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珍奇

 間違ってもいい意味ではなく、かわったこどもだった。保育園は自閉症の子とおもわれているふしさえあった。どうしてあんなだったのか、奇妙に思うことがある。とにかく、かわったこどもだった私はだから、「かわっている」という言葉があんまり素晴らしいものには思えずにいた。かわっている、へんであるというのは、徹底的にかなしく、さびしく、恰好悪いことで、私にとっては絶望と近しい言葉ですらあった。
 まず、泣かない。そして、しゃべらなかった。黙り込んだまま迎えバスに乗り、黙り込んだまま家に帰ってきた。しかし毎日は決して平坦ではなかった。暴力的なほど冒険とスリルに満ちていた。私はほかの子のすることができず―はさみなんか使えなかったしひらがなだって読めなかった―、できない、と申告することもできずにいた。トイレにいきたいという一言がいえないために、しょっちゅうおしっこを漏らしていた気がする。
 泣きもせずしゃべりもせず、保育園的世界を傍観していたのではけっしてない。ふて腐れたクールさを持ち合わせていたのでもなく、感情を抑える術を知るほど大人びていたのでももちろんない。私はただ、かわったこどもだったのだ。そうしたくてそうしていたのではなくて、そうすることしかできなかったのだ。
 迎えバスの補助いすを折り畳むとき、どうしてか指をひっかけてしまい、生爪がはがれても私は泣かず、声ひとつたてないで、おりるべきところで静かにバスをおりた。迎えにきた母親がこどもの一本の指の爪がないことに気付いて仰天し、どうして黙っているのか、どうして放っておくのかと叫びに近く問い詰めるが、私にだってわからない。どうすれば泣けるのか、どうすれば痛いと声をあげることができるのか。
 すべり台のてっぺんからすべる台を通らずに地面に落ちて顔面をしたたかに打っても泣かないのだった。私は起き上がり、そのまま先生たちの部屋の前に歩いていき、そこでじっと突っ立っていた。目の前にある扉をノックすることができない、先生の名を呼ぶことができない、しかしそのまま帰るなり遊びつづけるなりするにはあまりにも痛みが激しいので、いつか開かれるであろう扉をそこで待っていたわけである。
 扉はなかなか開かなかった。私はずいぶん長いあいだ、そこに突っ立っていた。そこはおもてで、頭の上にはビニールのひさしがあり、降り注ぐ陽射しはひさしを通過して黄色じみた色で足元に落ち、遠く、グラウンドで遊ぶこどもたちの声が聞こえていた。私は四角い扉を凝視していた。ようやく見つけられた私は救急車に乗り、顔面よりも足の怪我がひどいことがわかり、こどもだから麻酔はつかえないということでそのまま寝台に寝そべって針を縫った。頭の真上にある4つのライトに目をかき開いて眺めているといつの間にか手術は終わっており、よく泣かなかったと医者は感嘆した。
 小さな公園でサッカーボールを興味なさげにひとりで蹴っている最中、足を踏み外した際地面についた手首を折った。田舎町にお似合いのサッカーボールは表の道路にころがっていき、通行していた車に轢かれ爆発した。車は一瞬停まり、あたりを警戒するようなまなざしが運転席から発せられていたが、私は気配をころし、手首の骨折の痛みに耐えながら浮浪者のような足取りで帰宅した。運転手に見つかりたくなかったのは、サッカーボールを轢き驚かせたことに対する呵責でもなく、気遣いでもなかった。怪我をしているところを見られ、追及されることをおそれていた。私は目立ちたくなかった。結局、その現場を見ていた近所の住民がその運転手に私のすみかを教えたらしく、サッカーボールの弁償を払いに部屋まできた。心配性な母が救急車を呼び、結局、車に搬送されるはめになる私は、住民や運転手に見守られながら注目のまととなることになった。
 こどもでいるのなんかもういやだ、と願うほど私はおとなびてはおらず、ただ途方にくれてその場に立ち尽くしていただけだったが、のちのち、この場面を思い出すたび、はやくおとなになってしまいたい、という一言を知らずその光景に付け加えている。
 はやくおとなになりたい。泣くおとなになりたい。絶望的で、ときには屈辱的ですらあった保育園をでて以降、理由もなく「泣かない」記録を更新しながら私はそんなことを思っていた。平均的であること、いびつであること、枠内にきちんとおさまること、はみ出てしまうこと、そうなってしまうのでも、そうさせられてしまうのでもなくて、それらをきちんと自分で選びとることのできるおとなになりたい。泣くことも泣かないことも、しゃべることもしゃべらないことも、走る、歩く、休む、ズルをする、ばっくれる、うそをつく、笑う、闘う、ああ今日は楽しかったと、もしくは今日という日を呪いながら眠りにつく。それらひとつひとつをおとなは選べるのだと思っていた。
 たしかにおとなはたいていのことを選ぶことができる、と、歳を重ねていくにつれ思う。人に怒られただけで泣く、夢を見て泣きながら目覚める、数秒のコマーシャルに泣く、いつかそう願ったように、私はよく目を赤くする大人になった。本当に、どうしていいのかわからないくらい哀しいことがあって、泣くしかなくて泣いたとしても、それでも私は、泣けるおとなになってよかったと思うことがある。
 泣いたり、憤慨したりにやついたり、だれかの手を握ったり、離したり、バスに乗ったり道端に寝転がったりしながら、どの現実を歩いていくのかも私たちには選ぶことが出来るのだと思う。どの現実を、もしくは現実の隙間を、どんなリズムで、どんな足取りで。
 どの現実を歩いていくのかも私たちには選ぶことが出来るのだと思う。
 と、そう書いてから7年経った。七年間のあいだに、世の中にはいろんなことが起きて、私にも些細ながらいろんなことがあった。
 もちろん、住んでいる家は違う、好んで着ている服だってちがう、昨日ともに酒を飲んだ人の顔はちがう、けれど、かわらないことは、おそろしいほどのゆるぎなさでかわらないのだ。毎日毎日ちいさい音で音楽を聴きながら机に向かってタイピングし、ごはん何食べようかとそればかり考え、歩いてどこへでもいき、どこででも酔っ払い、七年前とかわらない友人と笑ったり話したりし、カレンダーをひっくり返して旅行日程をひねり出し大嫌いな飛行機に乗り、七年前と同じ強度でだれかを好きでいる。
 この偉大なる退屈と呼べそうな私の日々は、七年前も今もまったくかたちをかえていない。そのことにあきれつつ、しかし一方で、なんとたのもしいことよ、とも思う。
 これから先、私の過ごす毎日には、否応なく大小のできごとがおき続ける。幸とか不幸とか、そんな意味づけを無視できるほど私はイエス的成長をしていないから、そのひとつひとつに、きっと幸と不幸のラベルを貼り付けていくにちがいない。思い通りにならないことは不幸だし、欲しいものが手に入れば幸だと、単純に。そういうことを考えると、私は十代のこどものように少しこわくなる。いったいいくつのことが思い通りにならず、いったいいくつのものが手に入るのか。どのくらい予想外のことが待っていて、どのくらいコントロール不可になってしまうのか。何かが思い通りになっても、ならなくてもこわい。
 きっと、なんにもかわらないのだ。高雄に行こうとして台北に着いてしまったとしても、永住権を苦労して手に入れたつもりが帰化申請が済んでいないことになってしまっても、質素に暮らしたかったのに石油を掘り当ててしまったとしても、失うはずのない人を信じられない理由で失ってしまったとしても、目指したところと似ても似つかない地点にいると気付いても、でも、なんにもかわらない。
 今の日々がすきだとか、満ち足りているとか、そういう理由で、かわらないことを望んでいるわけでは決してない。そうじゃなくて、私たちは、外側で起きるどんなできごとも手出しできないくらい頑丈なのだと、きっと信じていたいのだ。これは、この七年、そしてもっと前から、世の中のほうにあまりにもでかい事件が続いたから思ったことだ。
 泣けなかった子どもは馬鹿みたいに泣く大人になり、そしてこれからふたたび、一滴の涙もこぼさない癇癪人間になるかもしれない。それでも何も、かわらない。今と同じ足取りで、歩いているのだろう。それは私のささやかな願望であり、いつか決めたはずの目標である。
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驟然

