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世界

 彼の言っていたことの意味が、ようやくわかるようになった。
 何もこわくなんかない。こんなところに俺の大事なものはない。いやなら関わらなければいい。とても簡単なことなんだ。
 それは強がりでも空元気でもなく、シンプルな事実だった。
 彼のいない学校に通い始めた。母親は、転校したいなら正直にそういってくれと幾度となく言ったし、あんな事件を起こしたあとで、学校に通うのはたしかに苦痛だろうと冬休みの間何度も思った。転校はしないと宣言したのは、単純に両親への気遣いからだった。引越しまでして一度は転校したのだ。またべつの学校にいくわけにはいかない。それに、あたらしい学校でまた息をひそめるようにうまくやっていくことを考えると、それはそれで気が遠くなった。
 だから、新学期、なんでもないことのように登校した。すべてはあいかわらず遠い壁の向こうで行われているようだった。今まで一緒に行動していた地味なグループのだれも近づいてこなかった。自分からも近づかなかった。以前学校を支配していた険悪なムードは、一掃とはいわないまでもだいぶ薄まっていた。彼がされていたように、自分をへんなあだ名で呼ぶ人はいなかったし、持ち物がなくなったり制服に足跡をつけられることもなく、事件に関する陳腐なストーリーが教室を飛び交うこともなかった。
 しかし周囲をぐるりと見渡してみれば、そこには本当に、なにひとつ自分にとって大事なものなどなかった。壁の向こうに手を伸ばしてまで欲しいものなどひとつもなかった。
 静かだった。壁のなかにひとり閉じ込められたように、自分を取り巻く沈黙は、自分が動かない限り波紋すらたてなかった。強いて言えば、その静けさが自分にとって一番大事なものだった。彼のいない学校の中で。
 沈黙に囲まれて数時間過ごし、毎日家に飛んで帰った。大急ぎで門を開け、ポストを開く。けれど待っている手紙はなかなかこなかった。
 高校三年の夏休みが近づいても彼からの手紙はこなかった。電話帳を開き、彼の姓の家に片っ端から電話してみた。彼の名と一致する者は、けれどどこにもいなかった。
 何もしないでいると、さまざまなことが思い浮かぶ。伊豆に向かう電車、ベランダにはためく白い洗濯物、プラスチックの子供のブーブ、駅で泣いた彼、ラブホテルの珍妙な部屋、ピンクや紫の照明が点滅するクラブ。一連の光景が瞳の奥を流れ去ったあとで、どこへもいけなかったねと、あのとき彼が河原で言った言葉がかならず自分の耳の奥によみがえる。どこへもいけなかった。どこへいこうとしていたのだろう?
 どこへもいけなかった。どこへいこうと――短く交わした問答は延々と続き、自分たちのしたことと、その結果起きたことがめまぐるしく思い浮かぶ。関係ないと彼は言ったが、けれどあんなことをしなければ彼がどこかへいってしまうことはなかったのではないか。彼が連絡をよこさないのは、あのことと関係があるのではないか。なぜ自分だけがここに帰ってきて、何も変わらない光景を部屋の窓から見ているのか――。考えていると決まって頭のなかが白く靄がかかったようになる。それは決して心地よいことではなかった。頭のなかに広がる白い靄は、彼の不在そのもののように思えた。
 沈黙のなかで暮らし、沈黙のなかで卒業式を迎えた。志望していた大学に進学が決まり、ほとんど何も持たず上京した。はじめてひとりで住んだのは、野方にある学生寮だ。
 大学にはいってまず驚いたのは、だれも彼もがまったくふつうに話しかけてくることだった。ねえ、サークル決めた? クラスコンパがあるんだって、いこうよ。その服どこで買ったの? 彼ら、彼女らは、最初から友達として接してきた。
 学生食堂で昼飯を食べ、授業のあとは安居酒屋に飲みにいった。コンパと呼ばれる大人数の騒がしい飲み会にも参加し、クラスメイトの住む四畳半の下宿に泊めてもらった。休みの日に待ち合わせをして映画を見たり買い物をする友達ができ、毎晩電話をしあう恋人のような女友達もできた。
 けれどどうしても彼らに心を許すことができなかった。調子を合わせて笑ったり怒ったりし、恋愛のまねごともできる。けれど一定の距離を超えて相手が近づいてくると、あわててバリアをはる。電話に出なくなり、学校にいかなくなり、また一定の距離ができあがるのをじっと待つ。幾人かの友達はそのうち離れていったし、女友達が恋人になることはなかった。だれかと親しくなることはこわかった。自分のなかで、親しくなることは加算ではなく喪失だった。
 十九歳の誕生日、彼からプレゼントが贈られてくるかもしれないとひそかに期待していたが、やっぱり何も連絡はなかった。なにか現実めいたもの、それを考えるのがひどく億劫に思えるなにかが、一歩ずつ、一歩ずつ迫ってきている気がした。足元がゆっくり崩れていくような不安を覚えた。
 三年にあがってすぐ、期限を決めず旅に出た。クラスメイトが船で上海に行ったという話を聞き、彼女のまねをして鑑真号に乗ってみた。日本を出るのも、ひとりで旅するのもはじめてなのに、ちっともこわくなかった。
 中国から香港へ、そこからベトナムへ飛び、スリランカを経てインド、インドからパール……何を見てもどこを歩いてもカルチャーショックの連続だった。今まで世界と思っていた場所は、なんてちいさかったんだろう。歩けば歩くぶんだけ世界が広がっていく気がして、見知らぬ町を夢中で歩き続けた。
 旅に出て一年近く経過し、ラオスを旅しているときだった。ビエンチャンからワンエンに向かうバス停で、ひとりの青年が近づいてきた。「日本人の友達がいるんだ」と、彼はなめらかな英語で話しかけてきた。「きみによく似ているやつで、去年ここを旅してた。ついなつかしくなって声をかけた。まさか知り合いじゃないよね」と、彼は言うのだった。
 舗装されていない赤土の道路を、バイクやトラックがひっきりなしに通り過ぎていき、そのたび土ぼこりが舞い上がり、周囲を薄赤く染める。バス停のわきには、フランスパンに具をはさんだ屋台のサンドイッチ屋があった。そのまわりを蠅が群がって飛んでいる。
 「その人、なんていう名前だった?」何気なく訊いた。
 青年は聞きづらい発音をつぶやいた。ヤマト、と言ったような気がした。
 「ヤマト? ヤマトというの?」 叫ぶように訊いていた。
 「そうな、ヤマトだ」青年は思い出したように大きくうなずいて、ヤマト、ヤマトと確認するようにくりかえす。
 「どこで会ったの、彼は何をしていた、どんなふうな男だった、どこを旅していると言っていた、日本ではどこに住んでいると言っていたの」うまく英語が出てきてくれないことにいらいらしながらも、彼を質問攻めにした。
 「きみより背のたかいやつで、タイからラオスに入ってきて、そのあとは日本に帰った。日本では東京に住んでいると言っていた」彼は説明し、自分の指先が震えだすのを感じた。まさか、あのヤマトと同一人物のはずがないと思う一方、その男は自分の知るヤマト以外ありえないようにも思えた。
 「手紙と写真がうちにあるよ。見にくるか?」青年は言った。いく、即答していた。道路わきに停めた青年のバイクに、なんの躊躇もなく乗り込んだ。
