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桃太郎 起 (一)

 鬼ヶ島での討伐を終えた桃太郎一行は、その手の荒さ深く傷つき、帰路へと向かう活力は微塵も残っていなかった。
 雉はその美しい羽をもぎ取られ、猿はその勇ましい尾を千切られ、犬はその饒な舌を焼かれた。桃太郎は祖父母の復讐を遂げたものの、このたびの犠牲となるは、釜飯を共にした戦友であった。雉は桃太郎に接吻し、水を分け与えた後に息絶え、猿は己が能の出し得る全ての知恵を搾り出し、この世を惜しみながら眠りについた。
 唯一、犬には息があった。
 犬は、鬼ヶ島で手に入れた息吹を返す万能薬を咥え、桃太郎に与えるか、己で飲み干すか逡巡した。悩みあぐね、犬は桃太郎と共に歩き、暗転する景色の中、己の忠誠心と主の夢を思う。
 桃太郎は言った。「はやくそれを飲み、健やかになることだ」
 犬は咆え、薬を飲み、桃太郎は叢の上で死んだ。
 生命から程遠く、天も地もないこの世の中で、犬は主人と同志を思い出し、懺悔する。
 


 彼はみんなに恐れられていた。
 彼は、鬼塚桃次なんてどこかの主人公みたいな名前で、昼ごはんには毎日購買部で買ったフルーツサンドを食べた。縦に切れ目の入ったコッペパンに、缶詰の桜桃と生クリームを挟んだものだ。必然的に、彼のあだなはモモくんになった。
 だけど、面と向かって彼を「モモくん」と呼ぶものは、ほとんどいなかった。みんな裏で「モモくんまじ怖ぇ」とか「モモくんヤバすぎ」とか、噂しあうだけだった。
 モモくんほど伝説に彩られた男子高校生もそういないだろう。
 母親はヤクザの情婦で、なにかの見せしめのために樹海の奥の大木に吊るされて死んだとか、その衝撃で子宮口が開いて産み落とされたモモくんは未熟児だったとか、中学を卒業するまでに補導されること二十四回、鑑別所送り二回、少年院に入ってたから本当は僕たちよりも二歳年上だとか、このへんで薬をさばくには彼に仁義を切る必要があるとか、一人暮らしをしているマンションの部屋のテレビの上には拳銃が置いてあるとか、なによりすごいのは、寝た女の数がもうすぐ四桁になるとか、そういう伝説だ。
 僕たちはモモくんの新しい伝説を耳にするたびに、息を飲んだり溜息をついたりした。そして、教室の一番後ろの窓際の席で寝ているモモくんを、畏れと尊敬と感嘆の思いを込めて眺めるのだった。
 モモくん本人は、僕たちのあいだで噂されていることについて、まったく無頓着のように見えた。だから、伝説が本当なのか嘘なのか、はっきりしないままだった。
 町で、他校のやつらがモモくんに道を譲るのを見たことはある。モモくんはそいつらを一瞥もせず、当然のように歩道の真ん中を堂々と歩み去っていった。
 全校の女子生徒の半分が、モモくんと寝たことがあると自称する。そのうちの半分が見栄を張っているのだとしても、まだ四分の一もの女子生徒が、モモくんの女だということになる。
 モモくんは歩くたびに、ポケットの中からジャリジャリと金属の触れ合う音がした。
 なぜ学校に来るのに手ぶらなのか、僕にはうまく理解できなかったが、みんなはそれを、
 「襲撃にあったときに手がふさがってたらまずいからだ」
 と解釈していた。
 僕と友人は、会話をやめてさりげなくモモくんを見た。モモくんは唇の端に、小さな絆創膏を貼っていた。
 「見ろ。な?」
 友人は誇らしげに言った。「駅裏の駐車場で見たけど、南工のやつら四人を瞬殺だよ。あれだけの喧嘩だったのに、怪我はちょびっとだ。やっぱりモモくんはただものじゃないぞ」
 うん、そうだねと僕は言った。モモくんはガタンと自分の椅子を引き、ゆうゆうと座った。教室内はなんとなく静まりかえる静まりかえる。始業前だというのに、居合わせたものはみんな黒板のほうを向いている。
