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桃太郎 転 (三)

 八月に入って、暑さもいい加減諦めがつきつつあった。
 昼のワイドショーを眺めていた梶取さんが、「ここに行きたい」とテレビ画面を指差した。新人らしきキャスターがたどたどしく読み上げるのは、子供の拳ぐらいはありそうなダイヤモンドが、銀座の宝石店で客寄せのために公開されている、という話題だった。
 映し出された店の外観は、ドアはガラス張りの両開きで、壁と柱がなんだか嘘っぽいほどに白い。近所の女の子が昔持っていた人形の家に似ているな、と僕は思った。
 梶取さんはダイヤに興味がありそうな感じにも見えないのに、急にどうしたんだろう。ダイヤなんて、「へえ、おっきいねえ」とテレビで見れば充分で、暑いなかをわざわざ出かけていくほどのものとも思えなかった。
 尾長もそう思ったのか、「行けば」といつもの調子でそっけなく言った。だけどモモくんが、
 「いいよ、行こうか」
 と、静かに笑ったのだ。モモくんがまれに浮かべる微笑は、理不尽な暴力と同じくらい、人間を従わせることができた。それで僕たちは、電車を乗り継いでその宝石店へ行くことになった。
 夏の午後の銀座には、サラリーマンやら買い物客やら団体旅行のおばちゃんやら、ありとあらゆる目的で人が集まっていた。巨大な建物郡の屋上からは、内部の冷やしたあとの澱のような熱気がゆるやかに降ってくる。車道からは、排気ガスが陽炎になって押し寄せる。どこにも逃げ場のない、熱の包囲網だ。だけど歩道を行く人々は楽しそうに、自分の目的地の方向へ流れていく波にうまく乗っていた。
 僕たちは大通りを、一丁目のほうへ歩いた。やがて、テレビで見たままの宝石店が現れる。陽射しのなかで見るその建物は、ますますプラスチックじみた健全さを露呈し、怪獣が通り過ぎて銀座が火の海になっても、これだけはススひとつつかず白いままだろうなと思わせるものがあった。
 テレビで紹介されていたにもかかわらず、店に入っていく客は見たところ一人もいなかった。その理由は、モモくんを先頭に両開きのガラスドアをくぐってすぐ、判明した。
 高校生でも買えるような銀製品なんかは扱わない、ものすごい高級店だったのだ。
 入るとロビーが吹き抜けになっており、ホテルのフロントみたいな受付があった。なんで宝石店に受付が必要なのか、僕には全然わからなかった。受付にいた黒いスーツ姿の老人も、なんで普段着の高校生が四人も、突然店を訪れたのか理解に苦しんだだろう。
 「いらっしゃいませ」
 と、その老人は慇懃にお辞儀した。「執事がいる」と僕はつぶやき、尾長は「ばかみたいだ」と芝居じみたふるまいと内装を小さくせせら笑った。
 「本日はなにをお求めですか?」
 老人はモモくんと梶取さんに向かって尋ねた。主導権を握っているのが誰なのか、正確に見極めたらしい。
 「見にきただけなの。だめ?」
 と、梶取さんが訊いた。老人は「いいえ」と、受付の黒い大きなデスクを指した。
 「では、代表の方だけでけっこうですから、お名前と御連絡先をご記入ください」
 まったくもってホテルだ。モモくんが気負ったふうでもなく進み出て、老人から金色の万年筆を受け取った。
 「素子、なにが見たいんだ」
 と、モモくんは汚い字で住所を書きなぐりながら言った。用紙には「本日お求めになりたい品」という欄があり、指輪とかピアスとかブレスレットとかにチェックをつけなければならないようだった。
 「ネックレス」
 と梶取さんは答えた。