 ドアのレンズには意外な男がうつっていた。父だ。いぶかしみながら私はドアをあける。
 「あ、おお、元気だった、突然ごーめんね」父はかわらず、たよりない、細い声でぼそりとしゃべる。数年前の正月に会ったのが最後だったが、あまりかわっていなかった。そう、まったく変わっていない。
 「どうしたの、突然」
 「いや、あの、ほれ、いずっちゃん、どうしてるかな、と思ってさ。はは」
 父はうかがうように部屋に視線を向け、
 「あ、掃除中? 迷惑だったかな、こんな時間に」申し訳なさそうに頭をかく。
 「汚いけど、どうぞ、あがって」
 内心、迷惑だと思っていた。父がこうして私のアパートに転がり込んでくることはいままで一度もなかったし、二人で顔をつき合わせて酒を酌むなんてこともない。何か話があるわけでもない。玄関先にスリッパをそろえたが、しかし父は部屋に上がろうとせず、もじもじとその場に突っ立っている。
 「あのさ、ごはん、食べた? あはは、食べたよね、じゃあさ、ちょっと、飲まない? いや、パパお腹すいちゃってさ、はは、ここくる途中、何軒か飲み屋さんあるでしょう? けっこういいところ、あってさ、いや無理にとは言わないけれど、はは、やっぱ東京はすごいね、九時だってのに、どこも閉店してないもんね」
 父は昔からこうだ。娘に対しても、母に対しても、びくついて遠慮して、こちらをうかがうように話す。そういうふうにしか、話せない。
 アパートの数軒先にある居酒屋みよしには、寺山と何度もきた。値段が安いわりにつまみがおいしくて、話題がないときには二人そろって、店の奥に設置してあるテレビをぼけっと眺めて酒を飲んだ。寺山とつい三ヶ月ほど前に座った同じ席に、私と父は腰かけて飲んでいる。シュールな夢のようだ。
 「東京に用があったの?」私は訊いた。
 「いや、用なんて、ないんだけどね」父は左隣の客に煙が向かないよう、注意深く煙草を吸いながら小声で話す。
 「あのさ、工場と旅館、勤続三十年とかで、同時期にお休みくれたのね、はは、けどさ、なんにもすることなくてさ、ママたちは東京いっちゃって」
 「宝塚?」
 「はは、まあそうだね、いっしょにいこうかとおもったけど、ママいやがるしさ、はは、ほんっとすることないの、なあんにも。それで、いずっちゃんどうしてるかな、とおもってね」
 「ふうん」気の毒な男だと思った。「はじめてだね、一緒にお酒飲むの」
 「はは、そうだね、忙しかったからな。このもつ煮、いけるね」
 私たちはそれからしばらく無言で酒を飲んだ。早く酔ってしまいたかった。素面のままこの気まずさをやり過ごす自信はとうてい持ち合わせていなかった。父も同じことを思ったらしく、私たちはほとんど料理を口にせず、競うように日本酒を頼む。テレビ番組が砂時計のように流れ、ときをりコマーシャルがけたたましく響き、幾組かの新しい客が入ってきた。店の引き戸が開くたび、夏のなごりのむっとした空気が店のなかに入り込んで冷房にかき消される。
 「あ、あのさ、連れ出しちゃったけど、彼氏は平気? 今いっしょにいるんでしょ?」
 五杯目の丹沢山を注文して父が訊く。私は伯楽星を飲み干し、同じく丹沢山を頼み、横に座る父を見る。父は鼻を中心に顔を赤くして、目を細めて私を見ている。突然、私の何もかもをこの男は理解するかもしれないという、奇妙にゆるぎない期待を私は抱く。
 「おとうさん大学いかせてくれたよね」皿にあふれた酒をコップに移し、背をまるめ私はつぶやく。「大学に外人の友達がいてさ、舐めてんの?って言われたことがあんだよねえ。そうそう、月謝とか入学金がいくらだったのか私はいまだに知らないんだけどさ、きっとものすごく高かったんだよね、私立だもんね。それがさあ、その大学で、私何してた? 男追っかけてただけだよ、本当。文学部、日本文学科ってとこ出てさ、なんか役にたったかってーとナッシング、私今三十二歳ね、本厄中。そんで大学いった意味ナッシング」
 父に何かを打ち明けることほど恥ずかしいことはなく、しかしそうせずにはいられず、わざとおちゃらけて私は口をつく。そうすればいくらでもしゃべれそうに思えた。
 「あ、おにいさん、今度これください。えっと、大雪の蔵をおねがいします。でね、そーそー、彼氏よ、彼氏と二年か? 二年と半年か。一緒に住んでてさあ、私ね、今あれ、映画雑誌つくってるとこで働いてんだけど、契約だからね、残業ないのね、あー何が言いたいかってえと、ま、七時には家着くわけ、そんで、ビール飲みながらご飯つくんの、で八時前か、遅くても九時に寺山が帰ってきて一緒に食べんのね、ビール飲んで、テレビ観てさ。休みの日には二人で洗濯したり掃除したりで一日終わって、そのくりかえし。主婦。主婦の暮らしよまさに。それがさ、私、それでよかったの、こんなことがしたかったんだって、ずっとこうしたかったんだって思ってんの」
 私の隣でうん、うんと父はうなずく。大雪の蔵が運ばれてきて、父も同じものを頼む。
 「でもさ、寺山、出てっちゃったんだなー、ボランチアすんだって、そんなー、よそのだれか助ける前にここにいる私を助けろよ、とか思ったけどさ、人が何かやりたいつってんの止められないじゃん。とめられないよ、わかるもんそーゆーの」
 「いずっちゃんも一緒にボランティアするというのは、ないの?」
 かなり酔っているようなのに父はやはり遠慮がちに訊く。私は父を正面から見つめた。まるい鼻、小さな目、てっぺんが薄くなりつつある頭髪。
 「それ、それ考えたわ。簡単なことだと思った。でも、私、こわいんだよ。だってわかるんだもん。どこだっけ、インドパキスタン、違うスリランカ、スリランカくんだりまで追いかけてってよ? まあしばらくは安泰だわな、でもねおとうさん」目の前に置かれた透明の液体をすすりあげる。客たちの談笑する声がどこか遠くで聞こえる。
 「私はまたきっとだれか好きになる。スリランカにいたってどこにいたっておんなじだと思う。寺山が煮詰まって海外いくこと選んだように、関係が安定すると私はなんでかぶちこわしたくなる。ばか面下げてまたばかみたいな恋してさ、全部台無しにして、そんで主婦的な生活が好きだ何てよく言えたもんだ、よくそこまで寺山好みの女を演じられたもんだ、なんつって、また違うだれかを演じんの、もうわかってんの、わかってんだったらスリランカなんていき損、追っかけ損でしょ?」
 父はうん、うんとうなずきながらもろきゅうを口に入れ、噛み、砕く。かつて私の大嫌いだった父の噛み音。父と一緒に食卓につくのがいやで、学校に遅刻したこともあった。
 「中身がないのが悪いってわかってるけどー、もう遅すぎる。そういやさ、私こどものころからなかったもん、あれなりたい、これなりたいっての。フラワーショップ、お菓子屋、スッチー、よめさん、考えたけど何かになった自分なんか、そーぞーできなかったもんな、まるきし」
 私の隣の席に新しく入ってきた客が座る。私は横目でちらりとその客を見る。若い男だった。好きなタイプではなかったが、酔った頭で私はその見知らぬ男とつきあうことを想定してみたりする。好きだと言いあったり、泣いたり騒いだりする所を想像し、すぐにばからしくなってやめた。
 「ははは、おれね」コップ酒を両手で包み、それを温めるようにしている父は、私と同じように背をまるめて突然口を開いた。おれ。聞き慣れない一人称に私は小さく笑い、父はかまわず続ける。「自分が大嫌いでさ、朝目覚めて、自分であることにうんざりしてね、ああ、おれ松原だったらよかったのにとか、松原ってのは高校んときの親友だけどね、そんなこと毎日思ってたんだよね」
 ひとりごとをつぶやくようにしゃべる父を見ていると、ついこのあいだまでそこに座っていた寺山の姿と重なる。私は父から視線を外し、冷め切ったもつ煮込みをつつきながら話を促す。もつはいつもより異様に味が薄かったが、味覚が狂うくらい酔っているのかもしれなかった。
 「自分ていうのが柵でさ、おれは何がしたかったかってその柵の向こうにいきたかったんだな、でも自分がやることなんかわかりきってるわけね、結局柵の内側で、大学で食品会社に就職して、言われること大人しくやってね、失敗もないかわり大きな手柄もない。こんなこと、ずっとわかってたよって、毎日また落ち込むんだよね。いろいろ考えたんだ、小型船舶の免許取っちゃうかとかさ、司法試験受ける勉強でもしようかとかさ、わけわかんないだろうけど、とにかく、自分というね、柵の向こうにいけそうなことならなんでもよかったんだけど、まあ、それができないから自分なわけでさ」
 父は口を閉ざして手元の酒をじっとのぞきこむ。それから唐突に、ユウコさん、と母の名をつぶやいた。
 「ユウコさんに会ったのがそんなとき。省略するけどとにかくおれらは恋に落ちたわけ。はは、照れるな。結婚はでもこっぴどく反対されてねえ、ユウコさん水商売やってたしさ、おうちにちょっと問題あってね、今じゃなんでもないことなんだろうけどそういう時代だったしさ。でね、そんときさあ」
 父は言って、くふふふふと笑った。こんな男だったっけと私はこわごわとのぞきこむ。
 「ほんと、そんときだねえ、一瞬我を忘れてさあ。そんなのほんと一瞬、一瞬なんだけどさ、あきるほど見慣れた自分と、ぜんぜん違うことができるって、そう思ったんだよ。どうしても認めてもらえないならこの女と一緒に逃げる、逃げても一緒になる、そうした決意は、つまり今まで目障りだった柵の前に置かれたさ、ちょうどいいジャンプ台だったわけね。夢中だったな、小型船舶だの司法試験だの、まったくかなわないほどのチャンスだった」
 店はだいぶ空きはじめている。アルバイトの男の子は隅でテレビに見入り、店主はカウンターでぼうっと大鍋をかきまわしている。私たちはどちらともなく丹沢山のおかわりを頼み、店内に響くテレビの音声に耳を傾ける。
 「実際、全然違ったなあ」父は言う。もはや私を見ず、自分の掌のコップ酒に話しかけるように。「旅館で住み込みなんて考えられる? 工場で日がな一日プレス機いじってるなんて、それまで想像したこともなかったよ。あの人と一緒になるってことはさ、ほんと、柵の向こうにいくってことだったんだな。ときどき思うんだ、八丁堀にあったあの食品会社でさ、そこそこ出世して、部下連れて酒飲みにいったり、郊外に家買ってローン払ってたり、必死にゴルフ覚えたり、そうしている自分がまだいるんじゃないかって。柵で生きてるおれが通勤電車やタクシーに揺られて想像しているのが、じつはここにいる自分なんじゃないか、なんて」
 そういうあなたが私はとても嫌いだったと心のなかでつぶやく。過ぎてしまえばひとつの経験でしかなかったであろう恋愛のためにそういう暮らしを選び、選んだ暮らしを手放さないようびくびくしながら守っているその姿が滑稽で本当にいやだった。
 「二十歳ちょっと過ぎた、はは、どこにでもある恋心でさ、思わぬところへいっちゃったんだなあ。いずっちゃんじゃないけど、こどものころは飛行機のさ、操縦士になりたかったのにさ。六十んなってもさ、旅館の風呂磨いて、他人のものアイロンかけてさ」
 次第に父の呂律がまわらなくなっている。店のなかがやけに蒸し暑い。引き戸が開けっ放しになっている。見回してみれば私たちのほかに客はいない。もう店じまいなのだ。
 「だけどねいずっちゃん。ときおりさ。ズボンの裾まくって風呂ぴかぴかに磨きながら腰伸ばして開け放たれた窓の外とか見るとさ、青い空がばあって広がってて、なんつうか、外国にきちゃったみたいな気がしたんだなあ。すげえなおい、って思うんだ。おい、こんなとこまで、おれたったひとりできちゃったよ、ここ、いったいどこだよって」父は笑う。私を見る。「おれさ、おれのものじゃない一生を生きたって。柵の向こうで生きたって」
 蒸し暑すぎる。引き戸を開け放しにしておくのは私たちに早く帰れと無言で要求しているのだろうか。店員を捜すがアルバイトの男の子も女主人も見当たらず、見上げるとテレビは灰色の光を放っている。お父さん、今何時? 訊こうとして隣を見ると誰もいない。あわてて立ち上がり、――
 目が覚めた。飲み屋の喧噪、父の話し声、それらはまだ耳に残っているのに、蛍光灯がつけ放しの部屋は異様な静けさだった。冷房はタイマーが切れ、MDも再生をやめ、昼間に寝転がった私は全身汗ばんでいる。よだれを拭い立ち上がると、床の上に寝たせいで体中が鈍く痛んだ。部屋じゅうに転がっているゴミ袋をよけながら台所へいき、水を飲む。
 どうりでおかしいはずだった。もつ煮込みはあそこでは冬場限定のメニューだし、どの酒もみんな同じ味がした。それに父、父はあんなにしゃべる人じゃない。酔ったら寝てしまうし、ワンセンテンス以上話すのを聞いたことがない。それに、そうだ、今頃気付いて私は笑う。そうだった、父は去年死んだのだ。
 参列客のほとんどいない、地味な葬式だった。喪主は母だったが、泣いてばかりで何もしやしないので、事務的なことは私と姉がすべてやった。かなしいとか、もっと生きてほしかったとか、弔辞を聞いているうちに何一つ思わなくなった。私は淡々と、近所の暇な婆あたちが、涙も見せないとひそひそ話をするほど事務的に葬式をすませ、後悔も惜別もなかったが、ただ、唯一、私は知りたいと思っていた。父が自分自身を、彼が作り上げた暮らしを、いったいどう思っていたのかを知りたかった。生きていたって訊けなかっただろうが、そこにいないのならその機会すらないのだと、それだけを強く思っていた。
 そしてあの夢を見た。そう答えてほしいと私が願う言葉を父にしゃべらせるために。父はあんなに口がまわらない。だのに、あんなのにも父の声色は鮮明だった。
 午前三時をまわったところだった。燃えないほうのゴミ袋をゴミ捨て場まで運び、顔を洗って歯を磨き、歯ブラシを口に突っ込んだままボンジョヴィをかけ、洗面所にいこうとして、しかし私はそのまま台所でコンピューターの電源を入れた。
 何か考えようとしたが無理だった。頭のなかは真っ白で、眠気だけが綿みたいにつまり、手だけが勝手に動いた。履歴からさっきまで見ていた旅行代理店を呼び出し、マレーシア航空コロンボいき片道切符の予約手続きをとっていた。乗り継ぎのためにマレーシアで一泊しなければならず、自分でも驚くほどの素早さでクアラルンプールの中級ホテルを検索し、数秒のうちに検討し、やはりここでも予約を済ませ、Tシャツに歯磨き粉がしたたり落ちてようやく、歯を磨いている最中だったことを思い出した。ボンジョヴィが終わり、マライアがバタフライを歌っている。

