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障碍

 醸造酢のにおいがしみついているような髪が気になり、もみあげに垂れた数本をすくいかいでみた。自身から発しているにおいとは気がつきにくいものだ、ましてや寿司工場に昼から夕方まで缶詰状態だったのだから。
 階下から階段をのぞきこみ、ごはんよう、と明るく声を出してみる。返事はない。ごはんだってばあ、もう一度叫んでみる。ごはんだってばあ、もう一度叫んでみる。無音である。ごはん、いらないのっ、少し怒気を含んで叫んでみる。ややあって、
 「いらねーっつってんだろうがよっ」
 何かをドアに投げつける音とともに怒鳴り声が返ってきた。
 那美は食卓にいき、テレビのリモコンを手元において食事をはじめる。
 「あら、おいしくできた、今日のイカフライ」
 ひとりで声を出してみる。ばかばかしさと、食堂の静けさがよけい強調された。右手で箸を持ったままリモコンをいじり、旅番組にチャンネルを合わせた。お互い女優をやっている母子が伊豆の宿を訪ね、並べられた料理に感嘆の声を上げている。伊勢エビの刺身を見つめて那美はイカフライを食べ、アワビのステーキを見つめてきんぴらごぼうを咀嚼した。那美の隣、サチの席には茶碗が伏せて置いてある。どすん、と庭に何かが投げ落とされた音がして、那美は思わず体を固くする。またやった。そう思うと食欲が著しく低下する。
 サチは小便をペットボトルに詰めて庭に捨てる。最初、手入れされていない芝生に落ちているペットボトルを見つけたとき、通りがかりの中学生たちが、飲みさしのジュースを庭に捨てていっているんだと那美は思った。ゴミ捨て厳禁の貼り紙をはったのは、だからだ。けれどあるとき、庭を掃除していると、那美の誤解を笑うように二階の窓からペットボトルが落ちてきた。驚いて見上げると、サチの部屋のガラス戸が音を立てて閉められた。ペットボトルに半分ほど入った液体は、お茶かジュースだと那美は疑わなかった。キャップを開け、不快なアンモニア臭を嗅いだあとでも、腐ったお茶だと思い込もうとした。今だってそう信じたいが、けれど那美は知っている。
 どうしてわざわざそんなことをするのか、あるいはどのようにペットボトルに小便をするのか、那美にはわからない。高校生のころ、どれほど説明されても数式がわからなかったのと同様に、いくら考えてもわからないのだ。
 那美はうつくしい少女だった。他人からよくそう言われたし、自分でも知っていた。けれど今まで大それた望みなど持たずに過ごしてきたのは、自分のうつくしさの程度も那美は理解していたからだった。華やかなことの好きなクラスメイトが言うように、モデルになれるほどにはうつくしくはない、親戚が冗談めかして言うように、スポーツ選手に嫁げるほど美しくはない、けれど、人よりほんの少々幸福になれるくらいはうつくしいのだろうと、那美は自分を理解していた。人より少々多めの幸福―それがどのようなものか、二十代の那美はずっと考えていた。現在の夫から結婚を申し込まれたとき、ああ、これだ、と思った。自分がずっと待っていた、人より少し多めの幸福はこれだった、と。夫になる男は一流企業に勤めていた。一流企業とはなんであるかを那美は知らなかったのだが、夫の会社は那美も名を知っている生命保険会社だったから、きっと一流なのだろうと思った。友人たちはうらやましがったし、結婚式は希望通りのホテルで挙げることができた。子どもができるのが待ち遠しいわねとだれもが言った。きっととてもきれいなお子さんでしょうねと言った。もちろんそれは、自分がうつくしい女だからだと那美は知っていた。
 半分以上残した夕食を、那美は三角コーナーに捨てる。きんぴらごぼうとサチのぶんのイカフライはラップをかけて冷蔵庫へ入れる。流し台の蛍光灯をつけ、白々した明かりのなかで那美は皿を洗う。テレビの音が騒々しく背後で流れている。部屋は音で満たされているのに鎮まりかえっている。
 那美はそっと天井を見上げる。子ども部屋は台所の真上にある。子ども部屋にこもっているサチを思い描こうとすると、檻のなかでうずくまる珍獣が目に浮かんだ。
 風呂の自動お湯張りスイッチを押し、那美はテーブルに座って使い古した料理本をぱらぱらとめくる。テレビは旅番組を終えて、クイズ番組になっている。鰺の南蛮漬けときんぴらごぼう、あとは何にしようか。若い人はきっと野菜が不足しているだろう。銀ホイルのカップでほうれん草のグラタンをつくろうか。鶏そぼろとサヤインゲンで色ごはんにしようか。明日の弁当のことを考えていると少し気分が華やいだ。色合いがきれいだと、いなり寿司より何倍もおいしいと、あの新人の若い女はまた笑ってくれるだろうか。自分を若く美しいと、今年十五になる娘がいるなんて信じられないと言った、あの女。
 ピーと電子音が響く。那美はぐずぐずとたちあがり、階段の下にいき、手すりにつかまって上を見る。階上の暗闇に声を出す気分が萎える。食卓へ戻ろうとして、しかし意を決し、
 「サチちゃーん、お風呂どうぞー」