 一時期、モモくんと席が隣になったことがある。僕は一日中、横目でモモくんを観察した。
 たいがい、寝てるかボーッとどこか一点を見てるかだった。たまに、二時間目の途中に突然机からパンを出し、むしゃむしゃ食べ始めることもあった。包装のセロファンを破る音が、教室中に響きわたった。
 みんななるべくモモくんを見ないようにしている。教師は知らん振りで教科書を読み上げ、汚い字で板書する。
 机の中をモモくんは整理する。机の上には最後に、シャープペンシルが残っていた。カチカチとペンの尻を押す。芯は出ない。からっぽだ。
 しかたないといった感じで、モモくんは右手でシャーペンを回しだした。手の甲と親指の上を、シャーペンがかなりの速度で回転する。僕にはできないことだ。なんとなく、これができるのはちょっとワルに限られているような気がする。
 モモくんは二十回以上もシャーペンをまわした。
 退屈なのに、なぜ学校に来るのかな、と僕は思った。モモくんは案外まじめに登校し、勉強する気はないようだったけれど、とにかく授業中は教室にいることが多かった。僕がモモくんみたいだったら、学校なんて決して行かない。ぶらぶらと毎日好きなことをして暮らすのに。
 今考えると、モモくんは僕たちの平凡な日常に彩りを加える、珍獣みたいなものだったのかもしれない。珍獣は手厚く保護はされるけど、僕たちとのあいだには頑丈な檻があって、お互いに近づくことはできない。近づきたいとどれだけ願おうとも。
 そして、檻を作るのは珍獣ではなく、いつだって僕たちのほうなんだ。

 こんな感じで話せばいいんですか? わかった。続けます。

 教室内では明らかに浮いていたモモくんだったが、友人らしき存在もいることはいた。一年生の尾長延次だ。
 廊下ですれちがったりすると、二人は必ずといっていいほど言葉を交わす。
 「延次。今週号、読んだか?」
 「まだ」
 「盛り上がってきたぜ」
 なんて言いながら、モモくんは持っていた漫画雑誌を尾長に渡してやるのだ。
 たまたまそれを目撃した僕は、すごく驚いた。モモくんは教室ではほとんどしゃべらないし、自分からだれかに声をかけることなど全然ないのに。どうして学年が違う男子生徒と、あんなに親しいんだろう。尾長のほうも、モモくんに大して身構えるでも敬語を使うでもない。
 僕の疑問には、モモくんと中学も同じだったやつが答えてくれた。
 「尾長はさあ、モモくんと同じマンションに住んでるんだよ。おさななじみっての? 中学のときも、あんな感じだった。まあ、尾長ってのはだれに対してもあんな感じなんだけどな。あいつ、敬語使えねえから」
 「どうして」
 「どうしてって、なにが」
 聞き返されると、たしかになにに対しての「どうして」なのか、自分でもよくわからなかった。
 「どうして敬語が?」
 「知るかよ。国語が苦手なんだろう。そうそう、俺の行ってた中学って、全員が強制的に部活に入らされるのよ。尾長はブラバンかなんかだったけど、態度が悪いっつって、センパイにシメられそうになったらしい。そうしたらそこへモモくんがちょうど通りかかって、反対にそいつらをボコったって」
 モモくんと尾長は昼休みに、たまに屋上で一緒にご飯を食べたりしていた。一緒に、と言って良いのか微妙なほど、お互い好き勝手な場所に座って、それぞれ音楽を聴いたり漫画を読んだりしているだけなんだけど。ただ、尾長が弁当を食べ終わってもまだ物足りなそうな顔をしていると、モモくんが購買で買ったパンをぽいと投げて、昼飯を分けてやっていた。
 細い銀縁のメガネをかけた尾長は、無表情なままそのパンを食べる。
 僕はそれを、少し離れた場所からうらやましく眺めた。そのころ僕は、モモくんの観察が半ば趣味みたいになっていて、どうにかして自分もモモくんと親しくなりたいと思っていた。
 モモくんは、僕とはまったく違う世界を目に映し、まったく違う空気を吸って活きているように見えたから。
