それ以外の床は、畳一畳分ほどを残して、鉄屑で覆われていた。それらがいったいなんなのか、鉄屑と呼んでいいものなのかどうかさえもわからなかった。おびただしい数のねじ、バルブ、水道の蛇口、丸かったりねじれていたりする何かの部品、自転車のペダルとホイール、元はなんだったのかわからないまでに分解された機械。驚いて部屋を見回す私にかまわず彼は手馴れたしぐさでランプに火をともす。部屋が明るく丸みを帯びる。ここはいったいなんだろう? 鈍い銀色を放つこれらすべてが何かの部品だといえば、ここは一瞬のうちに工場になり、ただの廃棄物だといえばごみ捨て場になる。命の宿った玩具だと考えるならば、無機質なものにしか性欲を感じない人間の部屋にすらなりえる。彼はなんの説明もしないまま、
 「ここが一応窓なんだけど。よく見えるでしょう、街が」
 と呼びかける。
 存在しない外壁一面には青いビニールシートが貼られてあり、一部分四角く切り取られている。彼の隣に立って表をのぞいた。たしかに小さな視覚の中には、ミニチュアの街がはめこまれていた。
 「ここは、なんなの?」
 おそるおそる訊くと、
 「家だよ、おれの」
 彼はまた足元を見て答えた。
 男はふと私を置いて出ていき、しばらくたってからコーヒーの入ったコップを二つ持って戻ってきた。
 「ある日本企業が新しい建物を作ろうとして、どんな理由でか知らないけどいきなり中止になったんだよ。それでずっとここは放置されてる。なんでもあるよ。病院もあるし、入り口にあるのはスーパーだろ、それから仕事をまわしてくれる裏の手配師もいるし、言葉を教えてくれる学校とかも。コーヒー屋なんかもあるんだ。ここまで作ってくれて放っておいてくれる日本の人に、感謝してる、それだけはね」
 ぼそぼそと言いながら、コップを床に置き、私にすすめる。
 「下に子どもたちがたくさんいた」
 「あそこは孤児院だ。あれみんな親がいない。それでこのへんの住人が面倒みたりしてる。面倒つったって食わせてあげられるわけじゃないから、グループどうしの諍いの仲介だとかさ、あと文字の読める人は教えたりね。最近じゃ日本人旅行者が増えたから、日本語教えてくれって子どもがよく来るよ。あいつらみんな、ポストカードとか地図とか、売ってるから」
 先日もらったポストカードの少年の顔が頭をよこぎる。
 男は一定のリズムで淡々と話した。彼はランプから煙草に火を移し、深く吸い込む。背筋を汗が流れていく。コンクリートに囲まれた部屋の暑さは重みを持っているようだった。灰色の壁を見ると、小さな虫の殺されたあとがシミになって残っていた。
 「ガサ入れなどとかは、ないの」
 「ああ、ここはね、ないんだ。しばしばおざなりで見回りにくるけど、その一週間前はもう情報が流れてる。だからといっても子どもが売り物の薬を隠す程度でね、まあ表向きはどうか知らないけど、公認なんだよ。売春宿まである」
 「そう、便利ね」
 「どうだかね。でもとりあえずおれはここが気に入ってる」
 彼はそう言って首を傾け、右の壁をじっと見据えた。突然尋ねてきた見知らぬ旅行者を迷惑がっているふうではなかったが、私はどこか落ち着かず、縁の割れたコップになみなみと注がれたコーヒーを長い時間かけてすすった。甘いミルク入りのコーヒーだった。黙って煙草を吸っていた男は壁を向いたまま、小さく訊いた。
 「どこへ行くつもり? これから」
 「今日どこに行くつもりで迷ったってこと?」
 「そうじゃなくて、あんた旅行者なんだろ」
 「ああ、まだ決めてないの。どこ行こうかなって考えてるんですけど」
 男は上半身をひねり、積み重ねられた雑誌の中からぼろぼろの地図を取り出して目の前に広げ、いきなり話し始めた。海が見たいのだったらここ、山だったらこっち、にぎやかなところだったらこのあたり、ドラッグが好きだったらここらへん、ビザの手続きが簡単なのはこのルート、統計的に一番いいと言う人が多い街はここと、地図の上で素早く指を移動させる。彼の知識の豊富さに驚いて地図を指し示す細い指をただ眺め、彼の口にする地名は頭の中を素通りしていった。
 「詳しい」
 「よく旅行者と話をするから。どこもこの目で見たことないけど、話だけは知ってる」
 「彼らが、ここに来て話すの?」
 「違う違う、こんなとこ、滅多に旅行者は来ないよ。おれが行くの。安宿街とか行って、話聞くの」
 「そう、わざわざ?」
 「そう。おれ、旅行者って好きなんだ。全部の旅行者が好きってわけじゃないけど、長い旅をしてる人が。長いって時間じゃなくって精神的にさ。旅的な生活しているあいだに目的もどこから来たのかもわかんなくなっちゃってる人がね。なんか崩れたコンクリって気がすんだよ」
 男は地図を畳み、折り目を指でさそりながら言う。突然にサジタの横顔が浮かび、次に自分が隣にいる様を思い描こうとしたがそれはできなかった。サジタの隣にいるのは、兄の姿であり、または恋人の男の姿であり、母の姿であった。私の姿はどこにも思い描かれなかった。
 「あなたは違うの?」
 「おれは旅行者じゃないもの」
