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 大学の帰り道に東京タワーがいつも視界にあったので、あんまし珍しい感はなかったけど、時々また見上げたくなるときがある。東京タワー、売れたね。

 23歳の春、作者の彼は何者でもなくなった。美大を五年で卒業、即無職。小倉から東京に出てきたのは「上京するため」で、上京した時点でおおよその目標は達成。
 卒業と同時に中野に引っ越したのは、住んでたアパートを追い出されたのと、大学があった国分寺以外の東京を知らなかったから。
 「うちの学校の人って卒業しても国分寺に留まってて、国分寺っぽい生活始めるんですよ。無農薬野菜作ったり、インドとかに傾倒したりとか。部屋に飲みに行くと、だいたい針葉樹の葉っぱがついたインテリアですよね。だからそれ以外の東京を知りたかった」
 その、郊外としての限界が中野だった。家賃は八万ちょい。後輩とシェアすることになっていたが、払える当てなど何もなかった。自伝的な小説『東京タワー』によると、就職をしない旨を告げた彼に父親、オトンはこう言ったという。

 「絵を描くにしても、何にもせんにしても、どんなことも最低五年かかるんや。いったん始めたら五年はやめたらいかんのや」
 
 彼の二十代は、借金を育て、引越しを繰り返した時代だった。
 中野時代に早くも生活費のためにサラ金の洗礼を受け、中野を追い出され、従妹のつてで下北沢へ。そこを追い出されたあとは自由が丘のある事務所を又借り。電気水道ガス全ストップ状態のまま暮らしたはいいが、家賃滞納と又借り発覚で、都立大学へ夜逃げ同然のリヤカー引っ越し(笑)。このころにはものすごくヤバイ金融屋さんもお金を貸してくれない体に。こうしたエピソードは、小説にもじっくりと書かれている。

 「自分で書き出してみるとすごい悲惨な生活で、将来が不安になりそうなんだけど、何の不安もなかったです。当時、何も考えてなかったから。たとえば、中野のとき、部屋で麻雀したりバイクに乗ったりしたのも追い出された理由だったんですけど、それに対して、すごい憤りを感じてましたね。すごい都会に住んでるつもりだったから麻雀ぐらいの街のノイズが気になる人は都会に住むべきじゃないって本気で思ってました。狂ってましたね」

 同級生や友達経由でたまにイラストの発注などはあった。でもそれでは「食う」にはほど遠く、借金は膨らんでいた。でも将来への不安はなかった。

 「考える暇なかったんじゃないですかね。今日食うこととか、今月返すことの方が重要で。そういうことばっか考えてると、将来に夢が持てるんですよ。少なくとも今よりは良くなるはずだって。まだ何にも始まってなかったから。何かが始まると天井が見えてくる。たとえば会社に入ったら、良くてこのくらいの感じだな、とか。何にもない人には、相当夢がありますよ」

 下北沢に暮らしていたのが、ちょうど二十中ごろ。麻雀ばかりやっていた。もっとも悲惨だったのがそのあとの自由が丘。

 「屋根はあったけど、ホームレスの方がまだちゃんと生活してたはず。ライフラインも確保してるわけですし。結局もう、そんな生活をしてると、周りに人がいなくなるんですよね。今、ニートの人とか増えてるのは、気力がないからだと思うんですよ。オレもめちゃくちゃ気力なかった。金もないし、バイトを探す気力もない。『家でごろごろせずに仕事探しなよ』って人は言うかもしれないけど、それができないからごろごろしてるんだって」

 何とか食っていけるなと感じたのは二十代暮れ。海苔会社の倉庫でバイトをしながらも、これもう辞めても大丈夫だな、と思ったという……ん、バイト? 実は、気力を取り戻していった過程に関して、記憶が曖昧だという。

 「奮起せねばっていうのは、なかったと思います。ただもうそのころぐらいで『働かないで家に金がない』っていう生活に飽きてきてるんですよ」

 仕事も少しずつ増え、エロ本や音楽情報誌での連載にくわえて、構成作家のバイトもし始めていた。「エロ本の五年分ぐらい」というギャラが大きかった。同じように大きかったのが、仕事に対する姿勢の変化。