 僕の生活は、とても単調なものだった。
 山を崩してつくった住宅街の一戸建てを、毎朝八時前に出る。八時過ぎのバスに乗って、駅前の商店街のはずれにある高校に着くのが八時半前。教室で友達としゃべりながら、始業までの数分を過ごす。
 あとは一日、決められたとおりに椅子に座ったり皇帝で身体を動かしたりし、クラブには入っていなかったから、放課後は暇をもてあまして、教室でいつまでも友達とふざけたり、駅前で寄り道したりする。
 帰宅が夜の八時よりも遅くなることは、めったになかった。
 家族は父と母と中学生の弟で、父とは顔をあわせてもとりたてて会話もなかったし、弟は弟でバスケに夢中になっていて、活発に動くことが得意でない僕を軽蔑している節があった。家族のなかで、僕と一番コンタクトを取っていたのは母だが、それだって「ご飯食べなさい」と「傘を持って行きなさい」ぐらいのものだ。
 どうして母親というのは、飯の心配と雨に降られる心配しかしないんだろう。
 それぐらい、僕が地味だということだったのかもしれない。華々しい活躍や成績を学校から持ち帰ってくるでもなく、逆に、手がつけられないほどグレるでもなく、親にとってもどこといって特徴のない息子だったのだろう。
 僕がモモくんに着々と接近しつつあったことを、誰も知らなかった。
 ある日、僕は教師に言われて、授業で使った世界地図を社会化研究室へと運んでいた。二ーると紙の中間みたいな材質で、黒板に掛けない時は巻いておく、大判の地図だ。
 それを抱えて、校舎と校舎をつなぐトタン屋根のついた連絡通路にさしかかった僕は、たわらの茂みの陰に男女が立っていることに気付いた。
 男はモモくんで、女のほうは同じ学年の梶取素子だった。
 モモくんは決して大柄なほうではない。すごくバネのきいてそうな身体だけど、背は百七十と少しぐらいだったと思う。梶取さんの方は、肉付きが薄くて背も百七十五はあるモデル体型だったから、髪をツンツン立てたモモくんが梶取さんをほんの少し見上げるようにしている姿は、なんだかかわいかった。
 必要以上にゆっくりと連絡通路を歩く僕の耳に届いたのは、だけど全然かわいくない言葉だった。
 「いつやらせてくれるんだよ、素子」
 とモモくんは言った。
 「ばかじゃないの」
 と梶取さんは言った。
 なんだか大変なことになってるな、と僕は思った。
 三日後、僕は今度は体育倉庫の鍵を閉めに行くことになった。教師たちは僕を犬かなんかだと考えてる節があって、ボールを投げれば拾ってくると信じているらしい。たしかに僕は、命じられればたいていのことにはおとなしく従う。教師に雑用を申し付けられて、いちいち嫌そうな顔をしたり、断るための口実を見つけたりすることが、すごく面倒くさかったからだ。
 鍵をかける前に、なかにだれかいないか念のため確認しようと思って、僕は体育倉庫の扉を開けた。倉庫内には、荒い息づかいと押し殺したような声が充満していた。
 モモくんと梶取さんが、跳び箱の陰のマットレスの上でセックスしてたのだ。
 たった三日のあいだに、二人にどんな変化が起こったらこういうことになるんだろう。僕は呆然と立っていた。呆然としながらも、見るべきものはちゃんと見ていた。
 言葉もないし、身体のどこかを触りあったりもしない。とにかく結合し、汗だらけになってお互いにひたすら腰を動かしていた。二人が裸じゃなかったら、柔道の練習かなんかをしてるんだと、自分に思い込ませることも不可能ではなかったと思う。
 モモくんは「ふー」と息をついて、梶取さんから身体を離した。たぶん五分も経っていなかったはずだ。スポーツをしたあとみたいにすがすがしく額の汗をぬぐいながら、モモくんは全裸で立ち上がった。そして扉のところにいる僕を見て、
 「なんだよ、またおまえかよ」