 幾度も思ったことだが、がらんとした部屋を借りて、あれこれと荷物を運び込み、足りないものを買い揃え、部屋が自分のものらしく整うのはひどく時間がかかるのに、捨ててしまうのは一瞬といっていいほど素早く終わる。まだ新しい家具や電化製品は業者に引き取ってもらい、残りは粗大ゴミに出した。CDと本はすべて中古やに二束三文で売り払い、ほとんどの服は捨てて、真新しいものは友人に譲り、そうしてしまうと、あっけないくらい何もなくなった。部屋にものがなくなってしまうと、自分が何ものでもないような解放感を覚える。何ものでもない、つまり何にでもなれる気分は、これまで幾度か味わってきて、それが錯覚だと知っているにしても、ダイエットに成功したような身軽さを感じずにはいられない。
 何もなくなった部屋を隅々まで雑巾がけし、たえまなくしたたり落ちる汗を拭って部屋の真ん中に立つ。和室の畳はところどころ陽にやけて、台所の壁はうっすらと黄ばみ、食器棚や冷蔵庫のあった部分だけやけに白い。リノリウムに残った焼け焦げはふざけて寺山が落としたたばこのあとで、ふすまに残った赤いシミは友達がこぼした赤ワインだ。そんな具合に、生活の痕跡はあるが部屋のなかは下見に来たときと同じく何もない。まるで私みたいだと思う。新しく詰め込んで、うっすらと記憶を残しながらまたがらんどうに戻り、ふたたび新たなもので埋め尽くされるのをただ、待っている。けれど、こうして何もなければ隙間なんて言葉すらも思いつかないのだと、そんなことに改めて気付き、ずいぶん大きな発見をした気分になる。
 窓の外には彼方まで連なる屋根と、ところどころに突き出た広告看板、幾筋もの電線、それらを覆うようにペンキじみた青空がある。幾度も幾度も見慣れてきたその光景に蓋をするよう窓を閉じ、私は部屋を出る。

 早朝の電車は出勤する人々で混んでいる。つい数日前まで私もこのなかの一員で、自分の場所を確保するため必死で人を押し遣っていたのに、その混雑とささやかな戦闘にいらいらしている。イヤホンを耳に入れることもできないほどの混みようで、気分を紛らわすため、わざと心のなかで毒づいてみる。私はこれからこんな混雑と関係のないところにいくんだ。朝起きて仕事にいくあんたがたとは、まったく違うことをするんだうらやましいだろう。目の前にアンチエイジングに失敗したようなどうしようもないメイクをしたOL風の女が寄りかかるように現れた。目元がくすんでシミが隠しきれていない。夕べ仕事で失敗でもして、もしくは人間関係がもつれ、部屋に帰れば夜食もおざなりに疲れて寝てしまい、朝寝坊もして、しっかり時間が取れなかったのだろう。わかるよ、あんたのこと、と次には同情している自分がいる。
 新宿で電車をおり、空港いきのホームに向かうため彼らの群れから離れると急激に、どうしようもない心細さと、さみしさと、不安が私を食いかかってくる。家財道具を処分したときや、何もなくなった部屋から窓の外を眺めたときに感じた解放感はことごとく薄れ、次から次へと後悔にも似た感情があふれ出てくる。
 予約した電車が到着するまで三十分近くもあった。駅構内のファーストフード店に入り、立ったままコーヒーを飲む。アイルランドへ向かうときも、目的もなくスペインに向かうときとも違う、高揚感もなく期待感もない。返ってくる自分が思い描けていない。すべて自分で決めて行動しているくせに、私はどこかそんな自分にあきれている。
 ひたすら下降していく気分をまぎらわすため、私はあわててナップザックからMP3プレイヤーを取り出し、イヤホンを耳にねじ込む。店内に騒々しく流れていた、陽気な若い女たちの歌声が遠のき、サラブライトマンが静かに始まる。
 MP3は昨日、あげた服のかわりにと泊めてくれた友人マチコのアパートで編集録音した。洋服も洗面用具も必要最小限よりさらに少なかったが、MP3だけは持っていくつもりだった。自分がどこにいるかわからなくなっても、その場にいる意味がわからなくなっても、自分で選んだ音楽を聴けばとりあえず持ちこたえられるような気がした。
 「あんた前もこうして作ってたよね」編集作業を見守りながらマチコは言った。「あのサル顔の男に。モーニングブス猿ファンのちび男にさ。どうしてるかなあ、あの犬ども」
 「もういい加減忘れてよ、若き日の恋はさあ」
 「そういやあんた前もさあ、わけわかんない理由で海外逃亡してたよね、キャンプ用品一緒に買ったじゃん。どうしてるかなあサトル。あとチエコとかいう女。チエコってインディーズで二枚くらいCDとか出してたよね、すぐ名前聞かなくなったけど」
 「ぎゃあ、もういって。それにしてもマチコよく知ってるじゃん。私よかずっと詳しいんじゃない?」
 「まあそりゃ、あんたから男を奪った女だしさ、気にはするわな、って、いつから私こんな情念系なんだろ?」
 「マチコはもともと情念系だよ、同じ男と十年以上くっついてたんだから」
 「まあね。だからきっとあんたがあほ面下げて帰国するころ、私はこのしぶとい情念でニューワンをゲットして、巣作りに励んでると思うよ」
 「うっふふ」
 ピンク、シカゴ、セリーヌ、バックストリートボーイズ、カーペンターズ、インシンク、ホイットニー、クリスティーナアギレラ、アイヴィー、スポーツギター、ジャック、プッシュキングス……気に入りの曲を全部詰め込んで、二百曲を詰め込んだのは午前一時近く、あわてて私とマチコは枕を並べ部屋の明かりを落とした。なかなか眠りは訪れなかった。
 「でもね、あの犬どものためにテープ作ってたあんたが、自分のためにMP3作ってさ、ちっとは進歩してるってことなんか」暗闇のなかでマチコはそんなことをつぶやいた。
 「あはは、気をつかってんのマチコ」
 「いや、そう思っただけだ。もう寝よ、明日はやいでしょう」
 それからしばらく私たちは黙った。目を閉じても眠れず、暗闇にぼんやり浮かび上がる、マチコの部屋の見慣れた天井を眺めていた。
 「椎名林檎は入れなくていいの?」マチコは寝言のように言い、
 「それはあんたの趣味でしょ」私は思わず笑い出した。
 「どうして泊まりにきたの、いつもとおなじなの?」
 「そうだよ。荷物こんだけなんだから、全部置いてきてるよ」
 コーヒーを飲み干し、電車の発車時間が間近になっていることに気付き、急いで私は店を出る。背中のナップザックは軽くて、三十二になった自分が背負っているものはこれほどちっぽけだと告げられているような気がした。
 電車が走り出し、座席について、地下を抜けてビルの林立する景色を見送ると、耳にねじこんだイヤホンから大音量でバイクライドの曲が流れ出す。「here comes the summer」という曲で、夏は終わろうとしているけれど、この電車がふたたび夏に向けてまっすぐ走っている気がしてくる。そうだ、これからいく場所はうんと暑いところなのだ、私はその暑さの種類を知らないし、そこで寺山がどんなふうに笑ったり落ち込んだりしているのかも知らない。寺山の顔を思い浮かべようとしてみるが、もはや彼の顔は薄ぼんやりとした輪郭だけしか浮かばず、彼に会いにいくという実感が持てない。ただ私は、どこか遠くにある自分自身の中身をこれから取り戻しにいくような気がしている。不安や失望や心細さや疑問や、そんなものの合間をすり抜けて、電車はフルスピードで私を、どこか想像すら及ばない場所へとさらっていく。

