忍者ブログ

ALTEREGO

カテゴリー「diary」の記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


トマト

 冬を乗り越えて固くなってしまった土をほぐし、栄養土を注ぎ足して、買ってきたポプラ然のトマトを鉢に移す。
 小さな世界しかしらないポプラトマトは、小鉢よりさらに広がった大鉢という新しい世界に、何の疑いもなく根を広げ、与えられた任務をまっとうするかのごとく凛として葉を広げ、空を仰いでいる。
 水をやる。
 日がかなたの稜線に沈みかけた午後だ。季節感のない四月が終り、意味もなく日の入りは長くなり、光合成をする時間も長くなった。彼らのような植物にとって、昼に光合成をするのが生きるということなのか、夜に呼吸をするのが生きるということなのか、人間の私たちにとってそれは分からない。昼も夜も生きているだろうという声が空からふってくる。空という名の浅ましい経験の海が、へのへのもへじの顔つきをした人間まがいの人形へと形を変え、それらが口々に言う。生きてるっしょ。
 仕事かプライベートかどっちかに生きるとうたう人間に、植物の生き方の何が分かるというのだろう。そこに土と水と光があるなら果てのない空を目指して伸びていくし、何かが欠けるというのなら、それに抗うことなく枯れていく。川の流れのように、環境に、状況に、逆らうことなく従う彼らに、運命にひたすら挑戦を挑み続ける人間が、いったい彼らの何を語るというのだろう。
 葉についた水滴が滑り落ち、土に染みこんでいった。
 真夜中に水をやる。
 暗闇のなか、産毛に似た繊毛が水を纏い、黒い光を反射している。おまえは、こういうのが好きなのだろうと、ばかにする生意気な声が錯聴する。それ以上余計なことを言うと二度と飲ませてやらないと言わんばかりの意志を含め、だまれよ、と湿めっぽく言うと、ポプラが押し黙る気配がした。愉快だった。
 自分にとって、夜は頭がそれなりに動く世界ではあるが、当然のごとく植物はそれに対し意見をしない。意見を持ち得ないはずであるのに、しかし彼らの葉は光合成をする昼のときのごとく、はずかしげもなくけったいな生命力を誇示している。たとえばバツイチの女と未成年の男との情事、たとえば老婆の部屋の暗闇に息づく膨大な時間の流れ、たとえば仕事と家の充実に満足できない絡み纏わりついてくる過去。すべてが生きているのだと暗に訴え、せせら笑うようでもある。
 携帯で写真を撮る。
 ちっぽけなポプラは近い将来、実を育むことを予知しているだろうか。真っ赤にきらめき張りのある、カラスからしてみれば魅力満載の、生命力あふれた羨望そのもののご馳走を、この先無防備に咲かせてしまうことのその覚悟を、等身大さながらしているだろうか。そして、覚悟などしないのだと彼らはほのめかす。同種族の例外はなく、川の流れのように、その実はみごとにはらんでいく。毎年くりかえされるルーティンワークのように。
 問う。本当に、きみたちは例外はないのかと。わたしたちは、やっぱり違う生き物であって、違う路線の上を走っていて、「生きる」上での意見や姿は、何の参考にはならないのかと。答えは返らない。
 もし、その実が金色に育ち、その実が月の輪に姿を変え、その実が花を咲かせるのであれば、おまえは何かわかるのかと訊かれれば、どうするのだろう。問われないことをいいことに、堂々とポプラに向き合っていることと、不安に背を向けていることとをすりかえていることに気付いてしまう。
 まあ、またおいでよ。水を持って、一日二回、俺に会いにきな。相手をしてやるからさ。
PR

