車は長い長い峠の坂道をのぼり、山の中に入った。
やがてうす暗い孟宗竹の竹やぶが右手に出てきて、それから荒れ果てた人家が見えた。その庭の奥から、数匹の犬が一斉にわんと吠えた。
母はスピードを落とし、左手に伸びている小道に入った。ミニで入るのが精一杯の小道だ。楓の木が両側から枝をさしかけて、トンネルのようになっている。
車はくの字型に大きく一度曲がると、私の身長より少し高そうな、古びた遺跡のような門柱を通って止まった。
そこはもうおばあちゃんのうちの前庭だった。庭の中心には大きな樫の木が一本立ち、その周りを囲むように小道や草花、庭木があった。
車のドアを開けて外へ出ると、ちょうどおばあちゃんが家から出てきた。
黒に近い褐色の大きな眸。今はもう半分以上白くなり、後ろで無造作にひっつめられた褐色の髪。骨格のしっかりした大柄な身体。歯を見せずに、にやりと(どう見てもにっこりというよりにやりだった)笑いながら、じっと私たちを見つめている。
母はおばあちゃんに近づくと、厳かにおばあちゃんの肩に右手を回し、胴に左手を回した。そして両頬を交互におばあちゃんの頬に寄せると、振り向いて私の方を見た。
「おばあちゃん、久しぶり」
「来ましたね」
彼女は流暢な日本語でこたえ、私の頬を両手で包むようになでた。
私たちは、それから庭を伝い家の反対側に回り、台所ドアから台所に入った。
ガラスの入ったドアで、開けると一畳ほどのサンルームになっている。台所に入るには、さらにもう一枚ドアを開けないといけない。台所といっても、タイルを敷き詰めた土間のような感じで、靴ばきで出入りができる。
裏庭に面してあけられた窓に寄せて、ダイニングテーブルと椅子が置いてある。私たちはそこにかけて、おばあちゃんがいれてくれたお茶を飲み、缶から取り出したビスケットをつまんだ。母は、来る途中の町の様子がだいぶ変わったこと、父が赴任先で元気そうに生活していること、庭の植物が生き生きしていること、つまり当たり障りのないこと、要するに私に関係ないことをしゃべり続けた。
裏庭には、料理の最中に台所から出てきてすぐ採れるよう、葱、山椒、パセリにセージ、ミントやフェンネル、月桂樹などが植えてあった。ぼんやりと外を見ながら、本当にそれらが陽の光をいっぱいに浴びて生き生きしていると思い、話はまだ核心にきていないと思った。だから私は席を立った。
二枚のドアに挟まれた小さいサンルームに行った。完全に外でもなく、完全に内でもないその空間には、ガラスの壁に細めの板が数枚渡してあり、小さい植物鉢や植木ばさみ、じょうろなどが置いてあった。下の方には棚はなく、長年の泥はねなどでガラスがひどく汚れていた。おまけに床のれんがには、隅の方に雑草が生えていた。
母が声のトーンを落とした。さあ、また「扱いにくい子」を口にするのか。けれど、何をしゃべっているのかうまく聞こえない。
私はしゃがんで、その雑草をつくづくと見た。小さな青い花をつけている。勿忘草をうんと小さくしたような花を。
突然、おばあちゃんの力強い声が響いた。
「一緒に暮らせるのは喜びです。私はいつまでも、あの子のような人が生まれてきてくれたことを感謝していましたから」
私は目を閉じた。ゆっくり深呼吸し、再び開ける。この小さな青い花はなんて愛らしいのだろう。まるで存在がきらきら光っているようだ。
「なにしているの?」と母が声をかけた。
私ははじけたように立ち上がって返事をした。
母は笑っていた。おばあちゃんも笑っていた。
「あなたの部屋をどちらにしますか。屋根裏の二部屋のうちどちらか」
話が急に変わったようで、そしてそのことについてうかつにも全く考えていなかったので、私は慌てて考えをめぐらせた。
この家の一階は、前庭に面してリビングルームと納戸、おばあちゃんの部屋を真ん中にして、裏庭側にこのキッチン、という間取りになっている。
屋根裏と呼んでいる二階には、前庭側におじいちゃんの使っていた物置のような部屋と、裏庭側に昔母が使っていた部屋がある。おじいちゃんは鉱石が好きだったので、前庭側の部屋はいまだに石だらけだ。
「私、母さんの部屋にする」
