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廃墟

 後にも先にも、使い捨てられた建物が好きだ。無機物の腐ったにおい、縁のない空洞。快晴の光は子どもたちをわくわくさせる。しかし、雨が降り日が沈むと、埃はなりを潜め、枯葉が不気味な会話をし始める。風はやさしさを失い、子どもたちに出ていけと命令する。促しではなく、命令口調なのだ。子どもたちは見えない相手を恐れ、優しい親のいる家を思い出しそそくさと帰っていく。翌日になると、また同じ一日が始まる。昼に迎え、夜に追い返す。子供はそれに順応し、二つの顔があるのだと覚えていく。日常と冒険を天秤にかけ、刻々とゆれる振り子のように、あっちにいったりこっちにいったり。その点については、子どもも大人も関係ないのだろう。

 言うなれば二面性。しかし廃墟自身はそんなつもりはないのだろう。気分次第でちゃらちゃら視点をかえる人間どもの意見でしかない。廃墟は廃墟、ただそこに留まり、来るもの拒まず、去るもの追わず。この言葉、実は怖い。廃墟は自然の力と同じなのだ。津波、竜巻、雪崩。生き抜くもの見送り、死に逝くもの逃がさず。罪人は存在しないが、被害者は存在する。ただそこに力があり、人は飲み込まれていく。自然は美しく逞しいが、醜く卑しい面もある。二面性という言葉で人の死を片付けることが健常者のニュアンスである、と語った村上氏の言葉の中にある、隠された皮肉と、哀愁に、好感を持った。彼は、健常者という言葉自体に皮肉を込めているのだろう。


 ある売店で、うさぎの顔をした焼きたてのパンを発見した。その隣には、パンダの顔をしたパンが仲良く並んでいたのだ。
 私が、「あの中身は何でできているのだろう」と考えていると、私の隣にいつのまにか立っていた十歳くらいの女の子が、うさぎのパンを熱心に見つめている。私は、ちょくちょく女の子を気にしながら、うさぎのパンとパンダのパンを交互に眺めていたけれど、女の子の方はしっかりとうさぎのパンにだけ集中していたのだ。女の子は、中身のことなんてきっと気にしてなどいない。一番、うさぎらしくて、可愛い子を探しているのだ。目のサイズが微妙にでかかったり、ニヒルな笑い方をしているうさぎなんてのは、うさぎではないのだ。
 女の子は、睨みころすつもりかというくらいにうさぎたちを見下ろしていた。あんたはBランク、あんたもまあBランク、あんたは圏外。
 あの集中力は、大人になっていくと、だんだん消えていってしまう種類の才能だと思う。失われていく才能もあるのだと思った。
 女の子は、やっとのおもいで一つのうさぎパンを決めると、小さな手で、シルバーのつかみを不器用にあやつり、それをトレイに載せると、華麗に私の靴を踏みつぶし、母親のところへと走っていった。ダッシュの最中、うさぎが思い出したように空を飛び跳ね、いたずらに衆目を集めた直後、フローリングに顔面着陸したのである。そう、才能の話である。

 子どものその種の集中力とは、目的達成のためにはどんな犠牲も厭わない一本気である。大人は周りへの配慮という知性を養われているので、それとの両立が難しいのだ。もちろん、なかにはそういう知性を持たない(子どものような)大人もいる。成り上がりタイプとこの際呼ぶが、前頭葉が麻痺している人たちのことである。
 そういう大人と共存するにあたって、例の女の子のような存在は異質で、その異質さが心強く感じた。強弱や差異を問わない空間に映えるあの異質さは、子供特有の力そのものだと思う。あの子と、汚い大人との決定的な違いは、裏表があるかないかによる気がした。いや、あの子に裏がないとは断言できないのだが。

 ところで焼きたてのうさぎパンの中身は、彼女の行動で知らされる結果となる。耳から漏れたピンク色の血液、もといペーストは桜餡だったようだ。ありがとうね。おかげで嫌いな餡パンを買わずに澄んだよ。
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死を描く