猿婿入り

 どうして私、こんな男と結婚しちゃったんだろう。ときどき、そう思う。
 あなたはそうやって、「贅沢だ」って笑うけどね。想像してみてよ。狭い部屋にサルみたいな顔の男と二人っきりで、窓から見える景色といえばただの真っ暗闇で、サルは今日一日に研究所であった出来事とかをひとしきり話して、それからおずおずと、「そろそろ寝ようか」って言うのよ? 息が詰まる。
 だいたい私、サルにだまされたのよ。
 真夜中に私のアパートに来てさ、「この花をきみに」って、水色の百合を腕いっぱいにくれて。
 「ぼくが開発したものなんだよ。もう少しで、梅の花の香りがする桜も完成する。咲いたら、またきみに一番に持ってくる」
 受け取った百合は花粉が金色で、花弁はセロファンみたいに薄く透けていた。
 サルは、出来たばかりの花を私に渡すために、タクシーを飛ばしてきたみたいだった。髪の毛はべっとりしてて、眼鏡なんて脂で曇ってるぐらいで、足元は毛玉の浮いた靴下に健康サンダルをつっかけてた。「ありがとう、じゃあね」ってドアを閉めたんじゃ、あまりにも冷たすぎるかしらと、仏心を出したのが間違いのはじまりよ。
 「上がってお茶でも飲んでく?」
 と訊いたら、サルはすごく嬉しそうに、顔を真っ赤にしてうなずいた。そしていそいそと居間のテーブルについたんだけど、サルが歩いたあとには、フローリングに点々と蒸気みたいな足跡がついたわ。すんごい脂性っていうか、蒸れ症っていうか、とにかくサルの足は凶器に近いの。
 それで私、「シャワー浴びたら」と提案した。べつに深い意味なんてなくて、真夜中に不潔たらしい男にお茶なんて出したくなかったから。
 私はサルに、着替えを押し付けたわ。「はい、これ。浅田くんの服で悪いんだけど」って。サルはオリーブオイルを垂らしたトマトみたいになって、ぎこちなくバスルームに消えた。
 いえ、残酷なんかじゃないわよ。頼まれもしないのに、浅田くんと別れてからも周りをちょろちょろと動き回ってるのはサルのほうなんだから。ふつう、友達の元彼女となんて疎遠になるものでしょ。それなのにちょろつくからには、はっきりさせたほうがいいと思ったの。「私はあんたのことなんてなんとも思ってないし、まだ浅田くんのこと忘れてないから」ってさ。
 こっちの言いたかったことが、サルに伝わったんだかわからない。とにかくサルは、ちょっとはさっぱりしてバスルームから出てきた。浅田くんのシャツはサルには大きかったみたいで、哀れなぐらいに貧相さが際立ってたけれどね。
 私はそのあいだに、お湯を沸かして、コーヒーをいれて、それから百合の花を足浴用の洗面器にいけた。しょうがなかったのよ、そんな大物を挿すような花瓶なんて部屋になかったし。
 サルは、洗面器に入った百合が台所の床に置かれてるのを見ても、べつに不満そうでもなかった。また居間の椅子に座って、「いただきます」とコーヒーをちょっとすすったわ。私はすでに、「もう帰ってくんないかな」と思いながら、サルの向かいに座ってた。
 サルも私も、話すこともべつになくて、ずっと黙っていたんだけど、そのうちサルが顔を上げて私を見た。
 「これからぼくが言うことに、『うん』って答えてほしいんだ」
 「いやだ」
 と私は言った。
 「いやでも頼むよ。友だちだろ?」
 「いつからよ。あなたはただの、別れた男の友人。私にとっては、いまやむちゃくちゃ遠いつながりだよ」
 「きみはどうして、そんな遠いつながりの男を夜中に部屋に上げて、シャワーまで使わせるんだ」
 と、サルは珍しく反撃してきた。「前から思ってたけど、きみはちょっと隙がありすぎるっていうか……。そんなだから、浅田みたいな男に引っかかって泣くはめになる」
 「余計なお世話」
 と、私は憤然として言ったわ。「浅田みたいな男、って、あんたその浅田と友だちじゃないの。なに言ってんの」
 「ぼくは浅田と愛を囁いたり囁かれたりする間柄じゃないから、あいつがどれだけろくでもない男でもべつに関係ない」
 「私だって、愛を囁いたり囁かれたりなんかしなかったわよ!」
 「そうなの?」とサルは言った。「殺伐としてたんだなあ」
 愛の言葉なんてなくても、私たちはしっかりいってたんだと説明するのもバカらしくて、私は心のなかで、「死ねサル」と百回ぐらい唱えた。
 「明日も仕事でしょ。もう帰ったほうがいいんじゃない」
 「まだ話が終わってない。というか、はじめられてもいない」
 「早いとこはじめて、ちゃちゃっと終わらせてよ」
 「ぼくもそうしたい。だから、これからぼくが言うことに『うん』って答えてほしいんだ」
 真っ白くて細い蛇が胃のなかでのたくってるみたいに、むかむかしてきた。
 「その前提条件を変えて。話が前に進まないじゃない」
 「わかった。きみはなにも言わなくていい」
 とサルは言った。「なにも言わずに、ぼくと結婚してくれ」
 三本の箸を一膳と数える国の人と食事をともにしたって、あんなに呆気に取られはしなかっただろう。言葉が出なかった。
 「な……な……」
 「うん、何も言わなくていいよ」
 とサルは言った。「実はぼく、もうきみとの婚姻届を提出しちゃったんだ」
 「なにそれ!」
 私は驚いて、テーブルを力任せに叩いたわよ。「そんなの私、書いてない!」
 「きみ、自分の欄を記入した婚姻届を、浅田に突きつけたことがあるだろう」
 たしかにあった。「そういうの、やめたほうがいいな。せめて別れるときに取り返すべきだ。浅田が『いるか』って訊くから、『いる』って言って五万で買っちゃったよ」
 「ろくでもない」
 「まったくだ。ああいう男には気をつけないと……」
 「主にあんたのことを言ったのよ!」
 詐欺みたいねって、まさに詐欺だったんだってば。言ったでしょ、サルにだまされたって。
 私は必死に、そんな結婚は無効だと主張したわ。だけどサルは、半分ぐらいに減った冷めたコーヒーに、いまさらいくつもミルクを入れながら、
 「でもねえ」
 と言うのよ。「無効だと証明するのは、なかなか面倒だと思うな。婚姻届はきみが書いたものに間違いないんだし、ぼくと浅田とのあいだで金銭の授受があったことを証明するものはなにもないし。とりあえず、ぼくと結婚しちゃえばいいと思うよ」
 「とりあえずもくそもないわよ」
 私はほとんど泣きそうになってた。「なんであんたと結婚しなきゃならないの」
 サルは腐った泥水みたいな色になったコーヒーを飲み干して、つらそうに顔をしかめた。
 「とりあえず、って言っただろ。詳しいことはまだ言えないんだけど、ぼくは今度、転勤することになった。それがちょっと遠い場所でね。ぼくはそこに、ぜひともきみをつれていきたい。一緒に行きたいんだ」
 「どうして」
 「きみが好きだから。とても、すごく」
 コーヒーカップを支えるサルの指が、ぶるぶる震えていた。「ぼくは珍しくて美しい花を開発するのが仕事だけど、きみがいなければその仕事には意味がない。全部、きみのための花なんだ」
 そんなことを頼んだ覚えはないと思ったわ。全部、「私のため」とサルが勝手に思ってやってるだけのことじゃないの。私には関係ない。
 だけど、サルはとっても真剣な顔をしてたし、私もそろそろ結婚したいなと思ってたのに浅田くんとは駄目になっちゃったし、転勤についていってしばらくしたら別れてもいいってサルは言ったし、それならまあいいかなと思って、結婚することにしたの。
 もうずいぶん昔の話。
 サルがくれた百合の花が、台所で金の花粉をさらさらとこぼしていた。

