保育園にいたころ、クリスマスといえば赤い靴下と担任から教わり、イヴの日の昼寝の時間にサンタクロースがやってきた。白い大きな袋を背中に提げ、どこで用意したのか白いひげを鼻の下につけた園長がのっそりとやってくる。子供たちは煙突のない保育園にサンタクロースはやってこないと落胆していたなかで、ひげサンタは園児の枕元に小包を置いていくのである。
あのとき、私はサンタクロースの存在を信じていた。フィンランド方面ではサンタクロースはれっきとした職業として存在してはいるが、子供たちが思い描くサンタクロースとはトナカイを従えて星空をそりで駆けぬく天の使いなのだ。私はそのサンタクロースを信じていた。
あのとき、「人工的」なサンタクロースが枕元でこっそりプレゼントを置いていくのを半目で追っていたとき、私は心底ほっとしたのだ。サンタクロースはやっぱりいないのだと。
それでもいつか、私たち子供がサンタクロースなんていないと大人びた口調でだれかと語り合うとき、それでも心のどこかで、信じていたころのあたたかい気持ちを忘れずにいられることの素晴らしさこそが「サンタクロース」なのだと頷くのだろう。
サンタクロースがいることの夢のあたたかさ、サンタクロースがいないことの平等であること。それらは決して相反するものではなく、もっと神聖で、純粋な子供心のかたまりで作られているのではないだろうか。
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