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正しい距離

 清水の舞台から飛び降りるつもりで、高校時代におけるほとんどの時間をアルバイトに注ぎ込み金を貯め、単身上京し、いきずりのクラブで会った男とその日のうちに寝て処女を捨て、内定が決まった会社に4月から勤め、部屋も日当たりがいいまあまあのところで落ち着かせ、友達もできた。
 生活、仕事、遊び。すべて上手い具合に、計画通りに、とんとん拍子で進むはずだった。
 ハタチのときから付き合っているというと、たいていの人は驚く。学生時代の友人でさえ、当時から恋人が変わらないことに驚愕する。きっと運命なのだ、と言う人もいる。ものすごい大恋愛をして結婚に至ったと思ってくれる人もいる。二十代のころは、実際、彼は運命の人なんだと思ってた。自分は大恋愛をしていると思っていた。結婚するならこの人としかあり得ない、この人以外の男を好きになる自分が想像できないと、一点の曇りもなく信じていた。
 けれど結局のところ、私も彼も、ただ怠慢だっただけなんじゃないかと思うようになった。関係を解消するのが面倒で、ほかに恋愛相手を捜すのが面倒で、それでいっしょにいただけなんじゃないか。十五年後の結婚、というのがその証のように思える。別れるのも面倒だったかわりに、結婚に移行するのも面倒だったのだ。
 きっかけは、彼の父が脳梗塞で倒れたことだった。死んでしまう前に父を安心させてほしいと彼の母が泣きついてきて、それで、親族を集めて食事会をし、友人をあつめて小さなパーティをし、区役所に届けを出した。
 恋愛も結婚も同じだと思っていた。私にとくべつ結婚願望はなかったが、この先、この男以外の男と恋愛することなどないように思っていたから、義母のすすめた結婚に異議はなかったし、それで何もかわるはずはないと思っていた。
 しかし、変わったのだ。
 交際していた十五年と、夫婦になった三年とでは、あきらかに何かが変わってしまった。怠慢な私たちだが、努力はしようとしただろう。だが、わかっていれば修正できた。
 彼の父は死ななかった。左半身に少し麻痺が残り、自宅でリハビリを続け現在ではふつうに生活できるようになったという。ときおり彼の姉は、電話をかけてきて自分が介護を任されていたことの不満を愚痴ったが、それを聞くのはいつも彼であって、私たちがうまくいかなくなったこととまったく関係がない。私の父母も、新居や家事や子づくりについて口を出すようになったが、それだって、私たちの生活に何か影響を与えたとは思えない。
 変わったことがらは、たぶん、そういう外的要因ではなかったのではないか。私たちの中身が、おそらく結婚というものに向かなかったのではないか。私はそう思うのだ。
 三年のあいだにいろんなことはあった。階下にはどう見てもヤンキー上がりの若夫婦が住んでいたが、足音がうるさい、洗濯機の音がうるさいと、幾度も怒鳴り込まれたりした。一戸建て購入を考えて、休みになるたび物件を見て歩いたりしたが、夫婦が先に引っ越していき、こちらが移る機会を逃してしまった。子づくりに励んでみたり、子どもができないのが不思議で、検査にいくかいかないかで喧嘩したりもした。空梅雨のあとゴキブリが大発生して、大騒ぎしてホウ酸団子を仕掛けたこともあった。共通の友人を呼んで、夫婦らしくもてなしてみたこともあった。正月どちらの実家に泊まるかで、つまらない口論をしたりもした。
 ふつうの生活だった。けれど私には、その三年に起こったひとつひとつ、どんなにささやかなことも含めたすべてのできごとが、私たちの関係を少しずつ磨耗していったように思えてならない。ひとつひとつ、たとえばヤンキーが、たとえばゴキブリが、たとえば正月が、私たちに正面切って問うのだ、おまえたちはちゃんと夫婦になったのか否かと。この生活に基づくものは愛なのか、それとも違う何かなのかと。夫しか知らないのだから、その答えが出るはずもなかった。
