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東雲のきみは 5 終

 ホテルに帰る前に、郵便局に行ってスガノくんに電話をかけた。小包の届いた報告をしようという口実を作ったが、本当はそんなことはどうでもよかった。昨日会っていたような気安さで、おやすみ、だとかまたな、だとか言って欲しかった。母のように、兄のように、あの人のように。
 「ああ、届いたんだ、よかったな」
 受話器の向こうで聞きなれた声は言う。ありがとう、私は言う。
 「ずいぶんかかったみたいだけど、平気だったんかよ」
 「うん、なんとかね。ほかの旅行者に頼ったり」
 とっさに嘘をついた。私の言葉をさえぎって、スガノくんは思い出したように言う。
 「そうだ、おにいさん、帰ってたよ」
 「え?」
 ずらり一列に並んだ電話では各国の旅行者たちが受話器を握っており、飛び交うフランス語や英語から彼の言葉を抜き取るために、受話器に耳を痛いくらい押し付ける。
 「何て?」
 「友達に電話かけようとして、間違ってあんたんちかけちゃったんだよ、指が勝手にさ。そしたらおにいさんが出た」
 「それ、いつごろ」
 「一週間くらい前かな。あれ、帰ってるんですかって思わず言っちゃって」
 「それで」
 後ろの窓口で局員が数える紙幣の音も、天井にはりついたプロペラの音も耳障りに思えた。この電話だけ残してすべての回線がショートしてしまえばいいと願いながら受話器の声を待つ。
 「ああ、帰ってきてみたって言ってた。今度は下がいないよって、笑ってた。あの感じで。それだけ」
 あの感じとスガノくんが言うのは、ため息を漏らすような兄の笑い方のことだ。すぐ目の前で、かすかな息を漏らして兄が笑っているように思えた。
 「帰ってきてみたってことは、またすぐどこかに行っちゃうってこと?」
 「さあ、そこまではちょっと」
 スガノくんにしつこいくらい礼を言ってから、もう一度国際電話申し込みの列に並びなおし、自宅に電話をかけた。だれも出ず、呼び出し音が執拗に繰り返される。暗い廊下の突き当たり、古びた木製の上で鳴り続ける電話機が鮮やかに思い浮かんだ。それをじっと聞いている、食堂のテーブルやキッチンの調理器具たち。二十回コールを鳴らして諦め、私は郵便局をあとにした。


 ホテルへの道中、いつも夕食をとる食堂をのぞいたがサジタの姿はなかった。鍵をまわし扉を開けると、窓辺の水も壁に貼ったパンフレットも、机に並べてある石ころや空の鳥かごもそのままなのに、サジタのナップザックがなかった。ロープに吊るしてあった彼の下着もなくなっている。くず籠や机の引き出しを意味もなく捜し、ベッドの下をのぞきこんでみたりした。ベッドの枕元にメモが一枚あった。聞いたことのない島の名称と、そこへの簡単な行き方が書いてあり、最後に自分の顔のつもりなのか、ぼさぼさ頭と目にバツ印をつけたイラストが描かれていた。今日ほかの旅行者と話しているうちにどうしても行きたくなった、チケット買えちゃったので今日行くことにした。急いでいたのか、読むのが難しいほどの殴り書きだ。もともと字が下手なのか急いでいたのかわからないが、自分の宿泊費は支払いを済ませておいた旨書いてあり、最後に、もし島に行くならそこで、行かないならまたどこかできっと会おうとあった。部屋に残された、「その日の一番いいもの」をぐるり見渡す。汗を流し足を棒にして捜しまわった、なんの役にもたたないものは各々の居場所でじっと息をひそめている。きっと自分自身も彼らとなんら変わりなく、息をひそめて成り行きを見守るただの置物にすぎないように思えた。
 手近にあった石ころをくず籠に捨てた。さほど広くない部屋を駆け回るようにして、壁に貼ってあるパンフレットを引き剥がし、羽やポストカードやエロ雑誌や目につくそばから捨ててまわった。床にしたたり落ちた汗で幾度か足を滑らせ、体を包む熱気を振り払うよう大袈裟な手振りでものをくず籠に投げ入れ、乱れた呼吸が自分の耳元で感じられるころようやく部屋は、無愛想な安宿の一室に戻る。ただ一つサジタのベッドサイドに置かれた鳥籠だけが、この一室に不自然なものとして取り残されていた。なぜサジタは石ころと鳥籠を捨てなかったのだと考え目を閉じると、ぼんやりと頭に思い浮かぶのは、しかし不釣合いな眸の切り傷一つだけだった。