 あなたも知ってのとおり、サルの転勤先は、ちょっとどころじゃなく遠い場所だったわけ。
 環境が激変した、なんていうレベルじゃなく、私は今度こそホントに呆然とした。
 こんなに閉鎖的な空間で暮らしたことも、こんなに巨大な集合住宅で暮らしたことも、いままでなかったんだもの。
 窓の外にはいつも、朝なのか夜なのかわからない暗い空間が横たわって、広がっている。玄関のドアを開けると、集合住宅の中庭には、一年中のべつまくなしに花をつける桜の木がたくさん植わっている。
 あれ、実はみんな、サルが植えてるものなのよ。香りは、梅というよりもバナナに近い。「きれいだからいい」って、住民に好評だからよかったけど。年がら年中、空気がバナナのにおいになっちゃって、私はちょっと辟易してるわ。
 サルはいつも余計なことをする。桜は強い香りがないから、いい花だったのに。
 そう思わない?
 サルが作った桜は、実をつけない。ここには実を食べる鳥がいないから。花びらは散ると空中で淡雪のように溶けて、決して地面に積もらない。ここにはゴミを埋め立てるための土地がないから。
 なんてさびしい花を、サルは作ったんだろう。
 鳥も土地もない場所で暮らす日に備え、サルはずっとずっと、そういう環境に適合する花の開発だけを続けてきたんだって。
 「過酷な条件下でも育つ米や麦の開発は、いろんなひとが手がけてきた。だけど、食べ物があったって花がなければ、なかなか快適には生活できないだろうと思ってね。競合相手があんまりいなかったおかげで、ここへ来られた。そのうえ、きみもついてきてくれたし、ぼくはいまが一番幸せだな」
 「もう二度と帰れなくても? ここでずっと、私の不機嫌面を見ながら過ごさなきゃならなくても?」
 私がそう訊いても、サルはにこにこ笑っている。
 サルはとても優しい。同じベッドで目が覚めて、隣で眠るサルの顔を見て悲鳴を上げそうになるときもあるけど、あとは特に不満もない。
 仕事に出かける前に、サルは必ず私に、
 「今日は何時ごろに帰ったらいいかな」
 と訊く。一人でいたくないときや、食べなきゃならないおかずが溜まってるときは、
 「なるべく早めに」
 と私は答える。サルの顔をあまり見たくない気分のときは、
 「帰ってこないで」
 と言う。そうするとサルは研究所に泊まって、私が迎えにいくまでいつまでも戻ってこない。
 私になるべく、いやな思いをさせたくないんですって。
 私が退屈していると、週末にはドームの端までつれてってくれる。そこにはサルの勤務する研究所の温室があって、扇ぐとチリチリと音を出すスズランや、壊れた蛇口みたいに澄んだ水滴を垂らすホタルブクロや、銀色に発光するクチナシやらが咲いている。温室内に充満する空気ときたら、トロピカルフルーツの集合体みたいに濃くて甘い。
 サルは一月にいっぺんは、
 「ぼくとの生活が苦痛だったら、すぐにそう言ってくれ」
 と言う。
 「私が苦痛だと言ったら、あなたどうするの」
 「きみの前から消える」
 「それって脅迫じゃない」
 「脅迫なんかじゃない。ぼくは決意を語っているだけだ」
 サルと私はそんなふうにして、けんかしたりしながら毎日を暮らす。

 ねえ、ねえ、これは惚気じゃないんだってば。お願いだからちゃんと聞いて。私、こわくてたまらないのよ。
 サルは私を愛していると言う。
 最初はそんなの、迷惑以外のなにものでもなかった。一緒に暮らしているうちに、たしかに愛着も少しは湧いてきた。
 だけど私はやっぱり、サルを愛してなんかいないのよ。ただ、一人になるのがいやなだけ。こんな、知り合いもろくにいない場所で、一人でなんて生きていけない。だから、サルと一緒にいるだけなのよ。
 それで言うなら、私は浅田くんのことだって、べつに愛してなんかいなかった。いまになって、よくわかる。
 サルの私に対する献身、気づかい、サルが私に寄せる心情を、愛というなら、私はこれまで、だれのことも愛してなどいなかった。
 生まれた場所を遠く離れて、それでも「この人だけは離せない」と思うような相手なんて、私にはいなかった。
 親も兄弟も友人も捨てて、重力や生まれ育った場所を振り払って。サルは愛だけを推進力にして、自分に必要なものをすべて手に入れた。
 だけど滑稽なことに、サルが愛をささげる対象である私は、からっぽなの。
 地球は、どうなったかしらね。
 サルは選ばれて脱出ロケットに乗った人間だけれど、私は違う。ただサルの熱情に押し切られて、気付いたらこんな場所までつれてこられていただけ。
 私は、サルがいつ、盲目的な愛から醒めて、私のなかの空虚に気付くのだろうかと思うと怖い。はじめから気付いていたのだとしたら、それでもなお、どうして私に愛の言葉を囁き続けられるのだろうかと思うと。
 サルの愛は、私を縛る鎖だ。私を縛り、断崖からぶらさげて、喪失の恐怖を煽るような愛だ。
 私はもちろん、サルにそう言った。サルは笑って、
 「きみはまた、面倒なことを考えるね」
 と言った。「ぼくはたしかにきみのことを愛してるけど、それはぼく自身の満足のためでもあるんだよ。きみもきみ自身の満足のために、好きなようにしたらいい。ぼくを愛するもよし、ぼくを愛さず、ただ一緒に暮らすもよし」
 サルの指先は、そのときも震えていた。震えながら、でもそれを私に気取らせないようにコップをつかみ、合成麦芽ビールを飲み干した。
 その後、サルは研究所からこの電話機を持ってきた。
 「カウンセリングロボット直通回線だよ。環境が変わってストレスを訴える人が多いらしくてね。隣の部署が開発したんだ」
 って。
 あなた本当にロボットなの? へえ、そう。サルなら案外、ボイスチェンジャーでも使って、私からの電話を自分で受けそうな気がしていたんだけど。
 おかしいわねえ、おかしなことを考え付くひとがいるもんだわ。ロボットに悩み相談だなんて。
 もうすぐサルが、「そろそろ寝ようか」って声をかけてくるころだ。今日はおしまいにしましょ。
 サルと私は眠る前に、「おやすみ」を言い合う。おやすみを言うたびに、私はいつも少し不安になる。
 本当に明日、私たちはまた目を覚ますのかしら。眠っているあいだにドームに穴があいて、サルと私は別の夢を見ながら、ちりぢりに宇宙に吸い出されてしまうかもしれないじゃない。そうしたらもう、隣で眠るサルの顔には、二度と会えなくなる。
 なあに、あなたどうしてそんなに嬉しそうに、「そういうのが愛だ」って言うの?
 でもまあ、そうね。そのほうが、私も救われる。
 私たちはこうやって、きっとずっと一緒に暮らしていくんだわ。直径五キロの小さな小さなドームのなかで、むせかえるような花のにおいに包まれて。
 またかけるね。おやすみなさい。