 明るく声をはりあげた。予想どおり返事はない。お風呂、先にどうぞー、もう一度あげた声を踏み潰すように、
 「うるせーんだよっ、クソババアっ」
 低い唸り声が返ってきた。
 部屋にずっとこもって外界と接触をもたない子どもがいるらしいが、サチはそういうふうではない。毎朝那美のつくった弁当を持って学校にいく。五時過ぎには帰ってくる。成績はよくもないが目を覆うほどではない。数ヶ月前の父母会で教師はサチについて「おとなしい生徒」という表現をした。お友だちは少ないようですが協調性にかけているというわけではありません、と言っていた。小便はトイレでしていますか、風呂に何日も入らないのですがにおったりしませんか、コンビニの菓子ばかり買って食べていますがそれでも問題ないですか、太っていることで男子にからかわれていませんか、那美は教師に訊きたかったが訊かなかった。人より少し幸福な家庭なのだと、サチもその幸福を充分に享受しているのだと、教師に信じていてほしかった。自分にもそう信じこませたかった。
 中学二年に進級してから、サチは帰宅後まっすぐ子ども部屋にいくようになった。そこから朝まで出てこない。でてくるときは、まるで人目を避ける野生の猿のようにこそこそと歩き、トイレにいったりコンビニエンスストアにいったり、冷蔵庫のなかのものを食い荒らしたり、ときどきは風呂に入ったりする。那美と出くわすと一目散に部屋に戻る。
 もともと明るい性格ではなかったが、どうしてそんなことをするようになったのか那美は幾度も考えてみた。思い出せるかぎり毎日をふりかえって、変化のきっかけを探し出そうとした。何か傷つけるようなことを言ったか。必要以上に叱責したか。何も思い当たらなかった。どうしてサチが自分を避け部屋にこもるのか、那美にはわからなかった。
 あまりにも不可解なので、サチが学校にいっているあいだサチは子ども部屋にしのびこみ、日記やメールの類を盗み読みした。そうしてすぐに後悔した。サチの日記は醜い言葉で満ちていた。読むに耐えない言葉で、クラスメイトをののしり、父と母をののしり、教師をののしり、家と街をののしり、世の中をののしっていた。しかしそれらより那美が薄気味悪く思ったのは、サチの妄想じみた恋だった。連発される名前の男が、クラスメイトなのか他校の生徒なのか、それとも架空の人物なのか那美にはわからなかったが、日記のなかでサチとその男は激しく愛し合い、アダルトビデオが連想されるような行為に延々ふけっているのだった。サチ用に買い与えたコンピュータを立ち上げメールをチェックしてみると、健全な交遊を示すようなものは何もなく、自傷行為や虐待や人の悪口ばかり書き込まれた掲示板が履歴として出てきただけだった。
 絶対にばれないように気をつかったのに、どういうわけだがサチは那美の盗み読みをかぎとり、その夜異常なほど暴れた。壁に掛かった絵を床にたたきつけ、観葉植物を蹴飛ばし、茶碗や皿を割り、椅子で那美に殴りかかってきた。醜い女。部屋じゅうを荒らす凶暴な獣みたいなサチを見て、那美は思った。そう思ってびっくりした。わが子を見て醜いと思っていることに、それから、実際自分の娘がたいそう醜いことに。あまりに驚いたので、突き飛ばされても壁に頭をぶつけられても、その瞬間は痛いと思わなかった。
 湯船につかり、湯のなかでふわふわとゆがんで見える自分の体を那美は見下ろす。湯船から手を伸ばし、曇った鏡をてのひらでこする。水滴の流れる鏡のなかで、たしかに自分は三十代にしか見えない。さかりのついた醜い娘がいるようには、とても見えない。

 「南さんさあ、スカートとか、はくかな?」
 向かいの席に座り、おいしいといちいち声をあげながら弁当を食べる女を見ていた那美は、ふと訊いた。
 「え?」
 「あなたいつもジーンズじゃない。スカートなんかははかないのかなと思ってさ」
 天井の高い工場の食堂に女たちの声が響いている。きゃあ、いやだあ、どこかから悲鳴に近い声があがり、いっせいに笑いが起きる。ふりむくと、若い女たちのグループが隅でダンスのまねごとをしてふざけている。食堂には窓が多い。踊る女たちの上半身は、陽にさらされて金色に光っている。
 「貧乏なんですよ、私」女は笑った。「服とか、買えないんです」
 「そうなのお? じゃあさ、今度いらない服持ってきてあげようか。おばさんぽくないやつ選んで」
 「いいんですか?」
 「いいよいいよ、あのね、あたし太っちゃって二、三年前の服、もうきつくなってんの。つかわない化粧品も持ってきてあげる。あなた、肌きれいだけどちょっとお化粧したらもっとぱっとした感じになると思うわよ、素材いいんだから」
 「化粧とかどうも面倒くさくて。それに、今だって痩せてる川村さんが着られないサイズじゃ、私には無理かもしれないですよ。川村さんて娘さんいらしたでしょ? 娘さんに譲ったらどうですか?」女は言って弁当箱を持ち上げ、豪快に掻き込んでいる。那美は目を細めてその様子を見た。
 「うちの子さ、ものすごーく太ってんの」那美は両手で樽を表現しながら言った。「あたしのサイズなんか、とてもじゃないけど無理だわね」