 モモくんが書き終わった紙を老人に渡すと、老人はスーツの襟元に挿していたピンに向かって、「四名さまお通しします。ネックレスを中心にご案内してください」と告げた。それまで気付かなかったが、老人の耳にはイヤホンがはめられていて、二階の売り場と連絡を取り合っているらしかった。
 「ごゆっくりどうぞ」
 と老人は言った。二階からシンプルな黒のワンピースを着た女性が降りてきて、
 「こちらでございます」
 と言った。彼女は客が高校生であることにちょっと驚いたようだったが、次の瞬間には柔らかく美しい営業スマイルを浮かべた。見事なプロ根性だ。
 僕たちは彼女の先導のもと、吹き抜けの壁際を半周する形で、優雅な曲線を描く赤い絨毯敷きの階段をのぼった。僕はその途中で、吹き抜けの天井にクリスタルのシャンデリアが下がっていることをようやく発見した。
 二階の売り場の床は、足首まで埋まりそうなほどふかふかのベージュの絨毯だった。受付まで迎えに来たひととそっくりな姿かたちの女性があと二人、僕たちを待ち受けていた。彼女たちはそろって、「いらっしゃいませ」と同じ角度で背を折った。
 売り場は薄暗く、宝石の並んだ長細いショーケースだけが、青白い輝きを放っていた。階段を上がってすぐのところに、屈強なガードマンを傍らに従えて、独立した大きな強化ガラスのケースがあった。そのなかの赤いビロードの上に、テレビで見たダイヤモンドが鎮座ましましていた。
 ダイヤには値札はついておらず、少しの黄色味を内部に淀ませて、静かにケースのなかに収まっていた。
 次に僕たちは売り場に散って、それぞれに指輪やネックレスのショーケースを覗き込み始めた。どれも巨大ダイヤの足元にも及ばない大きさだけれど、透明度や輝きは、小さなダイヤのほうがずっとすごいのだ。プラチナの精巧な鎖や台座に落ちた星の雫みたいに、地球上でもっとも硬い宝石は、切れそうなほど冷たい光を放っていた。これらに比べれば、巨大ダイヤなんて無能で鈍重な王様みたいなものだ、と僕は思った。
 研ぎ澄まされて、燃やしたら、おしまい。
 小粒のダイヤはモモくんに似ている。ばかみたいに高価で、あってもなくても生きていけるものだけど、その輝きにほれぼれするひとは多い。本当は死者の骨からだって作れるような、ただの物質なのに。
 僕たちに商品を勧めてもしょうがないと、店員は最初からあきらめていたのだろう。遠くから監視するように見つめるだけで、話しかけてはこなかった。
 ひととおりケースを見終わると、僕たちはまたなんとなく、巨大ダイヤの前に戻った。今度はにこやかに店員が近づいてきて、ダイヤの来歴を述べる。いつごろシベリアで掘り出されたもので、これまでどんな王侯貴族の手に渡ってきたか。いまはさる博物館が所蔵していて、借り受けて一般公開するのがどれだけ大変であったか。
 梶取さんはその言葉をさえぎるように、
 「ダイヤを呑んで自殺したひとの話を、聞いたことはありますか?」
 と言った。店員の女性は「え?」と、そのときばかりは素の感情のこもった声をあげ、直立不動のガードマンが、面白そうに視線だけを僕たちのほうへ向けた。
 「いいえ、存じません」
 と、彼女は元通り慎ましやかに答えた。
 「こんなにでかいのは、いくらなんでも飲み込めないよ」
 と尾長が言った。梶取さんは「そうね」と笑い、モモくんを見た。
 「買えそうなものはあった?」
 「賭け麻雀をあと五十回やっても無理だな」
 「じゃ、帰りましょ」
 僕たちはぞろぞろと階段を下り、老人に見送られてドアを出た。熱気と喧噪が再び目の前で動き始める。
