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具現

 作文だけ書いて中学生にあがった。高校に上がっても勉強はせず、ノートといえば作文だった。
 小学校と中学校は一貫の私立で、一年に一度配布される文集があった。作文が掲載されるのである。この文集の存在は、私の作文に対する気構えに姿勢を正させる何かがあった。
 小学校のときは、コミュニケーション手段のひとつとして作文を書きまくった。担当教師ひとりに見てもらいコメントを書いてもらえば、コミュニケーションは成り立ち、それで満足だった。しかし中学校では作文に、いい、悪い、という評価が生じ、さらにいいものは授業に取り上げられて注目をあびる。
 中学二年のときに書いたものが授業で使われた。私はたいへん舞い上がり、調子に乗り、作文書きにますますのめりこんだ。中学時代に私のほぼ全てともいえる時間を注いだのは、作文か、音楽か、この二つだった。しかし、コミュニケーション手段として活用していた作文はその姿のままでいることはなく、人目に触れるための作文にかわっていった。音楽はときに恋人とともに私の手を握ってくれたが、それ以外の分野での作文に関しては、まったく狭い世界で生きていた。それが全てだった。
 それだけ心血を注いで書いていればそれなりに作文は上達する。年に一度の文集特別掲載というみみっちい目的はわりあい達成される。私の作文はよく表彰された。
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同列

 散歩といっても夏至が近く、UVAも強いということで日焼け止めを押し付けられる。洗い落とすのが面倒なのであまりつけたくはないのだがしょうがない。色白肌に口答えはできない。日光浴という言葉がなつかしい。
 図書館にいくと時代を感じる。借りていた資料を返却するときはコンピューター画面に指で触れ、受付の窓口でベルトコンベアのように回収される。予約していた本の受け取りは事務の方に世話になるが、基本的には図書カードをコンピューターに差し込んでバーコードを読み取らせる。10冊借りるとしても資料の全てを重ねてピッと判別してくれるものだから、ものの5秒といらないのだ。学生のころにはあったはずの、資料名の記入と印鑑をふいに思い出した。
 夕方の図書館の利用者は学生半分、社会人半分といったところだ。学生優先席、社会人優先席、持ち込みパソコン利用専用席、インターネット専用席、一般資料閲覧専用席、社会人専用書斎室と、席は豊富にあるようで空きは少ない。
 学友と一緒に勉強をしている子もいるが、おしゃべりもせず皆まじめにノートを睨み続けている。異臭を放ちながら読書にふけっている古着男のテーブルのまわりには誰もいない。お腹をふくらました女性が育児の本をめくっている。渋谷にいそうなカップルが新聞をめくりながら突っつきあっている。スーツを着崩した女性が株情報の雑誌を立ち読みしている。私は彼らの合間を縫うようにすり抜けていき、目的の棚に向かうとそこで立ち読みしていた男子高校生が私と入れ替わるように本を棚に返す。失敗した。反対側からくれば気遣わせることもなかったかもしれない、と彼が返しただろう本のタイトルを見て思った。「未成年の殺意」
 目的の資料を数分立ち読みしていると携帯が揺れた。社会人フットボールチームに入らんとする兄からのメールだ。「一緒に空手やろうよう」見なかったことにした。

流れ星

 厚揚げ2枚入り1パック79円だ。底値だが……
 厚揚げは消費期限はせいぜい三日と短い割にあぶらげのように冷凍はできない。二人で一度に食べきれる量は一枚。三日のうちにメニューが二度。迷うのが面倒になり買いものかごに放り込んだ。
 先ほどスルーしたニラ2束88円も買う。家に古いキャベツを使わなくてはならないし、明日はケンジが休みだからちょうどいい。
 冷蔵庫の野菜室から白菜を3、4枚むいて、塩を入れた少なめの湯で蒸し湯でる。白菜はアクが少なくうまみがのこるのだ。ざるに上げたら水にとらずにそのまま冷ます。白菜を冷ましてる間に汁物を作る。今日のメインはみそ味なのだから汁物はわかめスープに。
 水と酒と鶏がらスープの素を鍋に入れて火にかける。その間にわかめを戻す。わかめを戻す間に万能ネギを2、3本小口切りにしておいて、わかめをザク切りにしてお碗に入れておく。スープが煮立ったら塩コショウで味を調えてごま油をたらす。後でわかめを入れたら完成。
 あら熱が取れた頃合の白菜はザク切りにしてゆるく水けを絞り、ポン酢醤油をかけてゆずの千切り、かつおぶしをのせたら出来上がり。ゆずは時期がよければ一個100円くらいだ。
 メインはニラと厚揚げとキャベツと豚挽き肉のみそ炒めだ。厚揚げ一枚はまず縦半分に切って、端から6、7mm幅に切っておくと、ニラ一束は4、5cmのざく切りに。キャベツは芯の部分は薄切り、葉の部分はざく切りに。
 中華鍋に長ネギ5cm、しょうが1かけ、にんにく1かけのみじん切りと、豆板醤を一緒に油で炒める。そこに豚挽き肉120~150gを入れて炒めて、肉に火が通ったら厚揚げとキャベツを投入。酒、みそ、砂糖、しょうゆで甘辛く味をつけて、最後に水溶き片栗粉でとろみをつけてからニラを。もう一度軽く火を通し……完成。
 ニラはまだ一束残っている。ニラは足の早い野菜だ。食べても保管しても臭い野菜とおもわれがちだが、茹でてしまえば匂いが気にならなくなる。明日はニラをおひたしにしよう。