更待月

 電話で話していてもナカニシくんが何を言っているのかさっぱりわからず、とりあえず今会おうよ、と私は強く言っていた。渋っているみたいだったが、根負けしたのか、結局会うことになった。会うことになったはいいが、時間を確認すると深夜一時近くで、ナカニシくんちとうちを結ぶ電車はもう終わっている。それで、双方二十分ほど歩いた場所にある、青梅街道と環状八号線の交差点を待ち合わせに決めて私たちは電話を切った。
 外に出るのは久しぶりだった。仕事は一週間も休んでいたし、毎日食欲もなく、冷蔵庫の残りものを一日に一度やっと食べるくらいで、買い物にもいっていなかった。
 東に向かって歩く。行き来する車はまばらで、歩いている人は私以外にだれもいない。ときおり、コンビニエンスストアの看板が、手招きするような明るさで点灯している。
 サトルと会ってのち、本格的に体調を崩した。あの日は家に帰るなり、食べたものも飲んだものもすべて戻して、熱さましの薬とアルコールのとりあわせが悪かったのだろうと思ったが、翌日になっても、その次の日になっても、食べたものは全部吐き、おなかもこわれたまんまで、熱もずっと下がらなかった。起き上がるのすらつらくて、毎日ずっと寝ていた。同僚から電話がかかってきて、いっしょに病院にいこう、と申し出てくれたが、丁重に断った。
 ひさしぶりに外界を歩くせいで、やわらかいものを踏んで進んでいる気がしてしまう。待ち合わせ場所が見えてきて、ラーメン屋の明かりの下、両親に置いていかれた子どもみたいにしょんぼりと立っているナカニシくんが見えた。体格の良さがかえってそれを顕著にかもしだしていた。
 洋子さんに彼氏ができた、とナカニシくんが言うから、いったいどういうことかと訊いたら、洋子母が以前言っていた、送り迎え専用の男のことを彼は言っているらしい。深夜のラーメン屋で、ナカニシくんと隣り合って座り、ようやく私は理解する。
 「それねえ、昔でいうところのアッシーだよ。洋子ちゃんのおかあさんがそう言ってたもん。関係ないよ、そんな男」
 ラーメン屋は空いており、金髪の若い店員は真剣な表情で私たちの頼んだ餃子を焼く。カウンターの一番隅で、背広姿の中年男がやっぱりマンガを読みながら、ちびちびとビールを飲んでいる。
 「うーん、なんか、もういいんす。関係なかろうが、あろうが」
 ナカニシくんはやけにしずかな声で言い、私のコップに瓶ビールをついでくれる。以前洋子の部屋で、ナカニシくんと私と洋子の三人で鍋をつついていたときにも感じていたが、ナカニシくんは女の仕事をことごとく奪う。
 「何よ、それ。本当だよ? その車の男はさ、洋子ちゃんの恋人じゃないんだよ」
 「そうなんだろうけど……いや、こないだその男に送ってもらったすよ、ぼくも」
 ナカニシくんは自分のコップにもビールをつぎ、上下する金色の泡をしばらく見つめている。
 「なんでよ、それ」
 「洋子さんに呼び出されて、何人かで飲んで、それで、そいつが車でみんなを送ってくれて。あ、電車終わっちゃったんで。それで、ふたりの話しかたから、この人たちは付き合ってはいないんだろうなーって思ったんだけど、なんか、もうどうでもよくなっちゃって。そういうの」
 「何それ、全然わかんない、どうでもよくなったって何」
 私の出した声は思いのほか大きかったのだろう、背広男が顔をあげこちらを見ているのが視界の隅に映る。私は口を閉ざす。ちいさな音で昔のロックが流れている。はい、おまちぃ、低く言って金髪が餃子の皿を私たちの前に素早く、しかし静かに置く。餃子にラー油をたっぷりつけ口に運ぶ。何日かぶりに食べる人間らしい食事に、さっそく吐き気がこみ上げてきた。しかし手をとめない。
 「その男が、洋子さんを好きなのはわかるんす。洋子さんは素敵だからそりゃ好きになるだろうとも思うし。そんで彼は、まあ、いつか恋人になれるんだろうって思ってるんすよ。最初ぼくがそうだったように。送り迎えとかしたり、たのまれたことやってるうちにきっと今よりしたしくなれるんだろうって、思ってるわけっす」
 「ナカニシくん、餃子うまいよ、食べな」
 私は言う。ナカニシくんが洋子の部屋で作ってくれた水餃子といい勝負だ、言おうとして、やめた。ナカニシくんは言われるまま割り箸を割り、どうでもよさげに餃子を口に運んで、咀嚼しながら続ける。
 「でもさ、そんなことはなくって」
 「それで何? 自分を見てるようで嫌気がさしたの?」
 「ちがうちがう、そんなんじゃないっす。あのね、美奈子さん、その男ね、すっげえださいの」
 「ださいの?」
 金髪はカウンターの内側で、今度は私たちのラーメンを作り始める。器を用意し、麺を茹で始める。
 「ださいっていうよりも、なんでもないというのかな……ほんっとなんでもない男なんですよ。おれみたいに。車はトヨタで、バナナリパブリックのTシャツ着て、ストーンウォッシュいまどき入ってる? って心配させるようなジーンズはいて、話してると会話がワンテンポずれるの、髪が異様に濃くてさあ」
 私は笑った。あのナカニシくんがそこまで人のことをけなす言い方をするのだから。ナカニシくんもそこまで言って、ふきだしてしまう。
 「でもさ、彼は彼なりに、洋子さんに尽くしてるんすよ。で、それ見てたら、なんかさあ、この人を好きだと思って、この人のために何かしたいと思って、でも、いったいおれや彼に何ができるんだろうとか考えちゃって」
 「うーん、それで、さっき電話で言ってた、もうたぶん洋子さんに会わないって、どうつながるの?」
 私たちの前にラーメンの器が置かれる。茶色いスープに、半熟のゆで卵と叉焼がのっている。「うまそっすね」ナカニシくんは言い、私たちはしばらく無言で麺をすする。隅で漫画を読んでいた男は立ち上がり、会計をすませて深夜の町に出て行く。熱気を含んだ風が出入り口から一瞬吹き込み、すぐに店内に充満する麺の匂いにまぎれる。
 「うん、自分でもうまく言えない」ナカニシくんは麺をつかんだ箸を空中で止め、つぶやく。「なんでもない男がさ、恋人になろうってあれこれ努力してて、でもそんなの洋子さんには全部迷惑じゃないかって、気付いてたことを認めなきゃって思ってきて」
 「って、やっぱバナナリパブリックに自分を見たってことじゃん」
 「それでもいいっす。そういうことなのかもしれないっす。でも、思ったんすよ。人を好きでいるってどういうことなのかって。そしたら、ぼくやバナリパ男みたいにものほしげにうろついてんのってちがくないかって」
 ナカニシくんはそこで言葉を切り、ふたたびラーメンを食べはじめる。私もうつむいて麺をすする。にんにくのにおいで顔のまわりがいっぱいになる。私とナカニシくんの真ん中に置いてある皿の上では、餃子がもう冷めてしまって油が浮いている。私はそれになんとなく箸を伸ばし、餃子を口に入れ、入れたとたん後悔し、ビールで流し込む。ナカニシくんはビール瓶を傾けて空なのを確認し、ビールもう一本ください、とカウンターに声をかける。金髪のおにいさんが笑顔でてきぱきとビールを私たちの前に置く。それにこたえるように、ナカニシくんも笑顔で頭を下げながら、空瓶を金髪に手渡した。
 「物欲しげ」ナカニシくんの言葉をくりかえしてみる。「純粋に」ナカニシくんは私にビールを注ぐ。液体のなかで泡がゆっくり上下する。「何ができるか」
 「ひょっとしてこういうの、とんこつしょうゆ系って言うんですかね」ナカニシくんはそんなことを言っている。
 「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないね」私は適当に答える。しょうゆ系だろうがミソ系だろうが、とんこつ系だろうがバナナなんとかだろうが、純粋に好きだろうが不純に好きだろうが、そんなこと、実にすこぶる本当にどうでもよかった。
 私が呼び出したのに勘定はナカニシくんが払ってくれた。まだ夏のさなかだけれど、店の外に出ると一瞬、冬の深夜みたいなにおいが鼻先をかすめ、いったい自分がどこにいるのかわからなくなる。
 「ナカニシくん、直接会って話を聞いてもよくわかんないままだけど、じゃあ本当に、ナカニシくんは洋子を好きでいるのをやめるわけ?」
 言いながら、へんな言い回しだ、と思った。好きでいるのをやめる、なんて。
 「やめるっす」ナカニシくんは即答する。「もう会うこともないだろうし、連絡もしないだろうなあ。あっ、美奈子さん、こっちでしょ、近くまで送ります」
 いいよ、環八からタクシー乗りなよ、と言おうとして、気付いた。ナカニシくんが洋子に二度と会わないのなら、たぶん私と会うのもこれが最後なのだろう。
 「じゃ、送って」
 私は言って、ナカニシくんと肩を並べて青梅街道を歩きはじめる。トラックが轟音をあげて通り過ぎる。バイクが数台通り過ぎる。遠くコンビニエンスストアの明かりが見えるが、ほとんどの商店はシャッターを下ろし、電飾看板の明かりももう消えている。
 「ナカニシくんさ」歩きながら私は言う。「前さ、言ってたよね。あーだれかと話したい、酒飲みたいってどうしようもなく思ったときにさ、だあれもいなくて、アドレス探してさ、でも軽く電話できる相手がだれもいないなってときに、思い出してもらいたいって。君自身のことを」
 「うん」ナカニシくんは、掠れた声でうなずく。
 「洋子がそうなったらどうすんの? 放っておくの?」
 ナカニシくんは隣を歩く私を見下ろし、やわらかく笑う。
 「おれね、わかったんす。洋子さんはそうならない。夜半に無性に会いたくなるのは、おれとか、美奈子さんみたいな人種なんすよ。そもそも突然たまらなく人恋しくなる人だったら、ぼくらみたいな行動に……って、まあ程度の差はあるんだろうけど、ぼくらみたいなこと、なんかしらしてますよ。そうならない人だから、おれらみたいなのが寄っちゃううんすよ」
 「何その、ナカニシ理論。へんなの」
 私たちは街道を曲がり、ひっそりとしずまりかえった住宅街を歩く。まったく人通りがない。このままこの年下の男に変な気を起こされて、襲われる様を想像したが、何の感慨も沸き起こらず、きっとそれはナカニシくんも同じなのだろうと思った。やがて視界の隅にうつるナカニシくんの肩を、サトルの肩と重ね合わせてみたが、またしても感慨はなかった。一つ違うのは、切なさとは程遠い、情けないほどの虚実感だけだった。街灯に照らしだされた暗い道が、まっすぐどこまでも続いている。ところどころに、信号機の光が飴玉みたいに浮かんでいる。
 ナカニシくんはおそらく、交際もできないのに洋子を好きでいること、好きでいて、あれこれと彼女の欲求を満たしてやることに疲れたのでは、けっしてないだろうと思った。たぶん、自分自身に怖気づいたのだろう。自分のなかの、彼女を好きだと思う気持ち、何かしてあげたいという願望、いっしょにいたいという執着、そのすべてに果てがないことに気付いて、こわくなったんだろう。自分がどれほど痛めつけられたって、傷ついたって、体がつらいと悲鳴をあげたって、それがなんなのだと、じきに去っていくであろうバナリパ男を見て知ってしまったんだろう。
 「ストーカー同盟も解散、か」
 私は笑って言ってみたが、ナカニシくんは笑わない。何も言わない。横顔を盗み見たが、固まったままだ。私たちはしばらく無言で歩く。汗がしたたり落ちて背中を流れていく。細い川に橋が架かっている。橋から川を見下ろすと、黒い水面に街灯が映って揺れている。
 アパートの前まで送るとナカニシくんは言ったが、私はそれを断って、駅に向かう彼についていった。しずまりかえった住宅街の向こう、やがて暗闇のなかに沈む駅の看板が見えてくる。ロータリーに灯る街灯が夜を静かに白く照らしている。タクシー乗り場に向かってナカニシくんは歩く。
 「きをつけて」
 「ありがとうございます。美奈子さんもね。おやすみなさい」
 また会う機会などないだろうけれど私たちは言う。ナカニシくんは手をふる。その笑顔はなぜか無性に私を苛立たせた。
 「好きな女のために身を引くようなこと言っちゃって」離れていく後姿に向かって、私は気がついたら叫んでいる。「結局、毛の濃いバナリパ男に負けたんじゃないか。見返りがないのになんかするのが馬鹿馬鹿しくなったんじゃない。飽きたんだよ、好かれないのに好きでいることに。水餃子の皮こねても置いてかれるのがつらいんでしょ、我慢の限界なんでしょ」
 ナカニシくんはゆるゆるとふりかえり、私を見てふたたび笑い顔を作る。おいてきぼりの子どもの情けない笑顔。私はいよいよ啖呵を切る。
 「あんたの言ってることは全部きれいごとだよ! 手に入りそうもないから、涙呑んであきらめたんだって、正直に言えばいいじゃんか! 私はそんなきれいごとは言わない、みっともなくたって物欲しげにうろつくよ」ナカニシくんはタクシー乗り場にたどりつく。停まっていた一台がドアを開ける。私は唇を噛んだ。「べつになんにもいらないって言ってたじゃん! ずっと、ずっとツカイッパ要員のままでいいって!」
 ナカニシくんはタクシーに乗り込む。乗り込んで、ガラスを開き、大きく手を振る。タクシーは音もなく走り去り、
 「うるっせえ! よっぱらい」
 どこかの窓から私に向けたのであろう怒鳴り声が響き渡る。
 「だまれ!」
 腹の底から押し返すような声で私は一喝した。
 ふりむくと白く丸い月があった。
 帰る家を見失いいっしょにさまよっていると思ったもう一匹は、みずから場所をさだめてそこに去ってしまった。ああ。またひとり。これからたったひとりで、どんなにバカらしいことも無意味なこともやらなくてはならない。煩悩が目減りするようにと、月に向かってともに祈ってくれる朋友はもういないのだから。
 