 「モモくんって麻雀も強いの?」
 と僕は隣を歩く尾長に尋ねた。
 「ずば抜けて強くはない」
 尾長は雨を行くモモくんと梶取さんを見ながら答えた。「ただモモくんと何回かやると、いつのまにか負けがこんでくる。頃合を見計らって、モモくんは言えばいい。『そろそろ精算しようや。いい日雇いの仕事を知ってる』って」
 モモくんも形だけは一緒になって汗水たらすが、つまりは労働力の斡旋代として、仲間の賃金をピンハネしているのだ。だれも損も得もしない明朗な賭けのようでいて、実態は女郎部屋のようにこすっからい。
 悪知恵だけは働くらしいモモくんの背中を、半ば呆れ、半ば感嘆して僕も見た。手をつないだモモくんと梶取さんは、国民の窮状に目を向けない国王夫婦じみた足取りで、雑踏のなかを前だけ見据えて進んでいった。
 その翌日、梶取さんはダイニングのテーブルについた僕たちに、
 「あたしは奪われたものを取り戻すことにする」
 と宣言した。
 あまりに突然だったので、尾長は雑誌をめくりながら「ふうん」と生返事し、僕は、ちょうどやっていた英文和訳の宿題にそういう文章があるのかと、急いでノートに目を走らせた。
 モモくんだけが、
 「決めたのか」
 と、確認とも独り言とも取れないつぶやきをもらした。
 「決めた」
 「かわりのダイヤがねえのに?」
 「『取り戻す』と言ったでしょ。交換するつもりはないわ」
 「わかった。じゃ、やろうか」
 ちっともわからない。僕と尾長は、モモくんを梶取さんの会話を必死に追った。「僕たちには関係ない話みたいだね」って態度を、注意深く装いながら。なんとなくまずい展開になりそうな予感がしたので、「待ってよ、なんの話?」と問いただすことを避けたのだ。
 だけど無駄だった。モモくんと梶取さんがダイニングで話しをはじめたのは、もちろん最初から僕と尾長を巻き込むつもりだったからだ。
 モモくんは例の微笑を浮かべ、
 「これからダイヤモンドを盗みにいこう」
 と言った。尾長がいやそうに、僕は驚きのために、返事をしないでいると、
 「おまえらに言ってんだよ」
 と、モモくんがダイニングテーブルの下で、僕たちの足を軽く蹴った。
 「盗むって、まさか、あの銀座?」
 僕がおずおずと訊くと、梶取さんは「ちがう」と言った。
 「なんでダイヤなんか盗まなきゃなんないの」
 と尾長が文句を言った。「欲しけりゃ、貢いでくれるおっさんとでもつきあえばいいだろ」
 「いやだ」
 梶取さんは今度は尾長に向き直った。「あたしが欲しいダイヤは、この世で一個だけ。あたしの父の愛人が持っているダイヤよ。あんたの案を採用すると、あたしは自分の父親と付き合わなきゃならないじゃない」

 まったくわけがわからないですよね。居合わせた僕にもわからなかった。それでも僕たちは、ダイヤモンドを盗むことになったんです。ダイヤを盗むといわれても、すぐには実感が湧かなかったけれど、二週間、綿密な下調べと準備をして、嵐の朝に実行に移した。
 たしかに、今考えるとどうかしています。でも僕たちはまだ高校生で、しかも僕にはモモくんが特別に見えた。
 尾長にとっては、僕以上にモモくんの存在が重要だったでしょう。尾長が同じ学年の友人といるところを、僕はみたことがない。
 つまり、モモくんに「使えないやつ」と思われるのは、僕や尾長にとってすごく心細くておそろしいことだったんです。
 モモくんが「やる」と言ったことに従うにあたって、結局のところ理由なんていらなかった。
 こういう感覚、わかりますか?