 「中学生のころって太っちゃうんですよね。でもあと一、二年したら、すらっとやせますよ。みんなそうですもん。あーおいしかった。ごちそうさまでした。久しぶりに人間らしいもの食べました」
 女は手を合わせて見せた。那美はふいに泣きそうになり、あわてて天井を仰いだ。ペンキの剥げた寒々しいコンクリートが、ずっと高くにある。でかい換気扇がまわる音か、業務用の冷蔵庫のファンの音か、どこからか轟々とした音が響いている。
 「そんなの、なんでもないんだから。また作ってあげる。二人分も三人分もかわらないもの。さーて、混まないうちにトイレいってこよっと」
 那美は早口で言い、そそくさと立ち上がって小走りにトイレに向かう。そこにも酢のにおいが立ち込める女子トイレで、那美は勢いよく顔を洗った。
 午後は太巻き作りを任せられた。数人の女たちと調理台に陣取り、役割を決めてこなしていく。グループ分けされた女たちに那美はさっと目を走らせ、南という女がいることにほっとする。高城さんが海苔の上に酢飯を広げ、荻堂さんが具材を準備し、田中さんと那美が寿司を巻く。女はキュウリを任せられていた。幾度かやったことがあるのか、慣れた手つきでピーラーをキュウリに滑らせて皮をむき、たてに四等分している。作業がはじまって数分とたたないうちに、女たちのおしゃべりははじまっている。
 「つい三年前よ、サッカーのゴール決めてさ、ふつう友達と抱き合うじゃない? 真っ直ぐこっち見て、おかあさーんってあの子走ってきて。あのときはあたし、得意でさあ。ああ男の子でよかった、なんて思ったけど、それが今じゃ、メシっ! だもんねえ。ぐずぐずすんなよ、とか平気で言うわけよ」
 「それだって口きくだけいいじゃない。うちのなんかしゃべんないわよ。ときどき必要なことメモ書いて渡すのよ、ぞっとしちゃう。のりちゃんとこはいいよ、明るい息子さんでさあ」
 「明るいっていうか、ちょっと能天気すぎるよ、うっそぴょーん、知らないぴょーん、って、こうだもん。先生にもそんな調子なんだって。こないだ注意されたんだから、恥ずかしいったらありゃしない」
 那美は調子を合わせて笑いながら、ちらりと女を見る。女はまじめくさった顔でキュウリを切ってはバットに並べていく。女は、那美と二人のときはよくしゃべるが、大勢になるととたんに存在を消すかのようにしゃべらなくなる。何か話しかけられても曖昧に笑うか、ひどいときは聞こえないふりまでしている。
 「那美ちゃんとこはまじめでいいよね、お嬢さん。うちのみたいな馬鹿言葉つかわないでしょ」
 「えっ」話をふられて那美は顔を上げる。
 「だって那美ちゃんが子どもの愚痴言ってるの聞いたことないもん。できる子なんだろうなって」
 「那美ちゃん、きれいだから娘さんも将来有望だよねえ」
 「買い物とかいっしょにいくんでしょ? あたしも夢だったなあ、女の子と腕くんでブティックまわってさあ」
 那美は口元に笑みを貼り付けながら、作業をする女たちをぐるりと見回す。これは何か裏のある会話なのか。彼女たちは何か知っていて、遠まわしに嫌味を言っているのか。
 「ブティックなんかこのへんないじゃない。せいぜいジャスコよ」
 「ジャスコだっていいんだよ。かわいい女の子とジャスコ腕くんで歩きたいの、あたしは!」
 「あんたじゃ無理よ、万が一女の子だってかわいい子なんか無理だって」
 女たちは屈託なく笑い転げている。嫌味じゃない、会話に裏はない、めまぐるしく那美は考える。大丈夫、彼女たちは何も知らない、庭に落とされるペットボトルのことも、妄想日記も何も知らない。
 「うちの、かわいくなんかないのよ」陽気な声を出して那美は言った。「見るも無残に太っちゃって。お菓子、すごい量食べるんだから。あれにはがっかりしちゃうよね」なんにも言わないから詮索されるのだ。自慢すれば陰でもっと詮索される。彼女たちを見習って卑下すればいい。そうすればもう何も訊かれないに違いない。「しかも反抗期真っ最中。ババアって平気で言うんだから」
 「女の子の反抗期なんかかわいいもんだっていうじゃないよ。うちの、高校生のときすごかったよう。あたし今じ障子張りプロだもんね」
 「そうだよ、女の子なんかあと一年もすりゃおかあさーんって甘えてくんだから」
 「そんな兆し、ないない。私だってさ、田中さんみたいに思ってたよ。女の子だから反抗期なんてたいしたもんじゃないだろうって。それがけっこう馬鹿になんないんだな。ずっとこのまま一生反抗期なんじゃないかって思うときあるもの。いっそのこと死んでくれないかなんて思うときあるよ」
 そう言ってから、那美ははっと口を閉ざした。言い過ぎた。女たちは引くだろう。奇異なものを見る目でこちらを見るだろう。けれど女たちは、それを聞いて威勢よく笑い出した。
 「ほんとだよねえ、あたしだってうちのがバイク買うって言ってきかなかったときさあ、いっぺん死んでみろって思ったね」
 「うちの子なんかあたしに向かって言うよ、テレビで覚えたんだかなんだか、オメエ死ねやってへーんな関西弁でさあ。おまえが死ねっちゅうんだよ」
