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 電話がかかってきたのは、夕刻だった。場所は、昭和三十年代に建てられたような古い古い木造二階建てのアパートだった。六畳の砂壁の和室に、二畳程度の板の間の台所がついているきりの部屋で、辛うじてトイレは室内にあるが、風呂はもちろんない。もっとも、部屋の用途を考えれば風呂は必要もなかった。



 六畳の部屋のほうには灰色のスチール製事務用デスクがぎちぎちに並んでいた。六畳という狭い空間に並べられたデスクは六台だったか七台だったか。そうしてそれぞれのデスクの上には、当時はまだ大きくて重くて置く場所にも一苦労するような代物だったワープロが、所狭しと置かれていた。

 私は空いているデスクの前に坐り、ワープロを使い初めていた。
 仕事をしていたわけではない。高校を出、十代の終わりぐらいのころだ。
 前年の秋に、古い伝手のある六本木でのバーからスカウトが決まっていた。けれど周囲の友人たちはまだ受験の真っ最中で、一緒に遊んでくれる相手もいなかった私は特にやるべきこともなく、麻雀に付き合う日以外は暇を持て余していた。だから私は、その部屋を訪れては空いているワープロを使って好き勝手なことをやらかしていた。

 「もしもし」
 受話器をとると、聞きなれた声がした。いや、「聞きなれた」というのは若干の齟齬があり、たとえば生まれ持った自分の声を「聞きなれる」ということはあり得ないように、その近しさを表現できることばがないほど、それはとてもとてもよく知っている声だった。
 「ああ、きーたん?」
 とてもよく知っている声はそう言った。電話に私が出たことに、少しだけ驚いているような口調だった。そうして、私のことを「きーたん」と呼ぶ人間はこの世の中でたったひとりしかいなかった。
 「うん」
 ぶっきらぼうに、私は答えた。
 「来てるんだ」
 そんなふうに言われた。口調がちょっと笑いを含んだものに変わった。けれど私はそれに対してもただ「うん」と答えただけだった。
 ごく短い間があった。すこしだけ違和感がちらついたが、けれど声はすぐにいつもの調子に戻り、「ヨミに代わってくんない」と用件を告げた。私はふたたび「うん」とだけ言い、受話器を当時実父の秘書だった女性ヨミさんのほうに差し出した。結局、ただでさえ短いその電話越しの会話のなかで、私が発したことばはぶっきらぼうな「うん」だけだった。
 それが、私と父が唯一共有する古い友人の最後の会話になった。

 彼は二十代で出版社をたて、約十年後に結局は自らが潰した。莫大な負債を抱えていたらしいが、残務整理に一区切りつくと、彼の目はふたたび出版の仕事に向けられた。
 風呂も付いていない木造アパートは、取り壊される寸前に権利関係で揉め、壊すに壊せないような状態になったものを彼がどこかから見つけてきて、取りあえずの「事務所」として安く借りていたのだった。薄っぺらなベニヤ合板のドアには新しく作った出版社の社名を書き付けた札を貼り出してはいたが、そんなところを「事務所」にしていたことでもわかるように、中身は限りなく家内制手工業的で、たった数人しかいないスタッフのなかには父の元秘書だった女性が含まれていた。高校生そこそこの私が気軽に「事務所」に遊びに行けたのには、私とその女性「ヨミ」さんは仲がよく、またヨミさんは彼のパートナーでもあった。

 その日彼は、地方に出払っていた。出張先からの電話の用件は仕事の確認だったが、東京に帰ってくるはずのその翌日、彼は帰宅していなかった。彼が帰宅しなかった代わりに翌々日の朝、我が家にかかってきたのは浦和警察署からの電話だった。
 ○○墓場に倒れていた。朝方発見されたときにはすでに息はなかった。注連縄をまいた古木の枝からロープが垂れ下がっており、彼はその先端にぶらさがっていた。

 検死の結果、首吊りでの窒息による脳酸欠という見解と、心不全というよくある「不可解」な見解がある。(しかも後者はあとから医療関係者の口から洩れた事実だった)
 たとえば心不全だった場合、どこかで泥酔した彼が、突然の発作に襲われて即死に近い状態で死んだとし、発作に倒れたあと、(たとえばすぐに救急車で運ばれたら充分に助かったはずなのに)冬の寒さのせいで死んだのか、それとも私たちには想像もつかないようなもっと違う要因があったのか、それは誰にも判らない。生来から心臓が弱い、というわけではなかった。カードを持たずいつも現金のみを持ち歩いていた彼の内ポケットの財布の中身は、小銭を除いてきれいに抜き取られていた。

 彼の死に関して「私にできることがあった」というようなことを考えたわけではない。たとえばあのとき、ぶっきらぼうな「うん」の代わりに、小学生のころのような甘えた声で「おみやげよろしくね」と言ったとしたら、向こう側の暗闇に引きずられることもなく東京駅から我が家に直行したかといえば、そういうわけではないと思う。
 私が恋人と離別したとき、「まだ底辺まできてないんで大丈夫っす」と女々しく嘯いたときの声色で、たまにはヨミさんとどこか出かけなよ、と言えば結果はすこし変わっていたのかもしれないとも思わない。

 大酒呑みは昔からで、若い頃にはトラ箱の世話になったこともあった。運命という言葉はあまり好きではないが、結局はあれが彼の運命だったのだと考えるのが、こういう言い方は語弊があるかもしれないが、なんというかいちばん坐りがいい。そしてそれが確信に至ったのは、ヨミさんの気丈な姿勢だった。

 自分に言い聞かせるわけではないが、もしいつか自分が「もしかしたら」と眉間にシワを寄せるときがくるかもしれないので重ねて書く。彼の死に責任めいたものを感じたことはない。
 だがあの日あの夕刻、あの薄暗い砂壁のアパートで取った一本の電話のことを思い出すとき、自らの全身をものすごい勢いで貫き駆け抜けてゆくのは、もう何に例えてもたらないほどに、途轍もなく激しい渦巻きのような後悔である。そしてこの後悔は、決して避けては通れない種類のものであると理解した。たぶん私は近い将来、もう一度同じような後悔を抱くことになるのだと思う。私にはまだ、生きている親がいる。

 砂壁のアパートはとうに取り壊され、今は小奇麗なマンションになっている。
 月日が経つのはふだんなんとなく考えているよりずっと早いし、その流れの中で失われていくもの、消えていってしまうものはいつの間にか、忘れ去られていく。そういうふうにして人間はこれまで長いこと暮らしてきたのだと思うし、忘却というやさしい機能がなければ人が生きていくのは難しくなるのだろう。

 けれどもそれでも、人は我慢して、努力して、唇に血を滲ませながら「忘れない」ようにしなければならない出来事にときどきぶちあたる。
 いろんな「別れ」を経験したけど、すべてキレイな「別れ」だったよ、というようなことを言う人を私は信用しない。血膿のしたたるような思いをどこかに包み隠しながら、それでも平穏に生きようとつとめている人を私は信じている。
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