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光輪

 鉢の上に枯れおちた茎や葉をそうじする。今年の仕事を終えた彼らはこれからの季節を越えていくうちに土を硬くし、何をすることもなく、乾燥で輪郭のはっきりした景色に溶けながら沈黙する。

 虹を見た。二重である。私がダブルレインボーをこの目で見たのは、記憶が正しければ生まれてから三度目である。日本では7色といわれるそれの配色を、幼いころ私はよくクラスメイトと一緒になって順番に色を指し当てた。


 中庭に面した古い学び舎の屋根下に寝そべる雑種犬のシロを撫でながら、犬には色を見る力がないのだ、と当時教頭を務めていた女性が言った。白黒の世界にほんの少しの緑が加わるだけで、私たちが認識しているところの青い空はシロにとって灰色なのだと。
 教頭の話を一緒になって聞いていたクラスメイトの一人が、「なんか可哀想」と言った。教頭の右目は義眼で焦点が合わなかったが、彼女がほがらかに笑うとなぜか私たちはあたたかい気持ちになれた。「どうして?」「だって、青い空が見られないのはもったいないです」

 たしかに美しい空が見られないのは残念なことだと思った。快晴の青空に、立体感のある積乱雲のコンビネーション。真っ赤に燃える夕日から紫へ青へと移り変わる夜の空。それらの世界を知らないから、犬やほかの動物たちは空を見上げようとする仕種を見せないんじゃないだろうか。
 私はモノクロで縁取られる世界の破片ひとつひとつを、目を閉じて想像する。私は、青や、緑や、赤を知っている。始めからそれらを知らずに生まれてきた犬の気持ちはわからない。シロが不幸かそうでないかはわからない。

 「でも、シロにはぼくたちにはない優れた聴力や嗅覚を持ってるよ」
 頭のよいクラスメイトがシロの前脚をつかんで左右にふりながら言う。人間であればとうにおじいちゃんであるシロは迷惑そうに少女から目をそらしため息をついた。「だから、おあいこじゃないでしょうか」

 教頭は変わらずシロの頭を撫でながら、左目からのみ映し出される世界を修道女のようなまなざしで言う。「人間は器用貧乏ね」
 頭の上にはてなマークを立ち上らせながら教頭を見守る私たちは、授業の予鈴によってそのこころを聞くことが叶わなかった。

 自転車に乗っていた教頭は、ある日車との接触事故で極度の視力を左目から、そして右目そのものを失った。その日を境にシロと同じ世界を生きることを強いられた教頭は、解任式の日になって初めて義眼の由来を淡々と口にした。さも興味もない他人事のような口調の先には、本題はその悲劇のなかにあるのではないことを仄めかしていた。車の恐ろしさでもなく、取り返せないものを失ったことの悲しさでもなく、私たちにとって知らない世界のビックリだった。

 「皆さんは鳥になりたいとおもったことはありませんか。私も以前はよく思いました。道路もない、行き止まりもない、みぎひだり、うしろまえだけじゃなく、上も下も加わった世界を飛び回りたいと思いました」
 漫画や映画で空を飛びまわる人間像をよく知っている私たちにとって、空を飛ぶということは叶う叶わないの範疇からは遠く離れたところにある、子どもの夢でありロマンでもあった。
 「でも、今はそうは思いません。人間は、人間だけに許された力を超えて、その身にあまる何かを持ってはいけないと思います。それはとてもよくないことだとおもいます」
 児童生徒で埋め尽くされた狭い体育館の端に坐る教師たちは、ハンカチを目元に当てたり身をかたくして耳を澄ましていたりしていた。私は彼らにならい、教頭の義眼を静かに直視した。

 「光を失った私がいま一番欲しいと願うものは、ふたたび色のある世界に戻りたいということです。空を飛ぶことも、光を取り戻すことも、どちらも無理なことであるとわかっているのにも関わらず、私は空を飛ぶことよりも光のある世界に戻ることを願ってしまうんです」
 どうしてなのかを考えた。それは、色のある世界を生きてきたことがあるからだと理解した。

 なじみある世界からつき離されて生きるということ。その耐え難さと、バスにひとり置いていかれるような孤絶感。
 はじめから何もなければ失うこともない、という考えは退廃的な哲学だと信じていた私にとって受け入れがたいもうひとつの側面だった。しかし私はそれを支持するほど強靭なこころを持っていないし、受け入れたくない気持ちも相まって、教頭の義眼を見つめながらその続きを指をくわえて待っていた。案の定、教頭はにっこり笑みをこぼしながらマイクを両手で挟みやさしく言うのだ。

 「だからといって、悲しいことばかりではありませんでした。正直言うと、みなさんの着ている服がどんな色をしているのか、どんな顔をしているのか、よくわかりません。でも、一生懸命になってみなさんの表情を汲み取ろうとするこころを養うことができました」
 児童生徒の背中が静かに上下に揺れる姿が見えた。
 「目の光とそのこころを交換することは、たしかに私の本意とするところではありませんでした。でも今、私は胸を張ってみなさんの前に立って話をすることができます。もしこの目を持つことがなければ、私はきっとあなたがたにお話できることが何一つなかっただろうから。だから私は、これでよかったのだとも思うんです」

 つよがりだ、と思った。あなたは強い人だけれど、きっとその言葉をつむぎ出すまでに想像を絶する苦難を浴びただろうし、奥底にねむる不満を髪をひきちぎる思いで吐き出したいはずだと思った。そして詭弁と物分りのいい言葉で生活と自分を守りながら、しかし胸いっぱいに広がる世界への愛情も真実だと信じたいのだろうと思った。


 衣替えした寝着に袖を通しながら熱いほうじ茶をすする。
 好きな音楽を聴き、おいしいものを食べ、伝えたい言葉を操り、愛する人とキスをする。赤子のころから少しずつ新しいことを覚えていく私たちは、許された範囲内での望みを難なく叶えていく。
 教頭の義眼を思い出しながら、私は彼女が語った”こころ”がなにものだったのかを果たして理解しているのだろうかと疑問に思う。なにものかを犠牲にしなければ、残されたほかのなにものかを慈しめないというのはやはり事実だと思う。今も昔もきっとこの先もそう思うだろうし、「器用貧乏」とされる人間に課せられた業なのかもしれないとも思う。

 うっすらとまどろむ頭のなかで、失うならばなにを、と想像する。そして失ってもいいと思うものがなにひとつ思い浮かばないことに、私は自分のぜいたくさと、正常さを確認するのだ。
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