あの時

 あの時、私と春は生まれてはじめて、競馬場に行ったのだ。父が長期で出張に行っている時期で、のんびりと過ごす日曜日に何を思い立ったのか、母はソファで横になる私たちに、「馬でも見に行っちゃおうか?」と微笑んだ。微笑まれても困る、と私は思った。
 母は颯爽とジーンズを穿くと、私たちをカローラに詰め込み、出発をした。彼女の行動力は瞠目に値する。二時間かかって競馬場に到着したが、その競馬場という未知なる空間は、私の好奇心を刺激し、同時に不安感も与えた。シャレた建築物があるわけでもなければ、軽快な音楽がかかっているわけでもない。コンクリート剥き出しの、やけにぶっきらぼうな会場だった。誰もが不機嫌な顔をしていたが、とにかく騒がしかった。会話というよりも、ただ、歎息と独り言の充満、そういう喧騒ばかりだった。
 当時の競馬場では、母は明らかに場違いだった。スタンド席から、一周千六百メートルのコースを見つめる彼女は、咲くべき場所を誤った花のように目立っていた。
 相変わらず、犬のように鼻をくんくんと鳴らす春は、「馬かな、馬かな、そろそろ馬が来るかな」と落ち着きがなく、それははじめてサーカスの見物に行った時と同じ反応だったが、とにかく、コースに馬が入ってくるたびに、立ち上がって手を振った。母は入り口で買ってきた競馬新聞を広げて、「若い頃はよく来たのよ」と少々自慢げでもあった。
 母はあまり検討をしないタイプのようだった。
 最初のレースは、新聞に載っている予想の真似をして、外し、次は私たちが口にした好きな数字を組み合わせた番号を買って、やはり外した。外れはしても、レースは楽しかった。応援すべき馬の色と、騎手の帽子の色を教えてもらい、その色が来るように飛び跳ねて応援した。
 やりはじめて、四レース目だった。母の隣に男が腰掛けていた。
 「調子はどうです?」馴れ馴れしい口調で話しかけてきた。あれはまだ二十代の男性だったのかもしれない。
 「全然。勝てないですよ」母が自然に返事をした。
 「弟さんたちの子守ですか?」男は、私たちを母の弟だと決め付けた。
 息子ですよ、と説明すると、彼はひどくびっくりしてみせた。がっかりはしなかった。本心なのか、お世辞なのか、分からない反応だった。
 その男は、ビールを飲んでいる他の中年男たちに比べれば、はるかに見てくれが良かった。背筋が伸びていて、肌も綺麗だったが、ただ、その外見のよさを自覚しているような嫌味も含まれており、何か気障な人だと、私は思った。女性の扱いに慣れている男だったのかもしれない。母は儀礼的に笑い、素っ気無く振舞った。
 「次のレースは何を買われるんです」
 「わたし、子供と楽しんでいるので」母が、やんわりと言った。「子供」という単語を強めに発音したのだろう。ただ、その口ぶりは、男を刺激する色気を持っていたのだと思う。
 「そう邪険にしないでくださいよ」
 母が露骨に、嫌悪を顔に出した。私は事態が飲み込めず、男を追い払うべきなのか判断が下せなかった。ただ、おろおろとしていた。その後、何がどういう流れだったのかよく覚えていない。とにかく男が、「なら、賭けましょうよ」と言い出したのだ。
 「さっきから賭けてるの。ここは競馬場だし」
 「だから、お金以外のものもですよ。俺と勝負するんです。二人で一点ずつ買って、来たほうが勝ち」
 「勝ったら、いいことがあるわけ」
 「俺が勝ったら、この後、デートだね」
 彼は、子供がいたところで寝かせるなり何なり、どうにでもできると高をくくっていたのかもしれない。いかがわしいものを感じて、私は落ち着かなかった。
 「わたしが勝ったら、どうするの」
 「大人しく去りますよ。二人とも外れたら、賭けは次レースに持ち越しましょう」
 身勝手なルールだ。母には得るものがまるでないし、どちらかが当たるまでは男は居座るつもりなのだから、実質は、デートの強要に近い。ところが、母は快諾した。新聞を睨みつけていたかと思うと、顔を上げ、「オッケー。やろうじゃないの」と応じた。私は目を丸くした。たぶん、提案した男も同様だった。
 「次は自信あるから」と母は微笑んだ。
 男は目を輝かせ、「決まり」と手を叩いた。
 七頭立てのレースだった。母も男もそれぞれ連勝複式馬券を、千円分、購入した。
 「一点だけですよ。何枚も買っていて、当たった馬券だけ取り出すというのは、なしですよ」男はやけに細かいことを言って、お互いの馬券を事前に見せ合った。慣れた進め方だった。このゲームは、はじめてではなかったのかもしれない。
 男はがちがちの本命馬券を買っていた。私はそれを見て、「大人気ないな」と感じずにはいられなかった。
 一方で、母が購入したのは、万馬券だった。
 「こんなの絶対来ないですよ」男は同情する目になった。「もしかして、わざと負けたがってるんでしょ」
 私と春は、行われているやり取りの重大性は把握できていなかったが、それでも、自分の母親がひどく分の悪い勝負に巻き込まれていることは分かった。負けるとそれなりの不幸がやってくるに違いない、と感じ取ってはいた。