魔女

 車は長い長い峠の坂道をのぼり、山の中に入った。
 やがてうす暗い孟宗竹の竹やぶが右手に出てきて、それから荒れ果てた人家が見えた。その庭の奥から、数匹の犬が一斉にわんと吠えた。
 母はスピードを落とし、左手に伸びている小道に入った。ミニで入るのが精一杯の小道だ。楓の木が両側から枝をさしかけて、トンネルのようになっている。
 車はくの字型に大きく一度曲がると、私の身長より少し高そうな、古びた遺跡のような門柱を通って止まった。
 そこはもうおばあちゃんのうちの前庭だった。庭の中心には大きな樫の木が一本立ち、その周りを囲むように小道や草花、庭木があった。
 車のドアを開けて外へ出ると、ちょうどおばあちゃんが家から出てきた。
 黒に近い褐色の大きな眸。今はもう半分以上白くなり、後ろで無造作にひっつめられた褐色の髪。骨格のしっかりした大柄な身体。歯を見せずに、にやりと(どう見てもにっこりというよりにやりだった)笑いながら、じっと私たちを見つめている。
 母はおばあちゃんに近づくと、厳かにおばあちゃんの肩に右手を回し、胴に左手を回した。そして両頬を交互におばあちゃんの頬に寄せると、振り向いて私の方を見た。
 「おばあちゃん、久しぶり」
 「来ましたね」
 彼女は流暢な日本語でこたえ、私の頬を両手で包むようになでた。
 私たちは、それから庭を伝い家の反対側に回り、台所ドアから台所に入った。
 ガラスの入ったドアで、開けると一畳ほどのサンルームになっている。台所に入るには、さらにもう一枚ドアを開けないといけない。台所といっても、タイルを敷き詰めた土間のような感じで、靴ばきで出入りができる。
 裏庭に面してあけられた窓に寄せて、ダイニングテーブルと椅子が置いてある。私たちはそこにかけて、おばあちゃんがいれてくれたお茶を飲み、缶から取り出したビスケットをつまんだ。母は、来る途中の町の様子がだいぶ変わったこと、父が赴任先で元気そうに生活していること、庭の植物が生き生きしていること、つまり当たり障りのないこと、要するに私に関係ないことをしゃべり続けた。
 裏庭には、料理の最中に台所から出てきてすぐ採れるよう、葱、山椒、パセリにセージ、ミントやフェンネル、月桂樹などが植えてあった。ぼんやりと外を見ながら、本当にそれらが陽の光をいっぱいに浴びて生き生きしていると思い、話はまだ核心にきていないと思った。だから私は席を立った。
 二枚のドアに挟まれた小さいサンルームに行った。完全に外でもなく、完全に内でもないその空間には、ガラスの壁に細めの板が数枚渡してあり、小さい植物鉢や植木ばさみ、じょうろなどが置いてあった。下の方には棚はなく、長年の泥はねなどでガラスがひどく汚れていた。おまけに床のれんがには、隅の方に雑草が生えていた。
 母が声のトーンを落とした。さあ、また「扱いにくい子」を口にするのか。けれど、何をしゃべっているのかうまく聞こえない。
 私はしゃがんで、その雑草をつくづくと見た。小さな青い花をつけている。勿忘草をうんと小さくしたような花を。
 突然、おばあちゃんの力強い声が響いた。
 「一緒に暮らせるのは喜びです。私はいつまでも、あの子のような人が生まれてきてくれたことを感謝していましたから」
 私は目を閉じた。ゆっくり深呼吸し、再び開ける。この小さな青い花はなんて愛らしいのだろう。まるで存在がきらきら光っているようだ。
 「なにしているの?」と母が声をかけた。
 私ははじけたように立ち上がって返事をした。
 母は笑っていた。おばあちゃんも笑っていた。
 「あなたの部屋をどちらにしますか。屋根裏の二部屋のうちどちらか」
 話が急に変わったようで、そしてそのことについてうかつにも全く考えていなかったので、私は慌てて考えをめぐらせた。
 この家の一階は、前庭に面してリビングルームと納戸、おばあちゃんの部屋を真ん中にして、裏庭側にこのキッチン、という間取りになっている。
 屋根裏と呼んでいる二階には、前庭側におじいちゃんの使っていた物置のような部屋と、裏庭側に昔母が使っていた部屋がある。おじいちゃんは鉱石が好きだったので、前庭側の部屋はいまだに石だらけだ。
 「私、母さんの部屋にする」
 そういうと、母はにこっと笑い、
 「もう、ずいぶんあの部屋にも入っていないわね。まだそのままなの?」
 「そのままですよ」
 「ちょっと行ってくるわ。お掃除したりしないと」
 母はそそくさと二階へ上がった。おばあちゃんはにやりとして私に目配せした。
 「お母さんは、あなたに見せたくないものを片付けに行ったんです」
 「私に?」
 私は驚いた。
 「なんだろう。私、見たいな」
 おばあちゃんは、やはり、にやりとして首を横に振った。
 「あなたにも、人に見せたくないものはあるでしょう」
 「そうかなあ」
 私は一応とぼけた。
 「人は大人になろうとするとき、そういうものがどんどん増えていくんです。あなたのお母さんは……」
 と言って、おばあちゃんは、煙草とマッチの箱と灰皿を取り出し、煙草に火をつけた。
 「あの部屋で大人になっていきましたから、そりゃあたくさんあるとおもいますよ」
 私は、おばあちゃんの煙草は全く気にならなかった。おばあちゃんもそれを知っていた。けれども、母は私の喘息を盾にとり、父の煙草をやめさせていたし、おばあちゃんの喫煙も昔から嫌っていた。それで、おばあちゃんも母の前では煙草を控えている。
 台所のテーブルは長方型で、それほど大きくもなく小さくもない。五、六センチの高さの小さな陶製の花瓶に、庭の花がかわいらしく生けてあった。
 裏庭に面した出窓のところにおじいちゃんの写真が置いてある。白髪混じりの無精ひげを生やした面長の顔に、麦わら帽子が影を落としていた。夏の日に、この庭で撮ったのに違いない。おじいちゃんは細い目をして笑っている。おじいちゃんの横で、ブラックと呼ばれていた黒い犬がいかにも利発そうな目をしてこちらを見ている。ブラックもおじいちゃんも、もういない。
 私は、この写真が好きだった。
 おじいちゃんは、昔、ミッション系の私立中学の理科の教師をしていた。そこで英語の教師として赴任してきたおばあちゃんと出会い、結婚したのだ。おじいちゃんは私の小さなときに亡くなったので、私はほとんど覚えていない。
 おじいちゃんとおばあちゃんが出会わなければ、母は生まれず、自分も今ここにいないのだ。いや、そもそも、おばあちゃんが、日本に来ようと思わなければ……と、考えて私は、宇宙の果てにあるようなものを想像した。
 「おばあちゃんは、どうして日本にきたの」
 おばあちゃんは、煙草の煙をすーっと吐くと、
 「明治時代の始まりのころに、おばあちゃんのおじいさん、あなたにとっては曽々祖父に当たりますか、その人が日本を旅行したのです。そして、日本人の礼儀ただしさや優しさ、毅然としたところ、正直さに大変感銘を受けて英国に帰りました。私は小さい頃から、祖父に日本のことばかり聞かされて育ちましたから、まるで未来の恋人のことを思うように、日本のことを思うようになったのです」
 おばあちゃんは、そのころのことを思い出しているかのように、窓の外、遠くを見つめていた。
 「大きくなって、ある教会活動に従事していたとき、そこで、日本へ英語教師として赴任する人を募集していると知って、飛び跳ねるように、迷わず応募しました」
 「みんな、反対しなかったの?」
 「祖父の影響もあって、みんな日本びいきでしたから。でも、そのときは、まさか私が、こんなに長く日本にいることになるとは、だれも思わなかったでしょうね。伯母以外はね」
 「それから一度も帰らなかったの?」
 「新婚旅行で一度、それと父と母が死んだときに帰りましたよ」
 「結婚、反対されなかった?」
 「大喜びってわけではありませんでしたね。最初はね。不安だったでしょう。でも伯母が、私が日本人と結婚することは大昔から決まっていたことだ、と味方になってくれましたし、おじいちゃんに会うと、みんな彼が好きになりましたから。問題はありませんでしたね。祖父が言っていた通りの日本人でしたからね、彼は」
 「じゃあ、おばあちゃんは小さいときからずっとおじいちゃんに恋してたようなものね」
 「ふふふ、そうかもしれませんね。人の運命っていろんな伏線で織りなされていくものなんでしょうね」
 バタンと二階の戸を閉める音がして、一段、一段、階段をきしませながら、母が降りてきた。
 「ずいぶんゆっくりしてきたのね」
 おばあちゃんが母に優しく声をかけた
 「ええ」
 と、母はため息をつきながらテーブルについた。
 「棚や机の引き出しを使えるように、置いてあったものをダンボールに詰めてきたんだけど……」
 「ひとつひとつ、懐かしかったのね」
 「最後にガムテープで止めたとき、私の人生の一部がここに封印されたような気がしたわ」
 私は、そのときの母の気持ちがなんだかわかるような気がした。わたしはまだ、生まれてから十二年しか経っていなかったのだけれど。