 と言った。「こないだも盗み聞きしてただろ。素子のことが好きなのか?」
 僕は急いで首をふった。「俺の女になんの用だ」とか言われて、殴られてはたまらないと思ったからだ。
 モモくんは使用済みコンドームの口を器用に結び、ちょっとあたりを見回してから、線を引く道具の石灰の入ったタンク部分に捨てた。「ああ」と思ったけど、それについてはなにも言わないでおいた。
 「鍵、閉めたいんだけど」
 と僕は申し出た。
 「だってさ」
 と、モモくんは制服を着ながら背後を振り返った。梶取さんはもう元通りに制服を整え終えていて、ポケットから出した小さなブラシで髪をとかしているところだった。
 「そう」
 と梶取さんは言った。梶取さんは僕をちらっと見ただけで、すぐに興味を失ったように、立って、モモくんと手をつないだ。頬が少し上気している以外は、冷たそうななめらかな肌と、乱れたところのない長くてまっすぐな髪をした、いつもどおりの梶取さんだった。
 二人は僕の横をすりぬけて、体育倉庫から出て行った。残された僕は、ちょっと鼻をひくつかせてみたけれど、汗の染み込んだ古雑巾みたいな、体育倉庫特有のにおいしか嗅ぎわけられなかった。
 モモくんと梶取さんが付き合い始めたことは、すぐに学校中に知れ渡った。昼休みを一緒に屋上で過ごしたり、放課後に駅のベンチで隣り合って座ったりする姿が、頻繁に目撃されたからだ。
 「そう考えると」
 と、クラスのやつらはしたり顔で論評した。「モモくんがちゃんと女といるところって、いままで見たことなかったよな。梶取さんのことは本気なんだよ」
 そうは言っても、モモくんはひととの距離のとり方が相変わらず独特で、屋上でも梶取さんとべったり仲良くするわけではなかった。梶取さんは梶取さんで、女子の友達何人かと、お弁当を広げているのだ。モモくんは少し離れた場所で、たいてい一人でフルーツサンドを食べていた。たまに尾長が、その横で黙ってボーッとしていた。
 しかし、弁当を食べ終わった梶取さんが、
 「あー、なんか甘いもん食べたいね」
 と言おうものなら、モモくんはすかさず購買の袋のなかから新しいフルーツサンドを取り出し、梶取さんに向かって放り投げるのだ。梶取さんはそれを受け取って、
 「ありがと、モモ」
 と微笑む。モモくんはなにも言わない。梶取さんのほうに視線を向けもしない。梶取さんはフルーツサンドをちぎって、友達と分けて食べる。その友達は、とても意外そうに、モモくんと梶取さんを見比べていた。
 「ぎゃー、はじめて食べたけど、これすごく甘いんだね」
 「それがおいしいんじゃん」
 などと言いながら。

 高校二年の一学期は、そんな感じで終わった。学期末の試験の結果がさんざんだったから、僕は電車に乗って多摩川を越え、ちょっと大きな町にある塾の夏期講習に通うことになった。僕は一応いやだと言ったんだけど、母が「あんたの将来のためよ」と勝手に申し込んでしまったのだ。ふだんは家族のだれよりも僕に無関心な父までが、僕の成績表を見て「これはひどいな」と言った。
 僕はといえば、教師に頼まれたときと同じように、やはり強く抵抗するだけの気概がなかった。それで、草むらに投げられたボールを発見できない無能な犬よろしく、ただひたすら家と塾のあいだを往復した。
 退屈だった。とても。
 七月の終りの夕方、帰りの電車の窓から多摩川を見たとき、僕はなんとなく、降りるつもりのない駅で降りていた。そのまま駅周辺のごみごみした道を抜け、土手のほうを目指した。
 近くで見ると水は思ったよりも澄んでいて、海のほうへ確実に流れていることがわかった。
 電車から見下ろす水面は、濁って停滞しているようだったのに。
 河原には黄色いペンキまで塗られた手漕ぎボートが、伏せた形で整然と並べられていた。少し下流に設置された、断頭台みたいな形の水面の向こうに、ちょうど夕日がかかったところだった。ボートに乗ってみたかった。
