「え、食道に? 西新宿の総合病院か。入院はいつから?」
背中に視線を感じ振り返った。同棲している男は油揚げを口に運びながら、私がにぎる受話器を見つめている。母からの電話だった。
「すぐ帰ったほうがいいかな。ああ、そう、それじゃあまた詳しいこときまったら電話して。はい」
受話器を置き、エプロンをぬぐ。テーブルに戻り、席につくと私は口を開いた。
「親父、食道ガンだって。3週間後に手術だって」
「うん」
数年前まで父はよく入退院を繰り返していた。ヘビースモーカーである父はあるときは肺を患った。職場でも家庭でも強気な父はあるときは胃を患った。庭師である父はあるときは梯子から転び落ちて腰を痛めた。漫画のように頭や鼻に絆創膏を貼り付けて、翌日になればけろりと元の状態に戻るような、例えるなら漫画のキャラクターのようだった。そういえば還暦に入ってからずいぶん落ち着いてるよな、と思いはじめた頃に母から電話があったのだ。
「おれ、何かできることあるかな」
「いや、今んとこべつに」
「何でも遠慮しないでおれに言ってよー」
「うん。とにかく早くメシ食べてお風呂入っちゃう」
翌日職場に出向き、手術中は家族の誰かが必ず付き添っていないといけないということや、母1人では食事するために外に出かけることもできないことを上司に伝えると、快く休暇がもらえた。胃ガンを患った祖母のいる同僚からは、最近はガンは怖い病気じゃないのだと励まされた。
いつものように食料を買出しに出かけると、出先で知り合った主婦の女性からメールがきた。『今日の広告みた? 土曜日に生鮭4切れが300円です。半ぶんこしませんか!』承諾の返信を済ませ、夕日の方向に向かって足をすすめた。
「あらまあ、お父さんが?」
彼女の部屋にあがると世間話ついでに父のことを告げた。
「初期じゃなくてステージ3でした」
「でも気落としちゃダメよ。今じゃそんなに簡単には死なないんだから」
正直、まわりが騒ぎ立てるほど気落ちしているわけではなかった。ただ、実感がなかった。父はあくまで漫画のキャラクターであり、けろりとある日、忘れてしまう頃に退院してしまうのではないかと思っていた。
「あたしの父もね、ちょっと前に前立腺ガンやったけどまだ元気にしてるもの。まあその時もう80過ぎてたから進行が遅いってのもあったけどね」
思わず訊きたくなり、口を開いた。
「奥さんは、お父さんがガンだって分かったとき、どう思った?」
「正直、父がガンだって聞いたとき、一番最初に思ったのは、ああガンになったのが母でなくて良かったってことだったなあ」
胸のなかのなにかがストンと落ちる思いがした。安心した。自分が人でなしじゃないかと思って、まわりの騒ぎ立てにも取り繕うように折り合いをつけていたからだ。
「だってそりゃそうでしょう。経済的な問題さえクリアすれば、母親のほうは1人になっても何とかやっていけるって思うじゃない? でもさ、男親はねえ」
「そうなんですよ。ねえ。父親はねえ」うんうんと頷く。
「あたしの父はあの年にしちゃ身の回りのことはできるほうかもだけど、それでも1人で家のこと全部を切り盛りするなんて絶対ムリ」
「うちの父はたぶんATMで金がおろせないと思います」
「あたしんとこは姉夫婦が両親の家のすぐ近くに住んでるからね」
自分は一人っ子である上に実家から離れている。
帰路途中、とても長く光る流れ星を夜空に見た。流れる筋を見た瞬間、その瞬間が過去のものになってしまうことがひどく恐ろしく感じた。
「肉じゃがうめー」
「なんか成功した。例の奥さんと開発したからな」
「やらしー。おれさあ、あんたの肉じゃがのしらたきに味が染みてんのが大好きなんだよね」
「ああ、お前んちのはしらたき無しで、豚じゃなくて牛だって言ってたっけ」
「けどさ、肉じゃがって昔は副菜あつかいだったよね。でも今じゃすっかり肉じゃががメインでもいい身体になっちゃったなあ」
「……言えてる。うちも肉じゃがには必ず焼き魚か、下手すると肉の固まりがメインで付いてたわ。中学の頃とかさ。年取ったな、うちら」
ケンジが食事を取るときは会話を絶やさない。それが両者のどちらからもたらされるものか改めて考えてみると、よくわからなかった。
「あと、明日も同じメニューなんだけど、いいかな? ごめんね」
不意に表情を硬くしたケンジが肩をすかせる。
「何言ってんの。明日のお父さんの手術、無事に済むように祈ってるから」
さいごの表情は笑顔でした、と母に言わせてしまうような、父の笑い方は辛気臭かった。その表情につい釣られるように吹きだしてしまった。
「手術中って家族は待合室かなんかでずっと待つイメージがあったんだけど」
「お父さんの病室で待つのよ」
なるほど、テレビのイメージというのはこういうところで根付いているものなのだ。
