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現場の空気がただよう文章を、現場感のある文章と私は勝手に言っている。
江國香織の作品には、現場感がある。かなり淡々とした筆致で、鋭く、こまやかに現場の個性を描いている。たとえばニューヨークについて、氏は書く。
「真夏のあの街の、溢れる日ざし、豊かな緑。空気の粒の一つ一つが、びっくりするほどいきいきしている。大通りでは、果物をミキサーにかけてそのまま凍らせたようなアイスキャンディを売っていて、西瓜のそれには砕けた種まで入っている」
「真冬のあの街の、かわいた空気、幸福な急ぎ足。たくさんのあかり、コート、贈り物の包み、クリスマスソング。あたたかでみちたりた夜。愛という言葉がうさんくさくならないのが、真冬のあの街の底力だと思う」
ここには、ニューヨークという巨大都市のひとつの断面がある。
「果物をミキサーにかけて~~」の存在は、まさに現場。「西瓜のそれには砕けた種まで~~」というところには、現場感がある。
「幸福ないそぎ足」というのも現場。ニューヨークは「皮膚で好きになった街」だと彼女は書いてるが、街の音、街の匂い、街の気配、街の勢い、といったものがまじりあって創られている画面から、どういう具体的な事物を引き出すか、それが現場感覚の勝負どころだ。
たとえばまた、彼女の作品に、主人公がミラノの四階建てのアパートを訪ねる描写がある。
「建物に一歩入ると温度が三度くらいさがる気がする。日陰のような、土の中のような、掘りたての野菜のような、独特の匂い。頑丈な二重扉がついていて、上下するたびに、なにかが壊れたのではないかと心配になるくらい大きな音をたてるのろまのエレベーター。
フェデリカに会うのは去年のクリスマス以来だ。
金属のドアがあくと同時に干した果物の匂いが流れてくる。壁いっぱいに吊るしてあるのだ。レモンやオレンジの皮、シナモン、丁字」
このわずかな描写のなかで、匂い、温度、エレベーターの恐ろしげな音を書いている。感覚が解放されている。
『沈黙の春』を書いたレイチェル・カーソンは、その著『センス・オブ・ワンダー』のなかで、アメリカ・メイン州の別荘で見た「夜の海」のことを書いている。
「夜更けに、明かりを消した真っ暗な居間の大きな見晴らし窓から、ロジャー(幼い甥)といっしょに満月が沈んでいくのをながめたこともありました。
月はゆっくりと湾のむこうにかたむいてゆき、海はいちめん銀色の炎に包まれました。その炎が、海岸の岩に埋まっている雲母のかけらを照らすと、無数のダイヤモンドをちりばめたような光景があらわれました」
「このようにして、毎年、毎年、幼い心に焼き付けられてゆくすばらしい光景の記憶は、彼が失った睡眠時間をおぎなってあまりあるはるかにたいせつな影響を、彼の人間性にあたえているはずだとわたしたちは感じていました」
そうなのだ。「夜の海」という現場に身を置くことは、はかりしてない大切なものを幼い心に焼き付けてくれるのだ。
満月が沈む。無限大の彼方からひとすじ、銀の帯が押し寄せてくる。「いちめん銀色の炎」である。文章を読んで、読み手の心は現場、つまりメイン州の真っ暗な海辺の別荘地にはげしく吸い寄せられる。
カーソンは幼い甥を連れて雨の森にもゆく。
「スポンジのように雨を充分に吸い込んだトナカイゴケは、厚みがあり、弾力に富んでいます。ロジャーは大喜びで、まるまるとしたひざをついてその感触を楽しみ、あちらからこちらへと走り回り、ふかふかした苔のじゅうたんに叫び声をあげて飛び込んだのです」
カーソンは幼い子に教えることをせず、自分自身が、自然の神秘に驚きの声をあげる。心底からの驚きが幼い子の驚きを呼び起こすということを知っているからだろう。
大人に驚きのこころがなくては、子どもに驚きのたのしさを味わわせてやることはできない。
一転して、次は戦時下のベトナムを舞台にした文章。
作家、開高健は『輝ける闇』で公開死刑の情景を描いている。処刑されたのは、土に汚れたはだしで立つベトナムの少年だった。ベトコンに協力していた、という理由で銃殺刑になるのだ。