 土手の上を、何人かが行き来していた。買い物袋を提げたり、犬の散歩をしたりする、川の近所に住む人だ。川面を眺め、土手を眺めた僕は、ふと鉄橋の下の薄暗がりに視線をやった。
 そこでは、僕とそう年齢もかわらなそうな四人の少年が、角材でなにかの塊を殴っていた。その音はたしかに耳に届いていたのに、鉄橋を通過する電車や、川の流れにまぎれて、僕は少年たちを目にするまで、たいして興味を払っていなかったのだ。
 少年たちは、青いビニールシートとダンボールでできた小さな家を、叩き壊しているのだった。
 家のなかにだれかがいるのかどうかまでは、わからなかった。幸いにして住人は留守だったとしても、帰ったら家が壊れていたら、だれだって驚き悲しむだろう。
 僕はあわててあたりを見回した。僕ひとりではなんともならないんから、助けを呼ぼうと思ったのだ。声を上げれば、少年たちは逃げていくかもしれない。
 ちょうど土手を通りかかった二人連れに、僕は河原から叫んだ。
 「すいません、助けてください」
 二人連れは立ち止まり、そのままこちらを見ているようだったが、やがて悠然とした足取りで土手を下りてきた。「どうした」と問うこともなく、SOSに答えて馳せ参じる感じでもなかった。妙な反応だ、と僕は思った。
 二人が土手の中ほどまで差し掛かったとき、夕陽がちょうど彼らの顔を照らした。モモくんと梶取さんだった。
 なんて偶然だ、と僕は混乱した。混乱に拍車をかけたのは、少年たちが破壊行為を中断し、いやな笑いを浮かべながら僕のほうへ殺到してきたことによる。彼らはどうやら、中学生のようだった。
 四人の中学生と、モモくんと梶取さんは、僕を挟んで、というか、半ば取り囲むようにして、河原で顔を付き合わせる形になった。
 「なんだよ、正義の味方気取りか?」
 「どうした」
 双方から同時に声をかけられて、僕は困惑した。
 「僕はただ、勝手に人の家を壊すのはよくないと思ったから。それで、だれか止めに入ってくれればいいと……」
 どちらからの質問にも同時に答えようと、努力したつもりだった。
 「おまえんちが壊されたのか」
 と真面目に訊ねてきたのはモモくんで、
 「うるせえ」
 と言って僕の左目のあたりを殴ったのは、中学生のうちの一人だったと思う。おかしなことに、スローモーションのように見えたが、僕は避けなかった。ある意味、避けられなかったのだと思う。理不尽な、一方的な力に圧される分際なのだと、弁えていたからだと思う。
 僕は衝撃と痛みで後じさりし、うめきながら上半身を折った。
 中学生たちはあざけりの笑いをほとばしらせ、モモくんは情けない僕の姿を、じっと見下ろしているようだった。
 「で、おまえんちはどこだ?」
 と、モモくんはなおも訊いた。
 「いや、そうじゃなくて」
 と、僕は顔を上げて言った。
 ずっと黙っていた梶取さんが、僕を殴った中学生に、いきなり河原の石を投げつけたのはそのときだった。石は至近距離から思いっきり額の真ん中に当たった。花火のようにパッと赤が散った。
 「う」と「わ」の中間ぐらいの悲鳴を上げ、その中学生は両手で額を押さえた。持っていた角材が手から落ちた。梶取さんは素早くその角材を拾い、野球のスイングの要領で、情け容赦なく胴にとどめの一撃を与えた。
 ぴかぴかした薄ピンクのワンピースに、銀のミュールをつっかけた梶取さんが繰り出す制裁は、まさに残虐な女神のご乱心といった感じで、僕は伸びた中学生の隣にへたりこんだ。残りの中学生たちも、逃げるのも忘れ、河原の柳と一緒になって風に吹かれていた。
 その中で、風を切るように動いたモモくんが、華麗な連続回し蹴りで、仲良く並んで石ころの上に彼らを倒した。
 気が付くとあたりは薄暗くなっていた。川べりに建つマンションの窓にも、次々に明かりが灯っていく。