 女たちは手を休めず、大口を開けて笑いあい、主任社員に注意されてようやく黙った。黙ったものの、主任がその場を離れていくと、目配せをし合ってくすくすと笑いをこぼしている。ストレス発散だわ、高城さんが言い、ほんとだよ、ったくね、荻堂さんが受けてみなひそやかに笑った。那美も笑った。笑いながら視線を感じて顔を上げる。一瞬女と目が合った。女は無表情に那美を見ていた。目が合うやいなや、さっとそらして手元に視線を落とした。米粒のように頬にはりついた那美の笑いは、すっと引き込まれるようにして消えた。
 「本気じゃないのよ」工場の裏口から女と並んで外に出た那美は、敷地内を歩きながら隣を歩く女に言った。「あたしも、みんなだって、本気で言ってるんじゃないのよ」
 工場から女たちが吐き出されてくる。バス停に走る女たち、日向に立ち止まって話す女たち、自転車置き場に向かう女たち。幾人かが、並んで歩く那美と女に声をかけて過ぎていく。女はちいさく頭を下げて彼女たちを見送ったあと、
 「なんのことですか?」
 那美をまっすぐに見て訊いた。
 「ああ、さっきの。死んじゃえばいいっていうの、冗談なのよ。あなた、ぞっとするような顔であたしたちのこと見てたからさ、本気でこわがらせたかと思って」
 四時を過ぎたばかりなのにもう日は夕方の色になっている。風が冷たくて那美はコートの前を合わせる。隣を歩く女は薄手のジャンパーを羽織っただけだ。
 「わかってますよ、そんなこと」女は笑う。自分の影を踏むみたいにうつむいて付け加える。「殺したからってゼロになるわけじゃないですもん」
 那美は立ち止まった。「え?」女が何を言ったのかわからなかった。数歩先を歩いてから女はふりかえり、立ち止まる那美に笑顔を見せた。
 「それじゃ、ここで失礼します。川村さん、また明日。お弁当ありがとうございました」
 走り出した女につられて、思わず那美も足を早めた。
 「ねえ、今のどういうこと? どういう意味?」
 橙に広がる陽のなかで女はふりかえり、
 「だーかーら、本気になんかしないですって!」
 少しばかり呆れた顔で言い、そのまま門へと走っていった。那美はその場で足を止め、陽の光にさらされながらちいさくなっていく女の姿を見つめていた。
 女の姿が見えなくなると、那美はのろのろとバス停に向かう。バス停はすでに女たちが輪を作って、何かを夢中で話している。空の弁当箱が入った鞄を提げて、那美は輪の外に立った。バスはなかなかこない。顔見知りの女が那美に話しかけてくる。セールについて。家計について。工場の給与の安さについて。那美はにこやかに相槌を打つ。
 やがてバスがきた。女たちは一列になって乗り込む。那美は最後にバスに乗った。工場で働く女たちでバスは混雑し、那美は吊革につかまって窓の外を眺める。群れて歩く徒歩組みの女たちをバスは追い越す。那美は首を傾けて、南と名乗った女の姿を捜してみる。けれど彼女の姿はなかった。
 三十分弱でバスは那美の自宅近くに停車する。いつも同じ道を走り続けるこのバスが、ふいに路地を曲がり、曲がりに曲がって、見慣れた景色をぐんぐん後ろに流していって、自分の知らない土地へいつしか自分を運んでくれはしないものか。帰りのバスに乗るたび那美はそんなことを思う。案の定、塀で囲まれた工場が遠のき、バスはいつもの角を曲がって見慣れた国道沿いの道を走り出す。

 めずらしくサチがリビングルームにいる。膝をたててソファに座り、リモコンを片手にテレビを見ている。大根の面取りをしながら、那美はちらちらと肩越しにサチを見やった。
 「今日は手羽が安かったんだよね」那美は精一杯あかるい声を出す。「それで手羽大根。圧力鍋をつかおうと思って。アレ全然使ってないもんね」サチは何も言わない。ソファに置いたスナック菓子の袋に手をいれ、何かをばりばりとかみ砕いている。「荻堂さんに聞いたんだけど、今ジャスコセールしてんだって。なんかほしいものない? 母さんセーターほしいんだよね。パパに内緒で一緒になんか買いにいかない?」ゆっくりとサチが動くのが視界に入る。立ち上がるのかと思ったらそうではなく、でかい尻を持ち上げて、勢いよく放屁した。うんざりしたが、那美は笑い声をあげた。
 「ちょっとー、やめなよそういうの。まさか学校でもやってんじゃないでしょうね」うるせえという怒鳴り声を覚悟したがサチは何も言わない。菓子を食べながらテレビを見ている。「あと二十分かな。もうちょっとでごはんになります。アボガドといっしょに山葵で食べると刺身みたいなんだって、ほんとかな?」切った大根を鍋底に並べ、へとへとに疲れていることに那美は気付く。サチが二階に閉じこもってくれればいいと願っていることにも、同時に気付く。いったい何をびくついているのか。そこにいるのはまだ十五にもならない、自分の産んだ娘ではないか。そう言い聞かせはするものの、ソファにいるのが、いつ襲い掛かるとも知れない獰猛な肉食獣であるような錯覚を那美は消すことができない。
 「ねえ」
 肉食獣は思いのほか柔らかい声をだして那美を呼んだ。ずっと那美を取り囲んでいた緊張が少しほどけた。
 「なあに」
