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世界

 彼の言っていたことの意味が、ようやくわかるようになった。
 何もこわくなんかない。こんなところに俺の大事なものはない。いやなら関わらなければいい。とても簡単なことなんだ。
 それは強がりでも空元気でもなく、シンプルな事実だった。
 彼のいない学校に通い始めた。母親は、転校したいなら正直にそういってくれと幾度となく言ったし、あんな事件を起こしたあとで、学校に通うのはたしかに苦痛だろうと冬休みの間何度も思った。転校はしないと宣言したのは、単純に両親への気遣いからだった。引越しまでして一度は転校したのだ。またべつの学校にいくわけにはいかない。それに、あたらしい学校でまた息をひそめるようにうまくやっていくことを考えると、それはそれで気が遠くなった。
 だから、新学期、なんでもないことのように登校した。すべてはあいかわらず遠い壁の向こうで行われているようだった。今まで一緒に行動していた地味なグループのだれも近づいてこなかった。自分からも近づかなかった。以前学校を支配していた険悪なムードは、一掃とはいわないまでもだいぶ薄まっていた。彼がされていたように、自分をへんなあだ名で呼ぶ人はいなかったし、持ち物がなくなったり制服に足跡をつけられることもなく、事件に関する陳腐なストーリーが教室を飛び交うこともなかった。
 しかし周囲をぐるりと見渡してみれば、そこには本当に、なにひとつ自分にとって大事なものなどなかった。壁の向こうに手を伸ばしてまで欲しいものなどひとつもなかった。
 静かだった。壁のなかにひとり閉じ込められたように、自分を取り巻く沈黙は、自分が動かない限り波紋すらたてなかった。強いて言えば、その静けさが自分にとって一番大事なものだった。彼のいない学校の中で。
 沈黙に囲まれて数時間過ごし、毎日家に飛んで帰った。大急ぎで門を開け、ポストを開く。けれど待っている手紙はなかなかこなかった。
 高校三年の夏休みが近づいても彼からの手紙はこなかった。電話帳を開き、彼の姓の家に片っ端から電話してみた。彼の名と一致する者は、けれどどこにもいなかった。
 何もしないでいると、さまざまなことが思い浮かぶ。伊豆に向かう電車、ベランダにはためく白い洗濯物、プラスチックの子供のブーブ、駅で泣いた彼、ラブホテルの珍妙な部屋、ピンクや紫の照明が点滅するクラブ。一連の光景が瞳の奥を流れ去ったあとで、どこへもいけなかったねと、あのとき彼が河原で言った言葉がかならず自分の耳の奥によみがえる。どこへもいけなかった。どこへいこうとしていたのだろう?
 どこへもいけなかった。どこへいこうと――短く交わした問答は延々と続き、自分たちのしたことと、その結果起きたことがめまぐるしく思い浮かぶ。関係ないと彼は言ったが、けれどあんなことをしなければ彼がどこかへいってしまうことはなかったのではないか。彼が連絡をよこさないのは、あのことと関係があるのではないか。なぜ自分だけがここに帰ってきて、何も変わらない光景を部屋の窓から見ているのか――。考えていると決まって頭のなかが白く靄がかかったようになる。それは決して心地よいことではなかった。頭のなかに広がる白い靄は、彼の不在そのもののように思えた。
 沈黙のなかで暮らし、沈黙のなかで卒業式を迎えた。志望していた大学に進学が決まり、ほとんど何も持たず上京した。はじめてひとりで住んだのは、野方にある学生寮だ。
 大学にはいってまず驚いたのは、だれも彼もがまったくふつうに話しかけてくることだった。ねえ、サークル決めた? クラスコンパがあるんだって、いこうよ。その服どこで買ったの? 彼ら、彼女らは、最初から友達として接してきた。
 学生食堂で昼飯を食べ、授業のあとは安居酒屋に飲みにいった。コンパと呼ばれる大人数の騒がしい飲み会にも参加し、クラスメイトの住む四畳半の下宿に泊めてもらった。休みの日に待ち合わせをして映画を見たり買い物をする友達ができ、毎晩電話をしあう恋人のような女友達もできた。
 けれどどうしても彼らに心を許すことができなかった。調子を合わせて笑ったり怒ったりし、恋愛のまねごともできる。けれど一定の距離を超えて相手が近づいてくると、あわててバリアをはる。電話に出なくなり、学校にいかなくなり、また一定の距離ができあがるのをじっと待つ。幾人かの友達はそのうち離れていったし、女友達が恋人になることはなかった。だれかと親しくなることはこわかった。自分のなかで、親しくなることは加算ではなく喪失だった。
 十九歳の誕生日、彼からプレゼントが贈られてくるかもしれないとひそかに期待していたが、やっぱり何も連絡はなかった。なにか現実めいたもの、それを考えるのがひどく億劫に思えるなにかが、一歩ずつ、一歩ずつ迫ってきている気がした。足元がゆっくり崩れていくような不安を覚えた。