 へたりこんだままの僕を放って、モモくんは気絶した中学生たちを順番に土手に引きずり上げた。モモくんは伏せてあったボートを持ち上げては、ご丁寧にその下に一人ずつ横たえる。中学生四人は吸血鬼の冬眠のように、ボートという楕円形の棺の蓋をかぶせられたわけだ。
 モモくんが作業しているあいだ、梶取さんは拾った石を川に投げ、水切りをして遊んでいた。
 梶取さんを迎えに戻ってきたモモくんは、
 「あいつら、目が醒めたら真っ暗で、きっと泣く」
 と笑った。右の頬に笑窪ができた。
 「モモ、服に血がついた」
 と梶取さんが言った。
 「洗ってやる。帰ろう」
 そう言ってからようやく、モモくんは僕の存在を思い出したらしい。
 「そういえば、おまえんち壊されたんだろ? 今夜どうする」
 「気にしないで、モモはばかなのよ」
 梶取さんがはじめて、僕に向かって言葉を発した。「あなた殴られたでしょ。早く冷やさないと、腫れちゃって帰れないわよ」
 驚きで忘れていた痛みが、またぶりかえした。左目周辺が、熱と重ったるさとを蓄積しつつあった。近くにあるというモモくんのマンションへ、僕はおとなしくついていくことにした。ついにモモくんと、それなりに親しく言葉を交わし、思いがけなく部屋にまで行ける。僕は殴られたこともあって興奮気味で、前を行く二人を追い越しそうなほど早足になった。
 土手を上がるとき、「まさか死んでないよね」とモモくんに訊くと、
 「正当防衛だし」
 とモモくんは言った。明らかに過剰な攻撃だと思ったから、不安になった。
 「正義の味方にはやりすぎがつきものだから」
 と梶取さんが笑った。
 何十隻ものボートは、灰色の団子ムシじみて、夕闇のなかで静かに並んでいた。どのボートのしたに気絶した中学生が入っているのか、トランプの神経衰弱みたいに、もう分からなかった。
 モモくんが住むマンションは、川から駅のほうにちょっと入ったところにあった。四階建てで、もとは白かったらしい外壁は、雨の跡を残して茶色く汚れていた。
 モモくんの部屋は四階の角部屋で、噂どおり一人で暮らしているようだった。
 玄関の鍵は開いたままで、ダイニングでは尾長がゲームをやっていた。尾長はモモくんたちに「遅かったね」と言い、僕の存在には気付いたのかどうなのか、すぐに視線を掌のゲーム機に戻した。「まだクリアしてないのかよ」とモモくんが言い、「もうレベル80超えちゃって飽きてきた」と尾長が言った。
 部屋は縦に長く、台所と一体になったダイニングと、ベランダに面したリビングとのあいだに、仕切りはなにもなかった。リビングの床には薄いマットレスがじかに置いてあり、そこがどうやらモモくんの巣のようだった。タオルケットが丸まり、枕元にはなぜかテレビが横倒しになっている。伝説と違って、拳銃は載っていない。そばの壁には制服がかけてあった。制服をクリーニングに出した様子はなかった。
 ダイニングのテーブルは四人がけだった。梶取さんは尾長の向かいに座った。僕は尾長の隣に座ることにした。尾長は得体が知れなくていやだったけれど、梶取さんの隣に座るわけにもいかない。
 モモくんは冷蔵庫から保冷材を出し、タオルでくるんで僕に渡してくれた。
 「ありがとう」
 と僕は言った。モモくんはそこではじめて、電灯の下で僕の顔をちゃんと確認したらしい。
 「ああ、またおまえか!」
 と言った。「同じ学校のやつだよな」
 同じ学校だし、同じクラスでもあるのだけど。いままで気付いていなかったのか、と思いながら僕が名乗ろうとすると、モモくんは「いい、いい。どうせ覚えらんないから」とぞんざいに手を振った。
 「モモくんはどうせ、俺の名前だって覚えてないでしょ」
 と尾長が言った。だれかがモモくんに、面と向かって「モモくん」と呼びかけるのを見たのは、それがはじめてだった。
 「延次。素子」