 地図に目を落としてそう言いきる彼をまじまじと見つめた。たしかに、さっき彼が日本語を発しなければ、同じ国から来た人だとわからなかっただろう。たぶん道端に坐りこんだ物乞いは彼に向かって手を差し出さず、古びたガイドブックや地図を売る子どもたちは彼にまとわりつかないだろう。市場で売っている、この国の人たちと同じ衣服を身に着けても、どんなにうまく横断歩道のない道路を渡っても、旅行者はすれ違ったときすぐわかる。髪の色や顔つきではなくて、匂いでわかるのだ。自分にもしみつきはじめた匂い。屋台の主人や裸足の子ども達には愛想よく対応しても、ときおり彼らは同じような旅行者から目をそらす。見ぬ振りをする。その場所にいる自分は特別でもなんでもない、それこそただのコンクリートの塊や瓦礫の屑のようなものであることを、その匂いが告げあうのを避けている。目の前でコーヒーをすする男を、ふと羨ましく感じた。旅行者ではないと言いきる傲慢さと潔さが、無性に羨ましかった。
 「ねえあなたが会ってきたたくさんの旅行者の中で、私と同じ苗字の人いなかっただろうか」
 そう言って私は名乗った。
 「さあ、名前とか、覚えないから」
 「じゃあ、背はあなたくらいで、痩せ型で、もうずいぶん日本に帰ってないって人」
 男はちらりと私の顔を見て訊いた。
 「それ、兄弟か何か?」
 「兄」
 「いたかもしれないけど、ごめん、覚えてない。もしそういう人に会ってたらどうするの?」
 「どうするって」
 私は考えた。私は兄の何を知りたいのだろう。この男と兄が交わしたかもしれない会話の中から、何を抜き取りたいのだろう。ただ、私の身のまわりの人間で生きているかもしれないのは兄だけだという事実が、私に何かしらの道しるべになっているのだと錯覚していた。
 「ちょっと訊いてみただけ」
 口の中でつぶやくように言った。悪いね、お役にたてなくて。いっさいの質問もなく、申し訳なさそうに彼はつぶやいた。
 「この部品みたいなものは、いったいなんなの?」
 訊いていいのかどうか躊躇したが、話題をそらすために、入ってきたとき感じた疑問を口にした。
 「がらくた、ジャンクだよ」
 彼は手近にあった一つを手に取り、人差し指で数回さすって隅に放った。
 「なんて答えるかなって一瞬期待しちゃった。何かを作るための部品って言われれば、あなたはエンジニアに見えるし、言っちゃ悪いけど、友達とかいとおしむべき対象とか答えれば、鉄屑フェチにも見えるじゃない」
 「じゃあがらくたって聞いて、おれはいったい何ものに見えるわけ?」
 彼はなんだか楽しそうに訊く。笑うこともできるようだった。
 「そりゃ、がらくた好きでしょう」
 答えると彼は声を立てて笑った。
 「これ、市場のジャンク屋に持っていけばね、五キロいくらで引き取ってもらえるんだよ」
 「じゃあ集めて、売るんだ」
 「売るつもりじゃない、ただ好きなんだ。こういうのに囲まれてると、安心するんだ」
 男は鉄屑を見回しながら独り言のようにつぶやいた。
 「晴れたな」
 振り返って彼はぽつりと言い、視線を移すと彼の背後のビニールシートは橙に染まっていた。拒絶されているわけではないのにこの場所で落ち着くことができないのは、見知らぬ部屋だからではなく、またその部屋が奇妙であるからでもなく、淡々と言葉を重ねる男がけっして私の目を見ようとしないからだとぼんやり気づいた。
 どこからか女の叫び声が聞こえてくる。何を言っているのかわからないが、だれかを罵っている様子なのは声の調子でわかる。先ほどの女とは違う、何か感情のこもった怒鳴り声だった。目の前の彼は苦笑して言った。
 「下に娼婦とそのヒモがいてさ。いつもあんなふうに喧嘩してる。饅頭食ったとかそんなことなんだけどさ」
 甲高い女の罵り声と、ビニールシートを染める橙色は妙にマッチしていて、ふいに声をあげて泣きたくなった。今あのシートをめくり、彼方の街に沈んでいく金色の太陽を見ればたぶん抑えきれずに泣くだろうと思った。夕食の匂いがただよう路地を、掌も頬も橙に染めて泣きながら歩く子どものように。兄の手が私の腕を取るのを期待して、ことさら声を荒げたあのころの私のように。恋人との仲をだれにも認められず、あきらめかけた私を自身の手で奮い立たせるようと立ち上がった男が死んでいくさまを、指をくわえて待っていたあのころの私のように。母が運ばれた病院の暗い渡り廊下の公衆電話で、必死に兄にすがりつきたいと思いながらもそれを口にできなかった私の心の中のように。
 ビニールシートの色がじっとりと重くなり、部屋がランプにくまなく照らし出されるころ私は立ち上がった。途中まで送っていくと彼も立ち上がる。空のコップを持った彼はランプに息を吹きかけ、部屋は一瞬のうちに、海の底を思わせる深い青に染まる。ピンナップの扉をくぐるとき何気なく振り返ると、海に映った星空みたいに詰まれた鉄屑がちらちらと光り、片隅に週刊誌の日本語がぼんやりと浮かび上がっていた。
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