「お父さんがどうしても個室がいいって言ったときは、ぜいたくかなって思ったけどこうやって10時間もかかる手術を待つとなるとこれで良かったのかもね」
背筋をひねりストレッチをする母を見て、ある異変に気づいてそれを口にすると、
「当たり前でしょ、洋服のようがラクだもの。着付け教室通ってしばらくマイブームだったけどお父さんの看病あるし、もうこれでしばらく着物はいいわ」
着物くらいの当たり障りのない趣味にはまってくれてる方がこっちとしてはありがたかった。そうでないとこの人はすぐ自己啓発とかエビ養殖とか言い出すのだ。
「食道ガンの手術ってね」
どこかから子どもの声が漏れてきた。近くに小学校でもあるのかと個室の窓から景観をのぞいたが、ここはビル街の都心だと思い出し、病院内から聞こえたのだと理解した。
「普通は胃をそのまま引っぱって食道代わりにすればいいんだけど。でもお父さん前に胃潰瘍で胃を取っちゃってるでしょ。だからお腹を切り開いて腸を切り取ってそれを食道の代わりにつけなきゃいけないの。ちょっと面倒なのよ」
母と並んで椅子に坐り、仕事の原稿をめくりながら、時計の針を聞いている。都心のど真ん中にあるはずの病院はどうやら防音に気をつかっているらしく、電車の走る音やトラックの排気音などの猥雑なものはいっさい届かなかった。まるで図書館のようだった。こういうところで仕事をするのも、悪くはない、そう思っていると、
「お父さん!」
ガタンと椅子を後ろにたおし、ヒステリーに叫ぶ母に心臓を持っていかれそうになった。
「祈って! あなたの今やっている仕事なんてぜんぶダメになってもいいからお父さんの命が助かるように祈りなさい!」
「祈れない! それは祈れない!」
はあはあと首を垂らしあい、冷え汗を流しあい、また座りなおして呼吸を整えていると、
「お父さんが死んじゃったらどうしよう!」
「お母さん声大きい! 声大きい!」
まるで間歇泉のような、黒ヒゲ危機一髪のような、どこに地雷が隠されているかわからない心理攻防に辟易しつつ母を落ち着かせた。
「お父さん……」
母のため息まじりの声と同時に、渡り廊下の先にある溜まり場から、小さな歓声があがった。どこかのサッカーチームが点を取ったのだろうか。
「今まですがった神様だれでも構わないです。どうかどうか、お父さんの命をお助けください」
最後に母の涙を見たのはいつだっただろう、そんなことを思い出そうとすると、もう一つの疑問が浮上した。
「お母さんて、けっこうお父さんのこと好きだったんだ」
「当たり前じゃない大好きよ。好きに決まってるじゃない」
私の質問に、はあ? と口を開いた状態で一瞬固まると、直後破顔するかと思えばふにゃふにゃな旋律でわめき散らす母の声を聞いて思い出した。母が泣いたのは20年前の、祖父が死んだときだ。母は泣かない人だったのだ。原稿をカバンにしまい、椅子にすわり腕を組みながら天井を見上げる。へえ、そうなんだあ、と感慨にふけることもなく、みんな歳を取ったんだと思った。
病巣は切り取ることはできたが新鮮な腸がなかなか見つからないということ。いいだろうと思われる腸はくっつけると壊死してしまうというのを何度も繰り返し、やっと何とか使えそうな腸が見つかったということ。神経科のスタッフたちがくっつけているところだがさらにあと4時間ほど時間がかかるということを、汗だらけ血だらけのオペ服を身につけた担当医が、囚人のような疲れた顔をしながら説明した。
「ねえ! さっきの先生の何! お父さん危ないってこと!」
「違う違う! あれはただ手術が長引いてくたびれてうんざりしてただけだって絶対!」
また黒ヒゲにヤリが刺さってしまったのか、心臓どころか魂までも持ってかれそうな勢いで母が叫ぶ。それだけヒステリーを起こせる体力があるなら長生きしてくれるだろうと思うが、さすがにいよいよ頬に影をつくりはじめた母が不憫になり、思いつきを口にした。
「あの感じ、お父さん助かるとおもう」
部屋に戻るとケンジがテレビもつけずに待っていた。帰宅の挨拶を済ませると、何かを言いづらそうに私の挙動を見守っている。
「参った参った。新鮮な腸がなかなか見つかんなくってさ」
「腸!?」
冷蔵庫にあるタッパーを取り出して、レンジで温める。
「ごはんは?」
「病院でおにぎりだけ食べてきたから。もう夜遅いしおかずだけでいいわ」
ほかほかに湯気を立ち上らせる肉じゃがを口にする。
「肉じゃがうまい。お腹空いたよもう」
表情を硬くしていたケンジの頬が緩んでいくのがわかった。お腹がすいている状態で、普段の生活からすこしはなれた場所での出来事を思い出すと、不意に目が熱くなった。母の横顔とケンジの背中が交互に脳裏をかすめた。
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