思考

 映画はフランス映画しか観ない、とか、電車には乗らない、移動は車で、とか。二十歳をすぎて金髪ってださいよな、とか、カラオケ嫌い、絶対いかない、とか。どうでもいいようなことだけれど本人には最重要事項、ということがままある。私はそういう、ささやかなことを自分の真理として持っている人は好きだ。持っていない人は嫌いかと問われると、そういうわけではないが、信用をかちえやすいのは前者だと思う。
 たとえばの話。友人は「男は絶対トランクス」派で、けれど彼はトランクスしかはいたことがないのではなく、中学生のときブリーフを経験済み、その便利さも不便さも承知しており、さて自分で下着を買う年齢になってトランクスを選ぶわけである。だから、ブリーフ派をも彼は否定しない。ブリーフ一辺倒の人より、こちらのほうが、笑顔が優しい。
 さまざまな下着を試したほうが人生に深みが出るという話ではもちろんなくて、これは考え方の問題である。あるものごとを、引き受けて、疑って、ほぐしてまるめて、整理して、もいっぺん引き受ける。そのほうが、ただ引き受けるより奥が深く、単純におもしろいのだ。
 私が海外での暮らしや旅で、またはここ最近のマスク事件についてはっとしたのは、「自分なりの考えかた」の危険性についてだ。件のような自分のちっぽけな真理が、世界の共通真理になってはいけないのである。トランクスを主張するためには、ブリーフも認めなければ。マスクの習慣のない国においての、日本人学生が祖国からマスクを強いられることの肩身の狭さを私たちは想像したことがあったか。
 考える、問う、疑う、言葉を使う、人(他の言葉、他の考え)と出会う、ということを、私たちはずっと以前からやってきた、と、思い出させてくれるのは『雲』という、ヘッセの空にまつわる詩と散文をまとめた写文集である。
 たったひとつの、空、というものに関しておそるべき言語力と比喩を持ち、空をスクリーンにして記憶を、過去を、恋愛を、後悔を、希望を見るのである。
 空のみからつむぎだされるこの作家の言葉の群れに圧倒されるが、けれど私たちもまた、経験がある。頭上の雲を見て、動物や友達や家や花、あてはまる何かを捜し、隣に立つだれかとあれこれ言い合い、風に流されかたちを変えた雲を迫って、さらに言葉をついやして飽きなかったことが、なかったか。
 空を見上げることが哲学になりえるし、下着を選ぶことが真理にもなりえる。考えるとはこういうことだ。私たちの持ちえる種類の自由のことだ。

報道

 ある国をしばらく旅行する。その国のいろんなことがへんだと思ったり、かっこいいと思ったりする。そうして日本へ帰ってくる。異国になじみかけた私は当然、日本のここがすごい、ここがださいとあらためて発見する。こういうのは、人格とおなじ、その国のもつ個性だと思う。
 そう考えると、日本というのはおとなしいようでいて、なかなか強烈な個性の持ち主ではる。これまた以前、滞在先で読んだ2冊になるが、この個性をそれぞれよく忠実に描き出している。
 カナダ人の方が書いた『神は日本を憎んでる』の主人公は、なんとさいたまに住む高校生、ヒロ。全体的にやる気がないように見えるけれど、ないわけじゃなくて、やる気のありようがちょっとへんなだけ。高校卒業後、好きだった女の子を追いかけ、日本人留学生がうようよいるバンクーバーへ向かうのだが、そこで、新興宗教にはまったかつての同級生と再会する。
 たった一つの文章に、からかいと皮肉と諦観と笑いをもりこむ、作者独特の饒舌さは、突拍子なく展開する物語に、不思議な現実味を与えている。ヒロの過ごしている、一見無為で、しかし半端ではなく波乱万丈、そして目的地の見えない日々は、ときおり、この国のキャラクターとだぶる。もちろんこの国がヒロほど回転が速く饒舌だったら、目的地くらいは見える気もするんだけれど。
 『銭湯の女神』は、香港に2年住んでいた著者が、帰国後の東京について、硬派かつ力強い言葉で語るコラム集。ファミレス、スタバ、百円ショップ、ゲーセン、見慣れたそれらを考察する著者の言葉に、はっとさせられたり、疑問を覚えたり、恥じ入ったり、深く納得したり。
 しかし読んでいる途中幾度もこわくなる。著者がくりかえし書く「鈍感」というキーワード、この単語が現状の日本の個性を示すのではないかと思うと、本気でぞっとしてしまう。
 この2冊、まったく別の角度から日本を描いているが、おもしろいことに、小説のラストと最後のコラムの言葉がとてもよく似ている。日本在住経験のあるカナダ人作家と、香港から帰ってきた日本人作家が、日本という強烈なキャラクターに向けて、そのキャラと共生しなければならない私たちに向けて、おんなじような事がらを訴えていることに、私はある危機感と、深刻さと、それからかすかだけれど確固とした希望を感じる。
 長い旅行や旅から帰ってきたあとに、ああコンビニエンスストアがいたるところにあってよかった、とか、ああビールの自動販売機がどこにでもあってよかった、とか、インターネットができてよかった、とか、そんなことしか思えなくなる日がくるのは怖いことだ。そんなことの全然ありがたくない、この国の大勢の人が、ここをその個性ごと見捨ててしまうのは、もっともこわい。突拍子もなくどうでもいいニュースが流れるたび、すでにこわい現場に立たされている気がしてしまう。
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