 三年にあがってすぐ、期限を決めず旅に出た。クラスメイトが船で上海に行ったという話を聞き、彼女のまねをして鑑真号に乗ってみた。日本を出るのも、ひとりで旅するのもはじめてなのに、ちっともこわくなかった。
 中国から香港へ、そこからベトナムへ飛び、スリランカを経てインド、インドからパール……何を見てもどこを歩いてもカルチャーショックの連続だった。今まで世界と思っていた場所は、なんてちいさかったんだろう。歩けば歩くぶんだけ世界が広がっていく気がして、見知らぬ町を夢中で歩き続けた。
 旅に出て一年近く経過し、ラオスを旅しているときだった。ビエンチャンからワンエンに向かうバス停で、ひとりの青年が近づいてきた。「日本人の友達がいるんだ」と、彼はなめらかな英語で話しかけてきた。「きみによく似ているやつで、去年ここを旅してた。ついなつかしくなって声をかけた。まさか知り合いじゃないよね」と、彼は言うのだった。
 舗装されていない赤土の道路を、バイクやトラックがひっきりなしに通り過ぎていき、そのたび土ぼこりが舞い上がり、周囲を薄赤く染める。バス停のわきには、フランスパンに具をはさんだ屋台のサンドイッチ屋があった。そのまわりを蠅が群がって飛んでいる。
 「その人、なんていう名前だった?」何気なく訊いた。
 青年は聞きづらい発音をつぶやいた。ヤマト、と言ったような気がした。
 「ヤマト? ヤマトというの?」 叫ぶように訊いていた。
 「そうな、ヤマトだ」青年は思い出したように大きくうなずいて、ヤマト、ヤマトと確認するようにくりかえす。
 「どこで会ったの、彼は何をしていた、どんなふうな男だった、どこを旅していると言っていた、日本ではどこに住んでいると言っていたの」うまく英語が出てきてくれないことにいらいらしながらも、彼を質問攻めにした。
 「きみより背のたかいやつで、タイからラオスに入ってきて、そのあとは日本に帰った。日本では東京に住んでいると言っていた」彼は説明し、自分の指先が震えだすのを感じた。まさか、あのヤマトと同一人物のはずがないと思う一方、その男は自分の知るヤマト以外ありえないようにも思えた。
 「手紙と写真がうちにあるよ。見にくるか?」青年は言った。いく、即答していた。道路わきに停めた青年のバイクに、なんの躊躇もなく乗り込んだ。
 一応目抜き通りではあるが、店などほんの数件の埃っぽい道路を過ぎ、パリの凱旋門を模したというパトゥーサイをくぐりしばらく走ると、あたりには店一軒、屋台すらもなくなる。バラックのような民家がぽつりぽつりと続き、名を知らぬ大木や雑草の両脇で鬱蒼と生い茂っている。青年が連れて行くのは彼の家だと信じたが、バイクが停まったのは一軒の廃屋の前だった。賭けに負けたのだ。
 「金を出せ」バイクを降りた青年は、先ほどの友好的な態度とはうってかわって低い声を出した。膝がふるえ、脇の下やこめかみから、粘ついた汗がいっせいに噴出す。喉がからからに渇いて声も出ない。嘘だったのか。今さらながら再確認した。ナイフは持っていないようだ、殺されることはない、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。逆らわず、金を渡して逃げおおせよう。それだけ考えよう。
 トタンの崩れ落ちた廃屋から、二人の少年が出てきて、威嚇するように睨みつけている。いっさいの抵抗をせず、ナップザックを下ろし、財布から紙幣を抜き取って青年に渡した。
 「もっとあるだろう」青年は脅しつけるように言う。まだ高校生にもならないだろう少年二人が、わからない言葉でひっきりなしに何か言っている。雑草のなかを無数の虫が飛び回り、遠い耳鳴りのような羽音を響かせている。財布はナップザックに三つあった。ひとつはさっき青年に渡した現地の紙幣。ひとつは日本円が入っている。もう一つは日本円とほぼ同額のトラベラーズチェック。少し考えて、再発行のきくトラベラーズチェックの財布だけ出した。分厚いトラベラーズチェックの束を受け取った青年は、ぱらぱらとめくってそれをポケットにねじこんだ。サインがなければ使えないと知らないのかと、ヤマトならそう言いそうだと自分を落ち着かせるため馬鹿にするように思ってみたが、しかし皮膚が痛いほど強い日差しの下、腕にはずっと鳥肌がたっていた。
 キープ紙幣とトラベラーズチェック、カメラ、ウォークマン、テープ。とられたのはそれだけだった。トラベラーズチェックの記入も、パスポートも要求されなかったということは、きっと組織的な犯行ではなく、単純に彼らの思いつきなのだろう。去り際、サンキューと笑顔を見せた。笑顔は青年をまるきり子供に見せた。