 切符に書かれた発車時間まであと一時間あった。人でごった返すバスターミナルに国際電話の貼り紙を見つけ、コレクトコールを申し込む。交換手はていねいな口調で、少々お待ち下さいと告げた。電話ボックスの中に入り込んだ一匹の蠅が、やかましく羽音をたてて飛びまわる。汗がうなじをつたう。外の空気を入れようと片足でドアを開けるが、陽にあたためられた空気が入り込んでくるだけだった。もう一度受話器の向こうに現れた女は、機械的な声で告げる。
 「先方はお出になりませんが」
 受話器を置き、今度は直接かけてみた。番号を押し終え、しばらくの沈黙のあと、聞きなれたコールが遠くで鳴り始める。それは幾度も繰り返されるだけで、だれも出る気配がない。受話器を戻し、もう一度押しなおす。同じことだった。薄汚れたガラスからバスターミナルを眺め、次第に粘つくように感じられるコールの音を聞き続ける。一列に並んだ、強い日差しに背を光らせるバス、天秤棒をかついで何かを売って歩く女たち、しゃがみこんで飯をかきこむ男たち、目的もなさそうにあちこちに坐りこんでいる数え切れない人々。それらの光景のずっと先に、あの家の門が見える。私の視線は門を開け、玄関を開け、鍋ややかんや花の活けられていない花瓶や、それぞれのものがじっとその位置を守っているキッチンをのぞき、閉ざしたカーテンが陽をいっぱいに吸い込んでいるリビングをのぞき、兄の使ったあとは必ず数センチドアの開け放たれているトイレを確かめ、階段を見上げる。廊下の隅で鳴り続ける電話の呼び出し音を聞きながら、がらんとした家の中に、兄の気配を懸命にさがしている。兄の気配がないことを認め、今度は誰も足を踏み入れないだろう自室にもぐる。机と本棚しかない無機質な部屋はいつもどおりだった。本棚に立てかけられた埃まみれの写真立ての中では、私と恋人がこちらを向いて引き攣り笑いをしている。写真立ての足元には、彼が使っていた地味な青いシンボルのネックレスが横たわり、シルバーの部分は錆びている。鼻を近づけて嗅ぐと、ふいに日向の匂いがした。

 意識を返し、視線をターミナルに戻したとき、これから自分が乗るバスが停車しているのに気付いた。バスの最前列に寝転がり、窓に足を放り出していた運転手はけだるそうにバスを下りてくる。ゆっくりとバスの前に立ち、ポケットからマッチを出して持っていた線香に火をつける。それをバスの前方に差込み、浅黒い両手を組み合わせ、そっと目を閉じて動かなくなる。線香から上がる細い煙が、照りつける陽に溶けていく。手を合わせた姿勢のまま動かない男と目が合い、男が気まずそうに視線をはずしてから、私がみっともないくらいに号泣していたことに気づいた。私は男の背中に焦点を合わせ、受話器を置いた。
 バスは、見慣れた街をすり抜けていく。あの角には煙草屋がある、あの裏には豚の頭を並べた中華料理屋がある、サジタと酔っ払って歩きあの店でライターを買った、よく食事をしていた店の、お下げ髪の店員が後姿を見せている、やがて見知った目印がなくなるころ、絶え間ない振動の中で眠りに落ちた。

 固いシートの上で目を醒ますと前方に夕焼け空があった。あたりは一面田園風景で、たかく聳える建物はいっさいなく、さえぎられるものがないまま広がる夕焼けは巨大だった。夕焼けに包まれるように水牛が草をはみ、子どもたちが畦道を走り、男がしゃがみこんで作業をしている。幾重にも重なる分厚い雲が空を覆い、赤、青、紫、ピンク、思い思いの色に染め上げられている。金色に輝く筋がいくつも地上に投げかけられ、私の乗ったバスがどこへ向かっているのかわからなくなる。あの光の筋の真下まで行けば、バスはそのまま上昇を始めるのではないか。美しい色彩を映す空に吸収されていくのではないのか。そして私は、このままどこへ行きたいのでもなく、それを望んでいるのではないか。ときおり雲の合間からのぞく金色の玉はゆるやかな速度で沈みこみ、それから目を離さずにいると周囲の景色は消え始める。田園も草をはむ水牛も、ぽつりと建つ農家も、頭の片隅にこびりついていた我が家の玄関も、キッチンもリビングも消え始める。太陽が沈みこむ前にふたたび眠りに就いた。果てのない夕焼け空はまぶたにはりついてちらつき、やがてそれは夢に変わった。

 サジタのメモにあった島までの遠い道のりを、さいころを投げて進む双六のようにのろのろと進んだ。国境近くの村に、国境を渡ってそのこぢんまりした町に、まっすぐ首都へは向かわずに、下りようと思いついた箇所で汽車を下りてその場所に滞在した。人々の衣服が変わり、話し言葉の調子が変わり、建物の様式が変わり、食べ物の味が変わったが、それだけ移動しても地図を広げればそれはほんの数センチで、どこも今までいた街と同じにひどく暑かった。私は何も見ず、何にも心を動かされず、ただ機械的に移動し、終日過ごした。街をうろつき、日陰や屋台の片隅にくずれたように坐って休み、飯をかきこむ異国の者に、珍しげな視線を向ける人もいればまったく関知せず通り過ぎる人もいた。朝方仕入れたパンを運んだり、昼過ぎに木陰で賭け事を始めたり、きっかり十一時に店を閉めたり、その日その日を忠実に繰り返していく人々の暮らしを私は目の表面で追っていた。
