数年前の話である。たまにいく近所の中華料理屋に新しい店員が入った。外見は日本人だが注文以外の複雑な文章(テレビのチャンネルをかえてくれ、水のおかわりをくれ)はあまり理解できない様子である。そしてどこか不安な顔つきだ。どこからきたのかと日本語と英語で訊き、ネパールだと答えた。その前の月、私はネパールに出ていたのでそのことを伝えると、彼はひどく喜びネパールの印象を訊いてきた。彼は故郷を発ったばかりだという。
旅行が好きで出かけるが、そのたび、その国の人々に信じられないほど親切にしてもらうことが多かった。レストランで隣り合っただけで食事をおごる人もいれば、仕事を放り出してともに歩き回りホテルを捜してくれる人もいる。遠回りして道に迷った私を目的地に連れて行ってくれる人もいる。私の異国の印象はほとんど、そこの特産物や景色などではなく、そこで出会った人で決まる。帰ってくるたび自分の国を訪れる異国の人はどんな印象を持つのだろうかと考える。
次に例の中華屋に知人を連れて行ったとき、ネパールの彼が、頼みがある、と真剣な面持ちで言った。日本語を教えてほしい。やっぱり真剣な顔のまま彼は言うのだった。快く承諾したのは、私が異国で受け取ったさまざまな親切を返せるような気がしたからだ。
彼は見知らぬ土地で友達が欲しいのだろうと思っていた。お茶でも飲みながらわいわいと話し、そのうちなんとなく日本語を覚えることができたらいいと思っているのではないか。だから私は気楽に彼と待ち合わせ、だらだらと話すつもりで出かけていった。
ところが、である。参考書にノート持参の彼は喫茶店の席に着くなり、さあ教えてくださいと両手を握り締め構えた。真剣そのものである。わいわいどころでなく、だらだらする暇もなく彼は熱心に質問をし、単語を書きとめ、例文を繰り返す。こうして週に一度、私たちは真剣に額をつきあわせ、日本語を学んだ。
それにしても、日本語のなんと難しいことか。「やっぱり」。このニュアンスを英語でどう伝えればいい。「私がやる」と「私はやる」の明確の違いは? 私はしばしば頭を捻り、一つの言葉や言い回しについてあれこれと考えなければならなかった。まるで小説を書くように。そして目の前の青年がこのニュアンスを感じ理解するまでにどれほどの道のりと困難が待ち構えているかということや、私と、彼との距離がこんなにも遠いという現実に目がくらんだ。
彼は仕事をかえ、遠くへ越してしまったので日本語レッスンは三ヶ月で中止になった。
なぜ日本語を習いたいと思ったのか訊いたときの、彼の答えを私は忘れることができない。
電車に乗っていたら、近くに座っていた子どもが彼を日本人だと思い込み、不安げな表情で何かを訊いた。質問を繰り返すその子どもがものすごく困り、汗をかいて顔も赤くしており、それだけはわかるのだが何を訊かれているのかさっぱりわからない。わからない。何もできない。これはまずい。本気で日本語を学ばなくてはならないと思った。それが彼の答えだった。
私はいったい、はじめてのレッスンの時に感じた彼の真摯な姿勢の何に驚いたのだろう。私は、彼が電車の中で会ったという子どもを思い浮かべる。理解して欲しい、助けて欲しい。知りうる全ての言語や思いをつめて、ありったけの勇気で救援を求めてみる。だが、隣に座っている大人は何もしてくれなかった。その男に限らない、電車の中にいる全ての人間が助けてくれなかった。
どうして人を殺してはいけないのか、という話題が彼との会話の中であがったとき、彼はすらすらと矜持をもって答えてくれた。答えるための術のうち言語力が欠けていただけであって、彼は人として本当に尊敬できる人間だった。でも子どもには伝わらなかったのだ! 相手に伝わらなかった。そして己は理解できずに、相手のメッセージを受け取れなかった。全身全霊で受け取る体勢でいたのにも関わらず、だ。ここは外国だし自分は外国人なのだからという逃亡を選ぶこともできるが彼はそれをしなかった。そういうことをしない人間に課せられる、その絶望と孤独のありようについて。
人が人に伝えたいと願うこと、思い。両者の距離が遠く、溝が深い。なにもそれは語学や言葉の表情だけじゃない。私が人に何かを知ってもらおうと挑戦しようとし、しかし挫折したそのときの果てぬ虚無感について。誰かが私に勇気を出して相談を持ちかけ、しかし言葉に詰まってしまったときの良心の呵責について。ネパール人の彼の行動力にみせられたものが何だったのか、今でもときどき思い出す。
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