 「お母さん、大丈夫?」
 「春、見てなさいって」
 出走前のファンファーレが鳴った時、母が震えていることに、私はようやく気付いた。意外だった。余裕のある顔をし、おおらかに構えている母が、どうして震えていたのか。今ならば分かる。母は隣にいる男に恐怖を感じていたのだ。特別に、その男が悪人だったわけではない。むしろ、ごく普通の男だった可能性もあるが、けれど、強姦に遭遇した経験は、人の想像を越える強烈な恐怖心を、母に植え付けていたはずだ。
 あの時、母は戦っていたのだ、と思う。おびえてしまう自分を叱咤し、苦々しい過去と立ち向かうために、たぶん、無茶な賭けに乗った。きっとそうだ。
 馬が一斉に駆け出した。
 褐色の馬たちのだく足は迫力があった。地響きがスタンドにも伝わってくる。七棟の草食獣が力強く突き進む。蹄で土をつかんでは、突き放す、そういう勢いだった。
 リズミカルに地面を蹴り上げる馬を見つめていると、これで地球は回っているんじゃないか、とそんな気になった。目の前の七頭の馬の蹴り足で、地球は回転しているんだ。きっとそうだ、と。
 あっという間に、レースは後半に入っている。目で追っている限り、応援すべき白色と赤色の帽子は、それなりに健闘していた。
 第三コーナーまでは絶望的などん尻を走っていたのだが、最終コーナーが近づくにつれてじりじりと順位を上げた。私たちの期待を煽るかのような、じわじわとした、確かな追い上げを見せた。
 全党がほぼ横一直線に並んだように見えた。残るはゴールまでの直線だけだった。すると、そこで二頭の馬が速度を落とした。まるで、走ること自体に飽きたかのような失速だった。
 隣の男が勝利の声を上げた。遅くなったのは私たちの馬だった。母の身体に力が入るのが分かる。春が母の顔を見上げた。純粋の子どもの顔だった。強姦した男の顔とは似ても似つかない、母を思う顔だった。春がレースを振り返ると、大きく息を吸い、目を強く閉じた。
 その時だった。
 先頭を走っていた葦毛の馬が転倒した。
 「あ」と声を上げたのは、おそらく私だけではなかったはずだ。スタンド中の馬券を握り締めた客全員が、その瞬間だけは心を一つにしてこう叫んでいたと思う。
 「嘘だろ」
 後続の馬たちがそれに引きずられて、コースを逸れる。その間隙を縫うかのように、栗毛の馬が二頭駆け抜けていった。白と赤の帽子。私たちのための馬が、私たちのために、勢いよくゴールした。
 母は立ち上がり、私と春は子供らしく万歳をした。
 周囲で落胆と怒りの声が交錯する中、私たちだけがはしゃいでいた。
 「見た?」母は勢いよく隣の男を指差した。とても様になっている恰好だった。「わたしの、勝ちよ」
 男は心底、レースの結果に驚いていたのかもしれない。新しいルールを持ち出すことも、もう一回、と粘りを見せることもなかった。首を傾げ、弱弱しく笑い、馬券を破くと、姿を消した。
 私たちはその場に残り、三人で喜びを分かち合う。
 「絶対、来ると思ったのよ」母は興奮覚めやらないまま、新聞を開いた。
 私と春は顔を寄せ、自分たちが応援した馬の欄を見た。予想欄には二重丸も三角もついていない。何らかのサインがついているほうが良い、という程度の知識はあったので、私は呆れてしまった。
 「よく当たったね」というよりも、あの転倒事故がなければ、完全に負けていた。
 「名前、見て」母が笑った。「一枠がイズミオーシャンで、三枠がコハルクイーンでしょ。イズミとハルよ」
 「本当だ」春が嬉しそうに顔を崩した。
 「それが理由なの?」拍子抜けした。「それであんなに自信満々だったの?」
 母は私たちの髪の毛をくしゃくしゃと触った。「あなたたちに賭けたの」そして、もう一度、コースを見つめてから、「絶対、来ると思ったのよ」と呟いた。「あなたたちは必ず、一緒なんだから」
 「お兄ちゃんが一位で、僕は二位だ」
 そこで、どよめきが起きた。配当が表示されたのだ。いくらだったのか覚えていないが、万馬券には違いなかった。当たり馬券を握り締めた母が、目に涙を浮かべていたのは、きっと配当金のせいではなかったのだろう。
 その涙の奥にある湿り気が、母として、子を愛し通す義務を守り遂せた充実感を表していた。あの強姦で春を身篭り、産むと決心した夫との判断は、間違いではなかったのだ、という嬉しさが顔に満ちていた。と思う。
 にやにやしながら新聞を見ていた春が、急に困った顔になり、顔を上げた。
 「おかあさん」
 「なあに、春」
 「このさ、六番目の馬の名前って、ハルカゼダンサーって言うんだね。何で、こっちじゃないの?」
 「え」母は慌てて、新聞に顔を寄せた。そして「あら、やだ、気付かなかったわ。この馬にも『ハル』ってついてたのね」
 「もし気付いてたら、こっちを買っていたかも?」私は引き攣りながら言った。
 「買ってたかも」母はのほほんとした声で言った。「その馬の名前、完全に見落としてたわ」
 「結果オーライ」という言葉を教わったのは、たぶん、あの時だ。

