「わかりやすく書く」ということはもう、いまさらと思う人は多いと思うけれども、行動に移すとなるとなかなか難題でもある。たいていの文章読本は、「平明」「平易」を強調し、「達意」が大切だと説いている。
このことだけはどうしても相手にわかってもらいたい。その一途な思いがあるからこそ、文章に命が吹き込まれるのだ。あなたの思い、あなたの考えを間違いなく伝えること、それは文章の基本中の基本。
さまざまな文章技術が役に立つ。が、それを超えて大切なのは「これだけは何としてもあなたの胸に刻みたい」という切なる思いだ。
英語の不得手のおじさんがニュージーランドの牧場にホームステイをした。このおじさんは農家の人だった。稲作と農家では、経営の形態は違うが通ずるところもあったのだろう。何日間かを過ごして、別れるとき、おじさんは「パラダイス、パラダイス」といって泣き、見送る側と固い握手をしたという話を聞いた。どうしてもわかってもらいたいという思いは、こういう形でも通ずるのだ。伝えたい切なる思いさえあれば、英文法なんかは二の次なのだろう。(……例外もあるだろう。だから人は懸命に対処しても人間関係にこじれが生じるのだから)
残念ながら、私たちのまわりには「なにを読み手の心に届けようとしているのか」がさっぱりわからない文章が少なくない。たまたま目にしたお役所の文章をあげてみる。
「地域づくり支援室では、四局、一丁の職員と外部専門家が連携して、人づくりを通じた地域づくりの推進のための新たな支援策の企画、立案、地方公共団体等からの相談への対応や要望などの把握、専門家の派遣、関係機関との仲介支援、取組の全国への普及等を行い、教育関連の総合的な支援体制の設備を図ることにしています」
失礼ながら、これを書いた人には「このことはなんとしても伝えたい」という深い思いがあったのだろうか。「人づくりを通じた地域づくり」とはなんだろう。神様じゃあるまいし、人や地域をそんなにも簡単につくれるものなのだろうか。揚げ足とりだといわれるかもしれないが、わたしがいいたいのは「地域づくり」「人づくり」という安易な言葉に寄りかかるなということだ。そういう決まり文句を言わずに、読む人が「あ、そういうことなのか」と合点できるような文章を書いて欲しいのだ。
わかりにくい文章を書いてしまう。難解な文章を書いてしまう。そこには、さまざまな自意識があるだろう。「どこからも文句のでないような、ソツのない文章を書く」「こんなに難解なこともわかっているんだと誇示したい」「わたしの考え方の深さは、容易にはわかるまい。わからなくていいのだ」などの思いがアタマをもたげると、文章はへんに歪んでいく。それは文章だけでなく、演説だってそうなのだ。
浅田次郎も、「わかりやすさ」を大切にしている人だ。
「いい文章はわかりやすい。古今東西、名文とわれるものにわかりづらい文章など、ひとつもないのである」
「さりとて、改まって文章を書こうとすれば、誰しもふと衒いが頭をもたげ、ともすると意思伝達どころか過大な自己表現になってしまう。あるいは、何とかわからせようと思うあまり修飾過剰となり、かえってわけのわからぬ文章になる。世に悪文といわれるものは、だいたいこの二通りである」
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