 那美は笑顔でサチをふりかえった。
 「あんたら、離婚すんの?」サチは那美を見ずに訊く。
 「なーに言い出すのよ」左手に手羽を、右手に包丁を持った那美は訊き帰す。自分の耳に届く声にはかろうじて笑いが含まれている。そのことを慎重に那美は確認する。
 「じゃあしないわけ」
 「だからどうしてそんなこと言うのかって訊いてるの」
 「だって、終わってんじゃん」サチは言い、ちらりと那美を見て、あざ笑うように鼻を鳴らした。
 「何それ。図星? 口、開いてるよ。ばっかみたい」
 サチに言われ、那美はあわてて背を向けた。手羽に切り込みを入れていく。絶句したのはサチの言葉に驚いたからではない。サチの幼い言葉で傷つくはずがない。十四の子どもに夫婦のことをとやかく言われたってなんとも思わない。けれど那美は気付いたのだった。サチがその巨体のなかにためこんでいる悪意の存在に。
 おそらく九十キロ近くはあるだろうその体よりも巨大な悪意を、どういうわけだか自分の娘は抱え込んでいる。それを吐き出したくてたまらなくて、じりじりしている。彼女の言葉も行為も、今はまだその悪意に追いついていない。小便の入ったペットボトルを庭に捨て、夫から愛されていないと母親に指摘し、部屋のなかにとじこもり、椅子で母親に殴りかかり、そうすることで悪意が体の外に流れ出ていくのをサチはじっと待っている。けれどそれでは、ダムの水を水道の蛇口からひねり出すほどの効果もない。サチは突破口を捜すために成長している。なみなみとあふれる水を勢いよく放出する手段を得るために、日々菓子を食べ、学校へいき、知識を増やし、眠り、ひとつずつ年を重ねている。いつかサチはその悪意に見合うだけ成長し、一番効率的な、一番的確な、自分に一番負担のかからない方法で、ためこんだそれらを一気に吐き出すのだろう。ちいさな突起のある手羽の表面そっくりに、包丁を持つ腕が粟立っているのを那美は見下ろす。いったいどこで、どのようにして、あたしの子どもは悪意を拾い集めてきたのか。
 「あんた、お酢臭ぇんだよ」
 反応が薄いことに焦れたのか、サチはそんな言葉を那美の背中に投げつける。
 「そりゃあそうよ、寿司工場で働いてるんだもの」
 那美は言って、笑った。微笑んだつもりが高笑いになった。高笑いを通り越して馬鹿笑いになった。思うように母親を傷つけることができず苛ついているのだろう、サチは手にしていたリモコンを床に投げつけた。電池が転がり出る。那美は無視して手羽に切り込みを入れ続ける。笑いはおさまらず、ひーひーと息が漏れる。
 「何がおかしいんだよっ」
 サチが叫ぶのと同時に、背中に鈍い痛みが走って那美は振り向いた。サイドボードに置いてあった茶筒を投げつけられたのだと理解する。茶筒は口を開き那美の足元に茶葉が散らばっている。床を覆う深緑の葉を那美はぼんやりと見下ろした」
 「何それ、ばっかみたい、なんのつもり」
 何を言われているのかわからない那美はゆるゆるとサチに視線を移す。右手に握ったままの包丁が、ちょうど立ち上がったサチに向けられているのに気がついた。包丁の刃に、黄色い鶏の脂肪がこびりついている。今だれかがこの部屋に入ってきたら、自分は娘に包丁を突きつけているように見えるだろうと、鶏の脂肪を見たまま那美は考える。いざこざののちにかっとして包丁を手にしたのだと、安手のテレビドラマみたいな想像をするだろう。
 「刺せば。刺してみたら? そうしたいんでしょ?」
 サチまでがそんな芝居じみたことを言っている。手羽を、那美はちいさくつぶやいた。
 「はあっ? なんだって?」
 自分と母親のあいだに刃物があることに興奮しているのか、サチは大声でわめく。膝の丸くまるくでた水色のジャージ姿のサチに向かって、那美も声をはりあげた。
 「手羽を切ってただけじゃないのよっ」
 「ババア、何言ってんのかわかんねえよっ」サチは怒鳴り、ソファのクッションを那美に向かって投げる。顔に飛んできたそれを那美は右手でよける。包丁の刃が頭上でちかちかと光る。
 「もう、もの投げないで。危ないでしょっ」
 ああ、もういやだ、那美は思う。いやだいやだ、こんな女の相手はもういやだ、馬鹿みたいな言い合いももういやだ、何でこの子はここにいるんだ、どっかへいってくれないか、いなくなってくれないか、その意味不明の悪意ごと消えてくれないか、矢継ぎ早にそう思う那美の顔に、鶏の脂肪のついた包丁をサチのだぶついた腹に突き刺すドラマのような場面が浮かぶ。
 「ごはんの仕度をしてるときにものを投げるのはやめなさい、支度できるまで部屋に戻ってなさい。あんたいっつも部屋にこもっているのになんだって今ここにいるの。ごはんできたら呼んであげるわよ、だからいつものように部屋にこもったら?」
 那美は穏やかに言い、立ち尽くしているサチに笑いかけた。どこに反応したのかサチは急に顔を赤らめ、赤らめたまま思い切り顔をゆがませ、どかどかと歩いてきて食卓の椅子に手をかけた。また殴られるか。人ごとのように那美は思う。けれどサチは両手で持ち上げた椅子を、那美にではなく床に思い切りたたきつけ、背を向けて走り出し、すさまじい音をたてて階段を上がっていった。上階から、何かを何かに投げつける音がしばらく続いた。那美はふたたびまな板に目を落とす。手羽にはすべて切り込みが入っていて、切るものはもう何もなかった。