 一応目抜き通りではあるが、店などほんの数件の埃っぽい道路を過ぎ、パリの凱旋門を模したというパトゥーサイをくぐりしばらく走ると、あたりには店一軒、屋台すらもなくなる。バラックのような民家がぽつりぽつりと続き、名を知らぬ大木や雑草の両脇で鬱蒼と生い茂っている。青年が連れて行くのは彼の家だと信じたが、バイクが停まったのは一軒の廃屋の前だった。賭けに負けたのだ。
 「金を出せ」バイクを降りた青年は、先ほどの友好的な態度とはうってかわって低い声を出した。膝がふるえ、脇の下やこめかみから、粘ついた汗がいっせいに噴出す。喉がからからに渇いて声も出ない。嘘だったのか。今さらながら再確認した。ナイフは持っていないようだ、殺されることはない、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。逆らわず、金を渡して逃げおおせよう。それだけ考えよう。
 トタンの崩れ落ちた廃屋から、二人の少年が出てきて、威嚇するように睨みつけている。いっさいの抵抗をせず、ナップザックを下ろし、財布から紙幣を抜き取って青年に渡した。
 「もっとあるだろう」青年は脅しつけるように言う。まだ高校生にもならないだろう少年二人が、わからない言葉でひっきりなしに何か言っている。雑草のなかを無数の虫が飛び回り、遠い耳鳴りのような羽音を響かせている。財布はナップザックに三つあった。ひとつはさっき青年に渡した現地の紙幣。ひとつは日本円が入っている。もう一つは日本円とほぼ同額のトラベラーズチェック。少し考えて、再発行のきくトラベラーズチェックの財布だけ出した。分厚いトラベラーズチェックの束を受け取った青年は、ぱらぱらとめくってそれをポケットにねじこんだ。サインがなければ使えないと知らないのかと、ヤマトならそう言いそうだと自分を落ち着かせるため馬鹿にするように思ってみたが、しかし皮膚が痛いほど強い日差しの下、腕にはずっと鳥肌がたっていた。
 キープ紙幣とトラベラーズチェック、カメラ、ウォークマン、テープ。とられたのはそれだけだった。トラベラーズチェックの記入も、パスポートも要求されなかったということは、きっと組織的な犯行ではなく、単純に彼らの思いつきなのだろう。去り際、サンキューと笑顔を見せた。笑顔は青年をまるきり子供に見せた。
 バラックが続き、水田が広がり、木々が生い茂る、どこだかわからないその場所から、見当をつけて歩き始めた。向こうかr亜人がくるたび、ビエンチャン? と方向を訊いた。みすぼらしい身なりの女たちや男たちは、ものめずらしそうに、あるいはおそるおそる見返すだけで、市街の方向を教えてくれる人はほとんどおいなかったが。
 信じられない、信じられない、信じられない。遮二無二歩きながら呟いていた。こんな国、大嫌いだ。今までずっとひとりで旅して、こんな目になんかあったことなかった。親切にしてもらったことはあっても、あんな最低の嘘をつく人間なんか見たことがない。金が欲しいなら金をくれとその場でいいものを、何がヤマトだ、何が友達だ、何が写真と手紙だ。ばかみたいだ、無記名のトラベラーズチェックでつかまっちまえ。ヤマトの口調を思い出し、声に出して言っていると、手の振るえがようやくおさまり、鳥肌が静まり、恐怖が体内から搾り出されていくようだった。太陽は斜め横でじりじりと自分を照らし、毛の一部が抜けた犬がのろのろと自分を追い越し、羽虫がひそやかに飛び回っていた。信じられない、もう一度はき捨てるように言い、はっとしてなんにもない赤土の道に立ち尽くした。
 信じていたのだ。人は親切にしてくれるものだと、今の今まで信じていたのだ。それは自分にとって不可思議な、しかし唖然とするほどの発見だった。同じようにヤマトが世界のどこかにいることもまた、露疑うことなく信じていたのだ。ヤマトがあのおじさん的陽気さで、あの青年と言葉を交わし、どこか陽の当たる屋台のカフェでお茶を飲み、写真を撮り合い、日本に帰って手紙をしたためていると、まるで見たかのように信じていた。
 赤土の道に突っ立った異国の人間に、無遠慮な視線を投げかけて子供を抱いた母親が通り過ぎていく。数軒先の雑貨屋から、老婆が出てきてやはり自分を眺めている。目の前の景色がふくれあがり、水の底のようにゆらゆらと揺れた。ふたたび歩きはじめる。強い日差しで脳天がじりじりと暑い。涙が汗のように吹き続ける。蠅が腕に、顔にまとわりつく。鼻水をすすり、日に焼けた腕で頬を擦り、歩いた。
 羽虫が飛ぶような音がして振り返ると、向こうから小型トラックが走ってくるのが見えた。手を上げて停め、市街地まで乗せてくれるようたのもうかと思いつくが、しかしその場から動くことができない。小型トラックに乗っているのはどんな人なのか。ひとつ返事で市街地まで連れて行ってくれるのか。さっき鎮まったふるえが、ゆっくりと指の先からよみがえる。
 赤い土埃をもうもうと舞い上げて、小型トラックは近づいてくる。みすぼらしい家から子供が走り出てきて、通り過ぎるトラックに手をふっている。
 小型トラックが自分を目的地まで運んでくれる確証はない。またどこかに連れ込まれ、金を出せとすごまれるかもしれない。市街地に着いたとしても法外な金額を要求してくるかもしれない。でも、だけど、それでも――。
 大きく息を吸い込み、動きを止めた手足に力をこめて車道に躍り出た。両手を大きく揚げ、トラックに向かって千切れるくらい振り回す。クラクションが響き、悲鳴に似た音をたてて、数メートル手前でトラックは停車した。湯気みたいな土埃が車体を隠す。トラックに向かって勢いよく足を踏み出した。
 信じるんだ。今、そうだ。たった今、決めた。
 開け放たれた助手席の窓に身を乗り出して、「ビエンチャン!」運転席にいる男に大きく叫んだ。「ビエンチャン! サムセンタイ! パンガ・ゲストハウス!」通りの名、ホテルの名、寺院の名を連呼して、運転手に意志を伝えようとする。勢いにとまどっていた中年の運転手は、タラートサオという市場の名でようやく理解したらしく、うなずきながら助手席のドアを開けた。
 信じるんだ。そう決めたんだ。だからもうこわくない。馬鹿な嘘をつき脅す男がいる世界がある一方で、仕事を放り出し足を棒にして空いている安宿を捜し、礼の言葉もきかず立ち去る男のいる世界も、またあるのだ。おんなじことだ。ヤマトのいないこの世界のほかに、見知らぬ人と笑いながら言葉を交わすヤマトが存在する世界だってある。その世界が自分の世界と二度と交じり合うことがないとしても。だったら後者を信じる。この車は自分を正しい場所に連れて行ってくれると信じるほうを選ぶ。
 助手席に座る自分をちらちら見ながら男はトラックを走らせる。目が合うと、困ったように笑ってみせ、オーケー、と低くつぶやいてうなずいた。ドンビーウォーリー。虫の音、埃のにおい、はだしで歩く女、強烈な陽射し、変わらない風景が窓の外を猛スピードで流れていく。走る抜けるように生きてきた数年間の出来事が走馬灯のように目に映った。ヤマトのつまらない冗談、匂い、温度。遺影にしたたる雨の爽やかさとは対称的に、泣くことで全ての罪を帳消しにしたつもりでいる弔問客たち。開け放った窓から入り込む埃くさい風は、濡れた自分の頬をいつのまにか乾かしていた。
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認識