 「自由を楽しんでても、もう何も楽しくなくなってた。ごちそうさまでしたって感じじゃないですかね。だから、たとえばラジオ局とかで、コイツつまんねえなって思うようなヤツとでも、一緒に仕事してる方がマシだったんですよ。何にもしなかったのは、きっちり五年でした」

 彼はイラストを描き、小説やコラムを書き、絵本を作り、ラジオでエロ話をし、テレビで寡黙な人となっている。いろんなことをしている。

 「でもコレをずっとやっていこうとは思わないんすよね。文章書き続けようとか、絵は絶対やめられないとかって、ない。二十五のときから、四十一になる今まで、仕事に対する考え方は変わってないと思いますね」

 ライターとして、生涯最初のインタビューはのりピーだったそうだ。このとき、仕事の面白さに気がついたという。カメラマンにやまさん(当時無職)、アシスタントにのりピーのファンであったという若き日の黒住光氏(現ライター)をブッキング。取材時、明らかにド素人だとバレていた、しかし。

 「オレらがその辺で摘んだみたいな花を新聞にくるんで『プレゼントです』って渡すと、ずっとひざの上に置いてくれるんですよ。何かをとるときにいったん下ろしても、またちゃんとひざに戻す。で、最後にサインくださいって言ったとき、彼女はあそこで延長コード巻いてる男もたぶんワタシのファンだわって、ひとことも声を発してないのに気づいたんですよ。それで彼の方につかつかと歩いていったと思ったら手を差し出した。貧しい子どもに手を差し伸べてるマリアさまですよ(笑)。そのとき彼はアディダスのカントリーっていうスニーカーを履いてて。ずーっと大学時代から履いてたんだけど、バイト先の工事現場のコンクリを吸って、グレー一色のなんかわからない靴になってたんです。オレたちはいっつも捨てろよって言ってたのになんでもいいからって履き続けてたんです。でも取材の帰りに、『生まれて初めて汚い靴を履いてることを恥ずかしいと思った』って。それからはイメルダ夫人みたいに靴を買うようになった(笑)。

 口で言っても聞きゃしない、そういう単純なことを人に教えてあげるのが啓蒙だと思うんですよ。

 そこに痺れましたね。仕事するのが面白いなって思ったのは、自分らが痺れたかったから。だからそのときのオレたちみたいに、ニセモノでもいいからいろんなことをやろうと思ったんです」

 
 自らをブラックジャックになぞらえる。イラストも写真も文章も、やることすべて無免許。その道のプロを名乗りはしない。そのかわり、プロ以上に良くしなくてはいけない。

 「そのプレッシャーはつねにあります。こんな長編小説とかを出すと、今後ずっとこういうものを書いていかれるんですかって聞かれるんですけど、全然そんなことはないんです。そういう意味では四十一歳にして、まだ始まっていないのかもしれない。五十歳ぐらいには、これから先、死ぬまでやることを決めたいというけれど、同時に「そのころには六十歳までにはって言ってそうな気がする(笑)」。

 バブル絶頂期に大学を卒業し、それでも何にもしないことを選んでここまで来た。彼は、全然状況の違う今の二十五歳に、こんなふうにいう。

 「脱線の道はあっても、軌道を戻すことは難しい。乗り遅れてる以上は、ホンモノとかエリートとか、世の中的な判断で、すばらしいとされるようなものになるのは無理だし、またそれを目指す必要もないんで。それを踏まえて、自分のやらなきゃいけないことを探した方がいい」。それは図らずも彼が踏んできたルート。あるいは、「みんなまんべんなく何とかなる」ともいう。

 すでに始めてしまった人にとって肝心なのは、死なないこと。やめずに続けること。

 「オレの友達のどんなバカでも、とりあえず何とかなってるもん。厚かましくてやめない人だけがプロになってるような気がするんですよ」と、卓上の電気グ○ーヴのCDを指差す。
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