 「聞いて、パウラ、きみにお話をしてあげる。きみが目を覚ましたとき、自分はいったい誰なのかと、途方にくれないですむように」

 一般に、小説においては「笑い」より「泣き」のほうが容易に書けるといわれる。その心は、主人公か、主人公の大切なひとを死なせれば、読者の涙を誘えるからだ。
 周知のように、いまや死と別れの物語は、価格暴落状態。白血病で死んでしまった少女との色馳せない純愛物語や、死んでしまった母との思い出を東京のランドマークと共に語る母恋い物語には、多くの日本人が持ち合わせている涙のツボを、ぐいぐいと押す作用があることが判明し、二匹目、三匹目のどじょうを狙った作品があとを絶たないからだ。とはいえ、純文学、現代文学において(ミステリーは死はつきものだが)”なぜか”死をあつかわないことは難しいとされる。であればこそ、いま一度「死」の描きかたを再検討してみるのもいいだろう。

 『パウラ、水泡なすもろき命』は、『精霊たちの家』で高名な作家・アジェンデによる、「限りなく小説的なノンフィクション」とされている。ある日彼女は、最愛の娘・パウラの昏睡という悲劇に見舞われ、以降、娘のベッドの傍らで、外交官の娘として生まれた自らの来し方や、祖国チリについて、そしてパウラの暮らしぶりを、語り続けるのだった。ときに書簡になり、ときに独白になる、パウラへの二人称の呼びかけに、読者は、生きてきた時間の重みと、死の理不尽さを身をもって知ることになるのである。

 ここで「白血病の少女との純愛物語」の、少女の死のシーンを思い出そう。それは病室において少女に「お別れね」といわれた”僕”が、「アキはどこへもいかないよ」と答え、「あの夏の日」をしばし回想しているうち、[アキの葬儀は、十二月末の寒い日に行われた]と、死の瞬間を捉えることなく時間が経過してしまうというものであった。いっぽう、パウラの死の瞬間を記録は詳細かつ、長大。アジェンデは、母として現実をとらえるまなざしと、作家として豊かな感受性を言葉にかえるスキルをもって、パウラの死を見つめ続ける。「死」を物語に奉仕させないことへの、大きな決意。「娘を失った母親のノンフィクション」なら、死が重いのは当たり前だという指摘もあるだろう。しかし。
 マーガレット・マッツァンティーニの『動かないで』は、外科医の父親の元に、交通事故で意識不明となった愛娘が運ばれてくるという設定である。手術を同僚の任せた”私”は娘に対し、やはり同じく二人称で、ある過去を語り始めるのだった。自らの唯一の恋物語を。こちらの小説で、愛娘が死ぬかどうかはここでは明かさない。ただ共通するのは、主人公が最愛の人物の死に瀕した際、なにを語り、なにを見るかにこそ、その小説の品格が表れるのだという読後感につきる。小説における「死」は日常であるからこそ、書き手は、安直さと下品さから逃れうる方法をつねに模索しておくべきなのだろう。一般読者に「死を道具にしている」と思われてしまうのも頷ける話である。

ねじれ

 映像時代と言われる。ところがじつは皆、四六時中文章に接している。広告、メール、ニュースのテロップ。テレビにも字幕は入る。漫画もテレビも文章を読んでいる。「活字離れ」ではなくて、じつは活字まみれなのだ。そんな中では書くことにも器用になる。大学でもカルチャーセンターでも創作コースに人が集まる。書きたい人が世に満ちる。しかしそこには落とし穴が。「小説」ジャンルの習慣になじんで易々と書けてしまうことが決して”上達”や”達成”とは限らない……。

 1980年代の作家、具体的にいえば村上春樹氏と高橋源一郎氏によって、日本文学は戦後文学の出現以来の大きな変動を経験した。というのも彼らは、「小説」を書こうとしたのではなく、「文章」を書きたいの願ったのだ。
 村上氏のデビュー作『風の歌を聴け』の冒頭には、「僕」が二十代の「八年間」、書くことへのジレンマに絶望しつづけた経験が打ち明けられている。そして同じ期間に高橋氏は、東京拘置所で「失語症」に苦しみ続けたことがエッセイ「失語症患者のリハビリテーション」には書かれている。先行世代が築き上げた「小説」を始めとする表現のスタイルを、彼らは自動的に継承することができず、表現への不信感に取り憑かれていたのだ。そこから出発するために、彼らはたんに作家を目指して書くのではなく、むしろ決して「ただの小説」に陥らない「文章」を創造するよりなかったのだ。