 とモモくんは点呼するみたいに、尾長と梶取さんの名前を挙げた。「それからおまえ。問題なし」
 おまえ、と言うとき、モモくんは僕を指差し確認した。はじめて視線が絡んだが、あんなに深い眸をする人間を見たのは初めてのことだった。
 もう八時になろうとしていたから、僕はかえらなければならなかった。
 「駅までの道わかる?」
 と梶取さんが訊いた。僕はうなずいた。僕が保冷材を返そうとすると、モモくんは「最後まで冷やせ」と言った。
 駅までの道のりのあいだも、電車に乗っているあいだも、見慣れた駅前から自分の家の近所までバスに揺られるあいだも、僕はずっと、嬉しくて叫び出したいのをこらえていた。
 保冷材を押し当てれば押し当てるほど、僕は火照って鈍い痛みを生産した。
 結局、左目の周辺は赤黒く腫れあがり、母親を仰天させた。
 僕は翌々日、タオルと保冷材を返すため、塾の帰りにモモくんの部屋へ寄った。部屋はだれもいなかったが、玄関の鍵はやはり開けっ放しだった。梶取さんのワンピースが、リビングに吊るして干してあるのが見えた。僕は上がり端に、タオルと保冷材を置いて帰った。
 その次の日から僕の夏休みが、家と塾との往復ではなく、家とモモくんの部屋との往復になった。
 僕は新しく得た仲間に夢中だった。
 仲間といっても、僕たちはもちろん、夜通し熱くしゃべることなんてなかったし、ひとつの夢を提げて団結することもなかったし、たとえば梶取さんを巡る恋心を拳で語り合ううちにいつのまにか友情が芽生えていた、ということもなかった。
 尾長は依然として僕には話しかけてこなかった。僕は依然として自分からは梶取さんに話しかけられなかった。僕とモモくんは会話を交わしたが、依然としてコミュニケーションは微妙に成立していなかった。
 「なあ、素子ってゴージャスだろ?」
 と、モモくんは台所で生クリームを泡立てながら僕に聞いた。梶取さんと尾長はリビングに並んで寝そべり、昼間のテレビが映し出す再放送の時代劇を眺めていた。正気とは思えないお面をつけた侍が、口上を述べながら、闇のなかから悪人どもの前に姿を現す。この家のテレビは、どうやら寝そべってみるのに都合がいいように、横倒しになっているらしかった。
 「うん」
 僕は缶詰の黄桃を切りながら答えた。「孔雀みたいにゴージャスだと思う」
 モモくんはようやく角が立つようになった生クリームを、バターロールに入れた切れ目に塗りたくった。
 「ばーか。ゴージャスな孔雀は、あれはオスなんだぞ」
 とモモくんは言った。常識だ。モモくんは比喩がわかんない人だった。
 僕はまた「うん」と生返事し、生クリームに桃の切れ端を埋め込んでいった。
 僕たち四人は、皿いっぱいに積み上げられた自家製フルーツサンドを食べた。
 「夏休みは楽でいいけど、購買のやつを食えないのはよくない」
 とモモくんは言った。モモくんはきっと、夏休みの宿題がいっぱいあることなんて、まったく気にしていないのだろうなと思った。
 モモくんはフルーツサンドの最後の一個を、「おまえあんまり食ってない。食え」と僕にくれた。僕はけっこうおなかいっぱいだったけれど、なんだか本当にモモくんの仲間になれた気がしてとてもおいしく食べたのを覚えている。僕がフルーツサンドを食べている間にこぼした粕を、ひょいと拾い上げて、僕を咎めるでもなくゴミ箱に放り投げた。梶取さんがそれを見て、「ナイス」と尾長をほめた。
 こうやって、些細な出来事だけをずっと話していればいいのなら、つらくはない。でも、そういうわけにもいかないんでしょう? 僕がいま、どうしてここにいるのかについて、触れなければいけないんでしょう。
 話します。構わない。話したところで、いまさら僕をここから追い出すことなんて、できないのだし。

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