 郵便局を見つければその小さな暗闇の中に入り、習慣のように家の番号を押した。だれも出なかった。諦めて受話器を元に戻さない限り、苛立たしい呼び出し音が耳の中を満たした。
 場所を移動するたび私は地図を広げ、サジタがいるはずの島までの距離を測った。人差し指くらいだったその距離が、第一関節になり、爪ほどになり、爪の先くらいまで近づくと、そこへ行くのがひどく楽しみであり、また不安でもあった。そこでサジタと会い、また馬鹿騒ぎをしたり格闘技めいたセックスをしたりたから捜しをしたりするのか。けれど行く先を変える気などみじんも起こらず、頭の中にあふれだすさまざまな問いと振り払うように私は爪の先を示す場所を目指し続けた。

 サジタと会ったのは、島へ渡るフェリーの出る小さな村だった。道は舗装されておらず、藁で編んだ屋根の民家と店の区別がつかないようなところだが、フェリー乗り場に近づくにつれ、ここを通貨する外国人をあてこんだらしい、しゃれた造りのコーヒー屋やみやげ物屋が並び始める。フェリーが出るのは週二回だけで、次の便を待つため宿を取った。
 村に宿泊施設は一つしかなく、フェリー乗り場からずいぶん離れたところにあるバンガローだった。薄暗い食堂の奥に受付があり、受付の若い男ははにかんだような笑顔で部屋の鍵と蝋燭を渡す。電気は自家発電で、夜十時を過ぎたら消えてしまうのだと彼は言った。蚊帳つきベッドが一つあるだけの、じつに質素な部屋に荷物を降ろし、食堂へ行ってコーヒーを頼んだ。薄暗い食堂には私以外だれもいない。テーブルの隅で蠅が数匹、じっとこちらをうかがいながら細い手をこすりあわせている。コーヒーが好きだった母、蠅が手を合わせていることに笑う私を見て微笑んだ恋人、ひとけのない店で本を読むのが好きだった兄が、なぜかこの空間のどこかに漂っている気がした。バイクも自転車も通らない表の道路は、熱気のせいで線を歪ませて光っていた。表で埃を舞い上がらせて遊んでいた子どもたちは、暗闇の中に私の姿を見つけ、そろそろと近寄ってくる。笑いかけるとはしゃいだ笑い声を響かせて走り出していくが、しばらくするとまたそっと店内に足を踏み入れる。
 兄の手紙を読み返したり、ブレスレットを弄りながら、どろりとした甘い液体を飲み終えるころには、五、六人の子どもたちはいくぶん慣れて私を取り囲むようになった。Tシャツもパンツも埃まみれの男の子が私を指し、小さくジャパンと言う。そう、ジャパンだと答えると、彼らはいっせいに甲高い声で笑い転げる。私たちのあいだに共通の言葉はそれ一つしかなく、ジャパンと指され、ジャパンと答え、それをしばらく繰り返した。髪を三つ編みに結った、みんなより頭一つ大きい女の子が、ジャパンとつぶやきながらしきりに手招きをする。
 「何?」
 コーヒー代金をテーブルに置き、彼女の指すほうへ足を踏み出す。彼女はうつむいて笑いながら、私の手をとり歩き始める。背丈の小さな子どもたちもみなついてくる。ジーンズの破れ目に小さな指をつっこんだり、Tシャツをすこしめくってくすぐってきたりする。
 表をぐるりとまわり、立ち止まった女の子が指すのは11と番号の書かれたバンガローだった。日本人がいるのかと訊いたが、彼女はただ部屋のドアを指すだけだ。私は女の子の手をそっとほどき、その部屋に近づいた。子どもたちは笑い声を抑えて私の後姿を凝視している。
 うすっぺらい木製のドアをノックした。しばらくして、イエスとくぐもった声が中から聞こえる。
 「サジタ?」
 呼びかけると、私の声に驚きもせず、
 「開いてるから、入ってきて」
 返事がかえってきた。
 ドアを開ける。私の部屋とまったく同じ造りの狭い部屋の、ベッドの上にサジタはいた。何倍にも凝縮したような熱気が私を包む。窓を閉め切ったその部屋のベッドで、サジタは毛布にぐるぐる巻きになって横たわっていた。後ろ手にドアを閉めると、背後の木陰ではやしたてる子どもたちのまぶしい声がすっと遠ざかる。
 「寝てた?」
 室内の暗さに慣れた目に映るのは、毛布からどす黒い顔を出している男だった。どうした? 声をひそめて思わず訊く。サジタはそれには答えず、