そういうと、母はにこっと笑い、
「もう、ずいぶんあの部屋にも入っていないわね。まだそのままなの?」
「そのままですよ」
「ちょっと行ってくるわ。お掃除したりしないと」
母はそそくさと二階へ上がった。おばあちゃんはにやりとして私に目配せした。
「お母さんは、あなたに見せたくないものを片付けに行ったんです」
「私に?」
私は驚いた。
「なんだろう。私、見たいな」
おばあちゃんは、やはり、にやりとして首を横に振った。
「あなたにも、人に見せたくないものはあるでしょう」
「そうかなあ」
私は一応とぼけた。
「人は大人になろうとするとき、そういうものがどんどん増えていくんです。あなたのお母さんは……」
と言って、おばあちゃんは、煙草とマッチの箱と灰皿を取り出し、煙草に火をつけた。
「あの部屋で大人になっていきましたから、そりゃあたくさんあるとおもいますよ」
私は、おばあちゃんの煙草は全く気にならなかった。おばあちゃんもそれを知っていた。けれども、母は私の喘息を盾にとり、父の煙草をやめさせていたし、おばあちゃんの喫煙も昔から嫌っていた。それで、おばあちゃんも母の前では煙草を控えている。
台所のテーブルは長方型で、それほど大きくもなく小さくもない。五、六センチの高さの小さな陶製の花瓶に、庭の花がかわいらしく生けてあった。
裏庭に面した出窓のところにおじいちゃんの写真が置いてある。白髪混じりの無精ひげを生やした面長の顔に、麦わら帽子が影を落としていた。夏の日に、この庭で撮ったのに違いない。おじいちゃんは細い目をして笑っている。おじいちゃんの横で、ブラックと呼ばれていた黒い犬がいかにも利発そうな目をしてこちらを見ている。ブラックもおじいちゃんも、もういない。
私は、この写真が好きだった。
おじいちゃんは、昔、ミッション系の私立中学の理科の教師をしていた。そこで英語の教師として赴任してきたおばあちゃんと出会い、結婚したのだ。おじいちゃんは私の小さなときに亡くなったので、私はほとんど覚えていない。
おじいちゃんとおばあちゃんが出会わなければ、母は生まれず、自分も今ここにいないのだ。いや、そもそも、おばあちゃんが、日本に来ようと思わなければ……と、考えて私は、宇宙の果てにあるようなものを想像した。
「おばあちゃんは、どうして日本にきたの」
おばあちゃんは、煙草の煙をすーっと吐くと、
「明治時代の始まりのころに、おばあちゃんのおじいさん、あなたにとっては曽々祖父に当たりますか、その人が日本を旅行したのです。そして、日本人の礼儀ただしさや優しさ、毅然としたところ、正直さに大変感銘を受けて英国に帰りました。私は小さい頃から、祖父に日本のことばかり聞かされて育ちましたから、まるで未来の恋人のことを思うように、日本のことを思うようになったのです」
おばあちゃんは、そのころのことを思い出しているかのように、窓の外、遠くを見つめていた。
「大きくなって、ある教会活動に従事していたとき、そこで、日本へ英語教師として赴任する人を募集していると知って、飛び跳ねるように、迷わず応募しました」
「みんな、反対しなかったの?」
「祖父の影響もあって、みんな日本びいきでしたから。でも、そのときは、まさか私が、こんなに長く日本にいることになるとは、だれも思わなかったでしょうね。伯母以外はね」
「それから一度も帰らなかったの?」
「新婚旅行で一度、それと父と母が死んだときに帰りましたよ」
「結婚、反対されなかった?」
「大喜びってわけではありませんでしたね。最初はね。不安だったでしょう。でも伯母が、私が日本人と結婚することは大昔から決まっていたことだ、と味方になってくれましたし、おじいちゃんに会うと、みんな彼が好きになりましたから。問題はありませんでしたね。祖父が言っていた通りの日本人でしたからね、彼は」
「じゃあ、おばあちゃんは小さいときからずっとおじいちゃんに恋してたようなものね」
「ふふふ、そうかもしれませんね。人の運命っていろんな伏線で織りなされていくものなんでしょうね」
バタンと二階の戸を閉める音がして、一段、一段、階段をきしませながら、母が降りてきた。