 運命、という言葉が、私の頭のなかをぐるぐるとまわる。二つの漢字が右回りで入れ替わり、命運、という言葉が浮かんだ。運命と命運。どちらがこの状況をおさめるのだろう。
 ここ半年で急激に悪化している彼の症状。スキルスの「原因」ははっきりしている。彼が賞をとってプロになったことが、彼の命を縮めてしまった。苦痛や体調不良を感じていても、彼はそれを抑えつけ、周囲の期待に応えようとした。おそらくは、これまでの人生で最大のプレッシャーに耐えながら。
 行方不明になった原稿がもし受賞していたら。
 死ぬはずだったのは、自分なのだ。
 何も知らない間に、彼と私とで激しく引っ張り合っていた寿命の綱。
 私には死神が見える。私は顔を両手の掌に埋めた。
 何かの気配を感じて顔を上げた。そこに萱野が立っているのを見ても、私は驚かなかった。
 「こういうことだったのね」
 私は、一度上げた視線をまた掌に落とした。
 「そうやって、高みの見物してるのって、さぞ面白いでしょうね、死神さん」
 「面白いとかつまらないとか、そういうふうに考えたことはありません。すべてはただの仕事ですから」
 「ただの……ただの仕事」
 指先から怒りとも悔しさともつかないもので震えがほとばしった。
 「人は……人間は死ねばすべて終り。何も残らない。全部奪ってしまう、その、死ぬってことを仕事だと……ただの、仕事だと」
 「俺の存在が腹立たしいでしょうね。俺の存在していることを知ってしまったことが、腹立たしくてたまらないでしょう。わかります、とは言いません。俺には死すべき運命の人の心など、もう永遠に分からないのかもしれない。その昔、今のような存在になる前は、俺にも人だったという幽かな記憶はあるんです。でも、もう思い出せない。死に対する恐怖や怒り、諦めや憧憬、そういったものは何一つ、思い出せない。また、思い出してはいけないのだと考えることにしています。生れ落ちたその時、いや、受精卵となったその瞬間から、生命は死に向かって歩みはじめる。それがこの星の掟です。俺はたぶん、選ばれてしまった管理者なのでしょう」
 私は顔を覆ったままで訊いた。
 「何も知らなければ……自分の運命なんて知らずにいれば、もっとずっと……どうして私に、こんな残酷なことを教えたの? あなたは誰にも姿を見せるわけにはいかないんでしょう? 世の中のほとんどの人は、死ぬ間際でしかあなたを見ない。あなたの存在なんて知らずに終わる」
 「俺に気付いてしまう人に対しては……俺にもコントロールできないんです。できるだけあなたの周囲とあなたの認識とにずれが生じないよう繕うのが精一杯で。あなたに佐伯の話をしましたね。彼と同じなのです。あなたの佐伯も、感受性がおそろしく強い。昔から、我々の姿を見てしまう人間というのはずっと存在してきました。その力を持つことが悲劇なのか幸運なのか、俺にはわからない」
 「命の綱引きの話なんてしなくても良かったじゃないか。私の代わりに死人が出るんだよ。よりによって彼が……こんなこと、私が知ってしまって、それでこの先いつもそのことでくよくよして、生き残ってしまったことに良心の呵責を感じながら生きていけ、あなたは、そう言いたいの? 私は……まっぴらだ」
 「あなたの苦しみを消してあげることは、できます」
 私は顔を上げた。
 「簡単にできますよ。というより、消してしまわなければならない、それが我々のルールだから。あなたの記憶の中から、俺に関する部分を綺麗に消してしまう。俺の存在の痕跡すら、残りません」
 「そんな馬鹿げたこと」
 「馬鹿なことでも、事実です。これまでもずっとそうして来ましたから」
 「でも私の記憶だけ消しても、あなたのことは他の人間が覚えている」
 「いいえ」
 萱野は首を横に振った。
 「覚えていることはできないんです。いえ、そもそも、同僚たちにとって、俺は今でも、存在していない。俺を知っているとあなたが思っているだけです。最初から、問題になっているのはあなたの認識だけなんです。俺は、あなたの認識に対してだけしか働きかけていない。あなたが同僚たちと会話するときに仮に俺の話が出たとしても、それはあなたが演出した会話なんです。あなたは確かに同僚の口から俺の話題が出た、と思うかもしれない。しかしそれはあなたの錯覚です。あなたの認識があなたの頭に、まやかしの会話を記憶として残した、それだけのことです。空耳、というものがありますが、あれに近いと思っていいでしょう。会話が、音として残る。同じことは視覚においても可能です。あなたの目に、同僚と俺が一緒にいる場面が見えているとしても、それはあなたの認識が見せた幻。この世の中の、事実はすべて、誰かの認識の範囲で確認された事柄に過ぎない。デジャヴも然り。一切が神の昼寝の夢、なのかも知れません……俺も含めて」
 「わけが」
 激しく首を横に振った。
 「わけがわからない! あなたの言葉なんて、信じられない……」
 「無理に信じる必要はありません。ただ、あなたが今、心に抱いている苦しみからは、必ず解放してあげます、と約束させてください。あなたは良心の呵責など感じないで、これからの人生を謳歌することができる。あなたにとって彼の存在はやがて、ただの記憶に変わる。ただし」
 萱野は、一呼吸おいて言った。
 「彼の作品は、この世に残ります」

