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死を描く

 「聞いて、パウラ、きみにお話をしてあげる。きみが目を覚ましたとき、自分はいったい誰なのかと、途方にくれないですむように」

 一般に、小説においては「笑い」より「泣き」のほうが容易に書けるといわれる。その心は、主人公か、主人公の大切なひとを死なせれば、読者の涙を誘えるからだ。
 周知のように、いまや死と別れの物語は、価格暴落状態。白血病で死んでしまった少女との色馳せない純愛物語や、死んでしまった母との思い出を東京のランドマークと共に語る母恋い物語には、多くの日本人が持ち合わせている涙のツボを、ぐいぐいと押す作用があることが判明し、二匹目、三匹目のどじょうを狙った作品があとを絶たないからだ。とはいえ、純文学、現代文学において(ミステリーは死はつきものだが)”なぜか”死をあつかわないことは難しいとされる。であればこそ、いま一度「死」の描きかたを再検討してみるのもいいだろう。

 『パウラ、水泡なすもろき命』は、『精霊たちの家』で高名な作家・アジェンデによる、「限りなく小説的なノンフィクション」とされている。ある日彼女は、最愛の娘・パウラの昏睡という悲劇に見舞われ、以降、娘のベッドの傍らで、外交官の娘として生まれた自らの来し方や、祖国チリについて、そしてパウラの暮らしぶりを、語り続けるのだった。ときに書簡になり、ときに独白になる、パウラへの二人称の呼びかけに、読者は、生きてきた時間の重みと、死の理不尽さを身をもって知ることになるのである。

 ここで「白血病の少女との純愛物語」の、少女の死のシーンを思い出そう。それは病室において少女に「お別れね」といわれた”僕”が、「アキはどこへもいかないよ」と答え、「あの夏の日」をしばし回想しているうち、[アキの葬儀は、十二月末の寒い日に行われた]と、死の瞬間を捉えることなく時間が経過してしまうというものであった。いっぽう、パウラの死の瞬間を記録は詳細かつ、長大。アジェンデは、母として現実をとらえるまなざしと、作家として豊かな感受性を言葉にかえるスキルをもって、パウラの死を見つめ続ける。「死」を物語に奉仕させないことへの、大きな決意。「娘を失った母親のノンフィクション」なら、死が重いのは当たり前だという指摘もあるだろう。しかし。
 マーガレット・マッツァンティーニの『動かないで』は、外科医の父親の元に、交通事故で意識不明となった愛娘が運ばれてくるという設定である。手術を同僚の任せた”私”は娘に対し、やはり同じく二人称で、ある過去を語り始めるのだった。自らの唯一の恋物語を。こちらの小説で、愛娘が死ぬかどうかはここでは明かさない。ただ共通するのは、主人公が最愛の人物の死に瀕した際、なにを語り、なにを見るかにこそ、その小説の品格が表れるのだという読後感につきる。小説における「死」は日常であるからこそ、書き手は、安直さと下品さから逃れうる方法をつねに模索しておくべきなのだろう。一般読者に「死を道具にしている」と思われてしまうのも頷ける話である。
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