 たぶん、おろかな恋や盲目的な信仰心に近い。相手の中に、自分の姿を見出そうとするような。
 そして梶取さんは、僕たちとはもうちょっと違う形で、モモくんと結びついていたのです。

 女の名は、来栖あけみといった。
 来栖あけみの住むマンションは、僕たちの住む町よりも、多摩川を下ったところを走る路線沿いにあった。赤レンガを模したタイルを貼った、八階建てのマンションで、まわりの建物も洒落た外観のものばかりだった。
 来栖あけみは、そのマンションの四階の一室で暮らしていた。梶取さんの父親が用意したものらしい。
 来栖あけみは水曜日と日曜日には、渋谷にある小さなバーに顔を出した。これも梶取さんの父親が出資した店で、来栖あけみが暇つぶしで経営しているようなものだった。
 それでも、外に出るのは気晴らしになるのか、店に顔を出す日の来栖あけみは、特に念入りに化粧をするようだ。送迎の車に乗って、夜の十時過ぎにマンションを出発する。店で雇われバーテンダーや客と話をしたり、シェイカーを振る真似事をしたりして、朝の五時過ぎにようやく帰ってくる。
 来栖あけみについての基本的な情報は、梶取さんが提供した。来栖あけみの日々の具体的な行動については、主に尾長が調べた。モモくんから来栖あけみの尾行を命じられた尾長は、すごく忠実に職務を全うした。
 尾長はまず、根城を決めた。来栖あけみの住むマンションの、隣のビルの屋上だ。ビルは五階建てで、一階はクリーニング屋、二階は百円ショップ、三階から四階は小さな税理事務所、最上階にはビルの持ち主らしき、耳の遠そうな老夫婦が住んでいた。尾長はそのビルの屋上に寝袋を持ち込んだ。
 僕の役目は、屋上の尾長に、コンビニで買った弁当を届けることだった。階段室の陰に居場所を作った尾長は、来栖あけみの部屋の方をちらちら見ながら、いつもどおりゲームをやっていた。
 「なにか変わったことあった?」
 と訊くと、尾長は「ないよ」と言う。来栖あけみの部屋から一人で出ることがなかったんだ。
 「せいぜい、朝のゴミ出しぐらいだ、ってモモくんに言っとけ」
 僕がモモくんにそう伝えると、モモくんは、
 「買い物は」
 と言った。「服を買ったり、スーパーに買出しに行ったりはするだろ。それもチェックしろって延次に言え」
 僕は一日に三度ぐらい、多摩川べりを自転車で往復した。やっぱりここでも、物や伝達事項をくわえた犬さながらに、だれかの言いつけに従って「おつかい」をしてたんだ。
 僕もかなり日焼けしたけど、屋上で直射日光にずっとさらされている尾長は、しまいには太陽の黒点そのものみたいになった。
 「会社勤めじゃない大人は、法則性のある生活なんてしないんだってば」
 尾長はモモくんの携帯に電話して、文句を言った。「そりゃ、梶取さんの親父が来たときには、一緒に出かけたりもしてるよ。だけど一人んときは、部屋にこもりっぱなしだ。一日に三回は荷物が届くから、必要なやつは、全部通販で買ってるんだろ」
 夕方に尾長は銭湯に行く。そのあいだ僕が、来栖あけみの動向を監視する。明かりの灯った部屋を眺めながら、僕はカーテン越しの部屋の内部を想像した。
 来栖あけみはきっと、怠惰な毎日を送っている。好きな時間に起きて、気が向いたら通販で買った食材を料理して食べ、やりなれない家事をたまにして充実感を味わい、眠くなったら眠る。梶取さんの父親から見捨てられないように、肌の手入れや体型維持のためのストレッチぐらいはするのかもしれない。だけど僕には、具体的な肌の手入れ法なんてわからないから、結局、想像のなかの来栖あけみは眠ってばかりだ。
 エアコンをきかせた室内で、タオルケットにくるまった来栖あけみが、まぶたを閉じる。白くて細い手首と足首。梶取さんの父親の訪れがあるまで、来栖あけみは電池の切れた人形のように、体温も呼吸もおさえ気味のまま眠るのだ。