「ずいぶんゆっくりしてきたのね」
おばあちゃんが母に優しく声をかけた
「ええ」
と、母はため息をつきながらテーブルについた。
「棚や机の引き出しを使えるように、置いてあったものをダンボールに詰めてきたんだけど……」
「ひとつひとつ、懐かしかったのね」
「最後にガムテープで止めたとき、私の人生の一部がここに封印されたような気がしたわ」
私は、そのときの母の気持ちがなんだかわかるような気がした。わたしはまだ、生まれてから十二年しか経っていなかったのだけれど。
その日、母は一緒に屋根裏で寝て、まだ暗いうちに帰っていった。
私は、ベッドの中で母が下に下りていく気配を感じていたが、声はかけなかった。夢うつつだったのと、ここで声を交わすとどうしても「さようなら」とか「元気でやるのよ」、「気をつけてね」などという言葉が飛び交って、寂しさを増加させる事態になりそうだったからだ。それで、母の車が出て行く音をかすかに聞きながら、自分を追い込むようにして、また眠りの世界へ入ってしまった。
もう一度目が覚めたとき、やはり母の姿がなかったので、突然またホームシックに襲われた。
今回のはきっかけが明らかなので、わけもわからず襲われるよりは、まだましだ。しかし、その原始的、暴力的威力は同じで、心臓をギューとわしづかみされているような、エレベーターでどこまでも落下していくような痛みを伴う孤独感を味わう。そういうときは、ただひたすらそれが通り過ぎていくのを待つしかないのだ。
それでその朝も、その泣くに泣けない孤独感をやり過ごしながら、台所に降りていった。大人になったら、これがどこから来て、何で私にとりつくのか解明したいと思いながら。
おばあちゃんは、私の顔を見るとにやりとして、「おはよう」と言い、パンをトースターに入れた。私も返事をして、「母さん、ずいぶん早く帰ったんだ」と、ポツンと言った。
「そうね。もう着いているでしょう。朝は車も少ないから。電話してみますか」
私は首を横に振った。まだなんとか耐えられる。母に電話するのは最後の切り札にとっておこう。それにほら、おばあちゃんが私の古いカップを持ってきてくれた。これで気持ちは落ち着くはず。
私は、おばあちゃんの入れてくれた紅茶を両手でカップを包むようにして飲むと、皿に料理した卵をうつしているおばあちゃんを、ちらりと盗み見た。目が合った。おばあちゃんはまたにやりとした。
私は慌てて目をそらした。このホームシックに似た何者かまで全部見通されているようだった。そしてすぐ、おばあちゃんが気を悪くしなかったかと心配になった。すると、「今日は裏山で働いてみましょう」おばあちゃんが突然言い出したので、私は驚いた。
「何をするの」
おばあちゃんはトーストと卵の皿を運びながら、「行ってみたらわかりますよ。これを食べたら、まず、ひとりで裏を散歩してみたら」
私は、食欲は全然なかったのだけれど、おばあちゃんお気を悪くしたくなかったのでがんばって全部食べた。そして外を散歩する気分でもなかったのだけれど、せっかくおばあちゃんが言ってくれているのだから、と自分に言い聞かせて重い足取りで外に出てみた。
私の気分とは裏腹に、外は天気のいいものだった。朝のすがすがしい空気が、陽の光できらきらしていた。裏庭の右手の方から奥にのびている小道を行くと、すぐに鶏小屋があり、それからくぬぎやかし、はしばみの木や栗の木などの点在する日当たりのいい雑木林に出る。そこまでぼんやりと歩いてきて、私は思わず、あ、と小さく声をあげた。木のまばらなその林の床一面、真っ赤なルビーのような野いちごの群生で覆われていた。
「すごい」
呟きながら、それを踏まないように気をつけて歩いた。みずみずしく柔らかな、傷つきやすい宝石。私は足元に神経を集中させて、苦労しながら木立ちを抜けた。
そこは見晴らしのいい丘になっていた。野いちごの並はここまでは届いておらず、かやるち草などが混じった行儀芝が今度はその丘を覆っていた。あたりはもう、初夏の草いきれの匂いさえしていた。
私はそこに座り、遠くの薄青に輝く山を見つめた。風がすぐしたの栗の木の若葉をそよがせてゆき、遠くでホトトギスが何かしらを山にこだまさせていた。
