今年のテーマは「誓い」。
カンボジアはプノンペン、山間にひっそりと立ち並ぶ集落のさらに奥に、一般社会と隔離することを目的とした少年少女のための施設があった。子どもたちの数は120人、彼らに共通するもの、それは「母子感染」。
子どもたちの姉役を買う少女は語る。「鬱になることが多くなって、鬱になれば、父を恨むことは日常茶飯事だし、毒を飲んで死のうと思ったこともありました。気持ちが落ち着けば、特別なのは私だけじゃないと思えるけれど、仲間が発症して、病院に行っちゃうところを見ると、薬なんか飲んだってしょうがないじゃないって思うことがあります」
月に一度、家族に会う。抱き合う親子。言葉にできない、憎悪と愛情。
父、母、娘、HIV感染者として、村の住民から差別を受ける。仕事を辞めろ、井戸の水を使うな、うちの子供と遊ぶな。涙を呑まされる理由は三つ、感染者に対するネガティブ思考と、HIVに関する無知による偏見、そして社会における人間としての信頼。
性社会は途上国も先進国も、いつの時代にも蔓延るもの。少女たちは決められた時間に、一日に二回、カプセルを口に含み、水で流す。慣れぬ手つきでコップを掴み、自力で飲み干す幼児に、施設の教師がしきりにほめる。
無症候期(AC)の子どもたちは、いつか発症してしまうかもしれないという恐怖を手のひらに乗せ、握り、寝床につく頃、目には見えない何かの塊を、頼りない空へ投げてみる。翌朝目を覚ましてみれば何かが変わるかもしれない、物心をつく頃には、心を落ち着かせるための自慰習慣は消えていた。
日本では薬物療法は進み、糖尿病と同じく慢性疾患と扱うようになり発症を遅らせることができるようになった。今日、日本におけるHIV感染に関する知識の浸透度はまだまだ満足がいくほどのものではないが、海外途上国の現状は比べ物にならない。
日本やアメリカで入手ができるワクチンがアフリカなどに行き渡らない状況の背景には、経済的な問題よりも、性がタブーとされている宗教的な問題や、主権が国民にないという政治的な問題がある。
日本におけるHIVに関する性教育が、今日どの程度まで成長しているのかは微妙なところ。実質、私が有益、建設だと思える教育を学校で受けた覚えはない。せいぜい感染ルートと、死への段階ぐらいである。
初期症状、感染するための必要最低条件、その確率、献血時に感染有無の知らせを禁止する理由、陽性結果が出た場合の行動、感染者との付き合い方など、少なくとも中学高校の教科書には載っていない。セックスはゴムをするように、という決まり文句の持つ力がいかに無力で無駄か、感染者の上昇率から証明されている。
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