たかが立て札の文句だが……
某病院の構内を歩いていると、つぎのような立て札が目に止まった。
「芝生をいためる球技等の行為は厳禁する」
この一文は、何となく変だと思った。「非文」とまではいわぬにしても、言いたいことと書かれたこととに論理的食い違いがあるのではないか。すぐに考えつくのは、それならば「芝生をいためない球技」ならやってもいいのか、といった解釈。こういった世間でよくいうヘリクツは、子どもだけの得意分野と思われがちだが、どちらかというと、大人たちが利己的に話を進めたいときに使われる足掬いの一種だ。
だが、まあ、日本語を正しく使えないのであれば屁理屈だと言えた能ではない。そもそも、足を掬われる方も未熟であり、言葉の綾ということばに尻尾を巻いて逃げるのもしゃくではなかろうか。そして、これが屁理屈であれば、日本語そのものに論理的欠陥があることになりはしないか。しかし日本語は決してそんな欠陥品ではないはず。頭に一文を書きとめて持ち帰ることにした。
ついでにいえば、いま私は上の「書きとめて」と書くとき、その前に「メモに残して」と書いていたが、書き直した。それを「書きとめて」と書き直したのは、なにも「メモ」というような外来語を使う必然性がないと思ったからだ。「メモ」についてこのときそう思ったことの遠因は、中学の道徳授業での「よりあいのかきとめ」という講義にある。これをアメリカ合衆国の植民地風にイギリス語で表現すると「ミーティングのメモ」であろう。このごろ「ミーティング」などという植民地用語が広まりだしたが、私の師はこれを「家畜語」と呼んでいる(笑)。しかし古くからの幅広いヤマトコトバとして「よりあい」(寄り合い)という実に的確な単語があるのだ。我らが故郷でごく日常的に使われていた。なぜこれを追放して「ミーティング」などという長たらしくて発音しにくい家畜語を使うのか。日本語にない言葉ならまだしも、あるのにそれをやめて家畜語を使おうというこの哀れな民族に対して、右翼は「民族的危機」を感じないのだろうか、と某氏は辛辣に述べたが、これは事実である。
① 芝生をいためる球技等の行為は厳禁する。
これを「厳禁する」という述語にかかる修飾成分として化学構造式風に分解すれば次のように。
芝生をいためる→
② 行為は→厳禁する。
球技等の→
修飾語は物理的に長い方を(あるいは節を)先にする、という原則からすればこれはこれで正しい。「芝生をいためる」も「球技等の」も平等に「行為」にかかるからである。だが、にもかかわらず、なぜ誤解を生ずるのか。それは「芝生をいためる」が「行為」にかかるはずなのに、このままだと「球技等」に直接かかってしまうからである。つまり次のような関係にとられるのだ。
③ 芝生をいためる→球技等の→行為は→厳禁する。
これは次のような例で考えるとわかりやすい。
④ 小さな子どものプール。
これは果たしてつぎのどちらなのか。
⑤ 小さな→子どもの→プール。
小さな→
⑥ プール
子どもの→
こういう問題はなにも日本語だけのことではない。いわゆる生成変形文法はこうした問題を突っ込んでいったものであろう。④の例についていえば、もし書き手の意思が⑤であるのであればこのままでいい。つまり④のように書けば、⑤と解釈される(解釈されなければならない)。もし⑥の意味に解釈してほしければ、誤解されぬために語順をひっくりかえす。
⑦ 子どもの小さなプール。
「子どもの」が「小さな」を修飾することは文法的にありえず、「プール」にかかることが明白なので、誤解されるおそれはない。全く同じことが冒頭の一文①にもいえることになる。すなわち語順を逆順にして―
⑧ 球技等の芝生をいためる行為は厳禁する。
とすれば誤解されることはない。
これで論理的問題は終わったが、しかし公表する立て札としてこれではあまりいい文(感じのいい文)とはいえない。「球技等の芝生……」は、論理的には正しくても、「球技等」と「芝生」を「の」でつなぐことによって親和度がはたらき、それだけ読みにくくなる。だから「の」をとって―
⑨ 球技等芝生をいためる行為は厳禁する。
これだとしかし漢字ばかりつづくことによる読みにくさが加わるし、もともと外国語としての漢語は、できればやめるほうがいい。そこで「等」を「など」にしてみる。
⑩ 球技など芝生をいためる行為は厳禁する。
実は⑧から「の」をとったとき、一字の違いとはいえ修飾関係が変化している。つまり②はどちらも「行為」にかかるが、⑨や⑩はつぎのように「は厳禁する」にかかる。この点でも論理的によりすっきりする。
球技など→
⑪ は厳禁する。
芝生をいためる行為→
それにしても「厳禁する」とはいかにも傲慢で悪代官的な、この非民主的天皇制後進国にふさわしい「反国際化」的表現ではないかね、ワトソン君。私がまだ幼いくそがきなら、この立て札の場所でわざと球技をやる可能性がある。これは―
⑫ 球技など芝生をいためる行為は禁ずる。
で充分であろう。
ところで、さきに「論理的問題は終わった」としたが、厳密に考えるとまだ終わっていない。それは係助詞「ハ」の使い方である。たとえば―
⑬ この川で泳ぐことは禁ずる。
そうねえ……泳ぐこと「は」禁ずるが、歩いて渡ること「は」いいのね。つまり係助詞「ハ」は、題目語として格助詞「ヲ」を兼務する役割のほかに、対照(限定)の役割があるので、このような解釈も可能になる。だから⑫は、たとえば「古本を並べて売る行為は禁じない」というような対になっている別の内容がかくされていると解釈することも不可能ではない。この誤解を防ぐために、法律用語などは「ヲ」の兼務を解いて「……ハ之ヲ禁ズル」と二つの助詞に分けたりしている。この立て札の場合、そんな面倒なことをしなくても単に「ヲ」を使えばすむ。
⑭ 球技など芝生をいためる行為を禁ずる。
以上。
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