 バラックが続き、水田が広がり、木々が生い茂る、どこだかわからないその場所から、見当をつけて歩き始めた。向こうかr亜人がくるたび、ビエンチャン? と方向を訊いた。みすぼらしい身なりの女たちや男たちは、ものめずらしそうに、あるいはおそるおそる見返すだけで、市街の方向を教えてくれる人はほとんどおいなかったが。
 信じられない、信じられない、信じられない。遮二無二歩きながら呟いていた。こんな国、大嫌いだ。今までずっとひとりで旅して、こんな目になんかあったことなかった。親切にしてもらったことはあっても、あんな最低の嘘をつく人間なんか見たことがない。金が欲しいなら金をくれとその場でいいものを、何がヤマトだ、何が友達だ、何が写真と手紙だ。ばかみたいだ、無記名のトラベラーズチェックでつかまっちまえ。ヤマトの口調を思い出し、声に出して言っていると、手の振るえがようやくおさまり、鳥肌が静まり、恐怖が体内から搾り出されていくようだった。太陽は斜め横でじりじりと自分を照らし、毛の一部が抜けた犬がのろのろと自分を追い越し、羽虫がひそやかに飛び回っていた。信じられない、もう一度はき捨てるように言い、はっとしてなんにもない赤土の道に立ち尽くした。
 信じていたのだ。人は親切にしてくれるものだと、今の今まで信じていたのだ。それは自分にとって不可思議な、しかし唖然とするほどの発見だった。同じようにヤマトが世界のどこかにいることもまた、露疑うことなく信じていたのだ。ヤマトがあのおじさん的陽気さで、あの青年と言葉を交わし、どこか陽の当たる屋台のカフェでお茶を飲み、写真を撮り合い、日本に帰って手紙をしたためていると、まるで見たかのように信じていた。
 赤土の道に突っ立った異国の人間に、無遠慮な視線を投げかけて子供を抱いた母親が通り過ぎていく。数軒先の雑貨屋から、老婆が出てきてやはり自分を眺めている。目の前の景色がふくれあがり、水の底のようにゆらゆらと揺れた。ふたたび歩きはじめる。強い日差しで脳天がじりじりと暑い。涙が汗のように吹き続ける。蠅が腕に、顔にまとわりつく。鼻水をすすり、日に焼けた腕で頬を擦り、歩いた。
 羽虫が飛ぶような音がして振り返ると、向こうから小型トラックが走ってくるのが見えた。手を上げて停め、市街地まで乗せてくれるようたのもうかと思いつくが、しかしその場から動くことができない。小型トラックに乗っているのはどんな人なのか。ひとつ返事で市街地まで連れて行ってくれるのか。さっき鎮まったふるえが、ゆっくりと指の先からよみがえる。
 赤い土埃をもうもうと舞い上げて、小型トラックは近づいてくる。みすぼらしい家から子供が走り出てきて、通り過ぎるトラックに手をふっている。
 小型トラックが自分を目的地まで運んでくれる確証はない。またどこかに連れ込まれ、金を出せとすごまれるかもしれない。市街地に着いたとしても法外な金額を要求してくるかもしれない。でも、だけど、それでも――。
 大きく息を吸い込み、動きを止めた手足に力をこめて車道に躍り出た。両手を大きく揚げ、トラックに向かって千切れるくらい振り回す。クラクションが響き、悲鳴に似た音をたてて、数メートル手前でトラックは停車した。湯気みたいな土埃が車体を隠す。トラックに向かって勢いよく足を踏み出した。
 信じるんだ。今、そうだ。たった今、決めた。
 開け放たれた助手席の窓に身を乗り出して、「ビエンチャン!」運転席にいる男に大きく叫んだ。「ビエンチャン! サムセンタイ! パンガ・ゲストハウス!」通りの名、ホテルの名、寺院の名を連呼して、運転手に意志を伝えようとする。勢いにとまどっていた中年の運転手は、タラートサオという市場の名でようやく理解したらしく、うなずきながら助手席のドアを開けた。
 信じるんだ。そう決めたんだ。だからもうこわくない。馬鹿な嘘をつき脅す男がいる世界がある一方で、仕事を放り出し足を棒にして空いている安宿を捜し、礼の言葉もきかず立ち去る男のいる世界も、またあるのだ。おんなじことだ。ヤマトのいないこの世界のほかに、見知らぬ人と笑いながら言葉を交わすヤマトが存在する世界だってある。その世界が自分の世界と二度と交じり合うことがないとしても。だったら後者を信じる。この車は自分を正しい場所に連れて行ってくれると信じるほうを選ぶ。
 助手席に座る自分をちらちら見ながら男はトラックを走らせる。目が合うと、困ったように笑ってみせ、オーケー、と低くつぶやいてうなずいた。ドンビーウォーリー。虫の音、埃のにおい、はだしで歩く女、強烈な陽射し、変わらない風景が窓の外を猛スピードで流れていく。走る抜けるように生きてきた数年間の出来事が走馬灯のように目に映った。ヤマトのつまらない冗談、匂い、温度。遺影にしたたる雨の爽やかさとは対称的に、泣くことで全ての罪を帳消しにしたつもりでいる弔問客たち。開け放った窓から入り込む埃くさい風は、濡れた自分の頬をいつのまにか乾かしていた。
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