 その日、母は一緒に屋根裏で寝て、まだ暗いうちに帰っていった。
 私は、ベッドの中で母が下に下りていく気配を感じていたが、声はかけなかった。夢うつつだったのと、ここで声を交わすとどうしても「さようなら」とか「元気でやるのよ」、「気をつけてね」などという言葉が飛び交って、寂しさを増加させる事態になりそうだったからだ。それで、母の車が出て行く音をかすかに聞きながら、自分を追い込むようにして、また眠りの世界へ入ってしまった。
 もう一度目が覚めたとき、やはり母の姿がなかったので、突然またホームシックに襲われた。
 今回のはきっかけが明らかなので、わけもわからず襲われるよりは、まだましだ。しかし、その原始的、暴力的威力は同じで、心臓をギューとわしづかみされているような、エレベーターでどこまでも落下していくような痛みを伴う孤独感を味わう。そういうときは、ただひたすらそれが通り過ぎていくのを待つしかないのだ。
 それでその朝も、その泣くに泣けない孤独感をやり過ごしながら、台所に降りていった。大人になったら、これがどこから来て、何で私にとりつくのか解明したいと思いながら。
 おばあちゃんは、私の顔を見るとにやりとして、「おはよう」と言い、パンをトースターに入れた。私も返事をして、「母さん、ずいぶん早く帰ったんだ」と、ポツンと言った。
 「そうね。もう着いているでしょう。朝は車も少ないから。電話してみますか」
 私は首を横に振った。まだなんとか耐えられる。母に電話するのは最後の切り札にとっておこう。それにほら、おばあちゃんが私の古いカップを持ってきてくれた。これで気持ちは落ち着くはず。
 私は、おばあちゃんの入れてくれた紅茶を両手でカップを包むようにして飲むと、皿に料理した卵をうつしているおばあちゃんを、ちらりと盗み見た。目が合った。おばあちゃんはまたにやりとした。
 私は慌てて目をそらした。このホームシックに似た何者かまで全部見通されているようだった。そしてすぐ、おばあちゃんが気を悪くしなかったかと心配になった。すると、「今日は裏山で働いてみましょう」おばあちゃんが突然言い出したので、私は驚いた。
 「何をするの」
 おばあちゃんはトーストと卵の皿を運びながら、「行ってみたらわかりますよ。これを食べたら、まず、ひとりで裏を散歩してみたら」
 私は、食欲は全然なかったのだけれど、おばあちゃんお気を悪くしたくなかったのでがんばって全部食べた。そして外を散歩する気分でもなかったのだけれど、せっかくおばあちゃんが言ってくれているのだから、と自分に言い聞かせて重い足取りで外に出てみた。

 私の気分とは裏腹に、外は天気のいいものだった。朝のすがすがしい空気が、陽の光できらきらしていた。裏庭の右手の方から奥にのびている小道を行くと、すぐに鶏小屋があり、それからくぬぎやかし、はしばみの木や栗の木などの点在する日当たりのいい雑木林に出る。そこまでぼんやりと歩いてきて、私は思わず、あ、と小さく声をあげた。木のまばらなその林の床一面、真っ赤なルビーのような野いちごの群生で覆われていた。
 「すごい」
 呟きながら、それを踏まないように気をつけて歩いた。みずみずしく柔らかな、傷つきやすい宝石。私は足元に神経を集中させて、苦労しながら木立ちを抜けた。
 そこは見晴らしのいい丘になっていた。野いちごの並はここまでは届いておらず、かやるち草などが混じった行儀芝が今度はその丘を覆っていた。あたりはもう、初夏の草いきれの匂いさえしていた。
 私はそこに座り、遠くの薄青に輝く山を見つめた。風がすぐしたの栗の木の若葉をそよがせてゆき、遠くでホトトギスが何かしらを山にこだまさせていた。
 ついこの間まで、あの狭い教室の重く煮詰まったような人間関係に身動きもとれないような気がしていたのが嘘のようだ。
 私はできるかぎり思い切り深呼吸してから、
 「逃げて」
 と、小さく声に出した。
 そう、これはエスケープだ、私は、またいつかあの世界に戻っていかなければならないのだ、と、私は知っていた。目頭が熱くなった。ああ、でも、とりあえずここは、なんて気持ちがいいんだろう……。
 後ろで私を呼ぶ声がして、振り向くとおばあちゃんがバケツを両手に提げて立っていた。
 「さあ、摘みましょう」
 すぐにそれが野いちごのことだとわかった。
 「これ、すごいね、おばあちゃん」
 目を丸くさせながら立ち上がり、おばあちゃんの方へ歩いた。
 「ジャムを作るんです。さあ、がんばって摘んでしまいましょう」
 「はい」
 私はおばあちゃんと並んで、しゃがんで摘み始めた。おばあちゃんはバケツを重ねて三つも持ってきていた。まさかと思ったけれども、結局最後には、三つとも満杯になってしまった。
 おばあちゃんは手を動かしながら、亡くなったおじいちゃんは普通のストロベリージャムよりもむしろこのワイルドストロベリージャムのほうが好きだった話や(おばあちゃんは特にワイルドのところに力を入れたものだ)、おじいちゃんが本当に自然を愛していたこと、特に鉱物が大好きだった話をした。
 私は聞きながら、おばあちゃんはおじいちゃんを失ってからどんなに辛かっただろうと思った。でも、それが本当にはどういうことなのか、少しもわかっていなかったのだと、私はずっと後になって思ったのだった。
 赤い野いちごの緑の茎には、ひっきりなしに黒い蟻が上ったり降りたりしている。その実を口に入れると日向くさい甘味があって、ブチブチと何か舌に触る。
 「あなたのお母さんは、木いちごのほうが好きでしたよ。そっちは、もう一ヶ月ほど待たねばなりませんけど」
 「母さんも、こうやって手伝ったの」
 おばあちゃんは首を振って、
 「あのころは、ここにはこんなに野いちごはありませんでした。おじいちゃんが亡くなった次の年からでしたよ。こんなに増えたのは」
 「そう」
 私はその年のことを想像しようとした。おばあちゃんが、さっきの私のように、初めてこの一面のルビーの絨毯を目にしたときの感激を。
 「まるでおじいちゃんからのプレゼントのようだね」
 「本当にそうなのです、なぜなら……」
 おばあちゃんは意外はほど真面目な声で言った。
 「その日は私の誕生日でしたから。私には、その意味がすぐわかりました。おじいちゃんは、それまで毎年、私の誕生日を忘れたことはありませんでしたから」
 私は声をかける言葉が思いつかず、とりあえず、
 「おばあちゃん、うれしかったでしょう」
 と言った。おばあちゃんは、にっこりして、
 「うれしくて、うれしくて、ここにうずくまって泣きました」
 私は、そのときのおばあちゃんの姿が急に目の前に現れたような気がして、慌てて瞬きした。
 