 尾長は来栖あけみを監視しているあいだ、ほとんど自宅へは帰らなかった。尾長の親は息子はふだんどおり、モモくんの部屋に入り浸っていると思っていたんだろう。まさかよそのビルの屋上で女の部屋を覗いているなんて、想像もしなかったに違いない。
 僕はといえば、毎日ちゃんと家に戻ってはいた。僕が相変わらず夏期講習をさぼっていることに、なんとなく気付いているようだった。
 でももう、何も言われなかった。さぼりの確証がないからなのか、小言を言う価値もないと見限られたのか、「あなたを信じてるわ」と態度で示せば僕が改心すると思ったのか、何も言われない原因がどれなのか、僕にはわからなかった。
 観察をはじめてから二週間が経ち、金曜と日曜、どちらかの朝しかチャンスはないと僕たちは結論付けた。来栖あけみが時間を決めて、マンションを出入りするのは、店の行きと帰りだけだと尾長が断言したのだ。
 日曜の夜、モモくんは知り合いからバイクを借りてきて、車に乗ってバーへ行く来栖あけみのあとをつけた。
 モモくんによると、運転手は三十代のひょろっとした男で、バーの片隅でウーロン茶でも飲みながら、来栖あけみが「帰る」と言い出すまで待機しているらしい。運転手は、早朝に来る巣あけみをマンションまで送り届ける。
 尾長が屋上から見ていたところ、一階にマンションのエレベーターに乗った運転手は、来栖あけみが玄関のチェーンをしっかりとかけたことを確認して、ようやく立ち去るほどの入れようだった。
 「お目付け役ってことかしら。パパも、そんなに信用できない女を愛人にするのなんて、やめればいいのに」
 モモくんと尾長の報告を聞いた梶取さんは、あきれたように言った。「女がどこかで浮気でも蒸発でもしたら、その運転手もただじゃすまないでしょうね」
 マンション前の人通りを考え、僕たちは日曜の朝に計画を決行することにした。
 前日の土曜日は、尾長も久々にモモくんの部屋に戻ってきた。テレビもつけずにみんなでダイニングテーブルにつき、計画の段取りを確認して一日を過ごした。
 その日の夕飯は、モモくんと梶取さんが作ったフルーツサンドだった。
 尾長はそれを食べ終えると、来栖あけみのいる六本木の店へ向かった。梶取さんは、「外泊すると父親がうるさいの」と言って、家に帰っていった。
 「うまくいったら、電話して。朝なら抜けてこられるから」
 自分は愛人を囲っているくせに、娘の外泊を禁じるなんて勝手だなと、僕は梶取さんの父親を滑稽に感じた。
 僕は、モモくんの部屋に泊まることを家に連絡しなかった。「帰ってきなさい」と言われるに決まっているからだ。無断外泊なんてはじめてだった。後ろめたいような、すごく自由になったような、そんな気がして落ち着かなかった。
 僕とモモくんは仮眠を取るため、日付が変わる前にさっさと横になったのだが、あまり眠れなかった。
 台風が近づきつつあるのか、夜半になるにつれ、窓の外で風が激しくうなりはじめた。
 「ねえ」
 僕は薄闇のなか、隣のモモくんにそっと声をかけた。「なんだ」とモモくんは穏やかに言った。
 「こんな天気じゃ、あの女のひとは今夜はもう、店から早めにマンションへ戻っちゃうんじゃないかな。尾長は行き違いになったかもしれない」
 僕は何が言いたかったのか、自分自身よくわからなかった。だから計画は延期にしない? と言いたかったのだろうか。
 計画を立て、下準備をし、モモくんの部屋に泊まるだけで、僕にとっては充分な事件だった。このうえダイヤモンドを盗むなんてだいそれた真似は、できるならしたくなかった。だけど、モモくんはまったく逆方向に解釈した。
 「それもそうだな。じゃ、いまから女のマンションの前で張ってよう。お前もなかなか頭が回るな」
 と、ガバリと跳ね起き、僕の頭を乱暴にくしゃくしゃにしたのだ。

 とても大きな台風が、東京の上空を横切ろうとしていた。
