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 原告、訴状陳述をするか否か。はい、と答える。
 被告、答弁書陳述をするか否か、再び裁判長が問う。はい、相手側はそう答えた。
 次回の期日が合意の上きまる。一回目は日程調整が主である。この場にプロ以外の人間はいない。


 クライアントの無精ひげの男が事務所の向かいのソファに座り、書類に目を落としている。 「俺に和解しろってことか」男は眉をしかめ、こちらを睨む。 「そうです」 「何でだ! 何でだよ。向こうのミスははっきりしていて、裁判にもちこめば俺は勝てるんだろ?」
 「だからです。だからこそ、有利な条件で病院側と和解できるんです」
 「あんたはどうせそうやって早くカタをつけたいんだろうがそうはいくかよ。こっちは女房を殺されてんだ、和解なんて冗談じゃねえぞ。俺は病院の奴らに何一つ譲る気はねえ」
 男は私の頭からシャツの裾のあたりを上から下、下から上へとなめるように目を配らせている。目はくぼみ、頬が削れ、見るからにまともな食事を採っていないことがわかる。
 「その代わり、和解にあたっては担当医の誠実な謝罪をという条件をつけました」
 男、沼田は瞳孔の開いた目を私に向け、口をあけたまま困惑している。
 「沼田さん。たとえ裁判に勝ったとしても入ってくるのは、お金だけです」
 沼田は口を閉じた。
 「裁判所は相手に金を払えとは命令できても、謝れと命令することはできないんですよ」
 いよいよ沼田は諦め、拳をつくって目頭を何度もぬぐいはじめた。さきほどまでの剣幕がうそのように、沼田は欲しいぬいぐるみを買い与えてもらえなかった子供のように鼻をすすっている。


 「……遺族の方が本当に欲しいものって、お金じゃないですよね。家族がどうして死んだのかを知るということと、病院側の誠実な対応なわけで」
 研修生の女が焼き魚をほじくりながら言う。
 「まあ、誠実さは0の数の多さではかるんだっていう同期もいるけどね」
 「先輩は医療過誤訴訟はよくおやりになるのですか?」
 「正直、苦手。今回だって和解させちゃったけど本当はがっつり訴訟やって勝訴させないとこっちにはあんまり金入ってこない」
 「でもがっつりやって勝てば病院側は保険にも入ってて取りはぐれもないし、医療過誤訴訟って確実にお金の入る仕事なんですよね」
 沼田の赤く腫れてくぼんだ瞳が横切る。謝罪はともかく、金は入ると告げたときの沼田のあの目に宿ったものがいったいなんだったのかを私は考える。
 「家族をうしなってやりきれない思いでいる遺族達をたきつけて、弁護士がばんばん訴訟しまくった結果よ」
 「たきつけて」
 「訴訟を起こされる確率の高い産科医とか小児科医のなり手がいなくなっちゃったでしょう。私個人としては近頃言われている医師不足の原因は、半分は」
 言いかけて、口を閉じた。口にしたところで何もかわらない。


 「どうもありがとう」
 夕べ寝支度を済ませたあと、携帯に母からの留守電が入っていた。急に物入りができて、しかし先立つものがないというので力を貸して欲しい旨吹き込まれていた。何のことだ、すぐに折り返し電話をし翌日、すなわち今日実家へと戻った。禿げあがった父と、すこし痩せた母がそろって私に頭をさげている。
 「本当に助かったわ。ほらお父さんまだ通院してるでしょう、タクシー代なんかも遠いからけっこうかかってね」
 「悪かったね芳子。通院費についてもあとでまとめて保険が下りることになってるから保険が下りたら必ず金は返すよ」
 還暦をゆうに過ぎた二人の口調はどこかぎこちなく、それは一人娘に頼みごとなどしたことが今までに一度もなかったのだということに気づいた。
 「別にそれはいつでもいいけども。あのさ、良かったらその、返してくれなくてもいいんだよ。私の方ならべつに」
 言いかけた私のことばを遮り、父は、
 「何を言っとるんだ、返すよ」とほとんど怒鳴るように言った。

 帰りの電車の吊革にぶらさがりながら、私は母が送ってきた数々の食べ物、かに缶だのホタテ缶だのどんこの干し椎茸だのが、お歳暮やお中元である訳がなかったことに今さらながら気がついた。
 「父さんも父さんよ」駅からの裏道を歩きながら、私はひとりごとを遠慮なく暗闇に言い放つ。
 「家長として奥方の浪費を止められなかったくせに、金を返さなくていいっつったら逆切れするプライドだけは持ってるし、なんなのよ。母さんこそ、だいたいこないだまではまってたっていう着物も結局何着買ったんだか」
 暗闇に混じった黒猫が道路を横切り、緑色の両目を光らせながら一瞬私と目を合わせてからどこかに消えた。
 「いや、何よりもあれよ。壷買ったり水買ったり、いったいいくつの宗教にどんだけ注ぎ込んだんだか」
 母の浪費癖を非難しながら、しかし私自身彼女に何も言えなかったのは、母がいつもそのつど口にする台詞があったからだ。
 ―ああ、良かった。これで芳子にお婿さんと子供ができる。今度の神さまこそ大丈夫―