 ひとりきりの夕食を終え、単身赴任している夫に電話をかけようとして、けれど那美は手にした子機を元に戻した。変わりはないのか、不自由はないのか、今度の週末は帰ってくるのか、そんな意味のない会話を交わす気にはなれなかった。サチが茶筒を投げつけたのだと嘆いても、放っておけといわれるだけだ。風呂のスイッチを入れ、那美は二階のクロゼットにいく。暖房のついていない冷え冷えとした小部屋にうずくまり、もう着ない服をより抜き、クリーニング屋のタグを外していく。黒いロングスカート、フード付きのダウンジャケット、ベージュのタイトスカート、首回りにファーのついたセーター。
 あたしだって夢見ていた。衣類をたたみながら那美は思う。腕を組んで買い物にいくこと。洋服を交換しあうこと。放課後に待ち合わせてケーキを食べにいくこと。日曜の午後、料理を教えること。サチがまだ言葉もしゃべれないころから、ずっと思い描いていた。周囲の人が言うようにサチはうつくしい少女になるだろうと思った。サチが一緒に歩きたくないと思わないように、自分も身奇麗にしていようと思った。腕を組んで歩く自分たちは美しい親子だろうと思った。どこで何が間違ったのか。どこで何を間違えたのか。桜が散り始めたあの肌寒い日、あたしは何を産み落としたのだろう。分娩室であたしは何を見て泣いたんだろう。夫は何をみてよくやったと叫んだんだろう。
 まとめた衣類を紙袋につめる。冷たくなった指先を擦り合わせ、那美は服を受け取るあの女を思い描こうとする。けれど頭に浮かんできたのは、鶏の脂肪のついた包丁を強く握ってサチに体当たりする、さっきよぎった陳腐な空想だった。白々とした蛍光灯の下で那美は薄く笑う。一瞬にせよ自分がこんなことを思い描く母親になるとは思わなかった。うつくしい少女だったころから夢見ていたもの、手に入れようと追っかけてきたものは、こんな空想ではなかったのに。そして当然、サチを殺したいわけではないことを那美はわかっていた。ただゼロに戻したいのだ。その望みのほうがよほど残酷であることも、那美は理解していた。
 那美は立ち上がり耳をすます。斜め向かいのサチの部屋からは、なんの物音もしない。眠っているのか。眠るサチの顔を那美は見たいと思う。母親を必死に目で追い澄んだ瞳で笑いかけてきた赤ん坊のときと、眠る顔はきっと何も変わっていないだろう。クロゼットを出、足音を忍ばせて廊下を歩き、那美はサチの部屋のドアノブに手をかける。ひやりと冷たいドアノブを、けれどまわすことはせず、那美はそっとその場を離れた。暗い階段を静かに下りる。

 その日、あの女の姿はなかった。いなり寿司を作りながら、那美は工場じゅう視線を這わせて捜してみたが、惣菜班にも太巻き班にも南という女は見当たらない。
 「ねえ、南さん、休みなのかしらね」
 相変わらず作業をしながら子どもの話をしている女たちに那美は訊いた。
 「え、だれよそれ」荻堂さんが顔を上げ、眉間に皺を寄せて那美を見る。
 「ほら、いたじゃない、最近入った若い子」
 「若い子は若い子でかたまってるもんねえ、あの輪に入っちゃったらもうだれがだれだかわかんないよねえ」つい数日前、いなりの作り方を教えていた田中さんまでもが言う。
 「そうじゃなくて、その子はよくあたしたちと喋ってたじゃない、っていうか無口でさ、おとなしく作業してたじゃない、ジーンズとジャンパー着た、若い女の子」那美は自分でも不思議なくらい必死になって言い募る。
 「だっていっつもこれ着てるから、何着てたかなんてわかんないし」青のユニフォームを指して高城さんは笑い、
 「若い子は回転早いもんね。こないだ糸井さんって、ほらあの金髪の子に聞いたんだけどさ、先月の携帯代、とか、先月の買い物代、とかそういうののためにバイトくるんだって。だから必要な額がたまるとすーぐやめちゃうんだよ」高城さんが話題を変えてしまう。
 「あたしたちのころは違ったよねえ。月々のおこづかいっていうか」
 「そうよ、とりあえずは長く勤めてたよねえ。そんなかから分相応なものを買っていくわけじゃない」
 「そうそう、今の子はあとでなんとかすればいいやって、高いものでもすーぐ買っちゃうんだよね」
 酢飯を握り、湿った油揚げに詰め込みながら、那美は適当な相槌を打ち、目だけできょろきょろとなおも女を探し続けた。
 昼休み、弁当を食べずに那美は事務室にいた。いつも給料明細を受け取る、狭い暗い部屋だ。電話ののったカウンターの向こうで、青い上っ張りを着た数人の女が、机に昼食を広げていた。
 「あのう、南さん、今日はお休みでしょうか」
 一番近くにいる女に声をかける。コンビニエンスストアのサンドイッチを食べていた女は那美を見、「だれ?」と訊く。
 「南さんです。昨日までは工場にいた、若い人で……」