 現代文学の大きなアイロニーという。いわゆる文章を書くのが得意で小説もすらすら書ける者よりも、むしろ自動的に書けることに躓くこと、それゆえに文章を難産せずにいられない者にかえって可能性が開かれているという奇妙なねじれが生じたのだ。

 どうしてそんなねじれが必要なのか。それは現代の私たちが、そもそも言葉のねじれの中で生きているからに他ならない。学校や肉親、職場や世間の言葉と、自分とのあいだにいわば潜在的な「失語」を抱えて生きているからなのだ。我々は小説家になる必然性はないが、「自分」の言葉を防衛的に編み出す必然性にはたえず迫られているのである。それも模範的に饒舌に語れば語るほどウソ臭くという、危うい均衡のなかで……
 ジャンルを忘れ「文章」を創造するほうが、可能性がおおきい。その可能性とは他でもない、言葉のねじれの中で生きていく「自分」を、自分の言葉で作る可能性であり、「小説家」になる術以上に、「自分づくりの文章術」が必要なのだ。

 人がいつから”無難”を覚えたか知らないが、すべては防衛本能からきているという。調和や平和を望む者も、利己や差別を運ぶ者も、古来の言葉譲りで世を渡っている。オリジナリティやアイデンティティという言葉が身近になったかとおもえば、すでにこれらは使い古されており”胡散臭い”部類に成り果ててしまった。結局は、人間一人ひとりが違うのだという謳い文句に賛同していた人々が、これらの胡散臭さを感じ取ってしまったのは、新しい言葉という仮面をかぶった言葉譲りの性質を持っていることに気づいたからなのだ。では、どうすれば表現できるのか。私たちは知らない。”知らない”ということが、”誰かが言わない”ので”真似できない”という流れが人々に巣くっている。そこには、薇仕掛けの人形と生身の人間との違いはさほどありはしないのだ。

 人はいつ、本当のことが言えるのだろう。自分を納得させることができる言葉を、感覚では掴んでいるが、表にうまく表現できないのが人間である。一番わかってもらいたい相手は、実は自分自身なのだ。自分という人間を味方にするための手っ取り早い方法が他人との共有であり、そこから掬いとられるものを”自分”に吸収させていく。他人との共有を期待していくなかで、いつからか人々は公共の場で無難を覚えてしまった。

 どこから拾ってきたのかわからないような倫理や理屈で無難さを装っても、真夜中の悪夢のあとに待つ感覚は自分に対してだけは何一つ誤魔化さない。マスメディアの時勢に、胸を抉るものは共感でもなく納得でもない。それこそ、己の気付かなかった自分自身の投影、表に出せなかったものを先取りされた恐怖だ。人々は気付かぬうちに危機感を覚えている。自分が何を生んできたのか。混雑した電車の中で携帯電話を弄る着せ替え人形たちの顔に張り付いた虚構は、何かを望み、何かを待っている。人身事故が起きて身じろぎ一つ見られない情景に、驚く人は一人もいない。流れと模範が行き着く果てと思う。模範はきれいさを盾にし、”常識”や”当たり前”という言葉を生んだ。常識に淘汰された私の大事な人は、この景色をどう見ているだろう。

蛇にピアス

 現代を生きる若者の暗部、具体的には身体加工を含む暴力、アブノーマルセックス、それに殺人や死への願望が描かれている。だがこの小説のもつ真の毒・魅力はそれらの表層の奥深くに埋め込まれていて、題材に依拠しているわけではないらしい。
 ポイントは二つ……
 一つは、タトゥーを入れたあと主人公がどうして生きる気力を失ってしまうのか。
 二つは、彼女はシバに対して最終的にどういう感情を持ったのか。
 作者はその二点に態度を表明していない。わからなかったから書かなかったわけではなく、わかっていたのに書かなかったわけでもない。
 彼女はこんなことは言わないだろう、彼女はこのシーンではセックスしないだろう、彼女はこうなったあとは食事できなくなるだろう、作者はそういうことを社会的な意識と本能的な感覚の境目で考えたり感じたりしながら、正確に書いていくのだが、不明なことは書いていない。不明というのは、作者が彼女の気持ちや言葉を想像できないということではなく、そういうときは彼女本人にも自分の感情や気持ちや言葉がよくわからないのだ。作者は登場人物たちをコントロールするわけではなく、登場人物たちに引きずられるわけでもない。書いている間、作者は登場人物たちと「共に生きる」のだ。彼らの言葉を聞くことがまず第一歩だが(私はこの段階)、その次に進むには、共に生きることだという。