 モモくんと僕は、増水した多摩川を横目に見ながら、適当にかっぱらった自転車を漕いだ。僕はモモくんの後ろに乗っていたけれど、あまりもの乱暴なその運転に、何度も振り落とされそうだった。「ちゃんと、おまえ、つかまってろ」とモモくんは何度も怒った。
 そのときの東京を自転車の速度で移動していたものは、僕たちと台風ぐらいだったろう。突風に煽られながらも、乱暴な運転ではあったにも関わらず、いつもの倍以上の時間をかけてなんとか下流の町に到着した。
 生温かくて大きな雨粒にしばしば打たれ、十五分ほど歩道に立っていた。角の向こうには、来栖あけみの住むマンションがある。そのマンションのエントランスを、僕たちは見張っているのだった。
 「素子の母親はさ」
 モモくんはのんびりと言った。
 夜明けにはまだ時間があるし、台風が直撃してるしで、町に人通りはまったくと言っていいほどない。
 「素子が高校に入ってすぐに死んだんだ」
 「ダイヤを呑んで、ってやつ?」
 「そう」
 「それは可能なの?」
 「知らねえ。俺が素子から聞いたのは、解剖したら腹からダイヤが出てきたってことだ。あいつの親父が、それを愛人の来栖あけみにやったってこと」
 「汚い」
 「ああ?」
 ダイヤモンドのことを汚いと言ったわけではないけれど、モモくんは誤解して怒ったのだと思った。けれど、叫ぶようにして言わないと、風にかき消されてお互いの声が聞き取れない状況に僕は安堵して、持ち直した。
 「梶取さんのお父さんって、何者なの!」
 僕はずっと気になっていたことから、さっさと訊いていくことにした。
 「ヤクザ!」
 と、モモくんがドスのきいた声で答えた。「宍戸組の組長やってる、田口ってやつ」
 「だって、苗字が……」
 「素子は、学校で親が筋もんだとばれるとやだっつって、母方のばあちゃんの養女になってる。だけど本妻の子だから、実際のところ、田口と一緒に成城のでけえ家に住んでる」
 ヤクザの愛人から、僕たちはダイヤを盗りに行こうとしているわけか。映画みたいで笑うしかなかった。
 「梶取さんの家には行ったことはあるの? その、ヤクザのお父さんにも会ったんだ」
 「行ったことも会ったこともねえよ」
 そのとき、モモくんの携帯電話が「アラベスク」を奏でた。「でも田口のことは名前だけは前から知ってる。俺の親父でもあるらしいから」
 びしょ濡れの手で、モモくんは苦労してジーンズの尻ポケットから携帯を引っこ抜いた。洗濯しちゃったみたいに、携帯も水浸しだった。よく通話機能が生きてたなと思いながら、僕は電話が終わるのを待った。
 「尾長から?」
 と訊くと、モモくんは頷いた。
 「店を出たってさ。いつもより早いな。道も空いてるだろうし、こっちも早めに部屋を出といて正解だった」
 モモくんは車道を渡り、エントランスの前の歩道に場所を移した。僕もすぐあとを追った。あとを追いながら、やっとモモくんの言葉の意味が脳に達し、驚愕が喉から勝手に飛び出した。
 「ちょっと、モモくん!」
 モモくんと呼んだのは、それが初めてだったと思う。「どういうこと、それ!」
 「なにが!」
 モモくんはいらいらした声を出した。植え込みの陰に隠れようとしていたのだが、小枝に腕を引っ掛け、さらに地面がぬかるんでいて、スニーカーが泥まみれになってしまったからだ。
 すでに着衣のまま溺れたみたいな姿だったので、僕はいまさら汚れることを気にしたりはしなかった。植え込みをかきわけ、モモくんの隣にしゃがむ。低木の上から目だけをのぞかせ、マンションの前の道路をぬかりなく見張りながら、もう一度落ち着いてモモくんに問いかけた。
 「モモくんと梶取さんは、お父さんが同じということ?」
 「そういう可能性がある、ってことだ」