 女はサンドイッチをもったまま机を離れ、カウンターにたてかけてある分厚いファイルを引っ張り出した。めくっていく女の手元を那美はじっと凝視した。ぎっしりと名前や日付の書かれた紙を、白く筋張った女の手がめくっていく。
 「先週新しくきた人で……」那美が言いかけたとき、
 「ああ、この人」女はあるページで指をとめ、顔を落としたまま言った。「辞めたんだわ、昨日で」
 「えっ、でも昨日、なんにも言ってませんでしたよ」
 「うーん、でもたしか、おとといかそれくらいに、辞めますって言いに来たけど?」
 「困っちゃうんだよねえ。若い人はほんと、長期アルバイト募集って知ってて応募してきてねえ」
 奥の席に座っている年配の女が言い、
 「面接のときはだれでも言うのよね、一年は続けますとかなんとかさ」サンドイッチの女がふりかえって同調している。那美はファイルをのぞきこんで、南という名前の周辺に書かれている文字にあわただしく視線を這わせる。南よう子とあった。二十八歳とあった。住所と電話番号があった。工場からそう離れていない番地が書かれている。
 「ありがとうございました」
 那美は礼を告げて事務室を出、ロッカールームに駆け込んで紙袋を取り出した。時計を見上げる。昼休みはあと四十五分ある。たった今覚えた住所にいって戻ってくれば、作業開始には間に合うはずだった。ユニフォームのままで那美はロッカールームを飛び出した。
 だれもいない工場の敷地内を走り、門を出て国道へ続く細い道を走り、陽にさらされた埃っぽい国道を走る。紙袋には衣類と弁当が入っている。走る那美をトラックが追い越し、らーめん屋に並んだ男たちが走る那美を視線で追っていた。国道沿いにある埃まみれの地図の前で那美は立ち止まり、口の中でくりかえしていた番地を探す。おおよその位置を頭に入れて、ふたたび走り出す。
 コートもスカート丈も短い数人の高校生とすれ違う。すれ違いざま、彼女たちは那美を見、互いをつつきあって笑い始めた。彼女たちのたてる耳障りな笑い声が陽の光に溶けていく。学校はこんなに早く終わるのだったか。すらりと細い足をスカートから出した高校生をふりかえり、今は試験期間なのだと那美は気付く。昼に終わるのなら弁当はいらないだろうに、サチは何も言わず那美が用意した弁当を持って学校にいった。食べているのか、捨てているのか、弁当箱は空になっていつも流しに置いてある。
 国道からわき道にそれ、ごたごたと並ぶ県営住宅を過ぎる。それらを過ぎると、田んぼが広がり、田んぼの向こうに似たような造りの木造アパートが密集している。田島、田島荘、田島荘104号室。くりかえしながら那美は走る。
 密集するアパートをひとつひとつ見ていったが、田島荘と記された建物は見あたらない。住所を覚え間違えたのか。ハイツすずらんと看板が出ているアパートの隣に、中村という表札の民家があり、民家の奥にアパートがあった。田島ではなくて中村だったのかもしれない。こじつけるように思い那美は中村家のわきに続く細い路地をふりかえった。中村家の敷地から、柵に身を乗り出すようにして老婆がじっと那美を見ていた。
 「このアパートに南さんって女のかた住んでいませんか」
 那美は老婆に向かって叫ぶように言った。
 「いいえ、おりませんよ」
 老婆は那美の全身を嘗め回すように見て答える。片手に土のついたスコップを持っている。
 「じゃあ田島荘ってありませんか。番地は524の9だと思うんですけど」
 「田島……心当たりないですけれど」
 ペンキの剥げた柵をはさんで老婆と那美はしばらく見詰め合った。何か言おうと老婆が口を開きかけ、那美はあわてて声をだした。
 「じゃああたし、間違っちゃったんだわ。間違って覚えちゃったんだ。確認して、またきます。どうもすみませんでした」
 頭を下げ、中村家の柵に沿って続く路地を戻り始める。路地から通りに出、ちらりとふりむくと老婆はまだ同じ位置に立ってじっと那美を見据えていた。
 アパート郡に背を向けて、田んぼの真ん中に続く道を那美は歩いた。荒い呼吸が耳に届く。額が汗でぬらぬらしていた。数日ともに過ごした女の顔を那美は思いだして歩いた。中学生の子どもがいるように見えないと眉を持ち上げた女の顔。事務室に戻ってもう一度住所を確認しようと思いながら、けれど心の片隅で、女の記した住所も電話番号も年齢も、名前すらも、すべてでたらめだったのだと思っていた。工場の女たちは南さんを覚えていないといっていた。弁当をともに食べた数日の記憶も、自分の妄想だったように那美には思えた。娘と食卓をともにできない母親の、一瞬の妄想のように。
 陽のあたる国道を歩く。車が屋根をちかちかと輝かせて通り過ぎる。さっきまで行列のできていたらーめん屋にもう人の姿はない。暗い店内でテレビがちいさな光を放っている。
 最近できたばかりの大型書店の前を通り過ぎた那美は、ふと足を止めた。ガラスばりの店内に見覚えのある姿があった。棚のあいだを移動する巨大な体。サチだった。那美は紙袋をさげたまま、店頭に立ってサチの袋をぼんやりと目で追った。棚のあいだに隠れ、またあらわれる。首を傾けて棚の上部を熱心に見、そのままこちらに向かって数歩移動する。若い男の客にぶつかってサチはおどおどと頭を下げている。みるみるうちに顔が赤くなるのが、那美の位置からでもわかった。あんなに太っちゃって。那美は思う。あの重たい体を引きずって歩くのも面倒だろう。菓子をどれだけ詰め込んでも満たされない腹が恨めしいだろう。いつのまにか脂肪より重く体内を満たしている悪意を解き放つことができず、じりじりと苛立ちばかりが募るのだろう。
