笛の音と子どもの声で目が覚める。ベランダの植物たちの葉がぐったりとしているのを見て、飛び上がり、水を撒く。手すりから下を眺めると、御輿が人間アリに囲まれて上下に揺れている。
「いくら気をつかっても感謝されない」「自分だけ損をしている」――このバイオに陥りやすい人は、本来とてもサービス精神のある、やさしい人らしい。人のよろこぶ顔を見るのが何より好きな人、しかし、ちょっとだけ平均より「こころの温度が高い人」なのだと。
一方、世の中には、ストレートにやさしくされることが苦手な、ややこころの温度が低めの人たちの存在も忘れてはいけない。
それは”親切にされることによる生じる喜び”より”相手に対して感謝を表明しなくてはならないとまどい”のほうがまさっている人。要するに「うれしいという感情を表すのは恥ずかしいし、上手にお礼が言えそうもないからあまり親切にされると困るな」ということなのだ。だから、容易に「あの人は礼儀作法がなっていない子どもじみた大人だな」とすぐに結びつけるのは危険だったりする。
わたしもね基本的に、世の中にはいろいろなタイプの人がいたほうがいいと思っている。
だから、気をつかって感謝されるのが好きな人も、感謝したくないから親切にされたくない人も、どっちもいていいし、気をつかったのに報われずひがんだり、気をつかってもらったことが重荷だったり、といろいろあったほうがいい、とさえ思っている。
同じひとりの人間の体温が、高くなったり低くなったりするように、この手のこころの温度も一定ではないから、人間関係も不変のものではないと思う。
ひとりの人間がクールな対応をしたり、ホットな対応をしたり、そういうふうに、人のこころには予測のつかないところがあるのが魅力なのだと思う。
相手の感謝を期待してがっかりすることもあるかわりに、放っておいただけなのに、とっても感謝されたりする場合もある。
「あなたが気をつかってそっと見守ってくれたから、とても心強かった」
なんていう場合、ほんとうのことを言う必要はまったくない。
「あなたが元気になってよかった!」
このひとことで、また感謝されたりしてとまどってしまうあなた。
要するに、一生懸命やっても報われないときもあるけれど、あなたがとてもやさしい人だということは、みんなが認めてくれているから。
面と向かって感謝されなくても、相手の心の、正面からは見えない部分であなたは感謝されている、それはまぎれもない事実なのだ。
そして、誰かから親切にされたら、少なくともあなたは感謝の意を表現しようとしてみよう。あなたにとっても、気をつかったり親切にするほうが、逆の立場よりもしかして楽なのかもしれない、という発見をするかもしれない。
相手とのギブアンドテイクのいいバランスの配分さえわかれば、ひがんだりがっかりしたりすることもなくなるかもしれない。
人と人との間にはあれこれ行き違いがあるのも、決して悪いことばかりではないから。
ところでこの体温、ある共同作業では同じ温度くらいまで上がっている現場を見ることがある。
たとえば夜の帰りの熱に浮かされたような電車の乗客同士、たとえばベッドで仲睦まじく愛をとなえるカップル、たとえば御輿をかけ声とともに担ぐご近所付き合い、とか。
水をあげてから10分、しおれた葉っぱは言葉通り蘇生して、大空に向かって咲いている。
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