 私は顔を上げた。
 萱野は不思議な表情をしている、と私は思った。

 「佐伯祐三はわずか三十で死にました。佐伯がこの世で生きた時間はとっても短かった。しかし、彼の絵は今でも美術館に飾られ、多くの人々がその絵を前にして何かを感じ、何かを語る。佐伯のいのちは、消えたと言えるのか。佐伯は、死後も生者に影響を与え続けている」
 「影響」
 「彼は、もう間もなく、亡くなるでしょう。俺は彼の魂を引き取りに来たのです。でも彼の作品は残る。そしてもしかしたら、あと数年、あるいは数十年は、生者に影響を与え続けるかもしれない。その影響が続く限り、彼の存在は消えたことにはならないのだ、と感じないでしょうか。はたしてあなたと彼と、綱引きに勝ったのはどちらなのだと思いますか?」

 私は、何度も瞬きした。萱野の姿がゆらゆらとゆれ、こころなしか輪郭がぼやけたように見えた。萱野の存在を認識しているのは自分の脳だけ、自分以外の物にとって萱野は存在していないものなのか。萱野と絵を見たりレストランで食事をしたあの記憶は、いったいどうなるのか。テーブルに案内してくれたギャルソンや、レジの精算係のあの人たちは、萱野の姿を見ているのではないか。見ていない、などということがあるのか。あの時の一切合切も幻で、本当は、私独りで食事していただけだ、というのだろうか。

 綱引きに勝ったのは、どちら?