ついこの間まで、あの狭い教室の重く煮詰まったような人間関係に身動きもとれないような気がしていたのが嘘のようだ。
私はできるかぎり思い切り深呼吸してから、
「逃げて」
と、小さく声に出した。
そう、これはエスケープだ、私は、またいつかあの世界に戻っていかなければならないのだ、と、私は知っていた。目頭が熱くなった。ああ、でも、とりあえずここは、なんて気持ちがいいんだろう……。
後ろで私を呼ぶ声がして、振り向くとおばあちゃんがバケツを両手に提げて立っていた。
「さあ、摘みましょう」
すぐにそれが野いちごのことだとわかった。
「これ、すごいね、おばあちゃん」
目を丸くさせながら立ち上がり、おばあちゃんの方へ歩いた。
「ジャムを作るんです。さあ、がんばって摘んでしまいましょう」
「はい」
私はおばあちゃんと並んで、しゃがんで摘み始めた。おばあちゃんはバケツを重ねて三つも持ってきていた。まさかと思ったけれども、結局最後には、三つとも満杯になってしまった。
おばあちゃんは手を動かしながら、亡くなったおじいちゃんは普通のストロベリージャムよりもむしろこのワイルドストロベリージャムのほうが好きだった話や(おばあちゃんは特にワイルドのところに力を入れたものだ)、おじいちゃんが本当に自然を愛していたこと、特に鉱物が大好きだった話をした。
私は聞きながら、おばあちゃんはおじいちゃんを失ってからどんなに辛かっただろうと思った。でも、それが本当にはどういうことなのか、少しもわかっていなかったのだと、私はずっと後になって思ったのだった。
赤い野いちごの緑の茎には、ひっきりなしに黒い蟻が上ったり降りたりしている。その実を口に入れると日向くさい甘味があって、ブチブチと何か舌に触る。
「あなたのお母さんは、木いちごのほうが好きでしたよ。そっちは、もう一ヶ月ほど待たねばなりませんけど」
「母さんも、こうやって手伝ったの」
おばあちゃんは首を振って、
「あのころは、ここにはこんなに野いちごはありませんでした。おじいちゃんが亡くなった次の年からでしたよ。こんなに増えたのは」
「そう」
私はその年のことを想像しようとした。おばあちゃんが、さっきの私のように、初めてこの一面のルビーの絨毯を目にしたときの感激を。
「まるでおじいちゃんからのプレゼントのようだね」
「本当にそうなのです、なぜなら……」
おばあちゃんは意外はほど真面目な声で言った。
「その日は私の誕生日でしたから。私には、その意味がすぐわかりました。おじいちゃんは、それまで毎年、私の誕生日を忘れたことはありませんでしたから」
私は声をかける言葉が思いつかず、とりあえず、
「おばあちゃん、うれしかったでしょう」
と言った。おばあちゃんは、にっこりして、
「うれしくて、うれしくて、ここにうずくまって泣きました」
私は、そのときのおばあちゃんの姿が急に目の前に現れたような気がして、慌てて瞬きした。
私とおばあちゃんは、午前中のほとんどを費やして摘んでしまい、台所ドアの前までバケツを運んだ。台所ドアの前には、かまどが二つあり、外で大鍋で何かグツグツ煮るときに使う。おばあちゃんはかまどの横の水道で、野いちごを丁寧に一つ一つ中を調べて洗い、ざるにあげた。私も手伝った。そうしないと、中に蟻が入っていることがあるのだ。
やっとのことでバケツ三つ分洗い終わると、おばあちゃんは台所からひとかかえもある大鍋を二つもってきて、水道でざっと洗い、そこにそのまま置いておいた。
それから家の壁のひさしの下に簡単につくってある薪小屋から、薪や杉の葉をひとかかえ運んできた。そしてかまどの前にしゃがみこみ、よく枯れた杉の葉をまず敷いて、次に小枝、細めの薪、と置いていくと、エプロンのポケットからマッチを取り出して杉の葉に火をつけた。杉の葉はあっという間に燃え出し、ぱちぱちと音を立てた。炎は小枝に移り、すぐに薪をくるんだ。
完全に薪が燃え始めたと見ると、おばあちゃんは、今度は太めの薪をその上に置き、立ち上がって、私に鍋を持ってこさせ、かまどの上に置くように言った。鍋に残っていた水が、しゅんしゅんと消えていった。片方の鍋にはバケツで汲んできた水が、もう一方にはバケツ一杯と半分の野いちごが入れられた。
