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プンプンママ

 悲しい、嬉しい、をキャラクターが自らの口で訴える漫画が昔から嫌いだった、と作者が言った。彼がそう言った理由は、単に登場人物が泣いたり笑ったりするのを、悲しい嬉しいと語ることが嫌いと言っているのではなく、都合よく説明的であるのが嫌いと言っているのではないだろうか。そういうこともあってか、彼の作風からはエンタメというより純文の色がつよい。
 美しい景色、リアルな時間、偶然と必然、きれいごとと現実がすべて折り重なって、ない交ぜになっている。一見ごくごく普通の少年プンプンが、どこにでもいる一人の人間であり、また歪みをもった人間であり、この世界にただ一人として、歪んでいない人間なんかいないのだと暗に訴える作品だ。

 
 ひとつも面白くない野球中継のラジオをききながら、帰ってきやしない元亭主に扮して息子宛ての手紙を書きポストに投函する。母親を演じきれない自分のささやかな抵抗は、理想の家族像を追い続ける擬似修復作業にすぎない。もはや直接息子に”父親からの手紙”を手渡すための用事も、いいわけも、なにひとつおもいつかない。

 ただの痛み止めと自分に言い聞かせ、しかし過剰にとりすぎたモルヒネは別れた夫の幻覚をつきつける。入院している自室からトイレまでの距離が死ぬほど遠く感じられ、それでも羞恥心から看護婦に手伝ってもらうのは億劫で、薬の副作用で倒れるまで、自力で歩けないことがこんなにも辛いとは知らなかった。
 自分がひとりぼっちの人間であると昔から分かっていたのに、いざ合同部屋に放り込まれると、ほかの患者の家族が彼らを見舞う様子をいやでも見せつけられるはめになり、自分には身内がいないという現実にいまさらながらびっくりする。

 人が行き交う病院の廊下の天井から、痴呆のほうがまだマシと思えるほどの己の腐り具合を見た。
 誰かに抱きかかえられているように感じ、目をあけると、息子と同年代くらいの男の子に支えられている。数十年前に感じたことのある、とっても懐かしい恋のような苦しさを感じた。狭心症や陣痛とは違う、心地よい苦しさを感じた。羞恥と懐古、諦念と希望をいっしょくたに忙しく感じる。

 ベンチに並んで坐り、見知らぬ男の子に向かって独白のような懺悔を口にする。捨てきれない女の部分があたしの人生を狂わせている気がする。
 なにをいっているんだろうか。目の前の少年にあきられているような気がし頭を上げる。包帯に片足をぐるぐる巻きにされた男の子は、松葉杖を睨みながら自分の事故を語り出す。付き合っていた彼女と自転車で二人乗りをし、浮かれた油断から事故に遭い、彼女の顔に後遺症をつくってしまった旨告白し、その罪悪感から彼女に面会するのが怖く、入院してから未だ一度も会っていないと言った。

 夫や息子や過去の男たちから感じた既視感を、この少年にまで感じるとは思わなかったし、また感じたくなかった。胸に沸騰する苛立ちがおさえきれず、考えるより先に言葉が出た。こんなとこで油売ってねえで、早く謝りに行け、気がつけば悪態をついている。少年は苦虫を噛みしめるような顔で、許されるような問題じゃないしと地面を睨んでいる。いよいよ堪忍袋の緒が切れ、言いたくもない言葉が湧いてでてくる。許されるかどうかが問題なの? 彼女を気遣っているようで自分のことしか考えてないんじゃないの? ほんとは「どうして自分だけがこんな目に」って思ってない?
 言いながら自分は誰に向かって言っているのかわからなくなる。目の前の少年の瞳に軽蔑の眼差しが含み始める。僕はそんな人間じゃありません。だったら―
 でも、もし、彼女に嫌われているとしたら、僕はどうにかなってしまいます。
 さっきから聞いてれば、でもとか、もしとか、きっととか。そんなわかりもしない先のことばかり考えてどうすんのよ。大切なのは今でしょ、今が未来に繋がってるんだからさ。
 僕の気持ちの、何がわかるんですか。

 もう自分が誰で、相手が誰なのかわからない。誰に向かって投げかけている言葉なのか、相手に誰を見ているのかわからないし、どうして今自分がこんなことを口にしているのかわからない。
 「大丈夫」って、「ごめん」って、「好き」って、早く言ってやんなさいよ。それだけでいいんだから。何も行動できない君には、悩む資格すらないんだからね。
 夫に言って欲しかった言葉なのか、夫が言ってくれなかったから他の男に求めた言葉なのか、母親として息子に言いたかった言葉なのか、息子に言って欲しかった言葉なのか、ただ取り戻したかった言葉なのか、もはや整理がつかない。

 だけど自分は自分が嫌いだった。一時期世間ではやった自分探しなんて、はじめから行き着く果てなんて容易に想像できたから自分のことなんて一度も探そうとなんてしなかった。自分のことが嫌いな自分が産んだ息子になんて、角度の違えた情しか湧くはずもなく、当然子供から返ってくるもののなかに愛情もへったくれもなかった。手に取るように子供のことがわかっていても、双方に受け入れる気持ちがなけりゃ一生わかりあえることなんてない。子供に抱く感情なんて嫌悪感しかなかった。あまりにも、自分や夫に似すぎていた。