 Have a Nice Day.

 中学の終りに殴りこみに行ったNYのブロードウェイミュージカル。ラッシュチケットが利用できるのは英語表記の学生証のみで、うまくいけば80%OFFという値段で買える(当時大体10ドル位)のだが、初めは諦めていた。だが当時の保護者が何をどう手引きしたのか知らないが、すんなり人数分、同僚6人分を用意してくれた。
 ガキに見られないようにできるだけめかしこんでいけよ、という彼の言葉で私たちは前日にホテルでじたばたした。必要以上に饒舌な彼らは意識的に何かを感じ取っていた。二度と会うことがないかもしれないという恐れを払い拭うだけの、単純なその場凌ぎではなかった。
 物騒な土地だけに、垢抜けない子供6人を連れて歩くのは普通の人間ならばうんざりしただろう。緘黙症や乖離症や人間不信やノイローゼ、おまけに思春期真っ盛りの問題児たちをNYに連れていくことは無謀だと幼いながらも思ったが、今改めて考えると、それもアリかと、そこまで危ない橋渡りではなかったような気がする。防衛本能を直接的に刺激すれば、どんな間柄でも連携は生まれるのだ。
 知らない世界に知らない真実があり、新鮮と戦争が入り混じったダウンタウンは、表も裏も手に汗握る景色の連続だった。赤と青と黄色で世界は成り立っているのだと初めて知った。裏道に一歩踏み出せば、麻薬が売られていた。昼には気付かなかったが足元を見ると、どこから流れてくるのか分からない黒い水がマンホールに向かって流れていた。夜だけに見られるありったけの現実が顔を出した。折れた注射器が転がり、生きているのか死んでいるのか分からない人間がレストランの裏口で横たわっていた。高級レストランの厨房スタッフがゴミ捨て場に何か物を投げ、浮浪者と野良犬が集った。道中でビラを配る人間がいたがそれを警戒し避けると跡をつけられた。親しげな老人に「旅行か」と訊かれ適当に答えると頭を撫でられた。答えたのは緘黙症の子だった。レコードを持ち歩いているダメージデニムを穿いた黒人の若者が、黒スーツを着こなした白人と詰り合っていた。信号が忙しなく点滅し、どこからかラッパのようなクラクションがこだまし、悲鳴にも似た叫び声が聞こえた。新聞や雑誌をめくる音が聞こえ、オープンカーの音漏れが聞こえ、カジノのスロットが流れるような音が聞こえた。鼻をつんざくようなアンモニア臭が錆びれた店先から流れ、男を誘惑するような柑橘系の香水をパーカー姿の女性が振り撒き、脂っこいジャンクフードの匂いが屋台からした。イベントのサンタクロースが風船を手に徘徊し、カップルが腕を組みながらじゃれ合い、大通りから枝分かれする小道の間で少年たちが壁にスプレーを掛けていた。これが、夜というものだった。
 「俺から離れるな、なるべく人ごみの中を選んでそれでも距離をはかれ、人の目は見ずに喉元を見ろ」と言った彼の言葉は、日本でたびたび使われる「気をつけて行ってらっしゃい」という儀式的なそれとは違い、生をむき出しにした土地での実用的アドバイスだった。亀裂を作り、生き急ぎ始めたメンバーの誰もが、懐かしい連帯感のリズムに高揚していた。肩を組み、腕を組み、服を掴む彼らの表情に、仲良しこ良しはなかった。生にしがみつき、利用できるものは何でも利用し、生き延びる覚悟を認識した顔だった。掴んだ人間を盾にするつもりも、自らが進んで盾になるつもりもなかった。眼前に闇が来るならば、群れを成して飲み込もうとする、それ以上の闇を用意していたようでもあった。その中でただ一人、闇に乗じないのが、保護者の彼だった。
 「キャストを見てごらん。8人いるだろう」
 舞台の最中、彼は台詞を翻訳しなかったが、シーンが移るごとに簡単な問いを投げかけた。それはまるで現代国語の問題集の中で使われるような、「彼が彼女がそう言ったのはなぜでしょう」という簡単で至極難題な問いだった。RENTのパンフレットは事前に渡され、バックグラウンドだけを勉強しろと言われたので頭に叩き込んであった。内容に一番戦慄が走ったのは私だったかもしれないが、同僚は互いにとりわけ他人行儀になるわけでもなく、雪がさんさんと降る当日を迎えた。朝から昼へ、昼から夜へと変わる世界を、少しずつ、役割を担ったさまざまな顔が街中に現れていくのを見守った。
 冬場のブロードウェイの寒さは熾烈で、温め合うように互いの肩を寄せ合い、手を握り合った。誰に言われたわけでもなく、一人一人が入れ替わって暖を取り合うその行為は、お互いの存在を確かめ合うためのもののようだった。立ち見席だったが見晴らしは良く、NY特有の粗雑さは館内中消え失せ、固唾を呑む音さえ聞こえた。堂々と泣き入る人がいれば、唇を噛み締める人が居、下を向いて嗚咽する人がいた。日本であれば決して出来ないであろうスキンシップで、私たちは温めあうことで出来る限りの感情表現を呈した。生きることが何なのか、死ぬことがなんなのか、これからくる生と死の狭間に取り残されることなく前へ進むには、何を犠牲にして何を掴まなくてはならないのか。恐らく一番初めに試練を迎えるのが誰なのかを知っていた彼らは、わだかまりという厚い膜を突き破り、その者を残して全員が泣いたのはそれが真実だからだった。薄暗い空間の中で鼻を垂らして泣いていた姿は、等身大の15歳でもあり、早熟してしまった15歳でもあり、これから一人でやっていくなんて無理だよと訴える不安の塊のようでもあり、それでもやはり別れは必然で新しい門出を迎えるしかないのだという諦念のようでもあり、膨らみ弾けそうな募るばかりの感謝そのもののようでもあり、祈るような謝罪そのもののようでもあった。館内に立ち込める拍手喝采の嵐は、自分たちを取り巻く世界の数のように感じた。
 「この作者はね、初公演の前日に亡くなったんだよ。医者の誤診でね。だけどロジャーが言ってただろ、死ぬ前にたった一つの名曲を作るって。居なくなってもこうやって愛されている。これから何年も続くよ。例え忘れなくてはいけない日がきても、人の胸の中で生きてるから。周りの人が一人も居なくなって、最後の一人があちら側に行くとき、そのときに皆でまた出会うんだ。だから、永遠のお別れなんてこの世には存在しないんだ。一緒にいることだけが、仲間であることではないんだよ。怖がることがあっても、捉われる必要はないからね」
 エンジェルの葬儀に友が弔いを述べるシーンに、”今”ではない未来を重ね合わせる。恋人のコリンズが歌う世界に、本当にエンジェルは存在しているのか、確かめる術はなかった。彼らは若く、未来も若いままなのだと知っていた。
 その場に居なかった、一足早く帰国し治療を始めていた人間に誰もが思いを馳せ、荒れ狂う情の波の中を、彼らは泳いでいた。永遠に続くような遠泳に疲れ、いっそこのまま終われたらそれも良い、と。
 長い時を経て、NYでの公演は今年の六月で終りを迎えるらしい。10年の間に治安は随分改善されたが、貧富の差はますます開くばかりのようだ。今でも昔のような景色は見られるだろうが、子供の視点はすでに天に還っているだろう。
 間断なく各国でヒットしていく様子は、彼の言っていた通りだった。日本でも新しいキャストを揃え、年末に新スタートが約束されている。未来や過去ばかりをたたえる映画や教えの数々の中、今この瞬間だけを謳うRENTが人の心を掴んで離さないのは、一体何なのか。私は思い出すように音楽を聴くが、その時に、あの場面で感じた、胸の痛みや安らぎを鮮明に思い出せないでいる。今が全てだと言う若者の言葉は、危惧するものもあるが、共感するものもある。軽はずみに発言する”今が楽しければいいじゃん”という言葉には頷けないが、噛み締めるように”今しかないんだ”と言う人の言葉に私は既視感を覚える。
 世界のどこかで”今”を生きている人がいて、その”今”を忘れないようにと確かめるように生きている人が、その次の瞬間に”今”という連続から解き放たれる様を、その人の大切な誰かに看取られている。
 世界のどこかで”今”に苦しみ、自我をどこかに置き忘れてしまった弱い心によって、薬と手を組んでしまった者が、一人で生きている。
 どちらにも”今”が存在しているが、今という時間は共通しているのに、そのものの存在としては異質になっている。時間の前後を信じられる”今”と、それを憎む”今”。no day but today.
 エスニックマイノリティーやセクシャルマイノリティーや病魔や孤独の昏迷に、”今”を走ることに意味が生まれ、それが一人立ちして人々に伝わるのは死後、と歴史の相場は決まっている。反省と謝罪から、人は新しい知識と情を手に入れる。それじゃいけないだろう、と反旗を翻す人もいれば、それでもいい、と全てをありのままに受け入れる人もいる。私は果たして、どちらの住民なのだろうかと膝を抱えるときがある。どこか、論争の繰り広げられる現場において、視点が天井にあってそこから地面の様子を傍観しているようにも思う。そして、それでもいいと納得する自分が存在しているのだ。私は私だけの世界を守ればいい、私は一人ではそんなに強くないのだと。そんな逃げ腰な私でも、もし私の世界に紛れ込んだ人間がいるならば、先に行ってしまった先人の知識を元に、彼を、彼女を、導いてあげたいと願う自分を、またしても天井から眺めている。そうすることで、私の中で生きている人間が証明できるのであればと思っているのだ。
 一緒に生きているのだから。