 「今日着いたの? 船さ、なんか水曜と土曜しか出ないんだよね。その前日は長距離バスが来て、島に渡る人たちでここもずいぶん賑やかになるんだよ。島自体有名じゃないから、地元の人がほとんどだけどね。ちょっと長居しちゃってるから、詳しくなっちゃって」
 かすれた声で言い、息だけで笑う。笑い方は兄のそれと同じだが、温もりがない。
 「長いって、どのくらいいるの? どこか具合悪いの?」
 「風邪だとおもうんだ。二週間前にここに着いて、一週間くらいはずっとこんな調子さ。普通おれ、風邪だったら自力でさ、三日くらいで治しちゃうんだけど、あんまりいいもん食ってなかったから、だいぶ弱ってたみたい」
 「病院へは行ったの?」
 「行ってない。じきになおると思うんだけど」
 閉められたカーテンの隙間から、表の木々が見える。はじけるほどの陽射しに踊らされるように木々は葉を揺らしている。
 「調べるから、一緒に行こう病院」
 「平気だよ」
 寒いのか、毛布の下で小刻みに身体をゆすっているサジタはさらりと答えた。
 「欲しいものがあれば買ってくる。食べ物とか、飲み物とか」
 サジタはしばらく考え、何も欲しくないと言った。笑顔の作り方が、恋人だった男とそっくりだった。子どもの詰まらない冗談を聞かされて、愛想笑いを返すようなつくり笑いだった。まいったなあ、そうつぶやいてサジタは今度こそ面白そうに笑った。黒ずんだ顔に、この厚い部屋で毛布をかぶっている自分が、予定外のトラブルが面白くてたまらないと言うような笑顔がはりついていた。彼は数回乾いた咳をし、
 「すこし寝る」
 そうつぶやいて目を閉じた。
 部屋を出るとき、彼は私を見上げておやすみなさいと言った。カーテンの赤に染め上げられた彼の顔は、パンくずの中に落ちていた原色の鳥にどこか似ていた。

 明くる朝サジタの部屋を訪ねた。相変わらず毛布にくるまっていた彼は、私の姿を見るなり病院に連れて行ってほしいと言った。毛布から出した彼の顔には汗がびっしりと浮かび、私の腕をつかむ彼の手は震えていた。バンガローの受付で病院まで車で行ってほしいと頼むと、受付の男は奥の部屋に何か叫び、まだ少年の面影を残した若い男が車のキーをもてあそびながら出てきた。
 「ゆうべから今朝にかけて」ジープの中で毛布から顔を上げ、サジタは言う。「吐き気と下痢がとまんなくてさ。トイレ行って困っちゃったよ。だって両方出てきそうで、どっち向いていいかわかんないんだもん」
 道の両側に並んでいた藁葺き屋根の家が消え、茶色い草をはやした畑がそれにかわり、日陰のまったくない道をジープは延々と進んだ。無数にある道の窪みにはまるたびジープは大きく揺れた。私は幾度か身を乗り出し、病院はまだか、この道でOKなのかと声をはりあげて訊いた。若い男は鼻歌を中段し、人なつこそうな笑顔で振り返りOKという言葉だけ通じるのか、真似するような口調でOKと叫び返す。
 丘のふもとにこぢんまりした郵便局があり、その丘の上に病院はあった。郵便局の前でジープを停めた若い男は運転席から下りず、上がっていけとしぐさで示す。サジタを支えるようにして坂を上がり、色とりどりの花を咲かせる庭を進んでいくと小さな建物が見える。病院と呼ぶのが不安になるような、ドアもなく、窓にはガラスもはめこまれていない、粗末なコンクリートの小屋だった。入り口らしきところで声をかける。まず犬がのっそりと現れ、続いて小柄な老人が現れた。黄ばんだYシャツに短パン姿の、散歩途中にひょっこり立ち寄ったような老人が医者らしかった。
 色あせたカーテンが風になびく診療室で、老人はサジタを診察した。サジタが熱を計っているあいだ、粗末な部屋、粗末な机、粗末な医療器具、床に並べられたラベルのはげかけた薬品を順々に眺めた。熱を計り終えるとサジタの目の玉を開いて覗きこみ、まったく聞き取れない言葉を早口で話し出す。聴診器も使わず、採血もせず、ろくに診ていないように思われるのに診察はそれだけだった。風邪か? 大丈夫だろうか? サジタは英語で何度も訊くが、老人はうなずくだけで部屋を出ていき、大粒の薬と水の入ったコップを彼に渡して身振りで飲めと言う。サジタはそっと私を振り返った。私は腰を浮かせ、彼の掌にのった真っ赤な五粒の薬をおそるおそる見た。サジタは意を決したように次々と飲み込む。老人はそれを見届け、OKの一言を連発させていたが、急に天井を向き、サクラ、サクラと歌いだした。素っ頓狂なそのメロディは聞き覚えのある歌で、私とサジタは顔を見合わせた。そこから先は続かず、老人はもう一度天井をにらみ、同じ節を歌いじっと考え込む。それから私たちに視線を合わせ、オハヨウ、アリガトウ、そう言って両手を合わせた。