「台所の配膳台の下に砂糖の袋がありますから四つ持ってきてください」
私は、言われたとおり、台所へ行って砂糖の袋を一度に四つ運んできた。
おばあちゃんは、またにやりと笑って、
「あなたは案外力持ちですね」
と言った。
それを聞いて私は、ああ、やっぱり重かったのだと再確認した。
おばあちゃんは袋を二つ分、野いちごの鍋に空けた。
「そんなにお砂糖いっぱい入れると、身体によくないんじゃ?」
私は不安になって尋ねた。母はいつも、砂糖の摂りすぎは身体によくないと言っていた。
「だいじょうぶです。ジャムなんて一度にいっぱい食べないでしょう。それにうんと甘いほうが、長いこと保存できるんです。さあ、あなたはこれでゆっくりかき回して」
おばあちゃんはこともなげにそう言うと、私に木じゃくしを渡した。そしてあらかじめ出してあったダンボールから次々にいろいろな形や大きさのガラス瓶を取り出し、ふたを開けては、煮立ってきた鍋の湯の中にそろりと入れた。そうやって、しばらくぐつぐつ煮た後で、長い菜ばしと厚手の鍋つかみを上手に使って順番にすくい上げ、大きな竹ざるに並べて乾かした。
ガラス瓶は冷えると同時に、気持ちのいいほどあっという間に乾いていった。ジャムのほうは、だんだん白いあくがわいてきて、おばあちゃんはそれを丁寧にすくって捨てるように言った。そして、かまどの風通し穴を小さくして、火があまり強く燃えないように調節した。
私がそうやってあくをすくってはかき回し、すくってはかき回している間に、おばあちゃんは空いたほうのお鍋に残りの野いちごと砂糖を入れ、同じように混ぜ始めた。
「あなたはとっても上手ですね」
混ぜながらおばあちゃんは褒めてくれた。
ジャムの匂いにひかれてか、蠅もずいぶん集まってきたけれど、さわやかな乾いた風が時折吹き抜けるので、あまり気にならなかった。私の鍋のジャムはそろそろ糸を引き始めた。
「こちらと交代してください」
おばあちゃんは木じゃくしを私に渡すと、おたまを手にとって鍋の中を二、三回ぐるぐる回し、ジャムをすくって次々にガラス瓶に入れ始めた。そうやってできたたくさんの瓶詰めのジャムは、日常使うほか、棚の奥にしまわれておばあちゃんが人を訪問するときの手土産になったり、わたしたちが遊びにきたときのプレゼントになったりするのだ。
ようやく全部の瓶にジャムが詰められ、まだ熱いうちにきっちりふたも締められた。
「今年はあなたが手伝ってくれたので、本当に助かりました」
薄く切ったかりかりのトーストにバターを塗り、できたてのジャムをスプーンですくって載せ、ねぎらうように、私にそれを渡しながら、おばあちゃんが言った。
私は本当はとても嬉しかったのだけれど、できるだけさりげなく言った。
「来年も、その次も、ずっと手伝いにくるよ、おばあちゃん」
おばあちゃんは嬉しそうに笑って、何も言わなかった。
私たちのつくったジャムは、黒にも近い、深い深い、透き通った紅だった。甞めると甘酸っぱい、裏の林の草木の味がした。
その日は夕食まで部屋の整理をして過ごした。夕食はカレーライスだった。たぶんおばあちゃんは私のためにわざわざつくってくれたんだろう、と私は思った。
後片付けを済ますと、おばあちゃんは今日つくったばかりのジャム瓶のいっぱい入ったダンボールを抱え、私は髪やはさみの入った箱を持ってリビングルームに移った。
そこで、テレビを見ながら、日付やジャムの名前を書いたラベル貼りをした。おばあちゃんのラベルは、長方形の何の変哲もない神に黒いペンで書いただけのシンプルなものだったけれど、私のは長方形の四角を落として長い八角形にしたり、色鉛筆を何色も使って縁取ったりした。
「あなたはセンスがありますね。これなんか本当にきれいね。組み合わせる色の配色もよく計算されているのね」
そう言って私の頭をなでながら、
「感性の豊かな私の自慢の孫」