 彼女は念願のタトゥーを入れたあと、どうして生きる気力を失うのか。トマス・ハリスの小説『レッド・ドラゴン』の殺人者は、香港で赤い龍のタトゥーを入れたあとに、トラウマを克服し強大な力を手に入れたような感覚を持ってモンスターとして生まれ変わる。タトゥーやボディピアスには、親から受け継いだ身体を傷つけ変形させ加工することによって「遺伝的・生物的な連鎖」を断ち切り、ある種の強さを手に入れるという側面があるという。その指摘に従うならば、彼女はその連鎖を断ち切る必要のない「いい子」だったという推測も成り立つ。でもそれはつまんない単なる推測かもね。
 最終的に女が男にどんな感情を持ったのか。永遠の謎だ。

 「私はクスクスと笑ってシバさんの顔を盗み見た。シバさんは、もう私を犯せないかもしれないけれど、きっと私のことを大事にしてくれる。大丈夫。アマを殺したのがシバさんであっても、アマを犯したのがシバさんであっても、大丈夫。龍と麒麟は目を見開いて、鏡越しに私を見つめていた。」

比喩

 直喩。比喩の一つ。あるものを他のものに直接たとえる表現法。「雪のようなはだ」「動かざること山のごとし」など。

 隠喩。比喩の一つ。「……のようだ」「……のごとし」などの形を用いず、そのものの特徴を直接他のもので表現する方法。「花のかんばせ」「金は力なり」の類。

 活喩(擬人法)。修辞法の一つ。人でないものを人に見立てて表現する技法。「海は招く」の類。

 西加奈子氏『さくら』は、二〇〇五年に出版。
 すばらしい人だった「兄ちゃん」のことなどを書いた本だ。兄ちゃんは交通事故のため「下半身の筋肉と顔の右半分の表情」を奪われてしまう。
 「この体で、また年を越すのがつらいです。 ギブアップ」という紙切れを残して、兄ちゃんは自殺する。
 その兄ちゃんのことを、弟の目でつづった文章だ。遺書を見た弟はいう。それは「男らしい兄ちゃんの字じゃなかった。『好きだ』と書くときに、少し力が入りすぎる、右肩あがりのあの字じゃなかった。それはふにゃふにゃと頼りなく、間違って水で洗ってしまったレシートのように、触れるとぼろぼろと崩れてしまいそうだった」
 兄ちゃんの姿はまさに「ぼろぼろに崩れてしまいそうなレシート」だと弟の目に映ったのだろう。
 兄ちゃんの葬式のとき、母さんは、語り手である「僕」の右手を強く握る。
 「僕の右手は母さんのせいで、まるで大量の蚊に刺されたみたいに、爪あとがたくさんついている」。この比喩も的確だ。以下、痛烈に比喩が続く。

 「母さんの横顔は、熟れ過ぎたマンゴーみたいだ。だらりと垂れていて、触るごぐちゅぐちゅと汁が出て、ちょっと揺り動かすと、そのままぼとりと床に落ちてしまいそう。昔周りの皆にあこがれのため息をつかせたアーモンド形の目は、今では脂肪に押されて、余分な種みたいに、顔にはりついている。……綺麗な赤が輝いていた唇は、キャラバン隊長の皮膚みたいにごわごわとしていて、涼しげな青が乗っていた瞼は、鬱蒼とした森の影みたいに黒い。目をつむると、それは余計黒さを増して、その黒は厄介なことに、僕の心の中にまで入り込んできそうだった」
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