カメリハが終わり、いざ本番というときに不測の事態が起きた。
つねにギリギリの、連携打ち込み3人と、デスク1人の構成員のうち、連携の1人の身内に不幸が起きた。
父親が脳出血で倒れたと新潟の実家から連絡があった。
戦慄がはしる現場に、当事者の彼は落ち着いていた。
監督に同行にきている老兵に生は打てない。研修にきた子に本番はまだ無理であるし、さいあくの場合、デスクの人間に、とも考えるが命綱である司令塔役がいなくなれば、万一のとき取り返しがつかない。
「やります。大丈夫です」
彼は言った。
本来なら誰か緊急にほかのメンバーに来てもらうことはできた。しかしあいにく、戦力となる面子はその日に限ってほかの局に出払っていた。本番まであと1時間半だ。彼にかけるべき言葉など、何も思いつきはしない。
本番を迎えるまでのあいだに、局にある電報が届く。観客席から指揮者を殺す、といった脅迫の電話だった。
警備を固めるなか、番組の司会にことの顛末を一応説明し、万が一のときの観客やスタッフの逃げ道の確認をした。
しかし正直そんなことはどうでもよかった。
本番は20:00。
それまでのあいだ、メンバー一同は、自分の使命と、身内の命の重さを天秤にはかることの重大さを、頭のなかでもてあましていた。
結局、一連の脅迫騒動は犯人は特定できずに終わったが、幸い事なきを得た。
そう、これはよくあること。きっと彼の父親も無事に生きているに違いないと願った。
けれど、彼の父親は死んだ。
大晦日から異例の長さで続いた乾燥注意報も解かれ、雨が降った。
花粉が飛び散る寸前の季節まできたが、マスクをつけて屋外に出る生活は今も変わらない。
だれ1人欠けてもいけない現場は、使命感や責任感、充実感や緊張感があるが、それとはもっと別の階層にある、どうあっても切り離すことのできない、恐怖感がある。
歯医者に行くのが怖い、注射を打たれるのが怖い、誰かに嫌われるのが怖い、誰かを傷つけるのが怖い。
経験があり、想像力の働く範囲であるなら、人間は自分を守るための恐怖を覚えている。
けれど、一介の人間ごときが乗り越えられる恐怖の種類の数も、たかが知れている。
いつかだれもがたどり着くはずの「死」に向かって歩いているのに、その「死」に対しては恐怖を知らない。
心理学的に言うと、ただしくは、子どものうちに「忘却」という作業を行っている。
恐怖を抱き続きながら生きるということは、非常にむずかしいことだからだ。
人はみな、生きやすいように生きている。
いかに無駄な情報を省き、有用な情報だけをつかんで生きている。
小蟲が皮を脱ぐように、真綿が水を吸うように、生きている。
けれど今回のことがあって、それは本当にただしいことなのか、少し疑問を覚える。
ご冥福を祈るばかりだ。
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