読了感のそこはかとなくただよう、きもち悪さ。
「リリー、どこにいる、あの鳥をいっしょに殺してくれ」
最後のシーンで、主人公リュウは、冒頭から最後のほうにかけて貫きとおしていたはずの、天上から俯瞰していた居場所をいつからか失っており、見るもの聞こえるもの全てが、なにがなんだかわからなくなっている。薬でおかしくなってしまった。
殺し、殺されの曖昧な線引きのなかを共生する仲間たちは、次の日にはかならず「ハウス」にもどっていた。いつどの瞬間、だれがだれを殺してもおかしくない密室空間にもどり、性交渉をし、薬を打ち、酒を飲み、寝た。
だが、ある日、リリーは悲鳴をあげながら部屋を出て廊下を走る。リュウは部屋のなかでもだえ苦しみ、まぼろしを見ながらエンドロールをむかえる。
草むらをころがり、開いた口のなかに虫が入り、舌を噛まれる。指を口につっこんで、唾液のついた、背中に縞模様をした虫が、草の露のなかをぬって逃げていく。
リュウが口にした「鳥」が、いったいなにをさしていたのかについて考える。
たぶん、明確なものではなかったのだろう。だから「鳥」と暗喩したにちがいない。
自分なのか、他人なのか、社会なのか。
歩行者天国事件の彼がつかまる瞬間の表情が、まぶたの裏に焼きついてはなれない。あの、魚の目でも虫の目でもないガラス玉。
トラックを通行人たちに突っ込ませるまで、彼はなんども同じ道を繰り返し走り、同じ信号を何度も通り過ぎた。その意味はなんだったか。
迷っていたのだとメディアや裁判所は言う。やっていいのか、やってはならないのか迷っていたのではないかと。
だけど、そのときにはもう彼は「鳥」に呑みこまれていて、実行に移すまでのボルテージが高まるのを防ごうと、ひたすら耐えていたのではないか。もう、自分が「鳥」を殺してしまうのを知っていて、だけどぎりぎりまでハンドルをまっすぐ握っていたのではないか。
彼と私との違いをかんがえる。
もし彼が殺人を犯さなければ、彼は多くの人間となんらかわりはない。多くの人間は人身事故で舌打ちを打つし、遠い親族が死ねば香典にため息をつくし、虐待や親殺しのニュースを見ては「理解できない」と言う。
改札で立ち尽くす老人に殺意を抱き、自由な時間を奪う夫や子供に殺意を抱き、認め合えない友人に殺意を抱く。
彼はだれとも同じ、人間である。
人間は、なんでもできる。どんなに美しい所作を施すこともできるし、目も当てられぬ所業を繰り返すこともできる。
「鳥」はにくいと同時に、「鳥」がないと、人間は生きていけない。
人間にとっていちばん恐ろしいのは、自然災害だなとおもった。「鳥」がいないからだ。
PR
COMMENT