 「勝ったのは……勝ったのは……」
 私は傷ついたCDのように繰り返した。口の中でぶつぶつと、何度も繰り返す。
 「に、西村……さんでいらっしゃいますか?」
 震える声が聞こえて私は我にかえった。萱野の姿はどこにもない。目の前にいたのは、二十台半ばくらいに見える痩せた女性。その人が彼の近親者であることはすぐにわかった。顔だちが……顔立ちがよく似ている。よく、似ている。
 「あの子は、あの子はどうなったのでしょうか? 容態は?いったい……」
 女性はしどろもどろになってしまった言葉をもどかしそうに繰り返した。私は立ち上がり、女性の肩をそっと抱いた。家族が見えたら、病院の者に知らせるように言われていたことを思い出した。

 彼女を彼の病室の前まで送り届け、私は彼の顔を見ないで病院を出た。顔を見れば、きっと、彼が何を思っているのか、彼は勝利したのかそれとも敗北したのか、それがわかるだろう。それを知ることが怖いのだ、と、私は自分の気持ちを知った。
 病院を出た足は、無意識に東京駅へと向かっていた。ブリヂストン美術館へと。
 佐伯祐三の絵の前で、私は立ち尽くした。
 佐伯の声を聴いていた。佐伯の遺した絵が、美術館の空間いっぱいに響かせている。私にもそれが聞こえた。
 佐伯は求めていた。その指先がもう少しで届きそうになっていた、栄光の輝き。だがその輝きは実態のない何かだったのだ。名声や金銭などではない、もっと厳然として高貴で、そして冷たい、永遠の何かだった。人間が求めてはならない、求めることを神によって禁じられた、何かだった。

 横に、萱野が立っていることを私は感じた。だが顔を絵に据えたまま、私は言った。
 「わかったような、気がします」
 萱野は黙っている。だがその気配が、優しく同意したもののように感じられる。
 「彼は、勝ったのでも負けたのでもない。最初から、綱引きなどしていなかった」
 萱野の低い、ええ、という声が聞こえた気がした。
 「彼は死の痛みを我慢して、無理をして続けていたのではなかった。この世界で形になる何かと引き換えに、辛くてたまらないのに続けていたのではない。彼は本家の人間で、思うように生きられない自分を助けてくれた唯一の味方……お姉さんにいい思いをさせ、自分たちを馬鹿にした者に対してざまあみろと言いたいために、無理をして頑張った、そんな物語には何の意味ももたない。そんな物語など、あなたの手にかかればすべてご破算にされてしまいます。運命は人を翻弄することができる。簡単に、できる。でも……彼ははじめから、そんなものを求めていたのではなかった。あなたはたとえ死神であっても、彼から幸福を奪うことはできなかった」
 私はもう一度、深く、長く息を吐いた。
 「あまりにも強く、激しく、狂おしい快楽だったんです。彼も、この絵を描いた孤高の青年画家と同じに、その快楽の虜となり、決して掴むことのできない栄光に向かって手を伸ばし続け、そして死ぬ。佐伯が最後にあなたを出迎えたのは、とても幸せだったから、なんだ。絵を描く、そのことに耽溺し、すべてを投げ出し、何もかも失い……衰弱していく肉体と精神との両方で、この人は、神にも近づく快楽を味わっていた。何もないところから何かを創り出す、それは、神様の行為です。彼も同じだった。肉体的な苦痛を本当に忘れてしまえるほど、彼は……」
 萱野が頷いたのが見えた気がした。萱野は確かに今、満足して微笑みながら頷いている。それが私には分かった。

 「私たちが初めて出逢ったのって、あの日の喫茶店、ということですよね? それまではあなたがあの事務所にいる、という錯覚を、私は持っていなかった。……あの喫茶店の名前、覚えてます?」
 返事はない。
 「たしか、鳥小屋、っていう、なんだか甘味処みたいな名前。それで連想したんだけど、昔、舌切り雀の話を絵本で読んだ時、なんだか割り切れないものを感じたんですよね」
 萱野がこちらを向いた気がした。
 「糊を舐めたってだけで雀のベロを切ってしまう老婆。ひどいじゃないですか。なのに、そのおばあさんが鳥たちの宿を探し当ててやってきたとき、鳥たちは老婆にまで、どっちのつづらが欲しいか選ばせている。大きなつづらと小さなつづらで、小さい方を取れば欲張りじゃないってことになって、中には小判がざくざく、でしょ? 老婆は欲張りだった。だから大きいほうを取った。そしたら中から、お化けがいっぱい出てきた。確か、そんな話だった。萱野さんは、死神だから絵本なんて読んだ記憶、もう持ってないですよね」
 また、ええ、という低い声が聞こえた気がした。
 「仲間の舌を切り取った老婆に、つづらを選ばせる必要なんてない。子供心に、私はそう思った。もしあの老婆がもうちょっと利口で、小判ってのはとっても重いものだから、大きいほうじゃ持てないし、きっと大きいほうは小判じゃなくて別の物が入っているだろう、なんて気を回して小さい方を選んでいたら、そんなひどい人が小判をたくさん貰ってしまうことになっていたかもしれない。何もやらないと帰らないだろうから何か押し付けてやれ、というなら、大きなつづらだけ渡してさっさと追い出せばよかったんだ。そのまどろっこしさに、すごく不満を感じたんです」
 萱野が笑った。
 「それにもしかしたら、どっちのつづらにもお化けが入っていたのかもしれない。それだと鳥は老婆をだまして、それを楽しんでいたってことになる。それじゃ被害者としては陰険かなって。私、理屈っぽい子だったから、そんなことを深読みして不愉快になっていたの」
 萱野が静かに頷いた。
 「萱野さん、あなたに命の綱引きのことを言われたとき、私、あの民話を思い出した。どっちがいいか私に選ばせるようなことを言っておいて、結局は定められた運命から逃げられない、私は意地悪な老婆みたいなものじゃないか、って。でもやっと、わかった。私は……あの老婆ほどにも生きることに真剣じゃなかった。だって、どっちのつづらにも希望が入っていない、そう疑い続けてた。老婆は少なくとも、つづらの中に金がたくさん入っていることを信じてた」
 今度は身じろぎした萱野を感じた。
 「さよなら、なんですね、死神さん」
 私は笑った。久しぶりに笑った気がする。
 「あなたは消えて、私の記憶からもあなたは消える。でもそれは、あなたの仕業なんかじゃないんだ。私の、私自身の選択なんだね。私は私の意志であなたを認識した。そして私の意志で、あなたを忘れる。次にあなたを見る時は、私の人生が終わる時だ。そのとき、もう迷っていないと思う」