 今年の夏の日、ちょうど私たちの住む町では七夕祭りが行われていて、いつも眠ったような商店街が珍しく活気づいていた。店は歩道に出店を出し、焼き鳥や綿菓子やビールを売り、子どもたちの背負う神輿が練り歩き、設置されたスピーカーから安っぽい祭囃子が流れていた。私と夫は、祭りを見るためではなく、食材を買うために部屋を出てきたのだった。いつもはひとりでいく買いものに夫がついてきたのは、米だの醤油だの重いものを買う必要があったからだ。
 人の多さにうんざりしながらスーパーに向かい、分担して荷物を持ち、商店街を横切ったのだが、図らずも女神輿にかち合ってしまい、見物客でごった返したなかを突き進まなければならなかった。荷物が重いせいで、気が遠くなるくらい暑いせいで、陽気な混雑のせいで、私も彼もいらいらしていた。むっつりと黙りこんだまま、人の隙間を縫って前に進もうとしていた。
 そのとき、私はぽっかりと気付いてしまった。前を歩く男をこれっぽっちも愛していないということに。
 十年前、まだ三十になっていなかったころ、やっぱりこうして祭りに出くわしたことがあった。私と彼は映画を見に行こうとしていたのだが、そのにぎやかさにつられるように浮き足だって、出店でビールだの串焼きだのを買い、商店街をなぜか進むサンバ軍団のあとを、ほかの人々とともにくっついて歩いたのだった。あのとき、町は光を放って生き生きとして見えた。肉を焼く屋台も、泣き喚く子どもも、くるくるまわる綿菓子も、隅で酔いつぶれている親父の姿も、見慣れた商店街の隅々まで、光を反射しているように見えた。それが今は、行列も、祭囃子も、子どもも、神輿も、まるで色彩を欠いた、バカバカしいほど無意味な、通行の妨げにしか見えないのだ。
 重い荷物を提げて先を急ぐ私たちは、まるで、社員寮の煮炊き係りみたいだった。そこには愛なんてなく、生活すらなく、ただ義務ばかりがある。私たちが今まわしているものは、いったいなんなのか。
 神輿を見るために駆けてきた中年女性の軍団に押されるようにして彼はよろけ、そのまま派手に転んだ。背後に有刺鉄線で囲われた空き地があり、彼の手にしていたスーパーの袋は棘にひっかかって切れ、中身がばらばらとアスファルトに散った。米袋まで破けてしまったらしく、白い米粒がざあざあとあふれ出た。両手に荷物を提げた私は彼を助け起こすこともせず、漏れ出た米をただ見つめていた。
 その夜、彼は性交を求めてきた。きっと彼も、祭りのなかを歩きながら、私と同じことを思ったのだろうと思った。不安になったのだろうと。どのくらいぶりだか思い出すこともできないセックスは、快感ではなく驚きを私に与えた。怠慢な私が、今になって愛なんてすさまじい言葉を持ち出したことに私は驚いていた。もっと驚くべきことに、私はそれを切望しているのだった。
 もう一緒に暮らさないと、事を終えたあとで私は言った。床の上に脱ぎ捨てたボクサーパンツを見つめ、そうだなあ、と彼はぼんやりした声を出し、おれたちさあ、結婚してなかったらうまくいったと思わないかと、背を丸め煙草に火をつけて言った。同じことを考えていたと私が答えると、不思議なものだよなあと、しみじみ言って顎を撫でさすっていた。
 ほしいときにはまったくできなかった子どもが、その夜の性交でできたと知ったのはつい数週間前だ。とはいえ産婦人科にはいっていない。判定剤で三回試したが、全部陽性反応が出た。三つ目の窓に、陽性を示す青い線を見たとき、面倒なことになったというのが六割、ひょっとして起死回生のチャンスかというのが三割、残りの一割は空洞みたいに空っぽだった。
 それでも、その三割に賭けたのだ。あのね、子どもができたみたいよ、とその日遅く帰ってきた彼に私は言った。十八年前に戻れるんじゃないかという期待があった。うそ、やったじゃん、と彼は言い、万歳と芝居まじりに二人で喜べるのではないかと思っていた。けれど彼は言葉に詰まったのだった。困惑がはっきり見てとれた。彼はすぐに顔を上げ、すごいな、と言ったけれど、一瞬の沈黙は私に流れ出た米を思い出させた。ざあざあと音をたてながら散らばっていくあの白い米粒を。
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