 モモくんは暇そうに、しゃがんだ膝の上で頬杖をついた。「俺の母親も、田口の愛人だった。でもばあちゃんが言うには、俺の父親が田口かどうかは、本人にもよくわかってなかったみたいだ。ほかにも、つきあってる男がいたらしいから」
 平然としているモモくんが、僕にはなんだか空恐ろしかった。
 「血液型とかDNAとか、調べる気はないの?」
 「なんで」
 「だって」
 以前に体育倉庫で見た光景が、雨の向こうにはっきりと浮かび上がった。「だって、モモくんと梶取さんはきょうだいかもしれないわけで……まずいんじゃないの」
 「なんでキョーダイだとまずいんだ」
 モモくんの髪の先から、透明な雫がいくつもいくつも落ちて、もう水を弾くことのないジーンズに染みていった。「ずっと家族として暮らしてきた女とセックスするのは、ヘンタイかもしんないけどな」
 モモくんは強い口調でそう言った。誰かを思い出しているようでもあった。梶取さんのことだろうか。
 「ああ、そういえば俺、素子の誕生日がいつだかしらねえや。今度聞かねえと。だからまあ素子が妹か姉ちゃんかわからんけど、キョーダイとして育った相手とセックスするのはヘンタイだ」
 と言った。
 「うん、だからさ……」
 僕は口を挟むのを赦さず、モモくんは続ける。
 「だけど、俺は素子のことを全然知らなかった。知らずに会って、そんで『いいな』と思ったんだ。素子も俺のことをいいと思った。で、付き合ってる。そのあとで、キョーダイかもしれないって気付いたけど、キョーダイじゃないかもしれない。べつに都合の悪いことなんかなんにもないだろ」
 「子供ができたらどうするんだよ」
 「かわいがる」
 モモくんは「当然だ」というように答えた。「俺は、ガキが親になにをしてもらうと嬉しいか、知ってる。素子もだ。俺も素子も、ろくなことをしてもらわなかったから。だから俺たちにガキができたらできたで、きっとかわいがるだろう」
 僕は唐突に哀しみを覚えた。そしてモモくんは続けて口を開いた。「お前、なにを怯えてるんだ」
 隣にいるモモくんの深い眸を見たくなくて、視線を空に向けて逃がす。モモくんがいつもと変わらない表情をしてるだろうってことは、わかっていた。
 「でも、まあ、そうだな。さっきはヘンタイとか言ったけど、キョーダイとして育ってても、こうなってたかもしれねえし。何があるか、誰にも分からない。例えば、お前が俺に、素子とのことをマズイだのやめろだのと言ってるのには、理由があるのかもしれない」
 モモくんはついに、意味の分からないことまで喋り出した。僕に向かってこんなにも言葉を発するモモくんは、今までに一度もなかったものだから、僕は正直驚いたんだ。
 僕は話が掴めないといった振りをして、頭をもたげると、モモくんは僕の目を追った。
 モモくんの深い黒の目に、それよりもさらに暗い、闇の色が宿った気がした。その強い闇が、もし僕をとらえることがあるのなら、きっとあっという間に、塵となって、風にさらされるのだろう。
 煙幕みたいな雲が、ゆっくりと形を変えながら風に押し流されていく。
 「梶取さんは知ってるの?」
 と、僕は訊いた。
 「知らない。言うつもりはない」
 と、モモくんは答えた。
 雨がいっそう激しくなった。通りの向こうから、黒いセダンが近づいてくる。車のライトに照らし出された雨は、まるで太いペンで書きなぐった線みたいに見える。
 車がマンション前で停止すると、モモくんはいつでも飛び出せるように、植え込みで腰を浮かした。僕もそれにならう。ずっとしゃがんでいたから、膝の後ろが痛かった。走れるだろうかと少し不安になる。しかし、走るのだろうと思った。
 「モモくん、いまも音楽が聞こえる?」
 雨音にまぎれて届かなくてもいい。囁き声で僕は問いかけた。
 「聞こえてるよ」
 とモモくんは穏やかに答えた。

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