 病院を出るとき医者は入り口まで私たちを見送りにきた。これでもういいのか、治るのか、先を歩くサジタの背中を横目に私は医者に何度も訊いた。何度訊いても老人は理解できない言葉をべらべらと言い、合間にOKとつぶやくだけだった。彼に頭を下げて入り口を出ると、背後で小さく桜の歌が聞こえた。振り返ると老人は笑みを浮かべた。口元をほころばせているが眼鏡の奥の目は笑っていず、こちらを見てもいず、私はあわてて視線をそらした。坂を下りる途中サジタも私も何も言わなかった。ジープが走り出してしばらくしてから、サジタは思いついたように言った。
 「おれ保険入ってるから、上乗せして手続きすれば、ちょっと儲かるかもしれない。残金少ないから、病気になってラッキーだったかな」
 その思いつきがさも素晴らしいかのような口ぶりだったが、彼は笑っていなかった。私はそれについて何も言わず、彼もじっと目を閉じてジープの揺れに身を任せていた。サジタの閉じられた眸に残る傷跡が、初めて今の彼に似合っているものとして存在していた。戦場に身を置くものとして佇む、静かな殺生与奪の気配が彼の肩の奥にある気がした。しかしサジタはそれに気づかず、感じず、行き着く果てがどんなものなのかを探り当てようとしている。そして私は、それをよくないものだと予感している。
 部屋に戻ってすぐ、サジタは気分が悪いと言ってうずくまった。
 「悪いけど、バケツ持ってきてくれるかな、シャワーのところにあるから」
 共同のシャワー室から持ってきたバケツを抱え込み、数回うめいてからサジタはものすごい勢いで吐いた。
 「酔ったのかな、すごい揺れてたし」
 言い終わらないうちにまたバケツに顔を埋める。サジタの背中をさすっていると、さすられるのが気持ちいいのか、気取った態度は影をひそめた。吐しゃ物のすえた匂いが漂う。サジタの掌にのっていた赤い粒と、天井を見据え桜の歌を歌う老人の見開いた目が頭にちらついていた。

 いつ訊ねてもサジタはベッドに横たわっていた。身体が鉛を詰めた袋みたいで身体を縦にするのがつらいと言う。はじめのうちは木の枝を杖に見立て、よろよろとだが食堂まで行き、粥を一口二口すすっていたが、次第に立つこともできないと言い出した。果物やパンを持っていっても、吐いてしまうからと何も食べず、果物のジュースだけを心細い音をたてて吸い上げた。一時間に三度は、ベッドからなかば転げ落ちるようにしてトイレに這っていき、
 「泡しかでねえ」
 と、ひとごとみたいに笑う。
 私は船を見送り、毎日サジタの部屋を訪れて日を過ごした。訪れるごとに彼の部屋に漂うすえたような異臭は濃さを増し、閉じられた部屋の中で渦まく熱気とともに私を包み込んだ。あの赤い薬はなんだったのか、三日もすると彼の頬はげっそりとこけ、どす黒い肌の中で目玉ばかりがぎょろぎょろと光っていた。ニ付けが一日変わるごとに彼の身体は肉を落としていくように見えた。腕の太さが私の腕の二倍ほどあったはずのそれはみるみる痩せ細り、丸く膝が飛び出て、手の甲は定規で引いたみたいに筋張って骨を浮き上がらせ、くりぬいたような鎖骨のあたりに水を張ればそこで金魚が飼育できそうだった。この部屋に痩せ細った病気の日本人が寝ていると噂でも流れているのか、ときおり部屋の窓からこちらを窺うニ、三人の姿が見えた。買い物かごを頭に乗せたり、しめたばかりの鶏をぶらさげてこちらをのぞく彼らは、私がドアを開けるとぱっとその場を離れていく。けれどサジタは相変わらず会ったときとかわらないこざっぱりした表情で、もの珍しげに痩せた手足を眺めては私を笑わせるために一言何か言ってみせた。何も不安に思わないのだろうかと私はいぶかしんだ。あっけなく死んだ鳥をぽいと捨てたその感覚を、自分自身に対しても持っているのだとしたら、今この状況がどの程度深刻なのか、彼の眸を見ながら考える。
 寒気はとりあえずおさまったと言うサジタの毛布をバンガローの軒先に干すと、舞い上がる埃とともに日だまりに寝そべる犬のような匂いがした。どこかで嗅いだことのある匂いだと思ったら、それは日向の匂いであり、それは実家の本棚から漂う匂いであり、それは記憶の先のものたちと同じ匂いだった。