 家に帰り、冷蔵庫に入っているタッパーを開く。水にひたしたどんこの干し椎茸を指でつついてみる。
 朝にといでおいた米の水をいったんすべて捨て、干し椎茸の戻し汁と酒と白だしとみりんで元通りの水目盛りにする。吸い物より味加減を濃い目にしておく。
 沸騰させた行平でこんにゃくを下茹でしながら、母が毎度同じ口調で言う、「今度こそ大丈夫」という言葉を頭のなかで反芻する。母はいったい何に対して大丈夫と言っていたのだろう。本当に大丈夫だと思っているのだろうか疑問に思う。私が子供なんて産めないことも知らずに、壷だの水だの買って自分を慰めているのね。
 にんじん、たけのこ、油揚げ、ごぼうを全部みじん切りにする。具材を全部米の上に載せて炊飯する。
 母から教えてもらったかやくご飯だった。娘に教えたかやくご飯を、その娘の娘、もしくは息子がその料理を引継ぎ、孫の手で作ったかやくご飯を食べるのが夢と語った母。何年も何年もばか正直に通販だのセールスだのに引っかかり、自分はいくらでも待てるから大丈夫だと見せ付けるかのように買い込んでしまう母をみて、いつしか彼女は私にプレッシャーをかけているのでもなく、あてつけているのでもなく、復讐しているのではないかと思ったのだ。そんなはずはない、そうであるはずがないのはわかっているのに、時々どうしても理性では抑えきれないほどに勘ぐってしまうときがある。

 母から一本連絡をもらったとき、節制を覚えた母の浪費癖はなりをひそめただろうかと期待した。実際、実家にもどってみると意味不明なダンボールも、理解不能な契約書も見当たらなかった。ほっと一息をつきながら、心のどこかでは父が身体をこわしてまとまった金が必要になったからではないということに改めて気がついた。
 母は、母は諦めたのだ。孫ができることを諦め、しかし孫ができることを期待するふりを続け、近所付き合いの延長でよその子供の世話を焼いている。

 私は自分のへそのあたりをそっと撫でた。唐突にまったくのあかの他人であるはずの沼田の顔が浮かんだ。何度も何度も見ているはずのクライアントのあの表情が、なぜか今日になって頭から離れない。
 私の子宮は医療ミスでもってかれた。妊娠は一度したが、行きずり同然の同期の男だったので公にしてもかえってくるものは何もなく、病院と裁判を起こすなんてもってのほかだった。
 病院のベッドで目を覚ましたとき、まず最初に思ったのは母にどう対応したらいいだろうか、ということだった。どう弁解しよう、どう説明しようということではなく、どうごまかそうかと考えたのだ。そして未だに母は私こそが唯一彼女の生きる希望となっている。そして同時に、私のたった一言で母の夢や希望を一瞬で根こそぎ奪える現実をひたすら隠し続けなくてはいけなくなってしまった。
 なにかに疲れてしまったとき、誰かににすべてをぶちまけてみたくなるときもあった。ラッシュ時の通勤電車を見るともなく眺めていると、不意にからだが線路に吸い込まれそうになるときもあった。人身事故のアナウンスが流れるたび、私のほかに「私」のような人間がいるような気がした。
 言い寄られた男に、子供が産めないと告げると心底同情する瞳でそんなことは関係ないと言われ、一晩ベッドを共にすると翌日にはいなくなっていた。そして私は心底予定通りであったその成り行きに腹の底から笑った。誤魔化し笑いではなく、本当におかしく、幸せで、自分がどこか変な人間になってしまったのではないかと思った。
 後輩の女の子の結婚式で、彼女のみっともなく泣きはらした黒い目が私を捉え、今度は芳子さんの番ですねと、何の疑いもなくブーケを私の手に握らせ、新婚の初夜だというのに夜遅くまで私の傍で泣いた。私は彼女の期待に沿えるよう頑張って生きるから、貴女もご主人といつまでも幸せになどと歯の浮くような言葉を告げた。

 乗るはずの最終電車を見送り、バッグから携帯を取り出して短縮キーを押すと実家の番号があらわれた。全部ぶちまけてしまえ、ずっとイヤだった、あなたのせいで私は仕事の合間にも良心の呵責のせいで便秘ぎみだったし、お風呂からでてもずっと蕁麻疹が出てきちゃって病院なんて嫌いなのに薬ばっかりのんで肌も荒れてしまって。全部母さんのせい。
 通信を知らせる信号音が響くなか、母に言い募ることがらをつらつらと整理していく。
 小学生でもだまされないようなキャッチになんかつかまって恥ずかしい、近所に孫ができない不出来の娘の話をするのはやめろ、父さんと辛気臭い話を毎晩するな寿命が縮まる、そこまで考えて信号音が不意に消え、聞きなれた吐息まじりの母の声がした。「もしもし?」
 しばしの沈黙のなか、母は怪訝そうな訊き方もせず、「芳子、どうしたの?」という。
 「母さん」
 「うん、どうしたの」
 「ごめんなさい」
 ホームのベンチに座り、頭を深く項垂れながら言葉を詰まらせ、私はみっともないくらい嗚咽をこぼし、申し訳なさそうに終電はもう終わったと告げる駅員に声をかけられ、仕方なく逃げるようにして階段をかけのぼった。
 「どうしたの芳子、こんな時間に。あなたいま、走ってるの?」
 「そう、ずっと走ってる。ねえ、おかしいの私、笑ってよ」
 「もうやだ、あなた、酔っ払ってるの? 平日よ今日、お仕事大変なの」
 「大変も大変、もうとっとと辞めて田舎帰りたいよ」
 言ってしまってすこし後悔した。きっと母は、だったら見合いでもしてこっち帰ってきなさいと形式的に言うかもしれない。しかし母は言葉を選ぶように、間を縫って息をついた。
 「芳子、疲れたらたまには母さんの手料理でも食べにきなさい。有給くらいあるんでしょ?」
 そんなもの、いくらでもある。今年に入ってから、ただの一度も消化していないのだから。それでも母さん、私は決してあなたに口にしないことがある。墓まで持っていくつもりだから、そのつもりよ。
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