充実

 携帯電話が鳴ったのは、アーケードを歩いているところだった。ナンバーは表示されない。歩きながら耳に当てる。相手が喋るのを待った。
 「おい」
 「あんたか。あんたのところの若い奴にはさっき会ったが。で、親分直々に何の用事だ」
 「さっき連絡があった。嘆いていたよ。つれないってな。まあ、俺だって期待してたわけじゃないが、やっぱり組む気はねえのか」
 「泥棒は個人プレーだ。試合に出るのはいつだって独りだろ」
 「今度はそこそこ大掛かりなんだ。いつもみてえに、酒屋強盗だとかコンビニ強盗じゃないんだ」
 どうせ銀行や公的機関だろう。見当がつく。
 「やめな」
 「忠告ありがとうよ。まあ、今日の今日で実行するんじゃない。近いうちだけどな。どうだ噛まねえか?」
 自分でも知らないうちに顔が歪んでいた。後先を考えず、ろくな調査や検討もせずに仕事を起こそうとする者に未来はない。「オリエンテーリングを知ってるか?」と思わず言っている。
 「地図とか見て、目標の目印を捜してくやつだろ。俺だってな、それくらい知ってる。年寄りだって馬鹿にしてるのか」
 「年は関係ない。『未来』はそういうもの。探し出すものなんだ。『未来』は闇雲に歩いていってもやってこない。頭を使って見つけ出さなくてはいけないんだ。あんたもよく考えたほうがいい」
 「俺が考えてないと思ってんのか」
 「その先を考えるんだ。あんただけじゃない。政治家だって、子供だって、みんな考えてはいないんだ。思いついて終りだ。激昂して終り、諦めて終り、叫んで終り、叱って終り、お茶を濁して終りだ。その次に考えなくてはいけないことを考えないんだ。テレビばっかり観ることに慣れて、思考停止だ。感じることはあっても考えない」
 「俺は考えている」
 「それなら何も言わない。あんたとは組まない。あんたは嫌いじゃないが、一緒に仕事はしない。どうしてか分かるか」
 「嫌いだからか?」男が苦笑しているのが分かる。
 「考えたからだ」そう答えた。しばらく間があってから、相手はまた声を出した。「俺はお前を買ってるんだ」十は年上の男は、同情すべき上司に近かった。「おまえは腕は立派だし、学もある。同業者の中ではお前がどうして空き巣なんてやってるのか不思議で、もっぱら話題の種だ」
 「あまり実りのない種だな」
 「俺はおまえと一緒に仕事がしたいだけなんだ」
 相手の声が急に上がった。携帯電話を耳から離し、目の前に向けてみる。「悪いがあくまでも独りでやる」もう一度受話器を耳に当ててからそう言った。「一緒には何もしない」
 「そうか」男は心底残念そうな声を出してから、「おまえは一般家庭の空き巣専門だよな。まったくそっちのほうが質が悪いだろうが。どうだ?」
 「あんたもまずは小さな仕事からやり直したほうがいい。基本とウォーミングアップはどんな仕事にも必要だ」
 「誰に向かって口を利いているんだ」
 「いいから。情報ならやる」そう言ってから、自分が狙っているマンションや一軒家の情報を数軒、口に出した。「狙っている場所だ。下調べも終わっている。良かったらあんたに譲ってもいい。大きな仕事をする前に考え直してみてくれ」
 「そんな情報をどうして寄越す」
 「あんたのところの若い男に危なっかしい仕事をさせたくなくてな。日本の損失だ」
 「俺はお前に仕事を譲ってもらうほど落ちてはいねえんだよ」
 「まあ、仕事の内容と日にちが決まったら念のため連絡してくれ。参加はしないが、忠告はできる」
 「俺に忠告がいると思うか?」泥棒グループの管理職は、根拠のない自身を急に漲らせると、しっかりとそう言った。
 「忠告に耳を貸せという忠告がまず必要だ」
 携帯電話を切ってポケットに戻した。
 思い立ち、駅前の銀行に足を向けた。手にいれたばかりの二十万は、内ポケットに入っていて、その時点ではすでに、「盗んだ金」ではなくて、「技術に伴う収入」だった。
 大学の敷地を通る。現役学生用の講義棟はなく、部外者でも自由に出入りが出来た。横切ってアーケード通りへ向かう。そこで声をかけられた。もしもし、と落ち着いてはいるが、か細い声がする。
 見ると、老夫婦が立っていた。真っ白い髪にめがねをかけた、細長い顔をした男性と、背が丸く丸顔の女性だ。「仙台駅へ行く近道はどう行けばいいですか?」老婦が言った。
 これが肩に刺青をした茶髪の青二才だったり、頬に傷を伴う男などであったら警戒をしていた。
 道順を説明していると、すっと男が建物の裏手に歩いていった。てっきり惚けているのだと勘違いした。老婦が、「おじいさん、どこに、おじいさん」と声をかけて後を追ったので、同じく追いかけた。どうやらこの辺りが落ち度だった。
 人通りのない裏庭まで追いかけていったところで、突然、男が回れ右をして振り向いた。しまった、と思った時には遅かった。老婦がそれに並んだ。老人の手には愛想もない拳銃が一丁あって、「金を出せ」ときた。
 老人の声は震えてもいなかった。平穏そのものだった。
 空を見上げた。笑い出しそうになるのを堪える。昼間に老夫婦が自分の前に立ち塞がり、「金を出せ」と拳銃を突き出している。これを滑稽と言わず、諧謔と言わず、何と言う。
 二人とも腰は曲がっていないが七十台半ばという様子で、拳銃を持つより、杖をつかんでいる方がよほど似合っていた。
 潔く両手をあげてみた。「金はやる。と言っても期待しないでくれ。むしろ、同情して逆に足してやりたくなるくらいの寂しい財布だ」
 老婦が口を開いた。「いいですから財布を出して」
 「言うことを聞いてください」とこれは老人が言った。台詞の分担でも決まっているのだろうか。
 尻ポケットに手を入れて、財布を取り出す。二人の様子を窺っていた。老人は痩せぎすだが、両手でしっかりと拳銃を持って構えていた。蟹股で腰を落としている。不恰好ではあったが重心は低く、安定している構え方だった。老婦はじっとこちらの手の動きを見ている。財布を地面に投げるとそれを拾い、中身を確認している。照れ隠しに頭を掻くと、「動かないでください」と老人に言われた。