と、独り言のように呟いたので、私は大いに照れてしまった。おばあちゃんにはそういう、誰はばかることなく相手をほめるところがあった。そして自分がそれを誇りにしていると、まるで植物に水をやるかのように、さりげなく伝えるところも。
ラベル貼りを終えると、私はそのままテレビを見続け、おばあちゃんは裁縫箱を持ってきて、縫い物をはじめた。
そのうちテレビもおもしろくなくなってきたので、おばあちゃんのそばへ行き、何を縫っているのかを聞いた。
「だれかさんのエプロンですよ。庭仕事用と台所用とね」
それを聞いて、私は、思わずおばあちゃんの手にしているものを、もう一度見直した。古い水色の服が、裾から三十センチくらいのところで裁断されてある。おばあちゃんは、今その袖口にゴムを入れて縫い縮めているところだ。
「これは、あなたのお母さんのナイトウェアだったんです。上の部分はあなたの庭仕事用のストックにしてあげましょうね。裾のほうで、水はね防止用のかわいいエプロンが三つもとれますよ」
私は、反射的に、
「ふーん」
と答えたが、だんだん胸の中で何かが広がり、
「おばあちゃん、好き」
といつものように早口で呟いて、おばあちゃんの背中に頭をすりつけた。おばあちゃんも、
「アイ・ノウ」
と微笑んで言った。それから、手を動かしながら、何気なく、
「あなたは、魔女を知っていますか?」
と訊いた。
「魔女? 黒い服に黒い猫、箒に乗ったりする魔法使いのこと?」
「そうです。まあ、実際には箒に乗ったりすることはほとんどなかったでしょうけれどね」
「え? 魔女って本当にいたの。テレビや、マンガや、物語だけのお話じゃないの」
「そうねえ、あなたの思っているような魔女とは、ちょっと違うかもしれませんけれど、本当にいたんですよ」
私は思ってもいない話の展開に、今までまどろんでいた頭が急に覚醒していくような感じを覚えた。
「どんなふうに違っていたの? ねえ、おばあちゃん」
「そうねえ、あなたは病気になったらどうします?」
「病院に行くよ」
「明日の天気が知りたかったら?」
「天気予報を聞く」
「そうね、でも、ずーっと昔、病院もなくて、気象庁もテレビもラジオも新聞もなかったころ、キリスト教すらなかったころは、どうしていたと思います?」
「キリスト教って、えーっと、それ、紀元前ってこと?」
「そうです、そのころだって人はたくさんいましたからね。今ほどじゃありませんけれど、もちろん。そのころ、人々は皆、先祖から語り伝えられてきた知恵や知識を頼りに生活していたんです。身体を癒す草木に対する知識や、荒々しい自然と共存する知恵。予想される困難をかわしたり、耐え抜く力。そういうものを、昔の人は今の時代の人々よりはるかに豊富に持っていたんですね。でも、その中でもとりわけそういう知識に詳しい人たちが出てきました。人々はそういう人たちのところへ、医者を頼る患者のように、教祖の元へ集う信者のように、師の元へ教わりに行く生徒のように、たずねて行ったのです。そのうちに、そういうある特殊な人たちの持っているものは、親から子へ、子から孫へ自然と伝えられるようになりました。知恵や知識だけでなく、ある特殊な能力もね」
「それはつまり……」
私は、頭の中を整理しながら言った。
「魔力? 遺伝するってこと」
おばあちゃんは、針を動かす手を止めて、近くの煙草と灰皿を引き寄せた。そして、ポケットからマッチを取り出して火を点け、火薬が焦げるにおいを散らし、ふうっと一服すると、
「そういうと、何かとてつもないもののように聞こえますけれど、多かれ少なかれ人にはそういう力があるんですよ。でも、人より多くそういう力のある人はいますね。人より上手に歌が歌えたり、計算が早くできたりする人がいるようにね。わたしの祖母がそうでしたよ」
「歌がうまかったの?」
おばあちゃんは笑いながら、
「そう、歌も上手でしたね。でも、もっと彼女に際立っていたのは、予知能力、透視、とでもいうのでしょうか、そういう能力でした」
私は、息を呑んでおばあちゃんの次の言葉を待った。
「私の祖父が日本に来たことがあったのは、あなたも知っていますね。そのころ、祖父はまだ十九歳の若い娘で祖父とは婚約中でした。ある日の午後、彼女が結婚に備えて何枚もの布巾を縫っていると、突然目の前に夜の海が広がって……」