 午前中飲み物を運び、サジタが眠ってしまうとその日一日の暇をつぶすために私は船着場へ向かう。土産物屋を眺め、道端に品物を並べるだけの市場を眺め、やがて潮の匂いとともに現れる海の向こうにぼんやりとかすむ、緑に覆われた島を眺めた。私が近寄ると人々は顔を上げて凝視する。歩いているだけで視線を感じるのには慣れていたが、彼らの視線がそれとは微妙に違っていることにあるとき気付いた。バンガローを出、民家に囲まれた一本道を歩いていくと、向こうから歩いてきた女は避けるように道を空ける。食堂の前で遊んでいた子ども達が私に近づこうとすると、年老いた女が抑えた声でそれを止める。近くの駄菓子屋では、店先に腰を下ろしていた幾人かが通り過ぎる私を指して、真剣な表情で額を寄せる。食堂でコーヒーを飲んでいると、いつも受け付けにいる男がおずおずと近づいてきて、11号室の男は大丈夫なのか、いったいどうしたのかと耳打ちしてくる。この近くにもっと大きな病院はないかと形式的に尋ねてみた。街まで行けばあるけど、そんなに悪いのか、男はそう言っただけであたふたと持ち場に戻ってしまう。やがて笑顔だけは向けていた子どもたちも、私の姿を認めると木陰に隠れて無言のままこちらを見つめていた。
 こちらを窺う視線を感じて、サジタの部屋のドアを開けると、そこに立っていたのは年配の欧米人だった。派手な色合いのシャツを着た男はドアの隙間からこちらをのぞきこみ、つれの男は病気なのかと訊く。私は手短に説明した。待っていろと言い残し、彼は向かいの部屋に消える。数分後、戻ってきた男は薬の瓶を差し出す。これはビタミン剤だとラベルを示し、私の掌に三粒のカプセルをのせる。私が礼を言う前に、グッドラックとつぶやいて彼は立ち去った。
 しばらく掌でカプセルを転がしていたが、部屋に戻ってサジタに見せた。飲んでみるかと訊くと、サジタは私にガッツポーズを作り、何も言わずに三粒を口に放り込み水で流し込んだ。そのままうとうととまどろみ始めたサジタは突然びくりと飛び上がり、歯をがちがちと鳴らし始めた。驚いてのぞきこむ私を、見開いた目で見つめ、
 「しびれる、身体中が、しびれる」震え声で言い、「効いてるってことなのか、これ、効いてるのか? ちょっとすげえ、おれどうなっちゃうんだ」
 忍び泣くような、笑いをこらえるような息を漏らす。歯、歯の根があわねえ、目もちかちかして、さっきの、なんかやばい薬だったりして。がたがたと全身を震わせながらサジタは茶化そうとしてみせたが、どう見てもその様子は尋常ではなく、私は部屋を飛び出して受付に行った。病院まで至急車を出して欲しい、サジタを車で運んでほしいと大声で叫ぶと、受付の男はぱっと顔色を変え、奥の厨房からも三、四人が飛び出してきた。彼らは何か早口でしゃべりながらつれだってサジタの部屋へ向かう。彼らがサジタを部屋から連れ出すときには、食堂の前に数人の人だかりができていた。周囲は急激ににぎわい始める。受付の男に抱きかかえられるサジタを取り囲み、まるで闘鶏の試合に臨んでいるようにみな何かを叫ぶ。私はぽかんとその場に立って、幾人かの手がサジタに毛布をかけたり、得体の知れない体液を数滴ふりかけたり、子どもの手を引いた女が家から飛び出してきて輪に加わったりするのを眺めていた。何が起こっているのかさっぱり理解できなかった。が、そういうことなのだと、とっさに理解もした。ここは日本ではない異国の土地ではあるが、世界は繋がっており、どこへ行っても村八分はあるし、人々は身を守るためであればどんなことでもするのだと。

 母が死ぬ数ヶ月前、私の恋人だった男は一つ電話をよこしてから日本を発ち、私たちのような者をソドムとゴモラとする国を訪れた。露店や行き交う人々の生活感あふれる姿は、どんな貧しい国にも同じ時間のなかに流れてはいた。しかし彼が求めていたものは、すぐにその町中で発見されることになった。成人していないだろうある少年が町の往来で磔にされ、今まさに公開処刑されようとしていたのだ。その少年が男と寝床を共にし、それが発覚したことを理由に処されるのだと野次馬から情報を聞き出すと、彼はその場に立ち尽くし少年が息絶えるその瞬間まで見守っていた。磔にされて母や父の名を叫びながら投石の痛みに耐える少年の姿は、彼にとってまさしく等身大の現実だった。同じ釜の飯をともにした旧知の仲も、石を投げる人間のなかにいたのだろう。少年の口から聞き慣れない人名が、やめろやめてくれの間に叫ばれる。直線を描いて投げつけられる無慈悲な無数の石たちのなかに、私の恋人はいったい何を見たのか。分かりやすい答えを出さない日本と、宗教が政治に深く立脚している国との違いを等身大に引き受けるには、彼は実直すぎており、純粋だった。謝意を含んだ短い遺書を私に送ると、彼は現地で手首を切った。