 「参考までに聞きたいんだが、老後は金に困るものなのか? こんな強盗をせずにいられないほど、年金ってのは足しにならないのか」
 「お金にはさほど困っていないんですよ」銃口は、狙いを定めている。「余って困るほどじゃないですが、それでも、どうにか二人で食ってくくらいは何とかね、なるものです」
 「拳銃だって買えるようだしな」
 「あんた本当に何もないわね」老婦が財布を覗きおわって、そう言った。「千円札二枚、後はレシートが数枚入っているだけだよ」感心している風でもあった。
 「爽快なくらいだろう。で、手を降ろしていいかい?」
 「あんた、あまり拳銃を怖がらないねえ。言っておくが本物ですよ」老人が言う。
 「たぶん、そうだろうな。でも、撃つのは人間だ」
 「どういうことですか?」
 「じいさんは撃たないだろう? 拳銃は怖いが、それを持っているあんたは怖くない」
 「この人、こう見えても肝は据わっているんだよ」老婦は言いながらも可笑しそうに笑みを漏らした。
 「度胸だとかそういう問題でもなくてね。ようするにお人柄だよ」
 金に困っているのか、ともう一度訊ねると彼らはまた顔を見合った。今まで転機や困難にぶつかった時、二人で何百回もそうやって相談をしてきた、そういう慣れた仕草だった。
 「お金ではなくてね、人生の充実なわけですよ」
 「人生の充実ですか」トーンを合わせる。
 「気がつけばもうこの年ですよ。こいつと一緒に五十年以上暮らしてきて、あっという間のことでした」
 黙って先を促した。
 「つい先月です。ふと気付いたんですよ。遅かれ早かれ私らもお迎えがきてね、人生は終わってしまうんだから、最後に何か行事があってもいいんじゃないかって」
 「それで急性の強盗になってみたわけかい」
 「私らはね、我慢の人だったんですよ。何事にも遠慮して、苦情も言わず。割を食うことはあっても、得をすることはあまりない。そういう生活を送ってきたんです」
 めがねをかけた老人は優しい口調だった。皺が弱弱しく動く。「でもね、このまま私らがね、大人しく消えていっても誰も誉めちゃくれないんですよ。人生が延長されるわけでもない。褒美が出るわけでもない。それなら、むしろ今まで絶対に考えもしなかったことでもやらかしたほうが思い出になるんじゃないかって思ったわけですよ」
 「思い出」吹き出した。
 「こんなんじゃなくても良かったんだけれど」老婦が付け加える。「たまたまね、この鉄砲が手に入ったんで、強盗をはじめようかと、この人と相談して決めたのさ」
 「馬鹿馬鹿しいものでしてね、今まで私らは邪魔扱いされて、いてもいないのと同じようにあしらわれていたのが、こんな鉄砲一つあるだけで相手の対応が変わってくるんですよ。『ジジイどけよ』なんて足蹴にしていたのが、急にしゅんとなって縮こまってしまうんです」
 「それが愉快なのか」
 「痛快である時もあれば、寂しい時もありますよ」老人の溜息は演出ではなく本心のようだった。
 改めてその強盗を見る。二人の姿を交互に眺めた。静かに両手を下ろしたが、彼らは特に何も言ってこなかった。
 「でもね」と老人は苦い顔をする。「私らみたいな年寄りが、若い人たちと対等に話し合うのにはね、鉄砲があってようやく五分五分ってところなんですよ。変な話ですがね、そんなものなんです。年寄りが自己主張するのは難しいんですよ。今まで私らはね、我慢ばかりしてきたんですが、これはやっぱり異常です」
 「あんた、怖がらないね」老婦が歯を見せる。
 「感心してるんだ。老人が銃を持って街に出ていることに。強盗とはね」肩をすくめる。「ただ、本職の強盗もいる。無茶をすると危ないから気をつけたほうがいい」
 「アドバイスですか」
 「いや、老婆心さ」
 「大丈夫ですよ。私らの目的はあくまでも」そこで老人は言葉を切って、また相棒である妻の顔を見た。同時に、「人生の充実」と言って見せた。三人の声が重なったのはささやかながら快感だった。
 「どんなことになろうと、それはそれで人生の充実ですよ」
 ジャケットの内ポケットに手を入れると、素早く封筒を取り出して老婦に向かって差し出した。老夫婦の正面に投げる。
 こりゃ何だい? 老婦が足元の封筒を、どちらかと言えば軽蔑する目で見た。
 「金を出せと言っただろ。本当は隠しておくつもりだったが、気が変わった」
 老婦が封筒を拾う。皺の多い指で封筒口を開けた。「大金じゃないか」
 「たかだか二十万だ」
 「受け取れないねえ」と老婦が言う。
 「強盗のくせに」と笑ってやれば老人が「たしかに」と顔を崩す。「老人のくせに」とさらに冗談めかして言うと老人は、「いかにも」とまた笑った。
 そして、老夫婦を一瞥してから立ち去った。
 一度だけ、キャンパスを出るところで立ち止まり、振り返ってみた。老夫婦が反対方向へ歩いていくのが見えた。前かがみにゆっくりと歩きながら、頭を掻く。「あっちは強盗でこっちは空き巣じゃないか」呟く。空き巣と強盗、空き巣と強盗と十回も唱えてから、「向こうは年金でこっちは無収入」と言ってみた。「向こうは国民健康保険で、こっちは全額負担」と独りごちてから、「二十万もあげることはなかったか」と言った。少なくとも全部あげることはなかった。


09 2025/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
(12/10)
(08/13)
ANN
(05/19)
(04/04)
(01/05)
(01/03)
(12/24)
(10/20)
(10/09)
(08/21)
<<前のページ  | HOME |  次のページ>>
Copyright ©  -- ALTEREGO --  All Rights Reserved
Designed by CriCri / Photo by Melonenmann / Powered by [PR]
/ 忍者ブログ