 私とおばあちゃんは、午前中のほとんどを費やして摘んでしまい、台所ドアの前までバケツを運んだ。台所ドアの前には、かまどが二つあり、外で大鍋で何かグツグツ煮るときに使う。おばあちゃんはかまどの横の水道で、野いちごを丁寧に一つ一つ中を調べて洗い、ざるにあげた。私も手伝った。そうしないと、中に蟻が入っていることがあるのだ。
 やっとのことでバケツ三つ分洗い終わると、おばあちゃんは台所からひとかかえもある大鍋を二つもってきて、水道でざっと洗い、そこにそのまま置いておいた。
 それから家の壁のひさしの下に簡単につくってある薪小屋から、薪や杉の葉をひとかかえ運んできた。そしてかまどの前にしゃがみこみ、よく枯れた杉の葉をまず敷いて、次に小枝、細めの薪、と置いていくと、エプロンのポケットからマッチを取り出して杉の葉に火をつけた。杉の葉はあっという間に燃え出し、ぱちぱちと音を立てた。炎は小枝に移り、すぐに薪をくるんだ。
 完全に薪が燃え始めたと見ると、おばあちゃんは、今度は太めの薪をその上に置き、立ち上がって、私に鍋を持ってこさせ、かまどの上に置くように言った。鍋に残っていた水が、しゅんしゅんと消えていった。片方の鍋にはバケツで汲んできた水が、もう一方にはバケツ一杯と半分の野いちごが入れられた。
 「台所の配膳台の下に砂糖の袋がありますから四つ持ってきてください」
 私は、言われたとおり、台所へ行って砂糖の袋を一度に四つ運んできた。
 おばあちゃんは、またにやりと笑って、
 「あなたは案外力持ちですね」
 と言った。
 それを聞いて私は、ああ、やっぱり重かったのだと再確認した。
 おばあちゃんは袋を二つ分、野いちごの鍋に空けた。
 「そんなにお砂糖いっぱい入れると、身体によくないんじゃ?」
 私は不安になって尋ねた。母はいつも、砂糖の摂りすぎは身体によくないと言っていた。
 「だいじょうぶです。ジャムなんて一度にいっぱい食べないでしょう。それにうんと甘いほうが、長いこと保存できるんです。さあ、あなたはこれでゆっくりかき回して」
 おばあちゃんはこともなげにそう言うと、私に木じゃくしを渡した。そしてあらかじめ出してあったダンボールから次々にいろいろな形や大きさのガラス瓶を取り出し、ふたを開けては、煮立ってきた鍋の湯の中にそろりと入れた。そうやって、しばらくぐつぐつ煮た後で、長い菜ばしと厚手の鍋つかみを上手に使って順番にすくい上げ、大きな竹ざるに並べて乾かした。
 ガラス瓶は冷えると同時に、気持ちのいいほどあっという間に乾いていった。ジャムのほうは、だんだん白いあくがわいてきて、おばあちゃんはそれを丁寧にすくって捨てるように言った。そして、かまどの風通し穴を小さくして、火があまり強く燃えないように調節した。
 私がそうやってあくをすくってはかき回し、すくってはかき回している間に、おばあちゃんは空いたほうのお鍋に残りの野いちごと砂糖を入れ、同じように混ぜ始めた。
 「あなたはとっても上手ですね」
 混ぜながらおばあちゃんは褒めてくれた。
 ジャムの匂いにひかれてか、蠅もずいぶん集まってきたけれど、さわやかな乾いた風が時折吹き抜けるので、あまり気にならなかった。私の鍋のジャムはそろそろ糸を引き始めた。
 「こちらと交代してください」
 おばあちゃんは木じゃくしを私に渡すと、おたまを手にとって鍋の中を二、三回ぐるぐる回し、ジャムをすくって次々にガラス瓶に入れ始めた。そうやってできたたくさんの瓶詰めのジャムは、日常使うほか、棚の奥にしまわれておばあちゃんが人を訪問するときの手土産になったり、わたしたちが遊びにきたときのプレゼントになったりするのだ。
 ようやく全部の瓶にジャムが詰められ、まだ熱いうちにきっちりふたも締められた。
 「今年はあなたが手伝ってくれたので、本当に助かりました」
 薄く切ったかりかりのトーストにバターを塗り、できたてのジャムをスプーンですくって載せ、ねぎらうように、私にそれを渡しながら、おばあちゃんが言った。
 私は本当はとても嬉しかったのだけれど、できるだけさりげなく言った。
 「来年も、その次も、ずっと手伝いにくるよ、おばあちゃん」
 おばあちゃんは嬉しそうに笑って、何も言わなかった。
 私たちのつくったジャムは、黒にも近い、深い深い、透き通った紅だった。甞めると甘酸っぱい、裏の林の草木の味がした。

 その日は夕食まで部屋の整理をして過ごした。夕食はカレーライスだった。たぶんおばあちゃんは私のためにわざわざつくってくれたんだろう、と私は思った。
 後片付けを済ますと、おばあちゃんは今日つくったばかりのジャム瓶のいっぱい入ったダンボールを抱え、私は髪やはさみの入った箱を持ってリビングルームに移った。
 そこで、テレビを見ながら、日付やジャムの名前を書いたラベル貼りをした。おばあちゃんのラベルは、長方形の何の変哲もない神に黒いペンで書いただけのシンプルなものだったけれど、私のは長方形の四角を落として長い八角形にしたり、色鉛筆を何色も使って縁取ったりした。
 「あなたはセンスがありますね。これなんか本当にきれいね。組み合わせる色の配色もよく計算されているのね」
 そう言って私の頭をなでながら、
 「感性の豊かな私の自慢の孫」
 と、独り言のように呟いたので、私は大いに照れてしまった。おばあちゃんにはそういう、誰はばかることなく相手をほめるところがあった。そして自分がそれを誇りにしていると、まるで植物に水をやるかのように、さりげなく伝えるところも。
 ラベル貼りを終えると、私はそのままテレビを見続け、おばあちゃんは裁縫箱を持ってきて、縫い物をはじめた。
 そのうちテレビもおもしろくなくなってきたので、おばあちゃんのそばへ行き、何を縫っているのかを聞いた。
 「だれかさんのエプロンですよ。庭仕事用と台所用とね」
 それを聞いて、私は、思わずおばあちゃんの手にしているものを、もう一度見直した。古い水色の服が、裾から三十センチくらいのところで裁断されてある。おばあちゃんは、今その袖口にゴムを入れて縫い縮めているところだ。
 「これは、あなたのお母さんのナイトウェアだったんです。上の部分はあなたの庭仕事用のストックにしてあげましょうね。裾のほうで、水はね防止用のかわいいエプロンが三つもとれますよ」
 私は、反射的に、
 「ふーん」
 と答えたが、だんだん胸の中で何かが広がり、
 「おばあちゃん、好き」
 といつものように早口で呟いて、おばあちゃんの背中に頭をすりつけた。おばあちゃんも、
 「アイ・ノウ」
 と微笑んで言った。それから、手を動かしながら、何気なく、
 「あなたは、魔女を知っていますか?」
 と訊いた。
 「魔女? 黒い服に黒い猫、箒に乗ったりする魔法使いのこと?」
 「そうです。まあ、実際には箒に乗ったりすることはほとんどなかったでしょうけれどね」
 「え? 魔女って本当にいたの。テレビや、マンガや、物語だけのお話じゃないの」
 「そうねえ、あなたの思っているような魔女とは、ちょっと違うかもしれませんけれど、本当にいたんですよ」
 私は思ってもいない話の展開に、今までまどろんでいた頭が急に覚醒していくような感じを覚えた。
 「どんなふうに違っていたの? ねえ、おばあちゃん」
 「そうねえ、あなたは病気になったらどうします?」
 「病院に行くよ」
 「明日の天気が知りたかったら?」
 「天気予報を聞く」
 「そうね、でも、ずーっと昔、病院もなくて、気象庁もテレビもラジオも新聞もなかったころ、キリスト教すらなかったころは、どうしていたと思います?」
 「キリスト教って、えーっと、それ、紀元前ってこと?」
 「そうです、そのころだって人はたくさんいましたからね。今ほどじゃありませんけれど、もちろん。そのころ、人々は皆、先祖から語り伝えられてきた知恵や知識を頼りに生活していたんです。身体を癒す草木に対する知識や、荒々しい自然と共存する知恵。予想される困難をかわしたり、耐え抜く力。そういうものを、昔の人は今の時代の人々よりはるかに豊富に持っていたんですね。でも、その中でもとりわけそういう知識に詳しい人たちが出てきました。人々はそういう人たちのところへ、医者を頼る患者のように、教祖の元へ集う信者のように、師の元へ教わりに行く生徒のように、たずねて行ったのです。そのうちに、そういうある特殊な人たちの持っているものは、親から子へ、子から孫へ自然と伝えられるようになりました。知恵や知識だけでなく、ある特殊な能力もね」
 「それはつまり……」
 私は、頭の中を整理しながら言った。
 「魔力? 遺伝するってこと」
 おばあちゃんは、針を動かす手を止めて、近くの煙草と灰皿を引き寄せた。そして、ポケットからマッチを取り出して火を点け、火薬が焦げるにおいを散らし、ふうっと一服すると、
 「そういうと、何かとてつもないもののように聞こえますけれど、多かれ少なかれ人にはそういう力があるんですよ。でも、人より多くそういう力のある人はいますね。人より上手に歌が歌えたり、計算が早くできたりする人がいるようにね。わたしの祖母がそうでしたよ」
 「歌がうまかったの?」
 おばあちゃんは笑いながら、
 「そう、歌も上手でしたね。でも、もっと彼女に際立っていたのは、予知能力、透視、とでもいうのでしょうか、そういう能力でした」
 私は、息を呑んでおばあちゃんの次の言葉を待った。
 「私の祖父が日本に来たことがあったのは、あなたも知っていますね。そのころ、祖父はまだ十九歳の若い娘で祖父とは婚約中でした。ある日の午後、彼女が結婚に備えて何枚もの布巾を縫っていると、突然目の前に夜の海が広がって……」
 「え?」
 驚いて目を丸くする私を、おばあちゃんはにやりと笑って制した。
 「その中を祖父がたった一人で泳いでいるのが見えたのです。彼女は、彼が泳いでいる方角は間違っていると直観し、思わず、右へ、と叫びました。その瞬間海も祖父も消え、彼女の手には縫いかけの布巾が戻り、今のはまた白昼夢だったと悟ったのです。彼女にはそれがはじめての経験ではありませんでしたから」
 「そういうことがよくあったの?」
 「ええ。彼女にはね。ちょうどそのころ、横浜から神戸に向かう途中の船で、眠れぬ夜を過ごしていた祖父は、甲板に出て夜風にあたっていました。そして、ふとしたはずみで、なんとまあ、海に落ちてしまったのです」
 おばあちゃんは肩をすくめてささやくように言った。
 「この世でいちばん起こってほしくないことの一つですよね。夜の海に落ちるなんて」
 「それで、それでどうなったの?」
 「不幸なことに、だれも祖父が落ちたことに気付かず、船はそのまま行ってしまいました」
 私は息をついて、両手で拳をつくり口のところにあてた。
 「それで」
 「しかたなく、船の行ってしまった方向へ向かって泳ぎはじめました。しばらくして彼は本当に惨めで孤独で心細く、泣きたくなりました。そして、このまま死んでしまったら、たぶん彼の婚約者には彼に何が起こったのか、一生分からないままだろうと思いました。彼はたまらなくなって、祖母の名前を呼びました。そのときです。突然祖母の懐かしい声があたりに力強く響いたのです。右へ、と」
 私はぞくっとして、思わず背筋をピンと伸ばした。
 「彼は迷わず右へ向かって泳ぎだしました。もう寂しくも心細くもありませんでした。それから彼は砂浜に上陸でき、漁師小屋で震えているところを朝になって発見されました。そして、もしあそこで方向を変えなかったら、彼はいまごろ大渦巻きにのまれていただろうと聞かされました」
 「恐い」
 「祖父は旅の途中で、祖母にその不思議な体験を書き送りました。祖母はその返事に祖母が助かった喜びとねぎらいのほか、何も述べませんでした」
 「どうして? あなたを助けたのはわたしなのよって、言ったらよかったのに」
 「そういう時代だったのです。あまりにも長い間、祖母の持っていたような力は忌み嫌われてきたのです。ある秩序の支配している社会では、その秩序の枠にはまらない力は排斥される運命にあったのです。祖母の時代ではあるいは排斥されないまでも、普通の幸せは望めなかったでしょうね」
 「そうなのかなあ。今ならテレビスターになれるのにね」
 おばあちゃんは力なく笑った。
 「あなたはそれが幸せだと思いますか。人の注目を集めることは、その人を幸福にするでしょうか」
 私は考えてしまった。私たちの世代にとって、テレビスターになるということはつまり成功を意味していた。成功ということは幸せだということではないの? でもああいうふうに毎日人から注目されたり騒がれたりしていたら大変かもしれない。
 「よくわかんないよ」
 「そうね、何が幸せかっていうことは、その人によって違いますから。あなたも、何があなたを幸せにするのか、捜していかなければなりませんね」
 私はまだ考え続けながら言った。
 「でも、人から注目を浴びることは、一目置かれることでしょ。そしたら邪険な扱いを受けたりいじめられたり……無視されることはないわけでしょう?」
 「いじめられたり無視されたりするのも、それは注目されているってことですよ」
 おばあちゃんは、私の頬をなでながら優しく言った。
 「あ……」
 私は、乾いた声を出していたかもしれないと思った。
 「もしかして、うちは、だから、そういう家系なの?」
 「大正解」
 おばあちゃんはにやりとした。
 「でも今日はここまでにしましょう。夜もだいぶ更けてきました」
 その夜、ベッドの中で、私はそういう不思議な事件が自分の身の回りに起こったことがあっただろうかと、あれこれ思い返してみた。そして、どう考えても私にはそういう力はない、という結論に達して、半分安心し、半分残念に思いながら眠りについた。