 私はそう言い終えて、横を向いた。萱野の姿はどこにもなかった。だが記憶はまだ残っている。いったいいつまでそれは残っているのだろう。たぶん、もう間もなく、死神と”デート”をした思い出は、完全に自分の中から消えてしまう。
 私は急いで美術館を出て、入り口のところで、さもはぐれたという顔で係の女性に訪ねてみた。連れがもう外に出てしまったかどうかわからなくて。見かけませんでしたか?
 女性は言った。
 「お連れ様でしたら、さきほど、出口に向かわれました。ご気分がすぐれない御様子でしたが……」
 私は満足した。これがすべて私の見ている幻なのだとしても、ここで今、自分は死神と絵を鑑賞し、創造の神の掌の上で生きているということについて、語り合ったのだ。私はゆっくりと美術館を出た。都会の夕暮れは灰色の中に茜を混ぜ、それなりに美しく見えるが、私はそれを美しいという言葉に乗せて表に出すことはできないでいる。
 自分は今、大きなつづらを選んだ。その中にお化けが入っていると知っていて、より大きな方、より魅惑的な方を選択した。やがて自分も知ることになるに違いない。いや、知りたいのだ。知りたくてたまらない。命を縮めていることすら気にならなくなるほどの、痛切な快感。創造の神に手を伸ばし、その輝きに触れようとする、その悦楽を。

失意

 丸の内周辺の地下鉄の駅は、ホームに安全策が設置されるところが増えている。事故の防止という名目の裏に、通勤する人々はそれが自殺防止のためであることを知っている。
 未曾有の長期不況からリストラという言葉それ自体に対して人々の耳はすでに不感症になっている。明日、失業するかも、という不安は、丸の内周辺で働く誰の背中にも背負わされた透明な重荷。失業以外にも人生に絶望する理由は数限りなくあり、毎日、どこかの駅で誰かが飛び込み自殺する。そうした最期に同情する気持ちはあっても、自分の通勤時間に自分が利用する路線でソレが起こると、人々が考えることはただひとつ、迷惑だ、ということだけ。電車が遅れ、空気の悪いホームや狭苦しい車内で待たされる人々は、死ぬなら誰にも迷惑をかけずに死ねよ、と心の中で思う。自分も例外ではないことに、少しだけ怖いと感じる。
 とりつかれてしまった妄想、憎んだ者が死ぬという妄想はそうした心の延長線上にある。そう考えると、自分が妖怪か何かのように思えた。
 目を閉じ、闇を捉えた瞬間、その者が目の前のホームから身を躍らせて、走りこんで電車の前へと飛び出していく場面を心に思い描いていた。思いのほかリアルに浮かび上がりきつく目を瞑る。おそるおそる目を開けた時、そこはまるで平穏なホームがあった。一様に疲れた顔で電車を待つ人々の姿。
 安堵した。妄想は現実にはならない。そうわかっていても、さっきの光景はリアル過ぎたのだ。
 ふと、彼の顔があたまに浮かぶ。からだに栄養が足りなくなると、存在不足になる。そういった彼の顔。
 「やあ」
 彼は、私の顔を見つけてうれしそうに笑った。
 「あなたもこの線でしたか。おかしいな、どうして今まで一緒になったことがないんだろ」
 「高校の頃からずっと利用してますが」
 喧嘩でも売るような口調に自分が驚く。もちろん彼と喧嘩したかったわけではなく、彼のことを考えた瞬間に目の前に現れたように錯覚して、驚きのあまり攻撃的になっていたのである。
 「自殺か」
 彼は唐突に言う。
 「電車ですよ。人身事故で遅れている、とさっき、アナウンスあったでしょう」
 「ええ」
 気持ちを落ち着かせようと努力しながら頷く。
 「そうみたい……ですね」
 「どのくらい遅れるでしょうか」
 「どうでしょう」
 「ここ数年、飛び込みは多いから、処理するのも慣れてはいるだろうが」
 不謹慎だ。今さっき自分がした想像のことは棚上げにし、彼の無神経さに憤りを覚えた。仮にも人ひとりが死んだという時に、処理するだのしないだの、どうしてそんなものの言い方ができるのだろう。だが彼は相変わらず、こちらがどう感じているかなどは頓着していなかった。
 「一度、飛び込みのあった直後の場所を電車で通過したことがあるんです。とある私鉄でね。その時も人身事故で遅れるアナウンスがあり、混雑した車内で二十分か三十分くらい閉じ込められました。いい加減、腹がたってましてね、死にたいなら山奥にでも行って誰にも迷惑をかけずに首でも吊ればいいじゃないかと思った。でも電車が動き出してすぐ、線路の際をバケツを提げて歩いている私鉄の職員に気付きました。暑い夏の日で、その職員は首に白いタオルを巻いていて、それで盛んに汗をぬぐっていた。電車は徐行していました。それでゆっくりとその職員の姿を眺めることができたんです。その男は、なんとも表現しがたい顔つきをしていました。泣いているような笑っているような、怒っているようにも見えたし無表情にすら思えた。不思議でしょう? なんと言えばいいのか……ありえない顔、と言えばいいのか。普通の人間が示す感情とは違うものをその顔に浮かべていたんです」
 瞼がけいれんし、不快な呼吸をただ繰り返していた。からだのだるさは頂点に達し、ひたすらに目が重かった。
 「その時、俺気付いたんです。職員の提げてるバケツん中に、赤いものがいっぱい詰まっていたんですよ。でも真っ赤ではない。白いものやピンク色のものが混じっているんです。なんだろう、あれはなんだろう。考えました。でも分からなかった。そのうちに電車はスピードをあげた。職員の姿が見えなくなってしばらくして、ようやくわかったんです。私鉄の職員は、それをひとつずつ手で拾ってバケツに詰めて、集めていたんです」
 冷静な口調が、かえってその場の光景をまざまざと脳裏に描き出させ、吐き気を覚えた。
 「そう思い至ったとき、俺は気付いた。誰かに自分のかけらを拾ってもらいたいんだって。山奥でひとりでそっと首を吊ったんでは、永遠に誰にも知られない。発見されたとしても、死体はすでに白骨化しているかもしれないし、腐ってどろどろに溶けているかもしれない。野犬に食い荒らされているかもしれない。電車に飛び込めば、誰かが片付けなくてはならないんです。誰かが拾ってくれる。まだ体温のある、赤い血が出ている肉体の破片を誰かが拾って、そこについさっきまで生きていた人間がいたことを実感してくれる。そしてその人間が今はもう死んでいることも、同時に実感してくれるでしょう。最期の最後に、自殺者はそれをして貰いたいんだ。ソレが分かってから、彼らの気持ちが、少し身近に感じられるようになりました」
 「私には……理解できません」
 呟いた。吐き気がおさまらず、どうして彼はこんなひどい話をしているのだろうと、その意図がわからず、ひたすら気味が悪かった。彼はようやく、相手の顔色が悪くなったのに気付いたのか、あたまをかく仕種をした。
 「ああ、ごめんなさい。こんな話、いきなりするもんじゃなかったですね。申し訳ない。つい思い出してしまって」
 「いいえ……あの、すみません。今日はJRで帰ることにします」
 「そうですか。そうした方がいいかもしれませんね。いつ電車がくるかわからないし」
 「失礼します」
 頭を下げ、改札に向かって歩く。つい逃げるような足早になってしまうのをおさえることが出来なかった。今日の今日まで人畜無害な男としか認識していなかった存在が、やけに大きく威圧的で、どこか恐ろしいものに感じられていた。