 世界に存在する固い決まりごとの横で、人々はそれに従って生きているものと信じていたが、どうやらそれらは逆であるようだった。人々の考えが先行し、国やものごとがそれに従うということ。人々の頑なともいえる姿勢に、彼は世界中のどこにも自分たちの居場所を作成することはかなわないのだと結論づけた。私にその居場所を提供させるだけの頭とおおらかさを身につけて帰国すると啖呵を切った彼の顔は、どんな表情だっただろうか。手首を切る直前、彼の脳裏を横切った世界には、どんな人々が映っていただろうか。そして私は彼の死を、どう捉えていただろうか。なぜ彼は結論を出すことに急いていたのだろう。実直な彼が私の無感動な人間性に調子を合わせていたことや、彼が実は人間味あふれるごく普通の人間であることに私は気づかぬふりをし、与えられるだけの答えを待ち続けていた。彼の死因が社会にあるのか、それとも私に起因するのか、私はもう彼に問うことはできないし、自責にとらわれるにはおこがましい身分のような気がしていた。

 彼の死への謎解きをするには、目の前に広がる光景はこれ以上にない思考の妨げとして忙しなく蠢いていた。部屋に寝たきりの異国人を気味悪がり、私をも避けていた彼らは、いまや全員が救急隊員のように動きまわり、声をかけあい、TV画面に食い入るように背伸びをして見ていた。サジタを運んでほしいと頼んだとき顔色を変えた受付の男の表情を思い出す。彼はあのとき、まずいことが起きたと青くなったのではなく、ぱっと顔を輝かせたのだ。ジープの後部座席にサジタが、このあいだの若い男が運転席におさまると、男たちは自分も行くと言わんばかりにジープに乗りこみ、一台の車はあっという間にすずなりになる。受付の男は一人ずつ引き下ろし、私のほうを向いて、一緒に行くのか行かないのかと叫ぶ。私はあわてて後部座席に乗り込んだ。振り返ると、その場にいた人々は、夢中で見ていたTVのスイッチを突然切られたような表情で、いつまでもこちらを眺めていた。
 この前と同じように病院の入り口で声をかけたが、だれも出てくる気配はない。私の足元に鼻をこすりつけていた犬はのっそりと奥へ消える。ついてきた受付の男がサジタを支える恰好で、勝手に中に入っていく。診療室にも、そのほかの部屋にも人の気配がない。ベッドが二つ並んだ部屋があり、男はサジタをそのうちの一つに寝かせ、医者を捜してくると言い残し出て行った。バンガローの古びたベッドと変わらない、シーツもマットレスもない汚いベッドだった。いつの間にかついてきた犬が一緒になってベッドをのぞきこむ。
 天井にはやもりが数匹へばりついていた。窓からは、花の咲き乱れる庭が見渡せた。身体を振るわせるサジタの下でベッドがきしむほかは、まったくの無音だった。カーテンをはためかせ心地よい風が顔を撫でる。風は私のシャツを通り、サジタの前髪を揺らす。
 「おれ、死んじゃうのかもしれないな」
 サジタは天井を見据えてぽつりと言った。そう言って短く笑った。この子はなんて顔をしているのだろうと、私はまじまじと彼を見下ろした。どうして今まで気づかなかったのか。何が自分を面白がらせるのかを敏感に察知して、ほかになんの意味をも求めず、その嗅覚の向かう方向に足を踏み出していた彼は、何かを必死に求め、捜すような目つきをしていた。彼は自分がそんな目をしていることに気づいていないに違いない。
 どこに行ってもいるバックパッカーたち、一様にある種の汚れを身に纏った彼らのなかに、ときおりそんな目をした人がいる。もう何年も出てきたところに帰らない自分が特別だとか、特別でないとか、そうしていることの意義だとか、そんなこととはいっさい関係なく、自分がどこにいるかもわからずただひたすらに捜しものを見つけようとしている目だ。鉄屑部屋の男が言っていた「崩れたコンクリ」だ。捜し物はコンタクトレンズのようなものかもしれない。ぼんやり焦点をずらしてしまった世界に両腕を突き出し、手探りで小さなコンタクトレンズを捜し続ける。焦点の合う場所を探し続ける。目の前の、一枚の皿に似た世界の縁にたどりつくまでにそれをなんとか見つけなければならないのだ。それが、すでにある足跡をたどるだけの行為だとしても。どの程度終着点を意識しているのかわからないけれど、突然捜し物ができなくなることを彼は恐れている。捜し物を見つけられないまま旅が終わってしまうことを本気で恐れている。
 じっと天井を見据えていた彼はもう一度目を閉じた。ついてきた犬はベッドの下にうずくまり、柔らかそうな毛並みの中で目を閉じていた。