 その女の印象は、僕が正規部隊の人間に抱いている冷めた感情の範疇から、決して逸脱できるほどいいものではなかった。
 誰の何者の風下にも立ちたくないといわんばかりの、傲慢な若さと隙のない美しさ。
 上忍になりたてでまだ己の能力の上限を知らず、また才能の果てがあるなど想像もしていないような生意気そうな顔つき。
 往々にして『暗部』と任務を共にする場合の『上忍』というものは、大なり小なり余裕を失うものだ。
 素直な向上心を汚染してしまう、憧憬の入り混じった敵愾心。焦燥感。
 実力がこちらに比べ少しだけ劣る者よりむしろ遥かに劣る者ほど、扱いに難儀する。
 そういう意味で、今回の僕と先輩のツーマンセルに不自然に放り込まれたこのくノ一が、妙な反発心を育てたり、僕ら二人を実力という面で値踏みしてどちらがより『強いか』だなんて任務とはあまり関係のない無駄な比較をすることに固執したりして、精神の不安定さを別の感情に転換させるなんてことも十分考えられたが。
 時間の経過とともに彼女の自信に裏打ちされた微笑は瓦解し、明るい色の瞳は焦りを映しはじめた。
 しなやかに動いていた体は強張り、著しくその機能を低下させ、時に本人の意思を受け付けなくなった。
 僕は萎縮する彼女を背に庇い、代わりに剣を振るい、攻撃を受け止めた。
 彼女はもう、三度は死んでいる。

 里は何のために、使い物にならないとわかっている彼女に、わざわざこんな状況を体験させるのか。
 残酷な。
 既にこの場での己の無力さを悟った彼女は、僕らの邪魔にならないことだけを念頭に動いている。
 だが、ぎりぎり彼女を立たせている克己心が、時に揺らぎそうになるのを僕は見て取った。
 下手に甘い手を差し伸べれば、彼女は消える。緊張の糸が切れる、その限界が近い。
 「暗部の男が二人に、上忍の女が一人。最初は自然な形の見合いというか、恋愛用かと思ったんだけど違うね。一人あぶれちゃうもん。慰み用だよ。里から俺たちへの、褒美だね」

 男を与えられることもあるのよ。ついてたね。
 彼女には聞かせないように、穏やかな目でそう言った先輩を、僕は驚きの感情で見つめた。
 生に対する当然の執着心と、年齢がそうさせるのか、暗部の人間の貞操観念は正規部隊のそれよりゆるい、あるいは乱れている、とはよく言われることだ。時にうんざりさせられながらも、僕とて、完全に例外とは言い切れない行動をとることもある。
 だが、「先輩。もしかしてその気があるんですか」
 「そういうお前はどうなのよ」
 ゆったりとした口調でこちらを観察する色違いの瞳が、真実何を探ろうとしているのかわからず、僕はまた言葉を失った。
 二人でやるか、どちらかに譲るか。
 先輩が男同士の下衆な打診を口にしているとは、思いたくないという気持ちが強かった。
 「無事に、帰してあげましょうよ……」
 「それは手をつけず、無事に、という意味で?」
 「はい」
 しばらくじっと僕を見つめていた先輩が「いいよ」と一言告げただけで、僕はほっと安堵していた。
 綺麗なふりをするわけではないが、人間なんて極限状態や欲の前ではどいつもこいつも同じだ、という気まずい時間を、僕は先輩と過ごしたくはなかった。
 男二人の意向から己の与り知らぬところで運命が決まった彼女に、先輩は必要以上の接触をせず、残った僕は、注意深く彼女の揺れる内面を気にしていた。
 我慢強くて、無闇に男に頼ろうとしない、潔い女だった。苦しく絶望的な状況の中でも、決して狂おうとしない。
 こんな稼業に身を染めていて、誰かを助けてやるだとか、見逃してやることに酔っていたら、それは傲慢な偽善でしかないが、こうしてできる範囲の中で誰かを気遣うのは、多分、慈悲の心か、または好意によるものだ。
 無力な子供時代に僕の運命が決定された過程にだって、確かに誰かの慈悲が存在した。僕に触れられた全ての手が悪意と打算によって動いていたわけではない。
 だから。
 膝をついた彼女を、自力で立ち上がろうとする細い腕を、全て承知の上で、引っ張り上げた。
 驚きに固まる瞳が、僕のせいでやがて潤んで、涙になっていくのを受け入れた。
 自分でも驚くぐらいに自然に体と体が触れ、気がつけば彼女を抱きしめていた。

 「恐ろしいうえに、悔しいのよ」
 あまり踏み込めないはずの他人の心の内を、恋人でも大事な人間でもない自分がこんな風に聞いてしまって、すまなく思った。
 男児を望まれた家に女として生まれおち、それでも一族の期待に応えて上忍になった、と女は言った。努力だけではどうにもならない才能を持ち合わせたことを誇りに思っていたのに、むしろその才能に裏切られるなんて、と。
 「忍びとしての才だけで、君の価値は決まらない」
 「そういう世界しか、知らないのに、私は」
 「代わりにできる人間がいるなら、守ってもらえばいい。同じ里の仲間に」
 「でも、ただ守られているなんて、卑怯にならないだろうか」
 「君の事を卑怯だなんて、僕は思っていない」
 彼女は、それでもまだ頑なに頭を振って僕の言葉を否定した。
 だから、言葉で足りない分を、唇で慰めた。
 情欲とは違う部分で、くちづけをし、彼女の髪を撫で、肉体的にのみならず精神的に少し休ませてあげようと密かに印を結んでいるところで、僕は先輩の存在を思い出した。
 眠りについた彼女の体を軟らかい場所を選んで横たえ、闇に包まれてはいても、木の葉の擦れあう音が木遁使いの僕に場の有利さによる余裕を感じさせる深い緑の中で。
 一緒に移動していたはずの先輩は、気配すら感じさせずに座り込んでいた。
 その様子は、一枚の静かな絵画のようだった。

 黙りこくったまま、僕の足音を聞いても顔を上げない。
 「先輩」
 邪魔しないようにって、思ったのよ。
 お前、無事に帰してやろうなんて言っておいて、嘘ばっかり。
 てっきりそんな感じの軽口を叩くかと予想していたのに、先輩の態度は、僕の想像とは少し違った。
 しばらく僕の気配を無視していた後、僅かの笑みも含まない瞳で、僕にすっと視線を移した。急に話し出した声に軽く驚く。
 「お前の目が。ずっと彼女を探っているみたいに、知りたがっているみたいに見えたんだ」
 他人の剥き出しの傷口が、僕には少し珍しく、興味深かった。
 以前には、先輩のことも、よく見ていた。
 何も、弱い感情は読み取れない先輩の、どこか何かをつかみたかった。弱みでも、誇りでも、それこそ何でもよかった。
 先輩は膝を抱えて、少し体を丸めた。
 「お前は、自分より弱い忍しか抱きしめない主義なの?」
 「そんなことはないですよ」
 「恐ろしいうえに、悔しいんだよ」
 声は小さく囁くようで、僕は聞き違いかと思った。
 僕のその様子を確認してか、先輩が少し誘うように微笑んだ。暗に言うでもなく、そそのかすでもなく、ただ湿り風に含まれた、目には見えない怨念やら祝福やらが、たゆたう自然光のように僕たちのまわりで戦いでいた。
 絡みつくような艶やかな先輩の視線から逃れられない。


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