中学三年生のとき、癌を患っていた半身不随の伯父がいた。私は学校帰りに病院へいき、病室で大好きな作文をした。CDプレイヤーで音楽を聴いていた。病院併設のレストランで食事をして帰宅した。死んでいく、ということにあまり驚きはなかった。というのも、小中と九年間のあいだに、ずいぶん多くの身内が死んでいたというのもある。人が死ぬ、ということに、不気味な慣れかたをしていた。
しかし、それまでの親戚や遠い知人の場合、死んでいく、という過程はどこか遠かった。突然倒れてそのまま死んでしまった人や、月に二、三度見舞いにいくだけだった人の死は、リアルではない。いやリアルではあるが、そのリアルさに目をつぶることはできる。しかし両親の次に身近に感じる者の場合、私にとってそれは現実だった。ほとんど毎日病院にいく。毎日すこしずつ死んでいく。これはそうとうリアルだった。かなしいということとは微妙にちがう、目を背けたい生々しさがあった。
そのころ、勉強や音楽に飽きて地下の売店にジュースを買いにいくとき、待合室でぼんやりテレビを見るとき、レストランで汁そばを食べるとき、病室のでかい窓から暮れゆく空を眺めているとき、私が考えていたことは、こともあろうに作文だった。伯父が死んだあとで書くべき作文だった。折しも中学三年生だったので、最後にもっとも印象に残る作文でも書いて、意義だの結果だのを残そうと思っていた。伯父の死をどう書くか、心のなかで幾度も推敲していた。伯父はまだ死んではいないというのに。
そうして中学三年生の冬に伯父は死んだ。伯父が死んだとき私は病室にひとりだった。ナースコールを押しても良かったが異国であったため言葉が通じず、母をさがして走りまわった。書くつもりの作文は、書き出してはいなかったがもうほとんどできあがっていて、あとは紙に書き写すだけだった。
「入院中の伯父につきそって病院に泊まったことがあります。夜、トイレから帰ってきてとなりの病室を何気なくのぞきました。そしてその日はうつらうつらと眠り、次の朝また何気なくとなりの病室をのぞいてみると、そこには病人も、ベッドも、何もありませんでした。あれが、死です。夜そこにいて、朝いなくなっている。これが死だと思います。伯父が、元気で家に帰れないことは知っていました。」
十五歳の私は長い作文のなかに、そう書いた。人が死んでいくその生々しさから目を逸らすために、推敲し続けたその作文は、私の望みどおり授業で使われ、望みどおり褒めちぎられ、ついでに慰められた。
しかし私はその自分の作文が載ったその文集を、帰国する前に捨てた。自分の卑しさを理解したからだ。伯父の死を書き言葉でうまく伝えることなんかしなくていい、目の前の生々しさに目を見はり、こわいときにこわいと叫び、泣きたいときにおもうさま泣く十五歳でありたかったと、ある程度歳をとってから私は思うようになった。
今、これを書くにあたって、こわごわと、心の中にひっそりと沈殿しているその文集を開いて読む。十五歳の自分が書いたものに感じるのは、やはり嫌悪だ。卑しいし、傲慢だ、と思う。その卑しさと傲慢は、思春期の私にあったものではなくて今現在も抱えているものだと思う。ものを書く機会に恵まれてから、私はずっとそれらから逃れようとしているんだとも思う。
今だったら私はたぶん、「これが○○だ」なんて書きたくないと思う。知ったような気がするものでも、知っているとは書かない。私は何もかもを知らない。知らないし、分からない。できるかぎりそこから離れずに書きたいと、ずっと私が願っているのは、十五歳のあの文字があるからだ。
ものを書くという行為は、私にとって、好きだとか嫌いだとか、得意だとか苦手だとかということと全然べつのところにある。ものを書く必要がない、しあわせというのもあると思っている。もし生まれ変わったら、とときおり私は子どもみたいに考える。もし生まれかわったら、なにも書く必要のない、というより、書くまえに発語しているさわやかな人になりたい。身近な人が死んだときに言葉など忘れたように泣ける人に。
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