 私はそっと部屋を出、坂を下り、一本道の彼方に目を凝らした。ジープが現れる気配はない。戻ろうとして、ふもとの郵便局に国際電話の貼り紙を見つけた。小さな小屋の中はがらんとしていて、一つだけある窓口では若い女が退屈そうに爪をいじっている。放り投げるように置いてある一台の電話の前に立ち、番号を回した。
 もうこれで何度目だろうか、受話器に耳を押し付けて聞きなれた呼び出し音を聞いた。無言のまま受話器を抱えている私を、ちらりちらりと窓口の女は盗み見る。私は目を閉じ、祈るような気持ちで呼び出し音を聞き続ける。もう、呼び出し音が途切れ聞き覚えのある兄の声、すこしトーンの高い柔らかいあの声が、この場所と向こうとつなぐことを期待していない。暗号めいたこの音が、家の細部を目の前に形成していくことだけを望んでいる。呼び出し音は私の手を取り、家の前に立たせる。門を開き、扉に鍵を差込み、もう何度も思い描いたその絵柄がふたたび頭の中に現れる。扉をあけ靴を脱ぎ、ひんやりした廊下を歩く。けれど、このあいだまで鮮やかに思い浮かんだ家の中は、霞がかったようにぼんやりしている。キッチンをのぞきリビングの戸を開け、そうしていくうちに、霞がかったその場所は蒸発するように消えていき、結局、木製の台の上で音を放出し続ける電話だけがはっきりと像を結ぶ。私の握った受話器が繋ぐ先は、いったいどこなのかふとわからなくなりかける。暗い闇にぽっかり浮かぶ電話台は、いったいどこに存在しているのか。
 郵便局を出て振り返ると、丘の上、色とりどりの花の合間に、色あせたピンクのカーテンがちらちらと揺れていた。花に囲まれたその一角はこの世のものではないほど美しく、私はふと、サジタがこのままバンガローに戻ってこなくても何も感じないのではないかと思った。私こそ、死んだ鳥をごみ箱に投げ捨てるように、作り物めいた部屋で共に日を過ごした男をぽいとどこかに片付けて、それきりすべて忘れてしまうことができるのかもしれない。私を取巻くもの、コピー用紙だったりホチキスだったり大切な書類だったり、意味なく寝てみる男だったりだれもいない家の中だったり、それはただ、炒めた飯や湿ったベッドや足元で残飯を食べる野良犬や、遠巻きに私を見る村の人々や背景を知らない身軽な男や、そんなものに形を変えただけではないだろうか。私はどこに立っているのか。どの方角を目指しているのか。前に進める足を止めると、あたりはすっかり鎮まりかえり、羽音をいやに響かせて蠅が頭上を飛んでいった。

 私がサジタの病室に戻って数分後、受付の男と一緒に老いた医者は帰ってきた。ベッドに横たわる痩せ細った男を見、ゆるやかな動作で点滴の準備をする。消毒した針の先をぞんざいな手つきでサジタの手の甲に刺し、テープで止め、オハヨウ、アリガトウ、確かめるようにつぶやく。私とサジタは黙ったまま、水滴を落とし続ける点滴を見上げた。しばらくして、ふいにサジタの柔らかい視線が私を捉えた。お互いに何も口にしなかった。
 あの薬を飲んでからぜんぶ吐いて、この人なんにも食べられないし、起き上がれもしない、大丈夫なのかと受付の男に訊いた。彼は老人に向かって何か言い、老人はゆっくりうなずく。彼らは低く話し合う。受付の男は私を振り返り、考え考え英語を操った。この前の薬で身体が敏感になって拒絶反応を起こしてるだけだから、何も食べられなければ毎日点滴を打ちにくればじきによくなる。瞬きもせず男の口をじっとみているサジタの頭に、すっと老人の手が置かれる。乾き、筋張り、いくつもシミの浮かぶ手は、サジタの頭をそっと撫でた。
 「死ぬって怖かったんだな」
 その日は病院に泊まることになったサジタを置いて部屋を出るとき、かぼそい声でサジタが言った。その言葉を聞いて、不意にサジタの身体中にあった傷跡を思い出した。私は振り向いて彼を見た。
 「そんなこと、初めて思ったんだ」
 傾きかけた日の差し込む、薄暗い病室に横たわる痩せた男が、一瞬ほかの誰かに見えて胸を強く打った。
 花の咲き乱れる庭から村の方角を見ると、はるか先にかすむ海が見えた。細い線のような海に、巨大な夕陽はじりじりと沈みこんでいく。私の腕を引くべき兄の手も、また手を引かれ帰るべき場所も、握る受話器の先にはないのだとどこかで理解した。一緒に出てきた犬が足元に行儀よく坐り、私を真似するように、海の見える方向を向いてじっと首を傾けていた。


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