 サチは棚に手を伸ばし、一冊の本を抜き出す。ページをめくり目を落とす。艶やかな黒い髪が頬に揺れる。ゆっくりとページをめくったサチは名を呼ばれたように顔を上げ、窓の外に顔を向けた。すぐそこに立つ那美と目が合う。表情のない顔でサチは那美をじっと見つめる。サチと自分を隔てるガラスが鏡であるような錯覚を味わい那美はたじろぐ。
 しばらく那美をみつめていたサチは、素早く本を棚に戻し、窓ガラスに沿った通路を歩き、鏡から抜け出てくるように自動ドアをくぐった。那美には一瞥もくれず、国道をまっすぐ歩いていく。足音は走る車に消されるが、どすどすとアスファルトを踏み鳴らす音が聞こえてくるようだった。
 那美は紙袋を肩にかけて走り出し、でっぷりと太ったサチの後姿に近づいた。気配を察してふりむいたサチは、走り寄ってくるサチにぎょっとして、逃げるようにどたどたと走り出す。サチは昔から―今ほど太っていない小学校低学年のころから、走るのが苦手だった。のろく、かけっこはいつもびりだった。ときどき転んで、立ち上がらずその場で泣き出していたことを那美は思い出す。
 追いかけてきた那美を肩越しに見やったサチは、通りを渡ってやり過ごそうと思ったらしく、いきなり車道に飛び出した。サチの背後から紺色の車が走ってくるのが、那美の目にやけにゆっくりと映った。今だ、と那美の頭のなかで声が聞こえた。今だ、今だ、今なら包丁なんか持ち出さなくてもこの醜い娘はあっけなくいなくなる、声はわんわんと頭のなかを飛び交い、那美は肩にかけていた紙袋を投げ捨てて全速力で走り寄る。ぱあああんと、光景を引き裂くようにクラクションが響く。那美はその場に倒れこんで思い切り目をつぶった。
 自分は今なにをしたのか。サチを助けるふりをして突き飛ばしたのか。サチは内に抱えた悪意ごと放り投げられ地面にたたきつけられたのか。そして目の前からいなくなかったのか。
 馬鹿野郎と野太い声で怒鳴りつけられ、那美はそっと目を開けた。紺色の車が遠ざかっていくのが目に映る。つんとすえたにおいが鼻をつく。車道に座り込んだ自分の腕の中にサチがいた。においはサチから漂ってくるのだった。風呂に入らないサチ。
 車道の隅に抱き合うようにして座る那美とサチを、大きく迂回して数台の車が通り過ぎていく。クラクションが鳴らされ、運転席の窓から迷惑げな視線を投げられた。土埃が舞い上がり、冬の陽射しを黄色く染め上げる。サチの腕を強く引き寄せ、その弾みにもつれ合って転んだのだと那美は理解するが、けれどサチを突き飛ばしたような感触がてのひらに残っている。
 何が起きたのかわからずぼんやりした顔で道路を見ていたサチは、母親に抱きかかえられていることに気付き、那美を突き飛ばすようにして立ち上がる。これ以上ないほど顔を赤くして歩道に戻り、コートの土埃を払っている。那美はよろよろと立ち上がり、サチの手届かないコートの後ろ側をはたいてやった。那美の手はじっとりと汗ばんでいた。
 「くさいわ」那美は笑った。
 「くさいのはてめえだろうがっ」
 泣きそうな声でサチは叫び、コートをはたく那美の手を振り払おうと、狂ったように腕をふりまわす。さっきのクラクションに驚いて店先に出てきたらーめん屋の主人が、ものめずらしげに歩道の母子を眺めている。
 「みっともないんだよっ、こんなものかぶって」
 サチははき捨てるように言い、那美の頭に手を伸ばす。むしりとられ歩道に投げつけられたビニール帽を見て、今までずっとそんなものをかぶっていたことに那美は気付く。
 「やだあ、あっははは、こんなものかぶったまま、母さん、町うろついて、やだあ、誰も教えてくれないんだもん、あっはははは」
 那美はこみ上げる笑いを抑えきれず、声をあげて笑った。笑い声がふるえていた。サチはコートのところどころを白く汚したまま急ぎ足で歩きはじめる。右手をあげ顔をこすっている。泣いているのか、と那美は思う。足元に目を落とすとビニール帽と、中身を歩道にばらまいた紙袋があった。那美はしゃがみ、それらを拾う。花柄ナプキンで包んだ弁当箱、見知らぬ女のために用意した衣服。拾おうとしたビニール帽は、ゆるやかな風に飛ばされ、ふわふわと車道へ転がり、白い車がそれを踏み潰して通り過ぎる。
 紙袋を肩にかけ、那美は歩道の先を見る。遠ざかるサチの姿がある。数十メートル先にあってもちいさくならないサチの巨大な後姿。南なんて女はいなかったのだと那美は思った。自分と腕を組んで歩く美しい娘なんかどこにもいないのと同じように。確固としてそこにいる、巨体の娘の腕に腕を絡ませるため、那美は立ち上がり、ふたたび駆け出す。

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