「一〇人の憲兵の一〇のカービン銃が一人の子供を射った。子供は膝を崩した。胸、腹、腿にいくつもの小さな、黒い穴があいた。それぞれの穴からゆっくりと鮮血が流れだし、細い糸のような川となって腿を侵し、舗石へしたたった。少年はうなだれたまま声なく首を右に、左に、ゆっくりとふった。将校が近づいて回転式拳銃をぬき、こめかみに一発撃ちこんだ。血が右のこめかみからほとばしった。少年は崩れ落ち、柱から縄で吊るされ、うごかなくなった。頬と首が真紅の血に浸り、血は長い糸をひいて鼻の頭から錘のように舗石へ堕ちていった」
「私」の目は、処刑の一部始終を冷静に見詰めているだけでなく、見物にきた少女たちの、一見、はしゃいでいるような姿を描き、さらに、処刑前、うどんを食べたり、ジュースを飲んだりしながら待つ群衆の姿をとらえている。
作品のなかの「私」は、処刑を見たあと、膝がふるえ、胃がよじれ、もだえ、嘔気がこみあげる。翌日また、少年の処刑がある。そして、二回目の処刑を見た「私」は、「汗もかかず、ふるえもせず、吐き気も催さなかった」。それが人間の常なのかどうか。こういう変化は、二度、処刑の現場に立ち会ってはじめて書けるものなのか。
氏はベトナムの現場で石炭酸の匂いを書き、なにやら得体のしれぬものの腐臭を書き、処刑終了のラッパの呻きを書き、自分の手足のふるえを克明に書いている。人間の恐ろしさ、人間の弱さ、人間のいい加減さ、人間のむごさ、人間の業、人間のどうしようもないおろかさ、そういうものを氏はひたすら見すえている。自分もまた、そのおろかな人間の一人であるといういらだたしい思いを持て余しながら戦争の現場を書いている。
現場を書く上で大切なこと。
①視覚だけではなく、嗅覚、聴覚、触覚、味覚など全感覚を鋭くはたらかせて書く。
②現場での「驚き」が伝わってくるような文章を書きたい。ただ、その思いが強すぎて、過大な表現になってはいけない。
③細密な描写を心がける。開高健の処刑の描写はあまりにも細密で目をそむけたくなるが、それこそが戦争の現場。
④現場では、人の見ないものを見る努力をすること。
一体感。週末という名の免罪符は、しょうがないなという風潮の元、おつかれの働きマンが蔓延るこの東京にとって、一種の文化なのか。
混雑した週末の揺れる終電、4分遅れで駅に到着。
スーツを着こなす営業と思われる若い男女二人組み。奔放な会話に耳が寄る。会社での付き合いで、上司に対する女の酌が抜群だったと、男が女を評価している。「飲みたくない場所でもキヅカイができる子はいいよ。」「いやあ、全然大したことないですよ。」
彼らを背に、ロングヘアーの女子高生が、学生バッグからアイ・パッドを取り出し、髪をかきあげイヤホンを付ける。日付けの変わる時間帯、制服を着た学生が電車に乗っていることに誰も違和感を示さない。皆、疲れている。彼女のイヤホンから音漏れはない。
「学生の頃はよかったですよね、いやな人とは付き合いとか考えなくてよかったんだもん。やりたいことだけやって、好きな人と好きなことだけしてりゃよかったんだから。」「あの頃に戻りたいよねえ。」
聞こえよがしの会話は、女子高生の耳に届くか否か。対しては、瞳を閉じ、聞こえない振り。
車掌の案内と共にドアが開く。人の波はない。誰も降りないことを皆が同意する。
不意に声が響く。「降ります」。女子高生の声。ドア付近の営業が脇にそれる。
彼女の声に振り向く乗客と、彼女のあとに続く千鳥足の年配の男。
白いものの混じった年配の酔っ払いを軽く見送り、下を向いたまま乗りなおす女子高生。少しバツが悪そうにして営業の女は道をあけた。
急に発車する乱暴な運転、揺れる人並み。女子高生の足は掬われた。
倒れかけた彼女を支える営業の女。はにかみ合う二人に、営業の男の笑顔がだらしない。
ささやかな補い合い。気付かぬ気遣い。人という字。愛という字。
垣間見えるドラマ。作り笑顔ではない彼らの笑窪の向こう側に、つらいことを耐えた自分たちへの小さなご褒美なのだと、素直に受け止める。人々が皆、素直になり、一体感を生んだと信じる。錯覚でもいいから、思い込む。
素晴らしい世界。それでいい。
歳の数を重ね、知識を蓄え、難しい言葉を覚え、苦難を経験し、自立し、物を語ることが、大人になるということじゃない。そもそも、大人というものが絶対じゃない。
若くても、理解しようとする心を持ち、簡単なことばで愛を唱え、人の苦しみを分かち合い、景色や相手を目を閉じても感じることができ、自分らしい生き方を全うすることが、人として魅力ある生き物なのだと。