宅間のような羅刹ではなかったのが本当の恐怖だった。企業、政治が派遣と社員のあり方にいま一度再考するという顛末にまで及ぶ。結局テロでしか旗を突き上げる術はなかったというのが露呈した。ペンではなく、ナイフだった。人々はテロと呼んだ。
大きな顔をした大手政治家のスポンサーによる偏向報道は、何を生み、何を殺したか。
考える。
日本の自殺者数、年間、三万三千人。
まずい。何かを忘れている。何か置き忘れている、必死に思い出そうとする。歴史から見て凶悪犯罪はたくさんあった。猟奇的な殺人も、奇妙な行方不明での死亡記録もあった。
電車が止まる。人身事故。電車に乗ることに恐怖を覚え始めるようになる。今さっき轢死した人が今年の自殺者数にカウントされ、数分後に電車が走り出す。前から感じていた窮屈感、押され気味になりながらも見て見ぬふりをしてきたもの。
死因、頭部強打によるショックおよび肢体切断による出血多量。目に見えない死は、死体は、死を実感しない。電車に乗るものたちは舌打ちをし、ため息を漏らしている。今死んだ人と、練炭ガスで死んだ人と、無差別殺人を起こしてから舌を噛み切る人たちと、オフィスがテロにやられて事故死した人たちとの違いを考える。格差社会の難に頭を悩ませる人たちと、社会に対し閉塞感と孤絶感に苛まれれて自殺を考える人たちと、会社や学校に鉄槌を下すことに結論を見出した人たちと、遠くのほうから傍観している今電車に乗っている人たちと、私と、それらの違いを考える。
日本もついにテロが多発する国家となりえるだろうとジャーナリストがしたり顔で言う。無念のベクトルがもはや自分に向くだけでは足りず、持て余す不満と悲しみがブラックホールのように撒き散らされると。テロ? 昔からあったよ。一日百人という数の中に、そのひとつひとつの死の中に、何人の者が社会への報復を願っていただろうか。年別に事件を照らし合わせるとおのずと見えてくる奇怪な事実。明らかにされているのは、無機質な数字の伸びだけ。
遺族の人たちは答えに辿りついていってしまう。その中の彼らは、もはや加藤を見ていない。彼らの目の先は―。
殺意はだれでも一度は抱くものであり、それを留めようとするのは理性ではなく人間の心だ。殺意と自殺願望は平行線上にあり、共に静かに穏やかに、期を狙っているかのように心のどこかで潜んでいる。すべての物事のきっかけなど瑣末なことでよく、それが行動へと繋がる機会も同じ。だから本当は、殺人はそれを止めようとするなにものかがなければ、容易に起こしてしまうものになる。それは本来、心というものだった。けれど、心が死んでいる。心は自分からは死なない。動物は基本的に、死に恐怖を覚えるものであって、自ら死を望まない。死は、能動的ではなく、受動的なもの。心が殺されてしまった瞬間から、その者は人を殺せる力を手に入れてしまう。心が死んだ者に対しては、民衆は死者の数に入れない。殺人は毎日どこかで起こっているが、可視状態の血が目の前になければ誰も気付かない。関係者になりたがらない。舌打ちをするだけ。社会淘汰組の一員としての成功に気付かない。
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