どんな犬にも必ず持ち合わせているという哲学があって、それはだれかに歪められたり、強制されたりすることはないという。
飼い主に愛された犬も、愛想をつかされて保健所に送り込まれた犬ももっている。
シッポを振って主人に目を細める犬も、牢のなかで震えながらガスを吸う日を予感する犬も、哲学を捨てたりはない。それは信念とも、本能とも違うもので、安易な言葉をつかわせてもらえるのならば、たぶんこの世に生まれてくる前に、魂がそれをひっさげてくるものだ。
たとえばこれらだ。
自分でない者になろうとしてはならない。
探しているものが埋められているなら、見つけられるまで掘りつづけること。
どんなに批難されようと、自分に非がない責任をとってはならない。
犬を一度でも飼ったことのある人間ならば、それらがどんな意味をもっているのかすぐにわかるはずである。
私が今まで飼ってきた犬たちもそうだった。
おとなしい性格の子も、気が荒い子も、その哲学を捨てることはしなかった。
唯一、いまわの際を看取ることのできた雑種犬、「クマ」のさいごも、永遠の眠りにつこうとする寸前まで、私の手を舐め続けた。
「自分でない者になろうとしてはならない」ということを、守り続けた。クマは自分が私の家族であり、ペットであり、犬であることを理解していた。
犬であることを超えようとしなかったし、死に近づくことでなにか特別な存在になろうともしなかった。
本来、生物学的な意味で、人間にも犬が持っているような哲学をそなえていたという。
戦国時代、男たちは戦地での窮地で、瀕死状態になりながら、なんと勃起していたという。
「生殖本能」というものがあったらしい。だがこれは、すべての人間には当てはまらないという事実も浮上し、「個人差」があると訂正された。
いざ死ぬ、というときになって人間がとる行動というのも、「個人差」があるのだろうか。
死を受け入れる人間と、死をぎりぎりまで受け入れることのできない人間と、死をさいごまで受け入れられなかった人間がいる。
よく、「あと24時間であなたは死にます。なにをしたいですか」という冗談が出回ったが、たいがいの人が「普通に暮らす」「大切な人と一緒に過ごす」と答えているのを真横で聞いていた。
いま思い返すと、祖母は自分の発言通りに死ぬ日を言い当てたし、信じなかった身内は誰一人、彼女のその瞬間を看取らなかった。祖母は狙っていたかのように、急いで川を渡ったのだ。
ほかの人間を思い出しても、さほど特別な日として行動を移そうとはしなかった。だからといって普段通りの生活を送ろうとしていたわけでもなかった。
やたら「さいご」という言葉を避け、(さいごだから大好きな)メロンでも食べる? だとか、(さいごだから大好きな)公園でも散歩しに行く? だとか、そういった神経を尖らす訳でもなかった。
言葉数すくなく、その瞬間を一緒に過ごすかどうかは、相手の顔色で暗に理解し、それを受け入れようとすることに心血を注ぐ。
人間の頭ごときで、最善のやりくりを模索することなど無理なのだ。もうその頃には、犬と同じように、信念だとか本能だとかいうものの向こう側にある魂のみが、やるべきことを理解している。それに身をゆだねればいい。後悔するときは、後悔する。
後悔したくなければ、だなんて考えても、人間が起こせる奇跡は限られている。
果たして私の魂も、かれらの状況に立たされたとき、どの選択をとるのか理解しているのだろうか。
そこまで懸命に生きてきたわけでもないし、誇りといえるほどの名声を築いたわけでもないし、守りたいと思う人たちは皆私などよりずっと強く生きている。彼らの輝きに照らされてしまえば、私のような影は一瞬のうちにして蒸発してしまう。
そう考えると、なんとなく、祖母たちの生き方が理解できるような気がするのだ。なんとなく、あの人たちに近づけるような気がする。もわもわした憂鬱も、すこしだけ和らぐような気がする。
大丈夫、私はまだ生きていても許される存在なのだと思うことができる。
それが、いまの私である。自信があるわけでも、卑屈をもてあますわけでも、両極端でもない。そういう生き方をしてきた人たちの真似事をすることで、些かの余裕を取り込もうとする、ちっぽけな存在である。
今日は鉢を仕舞い、テラスの枯葉を掃除した。この季節の風が北のほうから吹いてくる。日没の早い夕方に、四時の鐘が鳴る。洗濯物をたたみ、机をふき、ご飯を炊いた。
届いてから三ヶ月経った電子ピアノの鍵盤も、それなりに指に吸い付くようになった。
私は今日も生きている。
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