「え?」
驚いて目を丸くする私を、おばあちゃんはにやりと笑って制した。
「その中を祖父がたった一人で泳いでいるのが見えたのです。彼女は、彼が泳いでいる方角は間違っていると直観し、思わず、右へ、と叫びました。その瞬間海も祖父も消え、彼女の手には縫いかけの布巾が戻り、今のはまた白昼夢だったと悟ったのです。彼女にはそれがはじめての経験ではありませんでしたから」
「そういうことがよくあったの?」
「ええ。彼女にはね。ちょうどそのころ、横浜から神戸に向かう途中の船で、眠れぬ夜を過ごしていた祖父は、甲板に出て夜風にあたっていました。そして、ふとしたはずみで、なんとまあ、海に落ちてしまったのです」
おばあちゃんは肩をすくめてささやくように言った。
「この世でいちばん起こってほしくないことの一つですよね。夜の海に落ちるなんて」
「それで、それでどうなったの?」
「不幸なことに、だれも祖父が落ちたことに気付かず、船はそのまま行ってしまいました」
私は息をついて、両手で拳をつくり口のところにあてた。
「それで」
「しかたなく、船の行ってしまった方向へ向かって泳ぎはじめました。しばらくして彼は本当に惨めで孤独で心細く、泣きたくなりました。そして、このまま死んでしまったら、たぶん彼の婚約者には彼に何が起こったのか、一生分からないままだろうと思いました。彼はたまらなくなって、祖母の名前を呼びました。そのときです。突然祖母の懐かしい声があたりに力強く響いたのです。右へ、と」
私はぞくっとして、思わず背筋をピンと伸ばした。
「彼は迷わず右へ向かって泳ぎだしました。もう寂しくも心細くもありませんでした。それから彼は砂浜に上陸でき、漁師小屋で震えているところを朝になって発見されました。そして、もしあそこで方向を変えなかったら、彼はいまごろ大渦巻きにのまれていただろうと聞かされました」
「恐い」
「祖父は旅の途中で、祖母にその不思議な体験を書き送りました。祖母はその返事に祖母が助かった喜びとねぎらいのほか、何も述べませんでした」
「どうして? あなたを助けたのはわたしなのよって、言ったらよかったのに」
「そういう時代だったのです。あまりにも長い間、祖母の持っていたような力は忌み嫌われてきたのです。ある秩序の支配している社会では、その秩序の枠にはまらない力は排斥される運命にあったのです。祖母の時代ではあるいは排斥されないまでも、普通の幸せは望めなかったでしょうね」
「そうなのかなあ。今ならテレビスターになれるのにね」
おばあちゃんは力なく笑った。
「あなたはそれが幸せだと思いますか。人の注目を集めることは、その人を幸福にするでしょうか」
私は考えてしまった。私たちの世代にとって、テレビスターになるということはつまり成功を意味していた。成功ということは幸せだということではないの? でもああいうふうに毎日人から注目されたり騒がれたりしていたら大変かもしれない。
「よくわかんないよ」
「そうね、何が幸せかっていうことは、その人によって違いますから。あなたも、何があなたを幸せにするのか、捜していかなければなりませんね」
私はまだ考え続けながら言った。
「でも、人から注目を浴びることは、一目置かれることでしょ。そしたら邪険な扱いを受けたりいじめられたり……無視されることはないわけでしょう?」
「いじめられたり無視されたりするのも、それは注目されているってことですよ」
おばあちゃんは、私の頬をなでながら優しく言った。
「あ……」
私は、乾いた声を出していたかもしれないと思った。
「もしかして、うちは、だから、そういう家系なの?」
「大正解」
おばあちゃんはにやりとした。
「でも今日はここまでにしましょう。夜もだいぶ更けてきました」
その夜、ベッドの中で、私はそういう不思議な事件が自分の身の回りに起こったことがあっただろうかと、あれこれ思い返してみた。そして、どう考えても私にはそういう力はない、という結論に達して、半分安心し、半分残念に思いながら眠りについた。
PR
COMMENT