 手術日にタンカで運ばれながら、夕べのできごとや、あの男の子のことを思い出す。

 なめた研修医のずさんな手術を、麻酔なしの状態でまわされているという悪夢にうなされ、汗だくになりながら飛び起きた。消灯時間をとっくに過ぎた真っ暗な合同部屋で息を切らして肩を上下させていると、大丈夫ですかと向かいのベッドから若い女の声がした。顔じゅうに包帯を巻いた姿から、あの男の子の恋人だと瞬時に気づく。
 その顔、どれくらいひどいの? 他意はない風に訊くと、もうどうでもいいんです私なんか、という自虐的な返事があった。布団のなかで自分の拳がつよく握り締められる。
 どいつもこいつも自分のことばっかり考えやがって、あんたにゃ心配してくれる相手がいるだろうが、若造のくせにぐずぐずしていらいらする、やる気がねえんならとっとと死んでしまえ。おまえも、あのクソガキも、プンプンパパもプンプンも、あいつらも、私自身も、みんな死んじまえ。
 「大丈夫よ、最近の医療は進歩してんだし、いつか元通りになるって」
 心のなかでは唾を吐く勢いで呪い倒しているというのに、口から出る言葉は真逆だった。べつに相手からなにかを期待しているわけでもないというのに、なぜこんなことを言ってしまうんだろう。
 違う、そうじゃない、神さまそうじゃない。だからどうか地獄にだけは落とさないで、世界中の人がみんな幸せになりますように。自分もほんのちょっと幸せになりますように。
 「くじけないでね。大人になれば、もっといいことあるから」
 「ありがとうございます。明日の手術、終わったらきっといいことありますよ」
 うるせえ、同情はいらない。
 でも、うれしくてたまらない。こんな自分を励ましてくれるそのなにげない一言に、性根の腐った身寄りのない自分はこんなにも突き動かされる。

 タンカを運ぶ看護婦の横顔を見上げながら、もういちど昔の気持ちを思いだしてみる。できれば引き出しのなかに”それ”がないことを願う。今までの人生に”それ”がないのであれば、いまの醜い自分が”それ”がないせいでいまに至っているだけで、”それ”で足りない部分を埋められるなら、自分はきっとなりたい自分になれる。

 手術日には心配して病院にきてくれる息子がいて、夫への不満を言葉で表現せずに包丁で訴えるなんてことのしない、ほかの男にうつつを抜かす暇があれば友達と一緒に映画を観、さびしくなったら、言うべき相手にちゃんとさびしいと言う女になれるかもしれない。
 だれかに恋すると、いろんなことに敏感になる。人の優しさに気づくようになるし、自分も優しくなれる。だから人を好きになる気持ちを忘れたらいけないし、そうしてたくさんの優しさを知っていけば、きっといつか全部を覆ってくれるんじゃないだろうか。


 ~~としての自分というのを捨てきれず、何が一番大切なのかを重要視してその方向をひたすら目指して生きていく人びとは、決して醜くはないとおもう。むしろ清々しさや畏怖さえ感じるし、立派だともおもうけれど、それと同時に言いきれぬむなしさと切なさも感じる。
 父として、母として、子として、友人として、恋人として、夫として、妻として、男として、女として。
 なにかしら役割を背負っての代名詞や肩書きは、社会を維持するために必要で、もしくはスムーズにいくように作用されているのは周知である。
 それらをすべて飛び越えて、追い払って、真っ白な状態で、色んなたくさんの人たちをある空間に放り込むとどうなるか、そんなことを考えたことがある。
 役割や肩書きを捨てずにそうであると信じ続ける自分を貫き通すか、いちどは理想像を描いたことのある人間を演じてみせるか、どっちつかずにどう振舞ったらわからなくなってしまうか。私は夜の夢にみたことがある。

 彼らは何世代も離れた異性とセックスを試みたり、身分違いと愛を語ってみたり、理想な養子縁組に酔いしれたり、どこかみんな何かを取り戻そうと必死に行動を起こそうとするのだが、満たされている様子はないのだ。ただの無法地帯といえばそれまでだが、それ以前に、これこそが自分が望んでいた世界だと妄信する狂った自分にきづかぬふりをし続ける人間たちの集まりに過ぎなかった。彼らは罪を犯しているのでもなく、常軌を逸しているのでもなく、間違っているのでもなく、狂っていた。なりたい自分になるというのは、狂うことだと、私は夢からさめたときそう思った。

 浅野氏が描くプンプンママに見たのは、だめもとで試行錯誤母親とひとりの女を両立させようとし、自己嫌悪のかたまりのような息子に愛を語ることができず、そんな母子関係を悲観しながらプンプンなんて嫌いだと正直に言い、しかし最後に本当はプンプンのことが好きであり、ひたすらごめんねと言葉を残したのは、自分とプンプンはどうしたって同じ存在で、もうひとりの自分を見ていたからということだった。
 半分は、彼女は母として息子に愛を唱えたのではなく、自分かわいさに乗じて息子に自分を見たからなのだ。
 もう半分は、一度だけ、嘘を口にしてみせたのかもしれない。それが口先だけなのか、心の底では自分でも気付かぬ母としての情からくる言葉なのか、本人も整理がついていないのかもしれない。

 そしてなにより、語り損ねた愛を急いで伝えるより、自分のように否応なしに育っていこうとする息子をみてひどく同情したのだ。プンプンの祖父が死んだとき、つまらないことで息子との温度差で生じた口げんかに、あんたはあたしが死んだときどれほど悲しめるんだと言ってしまったのだ。

 ごめんね、と何度も語るシーンは、ここでは初めて母の部分を出したのかもしれない。惜しめるような母親になりきれなかったこと、いつかプンプンがこの日を思い出し苦しめられるときがくるかもしれないこと、色んなことをだましつづけていたこと。
 母のふるえる手とプンプンの涙が交差するとき、けれど何かを取り戻す時期としては遅すぎたのだった。

 暑さもピークに達し、蝉の鳴き声がうっとうしい真夏の温度は、情緒のかけらもないほどに日常の一部として少年に訪れる。あの無機質な暑さこそが浅野氏の描きたい景色なのだとおもう。
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