オフサイド

 上野にWIRED CAFEがオープンしていることに気付き、早上がりついでに飛び込みを。ユーザー層は神宮にあるカフェよりもまばらか。アベックご用達というより、本来の意味での休息の場として、一人でタバコを吸ったり本を読んだりネットをしたりしている者も多い。喫茶店のイメージも、時代のニーズに真っ先にこたえてきてるようで、そのほとんどがガラス張りやテラスといった開放の感が。若い子たちの語らいも程よいBGMに。人は店を選ぶというが、その逆も理であるようだ。ここは利用するというよりも、共有するという気持ちを持った人たちが来ている。図書館で守るマナーというより、ベンチを譲る気遣いのような、生きたやさしさが空気を泳いでいる。

 Atreが23時で速攻寝始めるのを念頭に、23時23時……と口を動かしながらギリギリまで作業。ガラスに面したカウンター越席の後ろのテーブルに、若いカップル。あどけなさからなのか、緊張しているからなのか、上ずった声が耳に届く。
 「……あのね、わたし結構ひどいこと言ってたとおもうんすよ」
 マフラーをかけたまま腕組みをしている青年がガラスに反射して映る。表情までは伺えない。パソコンの画面と交互に見比べながら、会話を聞き届ける。しゅんくん、と女が名前を言う。テーブルには食べかけの料理があった。タコライスだ。一度試したいと思っているタコライスくん。隣にあれはカフェラテ。合わないと思う。シャレた名詞は役者にはなり得るけど……
 ああ、ここにはウーロン茶がない。ではカモミールをと思うが、ここには横文字しかないじゃないか。失礼した。
 「それで?」
 男が足を組みなおした。腕組みのそれは落ち着きなのか、ごまかしなのか。口調は柔らかく、性格は少しだけいじわるなのかもしれない。口を歪めてニヤニヤしながら質問する輩なら知り合いにいる。憎めない奴ほど罪深い者はいない。
 「しゅんくん、ぜったい何も言い返さないしさ。どうして怒らないの?」
 「はは、なんだ、そんなことか」
 「もう、真面目な話だってば」
 「気付いてないの? おまえが文句言うとき、顔いっぱいにゴメンナサイって謝りながら文句言ってるんだよ。そんな奴に、何も言えないよ」
 「ええ、うそでしょう」
 「本当。だから、へんに勘ぐることしないの」

 ますますどこかで聞いたことのあるセリフ。一日だけ応援する。
 閉店まであと30分。買いたい本があるのを思い出し、上着を手に、振り返るとそこには顔を赤くした女の子が。耳後ろの髪をいじりながら言葉を探しているようだ。読心術に、髪いじりはどうのこうのという、どこかの誰かから聞いた話がよぎる。いちいちシャクに障る話だ。そんなんじゃねえもんな、お譲ちゃん。健康的なクチビルはアヒルのような形をして、感情を持て余している。惚れこむのも無理ないだろう。どうぞ大切に。
 明星堂で本を買い、知った顔に会う。どうも、お久しぶり。元気ですか? おなかが痛い? 本屋でうろついてないでトイレ行けよ。本屋を出て、店じまいが完了した店を見て23時を過ぎたことを知る。
 モールのクローズBGMを聴いてホームへ向かい電車に乗る。ゲロを吐きそうなニイサンにハイヒール女性が買い物袋を突き出し、車内放送で到着駅案内を間違えられ、一時停車をくらい、置き石と案内され、オッサンがゲロを吐き、さわやかな酸味が漂う車両はカオスとなり、本を読むには最高の現場と。
 ただ注意深く観察をしてみると、酔っ払いではなく、純粋な乗り物酔いか体調不良の模様。顔色は青白いが、ふらふらした様子はない。誰かがティッシュを渡し、誰かが薬を差し出し、誰かが席を譲り、誰かが背中をさする。過保護が彼を触発したか、二度目のリターン。人のやさしさに感動しながらのリターン。なかなか袋から顔を出さない彼は、もしかすると泣いていたかもしれない。生理的な。

child in the ground

 深夜の公園で、己から暴走族グループを挑発した「私」は、殴られ蹴られ地面に倒れている。
 痛みと恐怖の先に確かにある、得体の知れない何かに期待する自分がいる。土と同化していくかもしれない恐ろしさと、土から伝わる温度の確かさは、生理的に身体を震わせ、心も現実から逃げたがっていただろう。しかし、なぜかそのとき、魂めいたものの存在をわずかながら感じ、この身体の中にある心よりも、もっともっと奥にある何かを掴もうとしてはいなかったか。

 「私」の意識は、理不尽な暴力をこうむりつつも認識と内省をやめない。肉体は流血し、痛みにうめき、痙攣しているが、意識は、自分のうける暴力の意味を考え続けている。この意識が、身体とわずかに紙一重、ずれている。身体は外から加えられる凶暴な力に直接反応するしかないが、意識はこの紙一重のズレにおいて自由を確保している。その自由のなかで、その状況の先にあるものを考えるが、明瞭にいうことができていない。

 「私」は何を待っているのか。周りはやがて、彼が幼い日、養父母によるすさまじい虐待の果てに、土に生き埋めにされて殺されかけたことを知る。そのとき、「死」とは「土に同化する」ことにほかならなかったはずだ。では彼は、少年時のトラウマ的な体験を反復しているのか。彼が待っているのは、恐怖の先にある死そのものなのか。

 意識の背後で「私」を突き動かしているのは、フロイトのいう「死の欲動」であるかもしれない。物質の中で目覚めた有機体としての生命が、生命でありつづけるために強いられている緊張を完全にほどいて、無機物に回帰しようとする欲動である。それなら、「土と同化する」ことは、彼の定義どおりの「死の欲動」である。

 フロイトは、第一次世界大戦の戦場から帰還した者たちや大きな事故に遭遇して生き延びた人たちが、戦場や事故の現場を繰り返し夢に見るという事実に注目した。恐怖体験を反復するようなその夢は、夢は願望充足だという彼の理論に適合しない。ただ恐怖と苦痛しかないにもかかわらず、人は何度も繰り返して、その恐怖と苦痛に満ちた夢を見てしまう。「死の欲動」は、この不可解な反復を説明するために彼が立てた仮説だった。

 たしかに「私」は、自分を危難にさらすような行動を繰り返す。でも彼は、自分で自分の行為を反省しつつ、こう思う。「私は死にたいのかな。いままでやってきた変なこと全部は、そこに惹かれた結果なのかな。違うだろ。似ているように思うけど、やっぱり違う」そして、一つの自覚に到達する。

 私が望んでいたのは克服だったんじゃないか。根付いてた恐怖を克服するために、周りから見れば眉をひそめるようなやり方ではあったけど、恐怖をつくりだしてそれを乗り越えようとした、私なりの抵抗だったんじゃないか。

 この自覚において「私」は、死への衝動とすれすれに働いているはずの生への意欲を掬い出そうとしている。しかし、この自覚の直後に「私」は、これも幾度も反復されていた「落下」の感覚に襲われてしまうのだ。落下の光景は彼の記憶になかったものだという。だから、それが仮構された象徴的な光景であるのか、意識の底深く隠蔽された事実の記憶であるのか、「私」も決定できないし周りも決定できない。

 実父に会うことを拒み、土の中から生まれたのだと言うとき、彼は彼の生を拘束しつづけた恐怖の体験をとうとう克服できたようにみえる。自立し独立した一人の若者としてすっくと生きようとする決意を表明しているようにも見えた。けれど、その克服、その決意は、実父の存在の否認を代償にしていた。そして、落下の光景において、ベランダの柵から幼い彼を落とそうとしていたのが実父だったとすれば(私はそう読む)、意識に隠されたものとの彼の対決、克服への辛い戦いは、まだ終わっていないことになる。

 彼の真の戦場は、外界ではなく「私」の意識の内部にあったのだろう。それは、底に隠れて自分を突き動かす何者かを引きずり出し、その正体を見極め、認識し、自覚し……自覚することで克服しようとする戦いなのだろう。
 おそらく、意識は二重底になっているのだろう。底と見える体験もまだほんとうの底じゃない。
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